第37話 依織の過去
恩、カーレン、リヒト、ルカフィルがリヒトの家に集まった。
此武は「たるい」と言って千咲とどこかに消えている。
此武のことだ、大勢と顔を突き合わせて話を聞く、という姿勢がたるい、ということなのだろう。
どうせどこかで聞き耳を立てているに違いない。
「それでは、さっそく本題に入らせてもらうです」
依織以外はリビングの椅子に座っている。依織はテーブルの前に立って、全員の顔を見回した。
「質問はお話しした後にまとめて聞くので、今はイオの話だけ聞いていて下さいです」
やや緊張した面持ちで、皆が依織の言葉に頷く。特に恩には、不安も含まれていた。
「まず、あの仮面の男……彼の名はゼルグ。過去に、イオが封印した闇黒の王です。
彼は世界を混沌の闇に堕とすため、創造神様に創られた存在なのです」
依織が恩に目をやる。創造神によって創られた存在。
それは、自分も同じ。恩は息を呑んだ。
「世界を秩序ある光で満たすため、創造神様に創られためーちゃんの対となる者」
「!!」
「!? どういうこと!?」
声を上げるリヒトを、依織が静かなまなざしで制する。
「落ち着いて下さいです。ゼルグが闇なら、めーちゃんは光。二人は魂を共有する表裏一体の存在なのです」
あまりの衝撃に、誰もが言葉を失った。
恩とゼルグ、二人は同一人物。顔が同じなのはそのせいか。
沈黙が落ちる中、依織は続ける。
「ゼルグの目的は世界を混沌へと導くこと。そのために、さまざまな力を使って破壊活動を繰り返しているです。
彼の力は強大……それでも万全な力ではないのです。ゼルグは封印される瞬間、自身の魂を複数に分けたです。少しでも自分の力を残すために」
ツキン、と依織の胸が痛んだ。
ゼルグを封印する時、ゼルグの力を抑えるために、犠牲になった命。
大切な、パートナーだったのに。依織はぐっと胸を押さえた。
うなだれた依織に、昨日のように泣いてしまうのではないかと、恩が立ち上がった。
「いお……」
肩に手を伸ばすと、依織が顔を上げた。悲しそうな顔をしていたが泣いてはいなかった。
「大丈夫なのですよ、めーちゃん」
にっこり笑う依織に、恩は心配しながらも席に戻った。
「イオはなんとかゼルグ本体の封印に成功し、分けられた魂も様々な時空へ飛ばして、ヒトの体内に封印したです。
だからゼルグの分身たちは、今では普通のヒトとして、ゼルグとしての記憶もなく生きてるはずです。その封印が解けない限りは。
ゼルグは今、かつての力を取り戻すため、分身を捜しているんだと思うです」
そこまで話すと、依織は一息ついた。
これが真実。ゼルグと恩の秘密。
再び沈黙が下りる中、最初に口を開いたのはルカフィルだった。
「その……ゼルグの分身は、今は『ただのヒト』なのよね?」
「……はいです」
ルカフィルはそれだけ聞くと、どこか思いつめたような表情で「そう」とだけ呟き、口をつぐんだ。
「あのさ、めぐ様とゼルグが魂を共有してるって言ったよね?
ってことはさ、もしかして……ゼルグを倒しちゃったら、めぐ様も……死んじゃうって、こと?」
ドキッとする恩。リヒトの言うとおりだ。魂が繋がっているなら、ゼルグが死んだら自分自身も……
「そうなるですね。逆に言えば、めーちゃんが命を落とせば、ゼルグも命を落とすことになるです」
「そんな……! じゃあゼルグを倒すなんてできないじゃないか! ゼルグを倒したらめぐ様まで……そんなの嫌だ!」
「リヒト……」
激昂して、リヒトはうなだれた。膝の上で強く拳を握りしめる。
(どうして? めぐ様はリクワイズなのに! ……もしかして、リクワイズだから?
めぐ様がいなくなればゼルグも消えるから、だからリクワイズに選ばれたの?)
どうしたらいい? ゼルグを倒せば恩も死ぬ。しかし、このままゼルグを野放しにしておけばもっと被害が出る。
リヒトは意見を求めてルカフィルを見た。ルカフィルは一点を見つめて微動だにしない。
「? ルカちゃん?」
声をかけても無反応だ。近づくと、ルカフィルは我に返って眉をひそめた。
「何よ? リヒト」
「え、あ……ルカちゃんは……どうしたらいいと思う?」
「あの男のこと? もちろん倒すわよ」
「でも! そんなことしたらめぐ様まで……っ」
「それでたくさんの人を見殺しにするの?」
睨みつけられて、リヒトは怯んだ。そんなことはできない。でも、恩を失いたくはない。 「俺も……ゼルグは倒すべきだと思う」
「! めぐ様!?」
恩を振り返ると、恩は真剣な面持ちで立っていた。
「あいつを倒さなくちゃこの村は救えない。俺はこの村を救いに来たんだ。リクワイズとして。だからそのために戦う。自分の命がどうなろうとも」
揺るぎない決意に満ちた眼に、リヒトは何も言い返せなかった。
カーレンは始終黙ったまま、悲しげな瞳で一同を見つめていた。
その夜、恩は一人、裏庭で夜空を眺めていた。シェーシアには三つの衛星がある。
一つは青く、一つは黄色。二つの光が合わさって、淡い緑色の光が降り注いでいる。
もう一つは昼夜問わず見える白い星。この白い星は、時々赫く染まるという。それは世界に禍が訪れる時で、不吉とされる。
今日、昼間に見た時、まさに赫く染まっていた。その状態のことを“赫月”と呼ぶらしい。
赫月は自分とゼルグの邂逅を意味していたのだろうか?
ならば自分が死んで、ゼルグも死ねばこの世界は救われるのだろうか?
「俺は……このまま死ぬのかな?」
ぽつりと呟いてみる。でも、此武が言っていたはず。
終焉の刻が来れば消滅する。終焉の刻に、自分は“死ぬ”のだと。
それとも、今が終焉の刻なのか。いや、そんなはずはない。
依織が終焉の刻までは普通の人間では生きられないほどの、永い時間を要すると言っていた。
(嫌だなぁ。俺はまだ、なんにもしてないのに。宿命を紡ぐ者の使命だって、なんにも果たしてないのに)
それに、カーレンに自分の気持ちも伝えてない。やりたいことも、たくさんあるのに。
「まだ死にたくないなぁ……」
「死なないですよ」
背後から聞こえた声に、恩はおもむろに振り返る。気配は感じていたので驚きはしなかった。
依織が微笑みながら歩み寄ってくる。恩も少し困ったように微笑み返した。
「そっか。それは……よろこんでいいのかな?」
「決まってることですから」
恩の隣に佇んで、依織も空を見上げる。
こうして誰かと並んで夜空の星を見上げると、昔を思い出す。
使命と引き換えに置いてきた、大切な人たちと時間を。
「めーちゃんは死なないです。今はその時ではないから。終焉の刻が来るまでは、めーちゃんは絶対に死なないのです」
「じゃあ、ゼルグは倒せないのか」
「ゼルグを滅ぼすのはめーちゃんの役目なのです。でも、今はその時ではないのです。
今、めーちゃんがすべきことは、この村をゼルグの脅威から守ること」
「そうするにはゼルグを倒すしか……」
「さっきも言ったですけど、ゼルグには分身がいるのです。
その分身を見つけ出し、分身を倒せばゼルグは次の分身探しに向かうです。
だから、ゼルグ本体を倒すのではなく、ゼルグの分身を倒すのです」
そうか、そうすればこの村そのものは救われる。分身さえ見つかれば。
「ゼルグの分身って……今はヒトになってるんだよね? それが誰かは、依織には分かるの?」
「……残念ながら」
ぽつりと呟いて、依織は顔を逸らした。それは肯定なのか、否定なのか。
それ以上、依織が何も言わないので、恩は頭の後ろで手を組んだ。
「何か証拠とかあればいいんだけどなぁ」
「めーちゃんになら分かると思うですよ。ゼルグはめーちゃんと繋がってるです。そしてゼルグの分身とも」
自分が敵と繋がってるなんてぞっとしない。でも、もしそうなら、近づけば分かるだろうか?
それにしても、依織は本当になんでも知っている。自分よりよっぽど宿命を紡ぐ者のようだ。あのゼルグを封印したなんて。
まさか、本当に昔は宿命を紡ぐ者だったのでは?
「あ……そういえば、依織はゼルグを封印したんだよね? もう一度封印することはできないの?」
「それは無理なのです。もう封印の力は残ってないですし、それもイオ自身の力ではないのです。
それに、ゼルグはめーちゃんと出会ってしまったです。
二人が出会ったことで、今までよりも強く魂が結びつき、あの時よりもゼルグの力が増してるです」
「そうなんだ……」
そもそも、あの時もギリギリだったのだ。たとえ同じ力を与えられたとしても、もう封印することなどできない。
だから恩が必要なのだ。ゼルグを封印ではなく、滅ぼすことができる恩が。そのために創られたのだから。
自分はそんな恩を支えるために、使命を与えられた。恩のために、この道を選んだのだ。
依織は恩の横顔を見た。夜風になびく赤い髪。まっすぐな瞳。
この横顔を、昔にも何度か見たことがある。記憶に刻まれている。
「めーちゃん……」
「ん?」
振り向いた恩の手にそっと触れた。恩の頬が赤く染まる。
「い、依織!?」
「めーちゃんにだけ話すです。イオ自身のこと」
そういえば、昨日話すと言っていた。恩は依織の話に耳を傾けた。
「イオは、この時代の存在ではないのですよ。イオが生きていたのは……藍泉歴二〇二五年のリーフェなのです」
「二〇二五年……?」
今は二〇一五年なので、今から十年後だ。
しかし考えてみれば、依織は守人で、時空を自由に行き来できるのだ。
別の時空から来たのだとしてもおかしくはない。
「イオがまだ守人ではなく、普通の女の子だった頃、ゼルグが歴史に干渉して歴史が狂い始めたのです」
ゼルグも恩や依織同様、時空渡りの力を持っている。その力を使い、過去に渡って歴史を改変していた。
普通の人間たちは過去が変わり、歴史が狂っても気づかなかった。
普通の人間には正しい時間の流れと、偽りの時間の流れの違いなど、感じ取ることが出来ない。
だが、依織だけは違った。ただ一人、異変に気づいた依織を、時空神ジルティリードが守人として召喚した。
「そこでジルさまに言われたのです。契約を交わし、時空神の持つ時空渡りの力を使って歴史を元に戻してほしいと」
ジルティリードには、歴史のゆがみが広がらないように制限するのが精いっぱいだったのだ。
過去に行って、直接修正するには力が足りなかった。そこで、依織に白羽の矢が立った。
依織は不安と恐怖があったが、大好きな歴史が冒されるのも嫌だった。
「とても……こわかったです。戦いになるかもしれないと言われていたですから。それでも、歴史を元に戻したかったのです。
そしてイオは、クーちゃんと一緒に過去に飛んだのです」
「クーちゃん?」
「イオの大切なお友達……だったです」
寂しそうな笑顔に、その『クーちゃん』が、ゼルグの言っていた命を落とした相棒なのだと悟った。
「クーちゃんはヒトではなかったけれど、大切なお友達だったのです。
イオがこわくてこわくて泣いてしまった時も、守人として役目を果たせるか不安になっていた時も、そばにいて励ましてくれたのです」
本当の名前はクルノスだったが、可愛いからと依織はクーちゃんと呼んでいた。
角の生えた子犬のような姿をしていて、肩に乗れるほど小さかった。
人間の言葉は話せなくても、心が通じ合っていた。
大切な相棒だったけれど、ゼルグを封印する時に依織の力が足りず、その足りない力を補うためにクルノスが封印の媒体となったのだ。
「イオにもっと……力があればクーちゃんが死ぬことはなかったんです。ゼルグの言うとおり、イオのせいでクーちゃんは……」
「依織!」
顔を覆って泣き出した依織を、恩が抱き寄せた。依織は目を瞠る。
「もう、そんなに自分を責めないで。そんな風に、依織がずっと自分を責め続けることを、クーちゃんはきっと望んでないよ。
クーちゃんのことを想うなら、感謝しよう。だって、クーちゃんのおかげでゼルグを封印できたんだろ?」
「……!」
顔を上げる依織。恩は依織の体を放して微笑んだ。
「ごめんなさいじゃなくて、ありがとうって言おうよ。その方がクーちゃんも喜ぶと思うんだ」
ずっと自分を責めてきた。謝り続けてきた。自分が悪いからと。
でも、そうだ。ゼルグを封印できたのはクルノスのおかげだ。
依織は涙を拭いて、ぎこちなく笑みを浮かべた。
「……そうですね。めーちゃんの言う通りなのです。イオは自分のことばっかりでした」
依織は空を見上げた。遠い時空の先で別れた大切な友達に向けて。
「……ありがとうなのです、クーちゃん。大好きですよ」
もう会えないけれど、届くように。精いっぱいの笑顔と、心からの感謝を。
その言葉に応えるかのように、星が一つ流れた。
翌朝、目覚めたばかりの恩は井戸で顔を洗っていた。
ぱんぱんっと顔を両手で叩くと目がすっきりする。
「はーっ、目ぇ覚めた」
「恩さん、おはようございます」
「あ、おはよう! カーレン」
タオルを持ったカーレンがやってくる。
振り向いた恩の顔がぱあっと明るくなった。
カーレンの差し出したタオルで顔を拭く。
「今日は昨日より涼しいですね」
「うん。今は春なのかもなぁ」
空を仰ぐ恩に、カーレンはややためらってから口を開いた。
「……あの」
「ん?」
顔を戻した恩と目が合うと、カーレンはぱっと顔をそらした。
「いいえ、なんでもありません」
「?」
カーレンはそのまま家の中に戻ってしまった。
なんだったんだろう? なんだか思いつめた表情をしていたような気がするけれど。
そこへ依織が駆け寄ってきた。
「おはよーです、めーちゃん!」
「おはよう、依織」
「ふふっ、こうしてめーちゃんと『おはよう』って言うの、当たり前になってきたですね」
「うん、そうだね」
依織の笑顔につられて恩も笑う。
考えてみれば、もう一週間も同世代(?)の女の子二人と一つ屋根の下にいるのだった。
ごく当たり前になってきた会話だが、意識するとちょっと照れくさい。
(依織、元気になったみたいだな)
昨日はあんなに泣いていた。その時初めて、依織がか弱い女の子なんだと思った。
初めて出逢った時も落ち着いた様子だったし、宿命を紡ぐ者のことも自分より詳しく知っていたから、人生の先輩のように思っていたけれど。
だけど依織と長く過ごすうちに分かってきたこと。
歴史が大好きで、歴史のことになるとすごく興奮して我を忘れる。
意外とお茶目だったり、ないがしろにすると拗ねて不機嫌になる。
あと、こっちに来てから知ったのは、彼女は思っていたよりドジっ子だった。
リヒトの家に滞在すると決まった日、部屋の掃除をしていた時のことだ。
依織が水を井戸から汲んできたのだが、つまづいて水の入った桶を思い切りぶちまけた。何もないところで。
床板が飛び出ていたとか、何か転がっていたのかと思ったが、何もなかった。
その上、水をぶちまけたことに動揺していたのか、拭く物を取りに行こうとして壁に激突していた。
その他にも、スープをひっくり返したり、何もないところで転んだり、階段から落ちたりと、危なっかしいことこの上なかった。
(依織って……しっかりしたおとなしい子かと思ってたけど、本当はかなりのドジっ子だったんだなー)
また依織の印象が変わった瞬間であった。自分と変わらない、ごく普通な十七歳の女の子だったのだ。
それが突然、歴史を修正するために過去へ行ったり、戦うことになって、怖い思いをしただろうに、一人で頑張ってきたのだ。
(違うか、依織にはクーちゃんがいたんだ)
小さな相棒。その相棒さえも失って。それでも依織はこの道を進み続けてきた。
あのあと依織は、こんなことも明かしてくれた。
自分はもう“人間”ではないと。
『え……?』
『ゼルグを封印して、イオが元の時代に戻った後、ジルさまは人間であることを捨て、時空神になれ、と言ったです』
『!』
ジルティリードが依織を選んだ本当の目的は、衰えた自分の代わりに新たな時空神となって、宿命を紡ぐ者の補助をさせること。
『じゃあ、依織は……時空神、なのか?』
依織はふるふると首を横に振った。
『ジルさまから時空神の力を授かったので、時空神と同じ力は使えるですけど、正確には時空神ではないです。
今のイオは、ジルさまに仕える守人なのですよ』
にっこりと笑う依織。恩は唖然として口が塞がらなかった。
ただの人間ではないと思っていたが、そういう存在だったとは。
『皇斐依織というのは、人間だった頃の名前なのです。
初めて会った時、めーちゃんたちにそう名乗ったのは、イオの本当の名前を知っておいてほしかったからなのですよ。
今はもう誰も知らない、イオの名前を……』
『誰も知らない?』
人間だったなら、依織が生きていた時代の両親や友人たちは知っているのでは?
そう疑問に思ったことに気づいたのか、依織は人差し指を口に当てて少し寂しそうに笑った。
恩ははっとした。彼女は時々、寂しそうな瞳をする。遠い昔に失ったものを思い出すように。
『……ごめん』
『いいのです。イオはもう選んだのですから。
この道を選ぶことで、イオに関する記憶が、世界中の人たちから消えるのだとしても』
恩は表情を暗くした。今までの依織の言葉からして、もしやとは思ったが。だから依織はあんなに寂しそうな瞳をしていたのか。
神であることを隠していたのも、少しでも人間として接してほしかったから。
守人になってから、彼女は時空神の神殿でずっと恩を待っていたという。
宿命を紡ぐ者のパートナーになるために、長い時を待ち続けたその強さ。
その強さが羨ましく、憧れると同時に不思議だった。どうしてそんなに強くいられたのだろう。
実家から、靁雯から逃げて、国を飛び出して、流されるままに生きてきた自分には眩しいくらいだ。
「……ねえ、依織」
「はいです?」
「依織は……嫌じゃなかったの? 一人で俺を……宿命を紡ぐ者を待ってて、つらくなかったの?」
神妙な顔で問いかける恩を、依織は目を丸くして見つめた。
そんなことを聞かれるとは思っていなかった。まさか恩の口から。
――ああ、でも。
(そうですよね、めーちゃんが知るわけないのです。この世界の彼が)
くすっと微笑んで、依織は恩の手を取った。
「!?」
「全然つらくなかったのですよ。めーちゃんに会えるのを楽しみにしてたんですから! めーちゃんはイオの大切なパートナーなのですっ」
きゅーっと手を繋いで笑う依織に、恩はどきっとして赤面した。
なんだろう、どきどきする。こんなのカーレンの時くらいだったのに。
依織は恩をあたたかいまなざしで見つめた。
(めーちゃん、君は知らないです。イオは昔、こうして手を繋いだことがあるですよ)
時空神の神殿で初めて会った時、驚いたの。あの時とほとんど変わらない姿に。
今と声は違ったけれど、忘れたりしない。その赤い髪と瞳、優しい雰囲気、全てが……記憶の中の面影と重なったから。
君は知らない。
わたしがこの道を選んだのは、彼が導いてくれたからだということを。
「それに一人ぼっちではなかったですよ。ジルさまがいたですから」
「そ、そっか。そうだよな」
すっかり忘れていた……なんて言ったら時空神は怒るだろうか。
(あ、そうだ、時空神と言えば……っ)
昨日、依織の話を聞いてから、渡そうと思っていたものがある。
恩はいまだ繋がれている依織の手に焦りつつ言った。
「あ、あのさ、依織。手……開いてくれる?」
「はいです」
依織が恩の手を放して、手のひらを広げる。
手が離れてほっとする半面、残念に思いながらも、恩はポケットに忍ばせていた魂呼びの鈴を、依織の小さな手のひらに乗せた。
前にルカフィルたちと市場へ買い物に行ったときに、役立つだろうと思って買っておいたものだ。
「!」
「依織は普段、時空神の神殿から出られないんだろ?
でも、何か連絡しなくちゃいけない時や、話したいことがある時、俺は時空神の神殿まですぐに行けないから、これを持ってて。
これがあればいつでも依織と話せるからさ」
思わぬプレゼントに、依織は感激した。いつでも会うことはできないけれど、この鈴があれば、いつだって恩と繋がっていられる。
「うれしいです。ありがとうなのです、めーちゃん!」
依織の満面の笑みに、恩の頬も緩んだ。風に乗って、リヒトの作る朝食のいい香りがする。
程よくお腹もすいてきたので、二人連れだって家の中へ入っていった。