第12話 雷雲を呼ぶ男
黒き天を稲妻が駆け抜ける。少し遅れて雷鳴が轟いた。
風が強く吹き荒れ、道を行くものはほとんどいないというのに、一人の男が暴風の中に佇み、小高い丘から町を見下ろしていた。
鋭い眼光には感情が浮かんでおらず、冷然としている。
「ここに……奴が」
そう呟くと、にぃぃぃと口元を吊り上げる。その時初めて、男の顔に感情が浮かんだ。愉悦と、狂気が。
カッ、と雷光が閃き、男の全身を照らした。風になぶられる長い髪は、鮮血で染めたような深紅だった。
* * *
気持ちが落ち着いてから、恩は織枝と織に自分の素姓を打ち明けることにした。カーレンは「水入らずで話してきて下さい」と席を外している。
白凰であること、鋒家の血族であること、藍泉に来た理由。二人は驚いていたけれど、笑って受け入れてくれた。
「ごめん、もうすぐお別れだって言うのに、直前にこんなこと話して」
ふるふると首を横に振り、織は恩に抱きついた。
「ううん、話してくれてうれしいよ、めぐ兄。この家にいる時に話してくれてよかった」
何も話せないままで終わるより、よっぽどいい。
「それに謝るのはあたいたちもだよ。血が繋がってなくても家族だよって言いながら、境界線を引いてた。
だからめぐ兄のことを訊けずにいたし、めぐ兄もあたいたちに何も言えなかったんだよね」
「織、俺は……」
逃げていただけだ。織たちは何も悪くない。
「わかってる。めぐ兄が何も言わなかったのは、あたいたちを巻き込みたくなかったからだよね。でもね、悩みぐらい言ってほしかった。
言ってもらえるほど家族としてめぐ兄に信頼されなかったのは、あたいたちにも原因がある。だからね、めぐ兄。おあいこ。もう何も言わないで」
ぎゅうっとすがるようにしがみつく織に、恩はもう一度口を開きかけてやめた。
これでおしまい。今までのことは全部、水に流そう。
そう言われているようで、一瞬ためらってから、恩は織の頭を撫でた。犬耳がぴこぴこと揺れる。
「それでね、めぐ兄。これからはホントにホントに家族だから、めぐ兄にも隠したままじゃいけないよね」
「え?」
恩から離れた織は織枝を一度振り向く。織枝は微笑んだままこくりと頷いた。
織は恩に向き直り、素顔を隠してきた面に手をかけた。何をするのか察した恩は慌てて止めに入る。
「ちょっ、ちょっと待って、まさか!」
織の顔を覆っていた面が外され、素顔があらわになる。天狗族は血縁以外に素顔をさらしてはいけないのが掟。恩はさっと顔を逸らした。
「いいんだよ、めぐ兄。めぐ兄は家族だもん。だから面を取ってもいいの。顔を見せてもいいんだよ」
「で、でも……」
「恩くん。今まで、こうして私たちはあなたと壁を作ってしまっていた。けれどもう、そんな壁は壊すわ。だって家族なんですもの」
穏やかな織枝の声に、恩はおもむろに織を見る。
黄緑色の大きな瞳。頬にはわずかにそばかすがあって、決して美少女とは言えないけれど、年相応の愛らしさのある顔立ち。
はにかむように笑う織は手を後ろで組んで、恩を覗き込むように体を傾けた。
「どーお? めぐ兄。これがあたいの顔。びっくりした?」
「う、うん。でも……かわいいよ」
「ほんとっ? えへへ、うれしいな!」
にっこり笑って、織はぱたぱたと尻尾を振った。織たちが歩み寄ってくれたのだ。なら、自分もそうしなくては。カーレンから勇気はもらった。前に進む勇気を。
「織、織枝さん。さっきも言った通り、『穂積 恩』は偽名だ。鋒家に悟られないようにその名前を使っていたけど……これからはちゃんと、本当の名前を使うよ。俺は、高天 恩だ」
きゅうっと強く手を握りしめて宣言した恩は、晴れ晴れとした笑顔だった。
「ええ、分かったわ」
「改めてこれからもよろしくね、めぐ兄!」
新しい家族ができた。四年の月日を経て、今ようやく。
部屋の外で壁越しに三人の会話を聞いていたカーレンは、頃合いを見てリビングに入った。
「皆さん、お茶を持ってきました~」
「あら、ちょうどおやつの時間ね」
時計を見れば三時を回っていた。カーレンがお茶菓子とティーカップをテーブルに並べる。
織はカーレンが来ると面をさっとかぶった。さすがにカーレンの前ではまだ外せないようだ。
「そうだわ。駅前の菊池堂で新作の和菓子が出たって聞いたのよ。買っておけばよかったわね」
「新作? わー、食べたーい! 菊池堂の和菓子は一番おいしいもん!」
「じゃあ、今から買ってこようか。エアバイクで行けばすぐだし」
「でも、風が強いわ。雷も鳴っているし、いつ雨が降ってくるか……」
その時、カッ、と閃光が走る。次いでゴロゴロと雷鳴が響いた。心配そうに止める織枝に、恩は「大丈夫」と笑った。
「それより売り切れていないかどうかの方が心配だよ。待っててね、織。特急で買ってくるから」
「うん! ありがとう、めぐ兄!」
「気をつけて下さいね」
織とカーレンに見送られ、恩は菊池堂へと向かった。この後に最悪の邂逅が待っているとも知らず。
菊池堂の新作和菓子はギリギリ最後の一つだった。思い切って買いに出てきてよかった。
家を出てからは不思議と、雷と風が弱まっている。おかげで早くに帰れそうだ。
エアバイクで慣れた道を走っていると、突如、轟音とともに激しい雷光が目を焼いた。
「うわっ!!」
慌ててエアバイクを停める恩。大通りではなく、人気のない道でよかった。ちかちかする目をしばたたかせ、恩はエアバイクから降りた。その時。
ドク……ン。
覚えのある感覚が全身を突き抜けた。そしてこの気配。背後から何者かが近づいてくる。
まるで嵐の前の静けさだったかのように強風が吹き始め、稲光が空を疾った。
心臓が早鐘を打つ。恐怖で足がすくむ。それでも、恩は振り返った。
近づいてくるのは一人の男。風になぶられる長い深紅の髪。
空を駆ける稲妻よりも烈しい緋色の眼。
ゆっくりと、けれど力強い足取りで歩いてくる。男は恩と目が合うと、にぃと口元を笑みの形に歪めた。
「ようやく見つけたぜ、鋒家の星よ」
「……っ。……靁雯……!!」
とうとうこの時が来てしまった。この因縁の男に見つかる時が。恩はぎりっと歯を噛みしめた。
「鋒家周辺を漁ってもなかなか出てこないと思ったら……異国に逃げやがっていたとはなぁ。そんなにあの家が嫌か? くくく、その気持ちは分からんでもねぇが……逃げた先がこの藍泉とはな……つくづくあいつに似てやがる」
「何しに……何しに来たんだ! 俺は鋒家と縁を切った! もう鋒家とは関係ないんだよ!」
のしかかる威圧感と恐怖に耐えながら叫ぶ。しかし靁雯は嘲笑を深めただけだった。
「何しに来た、だと? くくく、笑わせる。貴様を殺すために決まってるだろう」
「……っ」
「鋒家と縁を切ったとぬかしたが、そんなこと知ったことか。貴様に流れる腑抜けた鋒家の血! それを絶やすのがオレの目的なんだからな!!」
カッ、と閃光が走る。それに一瞬気を取られた恩は目をつむった。
しかし、間近に迫った靁雯の気配に勘で横へ跳ぶ。直後、恩のいた場所を鋭い刃が過ぎゆく。
「くくく、避けたか……勘は鈍っていないようだな」
靁雯が羽織っているコートの下から出てきたのは、籠手から生えた鋭利な刃物。あのまま立っていたら首を刎ねられていただろう。
「今のはただの確認だ。貴様の腕が鈍っているかどうかのな」
「靁雯……どうしてそこまで鋒家を憎むんだ!? 鋒家の人間がそんなに気にくわないのか!?」
「当然だ。最強を冠していながら、ぬるま湯につかり続けることを選び、なおかつそうであることに気づかん愚かな鋒家など滅びればいい!!」
刃物を籠手に引っ込め、靁雯が向かってくる。恩は覚悟を決め、靁雯と対峙した。
拳を繰り出す靁雯。恩はそれを、腕を交差させて受け止めた。すかさず体を沈め、足払いをかけるが靁雯は後ろに跳んで躱す。
今度は恩が間合いを詰め、回し蹴りを放つが、あっさりと片手で受け止められ、投げ飛ばされる。
空中で体勢を直し、着地するが、瞬時に接近してきた靁雯の蹴りをまともに受け、塀に背中から激突した。
「がっ……」
ずるずるとその場にくずおれる恩。かなり腹に衝撃があった。ゲホゲホと咳き込む。
「ふん……昔よりは手応えがあるな。さすがは鋒家次期当主“綺星”か」
「!」
「だが、この程度で綺星とは……つくづく今の鋒家は弱い」
腕組みをし、靁雯は嘲笑を浮かべながら恩を見下ろした。恩は腹を押さえ、顔を上げた。
「……俺は……綺星じゃ、ない」
声を震わせる恩に、靁雯は笑みを消した。
「何度も言うけど……っ、俺をその称号で呼ぶな! 俺は鋒家当主にはならない!! 俺はもう……鋒家とは関係ないんだぁぁぁッ!」
姿勢を低くしたまま、恩が靁雯に突進する。靁雯はその場から動こうとしない。恩の拳が靁雯の顔面に打ち込まれる――
「――目障りだ」
バチバチバチィッ。
靁雯の言葉と同時に、恩の体に電撃が走る!
「ぅああああああっ!!」
がくりと倒れる恩。かろうじて息はあるが、体はほとんど動かせない。
「確かに貴様は綺星ではないな。最強の冠を手にすることに怯える臆病者など、当主になる資格はない!!!」
振り上げた靁雯の腕に電撃がまといついた。もう一度電撃を浴びせれば決着がつくだろう。
「愚かな鋒家の星よ。死ねぇ!!!」
靁雯の腕が勢いよく振り下ろされる。激しい稲妻が黒天を駆け抜けた。
恩が出ていってから雷と風が弱まった。けれど、なぜか胸のあたりがざわつく。
カーレンは窓から空を見上げていたが、不意にきびすを返した。
「織枝さん、織さん! わたし、恩さんを見てきます!」
二人の返事を待たずにリビングを飛び出す。外に出ると一変して風が吹き荒れていた。
それでも翼を広げて空へと飛び立つ。菊池堂のある方角は分かっている。
カーレンは強風に目を眇めながら飛んでいく。
(なぜ、こんなにも胸が締めつけられるんでしょう。恩さん……どこですか? 無事でいますか? 恩さん!)
その時、轟音が耳朶を打ち、ひときわ激しい雷光が空を照らした。そしてその瞬間、ザワ……と全身が総毛立つ。
「!! この気配は……?」
暗く、重く、冷たい……けれど激しい怒りと憎悪。
「恩さん……っ」
胸のざわつきは確信へと変わる。彼に危険が迫っている! 再び稲妻が走り、カーレンは憎悪の念が渦巻くところへ急いだ。
刺すような波動。これは、魔の気配によく似ている。一体何が起きたのか。そう案じた時だった。
「確かに貴様は綺星ではないな。最強の冠を手にすることに怯える臆病者など、当主になる資格はない!!!」
「!」
朗々たる声が耳に飛び込んでくる。見たことのない深紅の髪の男性。その足元には倒れた恩。カーレンは考えるよりも早く急降下していた。
「恩さん!!」
「愚かな鋒家の星よ。死ねぇ!!!」
男の腕が振り下ろされる。その腕には電撃がまといついている。直後、天から落とされる放電の怒槌。
まっすぐに恩めがけて落とされた稲妻は、しかし恩に当たることはなかった。
「……なんだ、貴様は」
不機嫌に眉根を寄せる靁雯。靁雯の前に翼を広げたカーレンが立ちはだかり、透明なドームのようなもので恩と自分を包み込んでいた。
それが雷撃を吸収し、恩は満身創痍ながらもまだ生きている。
「これ以上、恩さんを傷つけさせません!」
表情は毅然としているが、声も体も震えている。靁雯は邪魔が入ったことに舌打ちした。
恩が小さく身じろぎ、無理やりに顔を上げる。
「カー……レ……」
どうしてここに/危ないよ/動けない。
なんで来たの/苦しい/逃げて。
怖い/ダメだ/痛いよ/殺されちゃう――
――カーレンが、殺される!
「逃げ……て……カー……レン……っ」
ぐぐぐっと立ち上がろうとする恩。この状態で動くなど、無理もいいところだ。靁雯は恩を睨み据え、鼻を鳴らした。
「その体でまだ戦おうとするか。ますます奴を彷彿とさせやがる。だが」
にたりと靁雯は嗤った。
「それならばそれで面白い。このまま一思いに殺してもいいが、その執念、少し気に入った。今はひとまず退いてやろう」
羽織ったコートを翻して、靁雯は二人に背を向けた。
「貴様は弱い。腑抜けた鋒家の血を持っている。だから殺す。だが、嬲り殺す方に変更だ」
肩越しに一瞥し、狂気をはらんだ笑みを浮かべる靁雯。
「オレは一思いに殺すのも好きだが、嬲り殺すのも好きなんだ。せいぜい強くなってオレを愉しませろよ」
嘲笑を残し、靁雯は二人の前から去った。完全に気配が消えると、カーレンは防御壁を解き、恩に駆け寄った。
「恩さん! しっかりして下さい!」
「……なんで……君が、ここに……?」
「恩さんが出かけてから胸騒ぎがして……ああ、なんてひどいことを」
涙目でそっと恩の頬に触れる。恩は申し訳なさそうに顔を歪めた。彼女のこんな顔は見たくなかった。こんな弱い自分を見せたくなかったのに。
「今、治します。セルウィ=ヴィアオ=ジバル」
ぽわ……と恩の全身を翠色の光が包む。小さな光の玉が傷の周りでポポポンと弾け、みるみる傷が塞がっていく。
「すごい……あれだけの傷が……っ」
痛みも傷も消え、恩は立ち上がった。動かしても全然問題ない。
「ありがとう、カーレン! もう平気……あれ?」
恩は元気になったが、カーレンの顔に疲労の色が浮かんでいる。
「大丈夫です。治癒術は少し、神力を多く使うので……少し疲れただけです」
ふわりと立ち上がり、カーレンはにこっと笑って見せた。
「それよりも、先程の方は一体、誰なのですか? 恩さんのお知り合いですか?」
「……あいつが、さっき話した靁雯だよ」
「えっ?」
「見つかっちゃった。さっきので分かる通り、あいつは容赦なんてしない。こうなった以上、本気で俺を狙ってくると思う。今のままじゃ……太刀打ちできない」
みすみすやられるつもりは毛頭ない。けれど、靁雯は強い。対抗できるほどの力量が今の自分にはない。それが悔しい。
それ以上何も言えず、恩は俯いてしまった。カーレンもなんと言葉をかけていいのか分からず、二人はしばらくその場から動けなかった。
藍泉某所。アジトに戻ってきた靁雯は、暗闇の中をものともせずに進む。
「お帰りなさいませ、靁雯様」
暗がりの中から女性のハスキーボイスが流れてくる。前方に燭台があり、揺れる炎の淡い灯りの横に、三十歳前後の女性が立っていた。女性は恭しく首を垂れる。
「珍しくお早いご帰還ですね。何かありましたか?」
スタスタと傍らを通り過ぎていく靁雯の後ろについていきながら、女性はハスキーボイスで問いかけた。
「ああ。見つけたぞ」
簡潔な答えでも女性は意味を理解した。靁雯はここ数年間、一人の男を探していた。彼が心底、嫌悪する鋒家の次期当主、綺星の称号を持つ少年を。それが……
「とうとう見つかったのですか。おめでとうございます。では、その者はすでに……」
「まだ殺していない」
「え?」
見つけたらすぐに殺すと言っていたのに。女性は目を丸くした。そのせいで歩調が少し遅れたが、靁雯は構わず進んでいく。
「少しだが奴に興味が湧いた。奴の悪あがきを見る方が、瞬殺するより愉しそうなんでな」
笑みを零す主人に、女性は慌てて駆け寄り隣に並んだ。
女性にしては背の高い彼女は、長身の靁雯とさほど変わらず、ちょっと視線を上向ければ、主人の至極楽しそうな顔が見える。
女性は諦めたようにごく小さくため息をつき、何も言わず主人につき従った。