第2話 高科FW(フリーワーク)
恩がバイトのことを思い出したのはその一分後だった。確実に遅刻である。恩は半泣きで道を駆け抜けた。
宝生市――ここ、藍泉国の首都・神京都の中心の市だ。国内で最も栄えている王都なだけあって、活気に満ちあふれている。
恩の住む狩城市には高層ビルなどほとんどないが、宝生市は高層ビルが立ち並ぶコンクリートジャングル。
宝生市は十二のブロックに分けられていて、ダウンタウンは九ブロック。恩のバイト先はその南東に位置する四ブロックだ。
四ブロックは高層ビルも少なく、どちらかと言えば狩城市に近い雰囲気のブロックである。
バイト先の近くの無料パーキングにエアバイクを収納し、恩はビルとビルの間の細い道に入っていく。
滅多に人は通らず、人がようやくすれ違える程度の幅しかない。だが、ここがバイト先の入り口なのだ。
恩はバイト先を誰にも言わない。誰にも知られたくないからだ。
恩のバイト先は少々特殊で、普通の人間ではそこに行くことすらできない。
薄暗い細道を行く恩。道の入り口からぴったり十三歩。ぬわん、と空間がたわんだような感覚。
気にせずそのまま道を抜けると、そこは静かな無人の大通り。
エアバイクも自動車も走っていない。空にも何もなかった。
雲も、さっきまで輝いていた夕日も。それどころか、色すらもないのだ。
道路、小さなビルや店、街路樹、すべてが真っ白。
――いや、ひとつだけ。真っ白なこの空間の中で唯一色のついた建物があった。といっても薄い灰色なのでさほど差はないのだが。
迷わずそこに向かう恩。二階建ての小さな雑居ビル。
恩は階段を使って二階に上がり、手前のドアの前に立つ。
そのドアには赤と青、二つのドアノブがついていて、恩は赤いドアノブを回した。
「悪い、遅くな」
びゅんっ。
「っとあっ!」
ドアを開けると、恩の眼前にダーツの矢が飛んできた。素晴らしい反射神経でそれをしゃがんでよける。
ダーツの矢はそのまま真っ直ぐに、廊下の壁に突き刺さった。
「む。外したか。狙いは正確無比だったはずだが」
「残念でしたね」
子供のような高い声と、抑揚の乏しい女性の声。
恩は立ち上がって、壁に突き刺さった矢を振り返り、顔を引きつらせた。
たぶん、なんの変哲もないダーツの矢。だがしかし、壁に深々と突き刺さり、小さな亀裂が走っている。
どれだけ強い力で投げれば、あんな細いダーツの矢で壁に亀裂を入れることができるのやら。
「的が動かなければ中心に当たっていた。的が勝手に動いたのが悪い。今度こそ当ててくれる」
「げっ」
言葉が終わるかどうかのところで、恩は慌ててドアを閉める。
ちょうどドアが閉まった瞬間、再び投げられたダーツの矢は、ドアの内側に引っかけられていた的の中心を射抜いた。
そう、射抜いたのだ。当たったのではなく。
「どうだ、オレ様の腕前は」
「お見事です。間違いなく中心に当たりました」
「当たったっていうかぶち抜いてるじゃん! 的に穴開いてるだろ!」
的の横で叫ぶ恩を、ダーツを投げた張本人がぎろりと睨みつける。
「ようやく来たか。この愚図め」
そう吐き捨てたのは、見た目十歳ほどの少年。
灰白色の短い髪、シェーシア人の特徴である縦長の宝石のような眼はバイオレット。左眼だけが前髪に隠れている。
ダークブラウンのベストにライトグレーのシャツ、胸元を大きなグレーのリボンで飾っているのがかわいらしい。
だが、その表情は子供らしくなく、目はきつく細められ、眼差しには侮蔑が込められている。
少年は体格に似合わない黒い革製の回転椅子に座り、同色のデスクに頬杖をついていた。
その傍らには同じくシェーシア人と思われる女性が佇んでいる。
紫紺色の長い髪と眼。黒っぽいヘアバンド、修道女のような紺色の服の美女だ。
「今日はちょっと、出掛けに呼び出さ」
「言い訳は見苦しいぞ、下等生物」
最後まで言わせず、すぱっと切り捨てる少年。恩はぐぅっと口をつぐみ、少年を睨みつけた。
「なんだ? その目は。それが所有者であるオレ様に対する態度か」
と、いつの間にやら少年は恩の背後に回っていて、恩を床に押しつけて頭を踏みつけていた。
「いててて、顔が潰れるー!」
「他に言うことはないのか、単細胞」
「……すみません、此武様。もう致しません……」
苦々しげに恩が言うと、少年はにやりと嗤った。
「初めからそう言えばいいのだ。貴様はオレ様の玩具なのだからな」
彼こそがこの高科FWの主である此武=高科。
そして、恩を玩具と称し、こき使う雇い主だ。彼は自分を人形か奴隷としか思っていないのである。
傍らにいた女性は助手の千咲。高科FWのメンバーは恩を含め、この三人のみ。
ビルではあるが、部屋もこのメインルームと奥にある給湯室しか使っていない。
やっと解放された恩は制服についた汚れを払う。白いのですごーく目立つ。
「来たのならとっとと仕事をしろ」
「分かりましたぁ」
恩は部屋の中央にあるテーブルに置かれた、黒いタブレットパソコンを開いた。
室内はモノトーン……というよりも、ほぼ黒い物しかないので暗く殺風景に見える。さっきまで此武が座っていた回転椅子とデスク、その上に置かれたデスクトップパソコン、プリンターも黒。
パソコンの横にある小さな陶器の壺は薄い灰色だ。他はガラス製のテーブルとそれを挟むように置かれた黒いソファー、壁際にぽつんと置かれた銀のコート掛けと、その下にある黒い大きな革製のカバン。
タブレットを開くと、すぐに高科FWのウェブサイトに繋がる。依頼はたいてい、サイトのメールボックスに送られてくるのだ。
高科FWはいわゆる便利屋で、国内ならばいつでもどこにでも行く。ただし、人外に関係する依頼のみ。
人外とは文字通り、人間以外の生き物――ただし動物は含めない――のこと。幽霊、獣人、恠妖、悪魔……そういった生き物の総称だ。
この世界には様々な種族が存在している。高科FWでは、人外と人間が共存する上での悩みや事件を解決するのが仕事なのである。
メールボックスを見ると、今日入ってきた依頼が三件。うち一つはすでに解決済みになっている。
恩は新たに入っている依頼を読み上げる。これが恩の仕事の一つ。
「えーと、まず一つ目。行方不明のペット捜しみたいだな。三日前に散歩に出かけた時にどこか行っちゃって、まだ帰ってきてないんだってさ」
「種族は?」
「んー、ユンゲルだ」
クマの恠妖であるユンゲルは、成体になっても中型の犬くらいの大きさで、虎縞の体毛に黒い二対の羽が生えている。
きちんとしつければ懐くので、最近ではペットにする人間もいるようだ。ちなみに恠妖とはいわゆる妖怪のことである。
此武は回転椅子に深く腰掛け、九十度ほど椅子を回した。ひじ掛けに手を置いて瞑目する。
「ふん、おおかた紐を手放したか、逃げ出したのだろう。奴らは元々、束縛を嫌うからな」
「ユンゲルは羽があるから、自由に飛べた方がうれしいんだろうなー」
ふと恩の頭に、さっき会った女性の姿が浮かんだ。羽、で思い出したのだろう。
「そういえばさ、ここに来る時、不思議な女の人に会ったんだ」
手を止めて恩は言う。此武の返事はないが構わず続ける。
聞いていないようで、此武は結構ちゃんと聞いている。返事をしないだけなのだ。
「空から落ちてきてさ、それもびっくりしたんだけど、その人から……翼が出てきたんだ。背中から真っ白な翼が」
此武が半分だけ目を開き、恩を一瞥する。
「あれにはびっくりしたよ。急に翼が出てくるんだもんな。聞いたことない言葉もしゃべってたし、服だってちょっと変わってたし。でも……綺麗な人だったな」
最後の言葉だけは小さい声だったが、此武にはしっかり届いていた。
にやっと口の端を持ち上げ、瞑目して笑う。
「一目惚れか? 単純なことだな」
「なっ、そっ、そういうんじゃないよ! た、たとえそうだとしても、別にいいだろ! 本当に綺麗だったんだよ!」
「そんなことより次の依頼だ。無駄口を叩くな」
「そんなことって……ちぇっ。はいはい、次ね!」
拗ねたように恩は次の依頼を読む。
「えーと、父親から継いだ館で時々、奇妙なことが起きるので調べてほしい、ってことみたいだよ」
「具体的には?」
「ラップ現象とか、家具が勝手に動くポルターガ椅子ト現象、館の中を歩いてると誰かがついてきてるような気配がしたりとか……一般的な心霊現象ばかりだな」
此武はあごに手を当て、しばし考える。わずか二秒ほどで結論が出たらしい。
椅子を回転させ、先ほどから椅子の横で、マネキンのごとく微動だにしていない千咲に体を向けた。
「二件目の依頼を片づける。千咲、準備しろ」
「はい」
「一件目は他の奴らに任せる。場所はどこだ」
「最初のは袮州の香呂市。二つ目は五響谷州の弥生市だよ」
椅子に座ったまま足を組む此武。フッ、と不敵に笑う。
「ちょうど東西に分かれたな。オレ様たちは東か。依頼受理の返信をしておけ」
「分かった」
千咲がコート掛けに掛けられていた此武のロングコートと、その下のカバンを持ってくる。準備といってもこれだけなのである。
恩は依頼者の住所と連絡先をプリントアウトし、一件目の方を此武に渡した。
紙を確認すると、此武はデスクの壺から手のひらサイズの土のカケラを三つほど取り出し、ふうっと息を吹きかけて床に落としていく。
カケラは床に落ちるとむくむくと大きくなり、シンプルな服を着た人間の姿になった。
男が二人、女が一人。背丈は千咲と同じくらいだ。
「貴様らはここに行け。しくじるなよ」
紙を差し出すと、三人は無言で頷いた。恩はサイトを閉じ、パソコンの電源を落とす。
千咲がカバンを恩に渡し、此武はコートを羽織って唯一のドアに向かった。
「では出るぞ」
此武が青いドアノブを回してドアを開くと――そこに廊下はなかった。
壁も天井も床も何もない空間。オーロラのように空間の色が目まぐるしく変わる。
全員がそこへと足を踏み出した。地面を歩くようなしっかりとした感覚はないが、不思議なことに歩くことはできる。
ここは様々な時空を繋ぐ時空廻廊。此武いわく、この廻廊のどこかに、時空を司る時空神・ジルティリードが住む“時空神の神殿”があるらしい。
高科FWは時空の狭間に存在する。恩が時空の狭間に迷い込み、高科FWで働くようになったのは夏休み後半のこと。
時空の狭間に入ることができたのは偶然ではない、と此武は言っていたが。
普通ならば、ただの人間は時空の狭間には入れない。
此武も、人間に見えるが実は人外だ。
土のカケラから生み出された三人――ゴーレムと別れ、此武たちは時空廻廊を適当に歩いていく。
ほんの数分歩くと、此武は立ち止まった。
「この辺りか」
言って左手を前方に伸ばすと、ぬわん、と空間がたわみ、三人は見知らぬ場所に立っていた。時空廻廊を抜け、通常の空間に出てきたのだ。
三人の周りに広がるのは、葉が紅く色づき始めた森。足元には落ち葉がある。
その奥に一軒の大きな洋館。あれが依頼者の言っていた館だろう。
見たところ普通の少し古ぼけた館だ。だが、恩には分かる。あの館には何かがいる。
もちろん依頼者以外の、人間ではない何かが。
「ごめん下さーい。高科FWの者ですけれどー」
恩が呼び鈴を鳴らして呼び掛ける。
此武は少し後ろでふんぞりがえっていて、千咲は微笑をたたえたまま此武の傍らにいる。
しばらく待ったが応答がない。もう一度呼び鈴を鳴らして「すいませーん」と声をかけると、ややあって扉が開いた。
「どちら様でしょう?」
出てきたのは三十代後半くらいの、精悍な男性だった。
右足を怪我していて、松葉杖をついている。それで出てくるのが遅かったのか。
「小室井一樹さんですね? 依頼を頂いた高科FWの者です」
「ああ、そうでしたか。ついさっき依頼受理のメールが届いたのに……到着が早いですね」
当然だ。こっちはメールを送ってから数分でここに来たのだから。
時空廻廊はどの空間にも繋がっているので、遠く離れた地にもすぐ辿り着ける。
高科FWはその中にあるので距離など関係ない。
恩は営業スマイルで「うちは早さが売りですので」と言った。
「あなたが責任者……ですか?」
「いいえ、俺はアルバイトでして。あちらが責任者です」
恩が指した先を見て、男性は目を丸くした。
「……女性ですか」
「いえいえ、その隣」
「え……」
隣と言えば此武しかいない。此武は客向けの笑顔を見せる。
「初めまして。僕が高科FWオーナーの此武=高科です」
「…………」
明らかに信用していない顔だ。だが、せっかく来てくれたのだからと思い直したのか、男性は「中へどうぞ」と三人を館の中に招き入れた。