第29話 龍祀(ロンスー)の日
講義中、窓の方をチラリと見やった恩は、曇天からちらちらと舞い落ちる白いものを見つけ、思わず声を上げた。
「あ、雪だ……っ」
教室内が静かだったため、クラスメートたちが一斉に窓の外を見る。
「本当だ!」
「やだぁ、降ってきちゃった」
「こらこら、静かにー」
と注意しながらも、講師も雪が気になるのか窓へ歩み寄る。
かなりのぼた雪なので、これは積もるかもしれない。
放課後、雪は予想通り積もっていた。三センチ程度だが、まだ降りやまない。
「今日はずっと降ってるかもね」
「明日の明け方にはやむって天気予報は言ってたけど」
帰る準備をする恩を、要とまひろが待っている。
幸か不幸か、ここ二、三日はバイトの呼び出しはない。なんとなく此武と顔が合わせづらかったのでよかった。
(此武は間違ったことを言ってない。正しいからこそ、苦しいんだ)
ため息をついた恩に、要とまひろは顔を見合わせた。また何か悩み事だろうか。
でも今は触れてはいけないだろうと判断し、新しい話題を切り出した。
「ねえ、恩ちゃん。もうすぐ龍祀の日だよね」
「え? ……あー……ああ、そうだったな」
ぼんやりと日付を確認し、小さく首肯した。
龍祀の日は大切な人に、龍の鱗や鱗製のものを贈るという行事で、元は暁篠の慣習であり藍泉に伝わったものだ。
その昔、暁篠は滅亡の危機にあり、それを憂えたある龍が暁篠を危機から救った。
その際に龍は自らの鱗の一部を、愛する者に渡してその身を守ったという伝説があるらしい。
古い時代には龍はどの国にも実在していたが、時代の流れとともにその姿は消えていった。
そのため、今では龍を模したものやドゥーラの鱗を代用している。
龍祀の日は十一月十五日だ。いろいろあって、龍祀の日はすっかり忘れていた。
「今年も渡すだろ? 僕は当然、まひろと恩だけど」
「まひろも要ちゃんと恩ちゃんにあげる! 恩ちゃんは?」
元の伝説で愛する者に贈ったということもあり、恋人同士のイベントという認識が強いが、相手の無事を祈る意味も込められているので、家族や友人同士で贈る人も多い。
恩は実家を出るまでは毎年、家族に渡していた。藍泉に来てからは織枝と織、亜橲たちに渡していたのだが。
「うーん、今年もいつも通りかな」
亜橲たちに織枝さん。織はもう家を出てしまったし、天狗族の掟で会えないから渡せない。
けれど、宅配とかで送るのは問題ないだろうか?
「あとカーレンさんでしょ?」
「え! ……う、うん」
ぱっと恩の顔が赤くなる。そうだ、今年はカーレンもいる。
彼女にはこれまで世話になっているし、その感謝の気持ちを伝えたい。
きっとカーレンは龍祀の日など知らないから、意味は分からないだろうけど、大切な人に気持ちを込めて贈る日だから、カーレンにも渡したい。
彼女にはずっと何も返せずじまいだし、この機会に感謝の気持ちだけでも伝えられたら。
帰りの準備を終えて、恩たちは教室を出た。不意に此武の顔が思い浮かぶ。
(む。なんであいつが思い浮かぶんだよ。感謝することなんて……)
ない、とは言えない。むしろ此武には何度も助けられている。
(危ない時とか、文句言いながらも助けてくれるんだよな。命令だからっていうのは分かってるけど)
それでも、助けられたことは事実だ。それこそ自分の身を顧みずに。
占い館で、彼は重傷を負ってまで自分を助けてくれた。
なぜそこまでするのか、此武自身も分かっていないようだったけれど。
(契約だって、してくれたし。それに、此武の言葉は時々、胸をえぐるけど……間違ってはいないんだ)
昨日の言葉だってそう。彼はいつもまっすぐだ。まっすぐすぎて、時に苦痛なだけ。
真実を突きつけて、導いてくれているのだ。それはあまりにも残酷な優しさ。
カーレンの優しさが包み込むことなら、此武の優しさは暴くこと。事実を自分で確かめ、受け入れさせる。
(此武は自覚してないだろうけどな)
ただ、多くのヒトは事実を突きつけられることを嫌う。だから、此武は恐れられるのかもしれない。
見たくない、知りたくない、隠しておきたい真実は、誰にだってあるだろう。自分もそうだから。
何者にも容赦しない冷徹な心、甚大な戦闘力と闘争心、辛辣な言葉。それがクロムの恐ろしさと強さなのだ。
(此武にも、渡しておこうかな……)
今日はバイトが休みだし、渡すものを買いに行こう。恩は要とまひろにそう言って、二人と別れた。
当日、恩は織枝に小さな龍の刺しゅう入りのハンカチ、カーレンにはドゥーラの鱗で作られたブローチを渡した。
案の定、カーレンは龍祀の日を知らなかったので簡単に説明をした。
「まあ、そうなのですか。人界には素敵な日があるのですね」
「受け取ってもらえるかな?」
「もちろんです。ありがとうございます。けれど、わたしは何も渡せるものがありません」
「ううん、いいんだよ。これはお礼なんだから!」
にっこり笑うと、カーレンは大切そうに、ブローチの入った箱を胸で抱きしめた。とくん、と小さく鼓動が高鳴る。
この気持ちはなんだろう。今まで感じたことのない、あたたかい気持ち。
けれど、嫌ではなくて。何かが芽吹いたような、不思議な気持ち。
その傍らで、リヒトが「僕には?」と恩に期待のまなざしを向けたが、きっぱりと「ない」と宣言されて「えーっ! めぐ様ひっどい!」と拗ねていた。
学校で亜橲たちにもそれぞれ渡し、残るは此武だ。あれ以来会ってないから緊張する。
恩がエアバイクで校門を出ようとしたところに、横から声をかけられた。
「あ! 高天!」
「ん? あれ、暁緋?」
学校帰りだろうか、カバンをしょった暁緋が門の横で立っていた。
危なく気づかないで通り過ぎるところだった。
「会えてよかったわ。エアバイクは想定外だったけど」
「どうしたの? 暁緋。ってよく、俺の学校分かったね」
「幸緒姉に聞いたの。迷惑……だった?」
通りがかる生徒たちが、暁緋に視線を向けているのが視界の隅をちらつく。たまに、こっそり笑っている人もいる。
それを意識しているのか、暁緋は不安げで落ち着かなそうだった。
暁緋の外見は目立つ。シェーシア寄りの顔立ち、リーフェ人ではありえない髪の色、左右が違う色の眼。
ただでさえ、小学生が高学校の前にいるのも注目を浴びるのに、この外見だ。きっとかなりの勇気が必要だったのだろう。
恩を見つけた時、怖いものから逃れたような安堵した笑顔だった。
「ううん。迷惑なんてことないよ。頑張ったね」
ぽん、と暁緋の頭に手を乗せると、暁緋は俯いた。恩からは見えなかったが、暁緋はうれしそうに笑っていた。
「あ、あのさ。今日、龍祀の日だから……これ、渡しに来たの」
紙袋を差し出す暁緋。なんだかいい匂いがする。
「そのために来てくれたんだ。ありがとう。開けていい?」
「早めに処理してよね」
中身は紅国街にある万福茶房で、この時期に期間限定で販売している龍の焼き印入りのあんまんと肉まんだった。
「わあっ、万福茶房の龍まんセット! わざわざ買ってきてくれたの?」
万福茶房の包子は恩の好物だ。なぜ知っているのだろう。それも幸緒から聞いたのだろうか。
「行きたかったけど、他の人に頼んで買ってきてもらったの。あたし……目立つから」
「そっか。でも、選んでくれたのは暁緋なんだよね? ありがとう」
恩が笑うと、暁緋も笑い返した。
「あたしの方こそ……ありがと。あの時のこと感謝してるから」
「太陽の家のみんなとはずいぶん仲良くなったよね。よかった」
「学校でも……まだ少し怖いけど、努力は、してる。高天のおかげよ」
「たいしたことしてないよ。俺は助言しただけ。頑張ってるのは暁緋自身だよ」
暁緋は苦笑した。恩が背中を押してくれなければ、踏み出すことはできなかった。
それは十分たいしたことなのに、そういう人なんだ、彼は。
(この分じゃ、ただの感謝の気持ちしか伝わってなさそう。やっぱり手ごわいわね、高天は。でもあきらめないんだからね)
パン、と恩の背中を軽く叩き、暁緋は駆け出した。
「時間取らせちゃってごめん。じゃあ、またね」
「うん、またね。ありがとう!」
暁緋に手を振って、恩はエアバイクを走らせた。
高科FWには、カーレンとリヒトがすでに来ていて、此武は相変わらずデスクチェアでしかめっ面をしていた。
なぜか、いつもそばにいる千咲の姿が見当たらない。お茶でも淹れに行っているのだろうか。
「来たか。遅かったな」
不機嫌そうな目と声音。うん、いつも通りだ。
恩は一度深呼吸してから、足早に此武に近づき、小さな紙袋を突き出した。
「渡すつもりはなかったけど、仕方ないからやるよ!」
「……玩具のくせに、遅れた詫びもなしに最初の言葉がそれか」
こめかみに青筋を浮かべる此武。渡したはいいが、なんだか恥ずかしかったので、恩は腕組みをして横を向いた。
「それは、別に深い意味はないからな! 今日は龍祀の日だから、一応……お前にも渡した方がいいかなって思っただけで!」
何を渡すかなかなか決まらず、ついさっき買ってきたもの。
いろんな店を回って用意したのは、龍の絵が描かれているブレスレットだった。
暁篠では龍の模様が刻まれた腕輪を贈るのは、結婚を申し込むようなものだが、それは対であった場合だ。
(対じゃないしな! これはただのお礼であって深い意味はないんだ! ないったらないっ。
どうせ意味なんて知らないだろうし、龍の絵なのは龍祀の日だから! それだけだ!)
と自分に言い聞かせ、購入した。
単純に似合いそうだと思ったし、ブレスレットならあわよくば身に付けてくれるかもと思ったのだ。
「いいなー、コノ様。ボクも何か欲しかったぁ。ねーねー、めぐ様、ボクにもぉ」
「そんなにお金の余裕なかったんだよ! 来年、余裕あったらあげるから!」
涙目ですり寄ってくるリヒトを一喝すると、リヒトは目をしばたたかせ、「来年?」と呟いた。
「来年! 年に一度なんだから」
「来年……」
リヒトはきょとんとした顔で恩の言葉を反芻する。
来年、ということは来年も会えるということ。リヒトはその意味に、うれしそうに破顔した。
「そっか、来年か! 来年! うん、楽しみだなぁ」
やけに来年という言葉にこだわるリヒトに、恩は怪訝な顔をしたが、耳に入ってきた此武の言葉に表情が凍りつく。
「こんなもの、下らんな」
その瞬間、まるで時間が止まったかのようだった。
「下等生物の習わしなどオレ様には関係ない。まさか、こんなもののせいで遅れたわけではないだろうな?」
恩の表情がゆがんでいき、リヒトは顔色を変えた。
「ちょっ、コノさ」
「こんなものに時間を割くのなら、とっととオレ様のもとへ来い。貴様は下僕なのだからな、下僕が余計なことをするな」
「コノ様!! それは言い過ぎ……」
「余計な、こと?」
リヒトを遮って、恩が震える声で言った。
今まで迷惑とか面倒をかけてきたお詫びと、助けてくれたお礼にと思って選んできた。
それが下らない? 余計なこと?
ぽた、と恩の目から零れた涙が床に落ちた。リヒトとカーレンがはっとする。
「なんで? なんで……そんな言い方するんだよ。俺は、俺にとって、此武は……」
「下僕はオレ様の命令に従ってさえいればいいのだ。勝手な真似はするな」
パチン、と心の中で何かが弾けた。恩は爪が食い込むくらい強く手を握りしめ、叫んだ。
「ああ、分かったよ!! 所詮、戦神のお前に人間の誠意なんて伝わりはしないって!
勝手なことして悪かったな!! 二度とこんなことするもんか!!!」
「めぐ様!」
恩が部屋を飛び出していく。逡巡した後、カーレンがその後を追った。
リヒトはカーレンが追ったのを確認すると、此武に顔を向ける。
「コノ様、いくらあなたでもさっきのは言い過ぎだよ。
包み隠さないのは悪いこととは言い切れないけど、少しは言葉を選んだ方がいい」
わずかに険しい顔でそう言うと、リヒトも二人を追って出て行った。
一人になった此武はデスクに頬杖をつき、袋から出したブレスレットを無機質な目で見やった。
恩は高科FWを出てすぐの街路樹のそばに立っていた。
背中を向けているが、泣いているのは震える背中でよく分かる。
声をかけたかったが、どう言えばいいのか分からず、カーレンは声をかけられずにいた。
「……やっぱり、此武は闘いしか頭にない戦神なんだ。俺のことなんて、なんとも思っちゃいないんだ」
涙声で恩が一人ごちる。あのブレスレットにかけた本当の意味は、侘びとかお礼とかではなくて。
契約をした以上、恩と此武は運命共同体。一生、束縛される。恩がこの世から消えるまで。
だから、これからも力を貸してほしい、信頼しているという想いを込めた。
その想いを、此武は一蹴した。下らないと。
(きっと契約をしたのもただの気まぐれだったんだ。あいつは俺を本当の下僕にするつもりだったんだ。
そう言ってたのに、何を勘違いしてたんだよ、俺は!)
本人がそう言っていたじゃないか。真の下僕として働け、と。
裏の意味なんてない。あれが此武の本心なんだ。
「分かってたのに……此武は真実しか言わないって。
なのに、言葉の裏に意味があるんじゃないかって勝手に勘違いして、思い上がってた」
此武は、自分に対してだけは優しいんじゃないかって。
どんな仕打ちをしても、大事に思ってくれているんじゃないかって。
だって、そうじゃなかったら。
「助けてくれないだろ。下僕なら。自分を主だって言うなら、普通、下僕なんかを助けたりしないだろ?」
歩み寄ろうと思った。たとえ命令だとしても、この先ずっと支えてくれるなら。あいつだって、パートナーだ。
だから、理解しようと思った。パートナーだから、依織と同じように、あいつのことも。
でも、分からない。此武のことが解らない。
もう嫌だ。振り回されるのは。どうしてこんな思いをしなくちゃいけないんだ。
こんなにつらいなら。
「……もういい。此武にとって俺は、その程度の存在だったんだ。だったらもう、此武を理解しようなんて……」
やめればいい。そう続けようとした。
だが、後ろから誰かに抱きしめられ、言葉は続かなかった。
ふわりと、白い羽根が舞う。
「カー、レン?」
後ろにカーレンがいたことさえ気づいていなかった。
それほど自分は此武の言葉にショックを受けていたのか。
「いけません。それ以上は、口にしてはいけません……っ」
その先を言ってはいけないと、カーレンは直感的に動いた。
言葉には力がある。特に、強い力を持つ者の言葉は言霊となり、真実になってしまう。
頭を振りかぶるカーレンに、恩は苛立たしげに言った。
「なんでだよっ。だってもう疲れたんだ! あれが此武の本心なんだよ!!
どんなに歩み寄ろうとしたって無理なんだよ!」
「いいえ、そんなことはありません! 恩さんの言葉は、気持ちは、あの方にきちんと伝わっています!」
二人から少し離れたところで、リヒトがそっと様子をうかがっていた。
カーレンがあんなに大きな声を出しているのは初めてで、どうにも近寄りがたい雰囲気だった。
「少しずつですが、変わっていらっしゃるんですっ。
ですから、あの方を理解することをあきらめないで下さい。あなたならあの方の支えになれます!」
「そんなの、無理だよ……俺なんかが此武を……戦神を支えるなんて。そんな必要ないだろ。あいつは強いんだから」
そもそも、あいつはそんなこと求めていない。他人と関わるのが嫌だって、全身で言ってる。
そんなあいつに、支えなんて。
「力があれば強いですか? 力が強ければ心も強いと言えますか?
どんな方でも、心の支えが必要なんです。命あるものは等しく、支えとなる何かを求めて生きているんです」
ひとりでは生きられない。人間も、動物も、魔族も。
それが戦神であっても。
「あの方にも、支えが必要なんです。そしてようやく見つけたんです。それが恩さん、あなただから」
父や周りの斂子たちが言っていた。戦神クロムは、孤独だと。
孤独ゆえの強さと、弱さを持っている。
本人が気づいていないだけで、心は固く閉ざされたままなのだ。
氷った心は闇を生む。生まれた闇は自身を蝕む。
闇に蝕まれ、完全に染まってしまったら、魔に堕ちる。それが魔道に堕ちるということ。
一度堕ちてしまったら、神と言えども二度と元には戻れない。
「あなたなら、宿命を紡ぐ者である恩さんだから、あの方を守ることができます」
守る? 相手はあの此武だ。何を守れと言うのか。
けれど、カーレンの言うことが本当なら。
「……俺に、できるのかな?」
あの此武を、支えて守るなんて。カーレンは柔らかく微笑んだ。
「恩さんにしかできないことです」
宿命を紡ぐ者としての運命を受け入れた時、自分にしかできないことならやろうと決めた。
それが、あいつを支えることも含まれるなら。
此武が補佐として自分を支えてくれるなら、自分も此武を支えなくてはいけないのだ。
「分かった。守れるかどうかなんて、全然、自信ないけど、できる限りのことはするよ。此武はもう、俺のパートナーなんだし」
恩が笑いかけると、カーレンは頷いて恩から離れた。
どうやら丸く収まったようだ。見守っていたリヒトは、恩とカーレンの間に確かな絆があるのを確信した。
(レンちゃんの言葉だから、めぐ様は信じられるんだ。あの二人なら、使えるかもしれない)
すっと目を細めて、リヒトは踵を返した。
恩が気まずげな顔で此武のもとに戻ると、此武は恩を一睨みし、ブレスレットを腕にはめた。「面倒だが頂いておいてやる」と呟いて。
カーレンが、ほらね、と言うように恩に笑みを向けると、恩は微苦笑した。
このややこしい神様を理解して支えるのは、とても骨が折れそうだ。