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Fate Spinner  作者: 甲斐日向
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第11話 明かされる恩の素性

 今日もまた、雷が鳴っている。まるで何かの予兆のように。

 やはり雨は降らなくて、雷と風が競い合うように猛威をふるっている。

「風神と雷神が争ってるみたいだなー」

 風に飛ばされないように、買い物袋を両手で抱え込んだ恩は一人ごちた。

 隣を歩くカーレンが、ツインテールにした髪を押さえながら不思議そうに小首を傾げる。

「二つの一族は仲が良いことで有名ですよ?」

「神族の常識だとそうなの? おとぎ話では、風神と雷神は仲が悪くて、風神と雷神がケンカしてそれを仲裁する水神が加わると嵐になるんだって」

「まあ、そうなんですか?」

「いや、おとぎ話でそう言われてるってだけで事実は知らない、けどっ」

 どこからかチラシが飛んでくる。恩は見事な反射神経でそれをよけた。

「風神は風、雷神は雷、水神は雨を司るでしょ?

 昔の人は天災を神様の怒りや恠妖(あやし)のいたずらって思ってたみたいだから、そういうふうに考えたんじゃないかな」

「確かに、風神は風を操りますし、雷神も水神も雷や雨を操りますけど……人界に影響を及ぼすような力の使い方はしないと思います。

 皆さん、こことは違う時空にある神界にいますし、基本的に人界で力を使っていいのは、国津神(くにつかみ)と生命神、時空神くらいですから」

 創造神様は別ですけれど。カーレンの説明に恩は半ば感心しながら相槌を打つ。

 カーレンに会ってから、神族の本来の役割や性質を知るようになってきたと思う。

 それで明らかになった事実は、いい意味でも悪い意味でも少なからず衝撃を与えた。

 まず、神様はほとんど人間界に存在していないこと。

 古くから語り継がれている十七属の神々以外にも神はいること。

 天――正確には神界――にいる神もしくは天から降りてきた神を天津神(あまつかみ)、地上――つまり人間界に住みついた神を国津神ということ。

 天にいる神も地上にいる神も全部いっしょくたにして考えていたが、本当のところは別物らしい。

 神狐である稜雲(いずも)は地上で生まれ育ったそうなので、国津神に分類される。

 よく神社や寺、(ほこら)には神様が宿っている、もしくは訪れると信じられているが、そういうことは国津神でない限り滅多にないとのこと。

 じゃあ、神社とかにお参りしても意味がないんじゃ? 神頼み、なんていうけれど神様は実際は何もしてくれないわけだ。

 よし、これからはお参りに行かないことにしよう、と恩は決めた。 

 自然や物に神様が宿っている、という考えも間違いだと知った。

 あくまでも操ったり司っているだけで、神は個体で存在しているとのこと。だから嵐はまったくの自然現象で、風神たちは無関係なのだ。

 しかし、これらは事実でも人間たちが知ることはない。きっとこれからも。神族たちが明かさない限り。

 真実を誰かに伝えても、信用されないだろう。だから知ったところで得をしたかどうか定かでないが。

「なんかさ、カーレンといると神様が遠い存在なのか近い存在なのか分からなくなるよ」

 苦笑する恩にカーレンはきょとんとする。

「神話やおとぎ話では、神様って言うのはこの世界を創造して万物に宿る尊い存在ってことになっててさ。

 実在はしててもほとんど人間の前に姿を現さない不思議生命体――っていうのが、普通の人間の常識なんだよ。

 まあ、中には例外もいるけどね。オミリア様とか琅逨(ロウライ)とかはたまーにテレビ出てるから」

 リーフェには、実在してなおかつ、人間たちの目に多く姿をさらしている、世界的に有名な神がいる。

 ここ、藍泉(あいずみ)の守護神、神狐・オミリア。

 同じく藍泉の守護神、水神・サヲギラ。

 暁篠(あきしの)の守護神、雷龍・琅逨。

 バステルクの守護神、岩神・ゴボルデン。

 ソテルーウェの守護神、氷神・サカ。

 彼らは五大守護神と称され、信仰されている。

 逆に、それ以外の神々はたとえ事実を含んでいる神話に登場していても、深く信仰されていない。

 “神”は存在すると理解していても、五大守護神以外は虚構と思われているのだ。

「神様を信じてない人ってたくさんいるよ。むしろ信じてない人の方が多いくらい。同じ人外でも恠妖(あやし)は身近で、神や悪魔は存在が希薄なんだ」

 不思議なことに、それがリーフェの現状だ。

 恠妖は誰もが存在を知っていて、実在していることを理解しているのに、なぜか神や悪魔に関しては、実在するものととそうでないものに分類される。

(俺にとっては、生まれた時からから近しい存在だけど、他の人にとってはそうじゃないんだよな)

 雷鳴と共に時折思い出す、いつでもそばにいてくれた存在。

 実在しているのに。言葉を交わして、触れ合うこともできるのに、自分にとっては“当たり前”でも、他人には幻想のようで。

「なんでそんな風に差がついちゃってるのか知らないけどさ……俺は、ちゃんと神様がいるって解ってる。

 実際に目の前にいるし、冗談じゃなくてたくさんの神様に会ってるしね。

 だから、ちゃんと存在しているのにその存在を認められないのは、少し哀しいなって思うんだ」

 そんなことを言われたのは初めてだったので、さみしげに笑う恩を、カーレンは不思議な思いで見つめた。

 人間が自分たちの存在を否定しようとも、それで心を痛めることはないし、存在が危うくなるわけでもない。

 存在を認められないのは哀しい、と感じることが理解できない。

 人間に認められようが認められまいが、自分が今生きていることはまぎれもない事実だと理解しているから。

 ――けれど。そんなふうに、誰かの痛みを感じることのできる恩の優しさが、ほんの少しこそばゆく、心地よかった。

 くすぐったい気持ちで、カーレンは微笑んだ。

「恩さんは優しいんですね。わたしのことを気遣ってくれて、ありがとうございます」

 恩は赤面し、照れ臭そうに顔を逸らした。そこでふと、通りを歩いていた女の人と目が合った。

 紅い髪、朱い瞳。年の頃は二十歳くらいだろうか。

 その女性は恩を見て息を呑む。恩も目を瞠り、硬直した。

「……(テェン)…?」

 女性が微かに震える声で呼びかけた。恩はぎくっ、と小さく肩を震わせる。

 女性は目に涙を浮かべ、恩に駆け寄り、抱きついた。

(テェン)! 天雨(テェンユー)!!」

 目をぱちくりさせるカーレン。この女性は恩の知り合いのようだ。

 だが、天雨とは? 女性は恩に抱きついたまま、涙声で言う。

「うそでしょ。(テェン)……ホントにあなたなの? こんなところで会えるなんて思わなかったわ」

「……黎敏(リーミン)、姉上……」

 戸惑うように恩が言うと、女性は腕を恩の首に絡ませたまま体を離す。

「今までどこにいたの!?  この四年間、ずっと家に連絡もしないで……っ」

「…………」

 無言のまま、恩は俯いた。頭上でゴロゴロと雷鳴が響く。

「父上も母上も一族のみんなも心配してたのよ。あなたが突然、縁を切るなんて言って行方不明になったって!」

 そばで聞いていたカーレンは驚いた。話の流れで、この女性が恩の姉……家族だと分かった。

 織枝や(はとり)が本当の家族でないことは聞いていたけれど、行方不明になっていたなんて。

(行方不明……というのは所在が分からないこと、ですよね?

 ええと、恩さんには本当の家族さんと住んでいた場所があって、でも、今、恩さんは本当の家族さんとは別々に暮らしていて、家族さんは恩さんの所在を今まで知らずにいた……ということ、でしょうか)

 一つ一つ整理し、カーレンはあら? と思った。

 家族が別々に暮らすことはおかしいことではない。織もいつか家を出て独り暮らしをすると言っていたし、人間は結婚というものをすると、本来の家族とは別々に暮らすことが多いという。

 けれど、恩は一人暮らしをしているわけでもないし、結婚をしているわけでもない。

 なのになぜ、本当の家族と一緒に暮らしていないのだろう?

 困惑していると、女性がカーレンに気づいて視線を向けてきた。

「この子は?」

 肩を震わせた恩は、顔を上げないまま、口ごもりながらも告げた。

「……彼女は……一緒に、居候してて……」

「居候? って、今はどこに住んでるの? 高天(たかま)のお祖父様のところじゃないんでしょ? お祖父様は来てないって言ってたもの。

 ねえ、(テェン)、縁を切るなんて家で何があったの? 音信不通になってたのは……」

「……がう」

「?」

「俺は……もう、天雨(テェンユー)じゃない」

 グイッと女性の体を押しのけ、恩は何かを堪えるように顔を歪め、女性をまっすぐに見つめた。

「言っただろ? (リー)姉上。俺はあの家とは縁を切った。だからもう『天雨(テェンユー)』じゃない。ただの『恩』なんだ。今の俺の名前は、穂積 恩だよ」

「……穂積……? 何、それ。どういうこと?

 藍泉名である『恩』を名乗るのは分かるわ。でも、穂積って? 藍泉名での姓は『高天』でしょ?」

 怪訝な顔で問う姉に恩は背を向けた。

「あの家も高天家も、俺にはもう関係ない。(リー)姉上には悪いけど、これからは“赤の他人”だよ。だからこれからは、俺に関わらないで」

「! 待って、(テェン)!」

 引き止める姉の声に耳を貸さず、恩はカーレンを促して雑踏の中に消えていった。雷光が閃き、ひときわ強い風が吹いた。



 買い物から帰宅してから部屋に閉じこもってしまった恩を、織枝と(はとり)は心配していた。

 あんなに意気消沈している恩は初めてだ。カーレンに理由を訊いても、口止めをされているから、と教えてくれなかった。

(かか)さま……あたい、なんとなく分かるんだ。めぐ兄の元気がないのは……本当の家族のことでじゃないかなって」

 ソファーに並んで座り、織は手を組んでうなだれていた。

 織の勘のよさは亡き夫譲りでかなり鋭い。その織が言うのだからそうと考えてよいのだろう。

 あと数日もすれば、この子は天狗族の掟に従い家を出ていく。

 血の繋がりはなくとも、織は恩を本当の兄同様慕っていたし、織枝も恩を息子同然に思っていた。

 それでも、これは恩と家族の問題だ。あくまでも他人である自分たちは口出しすることではない。

 もし、恩の本当の家族が関わっているのなら、かりそめの家族である自分たちに何ができるだろう。

「恩くんとは、もう四年も一緒に暮らしているのよね。でも……私たちは恩くんのことを、何も知らないわ」

 さみしそうに、織枝は手元に視線を落とす。これから冬になる。家を出ていく娘のためにマフラーを編んでいる途中だった。

 これまで、子供たちには何度か手編みのマフラーを贈っていた。もちろん、恩を拾ってからは恩にも。

 織枝が恩を拾ったのは四年前。息子が掟で家を出てから数か月後のことだった。

 散歩をしていたら荷物をひったくられ、通りがかった恩がひったくりを捕まえてくれたのだ。

 そのお礼をしたくて家に招いたところ、住むところを探しているというので、この家に住めばいいと勧めた。

 その後いろいろ話を聞いたが、名前と年齢しか教えてくれなかった。

 どこに住んでいたのかも、家族のことも。何か言えない事情があるのだと察して、あれから何も訊かずにいたけれど。

「もう少し……話し合ってみてもよかったかもしれないわね。

 傷つけてしまうんじゃないかと思って触れずにいたけれど、それがかえってよくなかったのかもしれないわ」

 近くにいても、心は近づいていなかったのかもしれない。

 悩みを打ち明けるほど心を許してもらえていないのは、距離を取ってしまっているのは自分たちの方だったのだ。

 それなのに、家族として認められたいと、甘えてほしいと願うなんて。

「わがまま……かしらね。あの子に家族として愛してほしいと思うのは」

 愛する夫を亡くし、娘と息子を女手一つで育ててきた。

 大切な息子だけれど、十の歳に家を出てしまった。掟だから仕方なかったけれど、とても寂しかった。

 織も大好きな兄と離れ離れになって悲しんでいた。そんな織も、兄と同じ年になれば家を出る。そうなったら自分は一人ぼっちだ。

 だからかもしれない。あの時、恩を引き止めたのは。

 少しでも、長く一緒にいてくれる人を欲した。離れていく家族があるから、共にいてくれる家族を求めたのだ。

 それなのに、心を許し合える家族になりたいと願いながら、恩の心に踏み込まずにいた。

 歩み寄ることをしないくせに、あちらからは頼られたいなんて。わがまま以外のなんでもない。

「そんなことないよ、母さま。あたいだって、めぐ兄には本当の妹みたいにかわいがってもらいたいもん。

 ……でも、今さらめぐ兄の心に触れるのは……怖いんだよ」

 どう接すればいいのか分からない。織は膝を抱え、頭を膝に押しつけた。織枝も口をつぐみ、沈黙が落ちる。

 二人の様子を、カーレンはドアの陰に立って見ていた。数年間、共に暮らしていたあの二人でさえ、今の恩への接し方が分からずにいる。

 出会ってさほどの月日を経ていない自分は、それこそどうすればいいのだろう。

(皆さん落ち込んでいます。こんな時、わたしはどうすればいいんでしょうか。…………)

 とりあえず事情を知っている恩の方に行ってみる。恩の部屋のドアをノックしてみたが返事がない。

 しばらく待ってみたが無反応なので、いけないだろうかと思いつつドアを開けてみた。

「恩さん……?」

 恩は布団の上でパンダぬいぐるみを抱きながら丸くなっていた。背中を見るだけで落ち込んでいるのが丸わかりだ。

「あの……お尋ねしたいことがあるんです」

 声をかけると、恩は無言ながらも振り向いた。表情は暗いままだが、話を聞いてくれるようだ。

「わたしはまだ、人界に来て日が浅いです。人界のことをよく知りません。

 なので、わたしはこういう時どうすればいいのか分からないんですけれど、それでも何かしたいんです。わたしは何をすればいいのでしょうか?」

 正直に尋ねてみると、恩の方がぷるぷる震え出した。きょとんと小首を傾げると、恩はぷふーっと吹き出した。

「あはは! カーレンって……本当になんにも知らないんだなぁ」

 落ち込んでいる相手に何をすればいいか訊くなんて、全然慰めになっていない。

 けれど、逆に緊張が緩んだ。さっきまで胸に(こご)っていた焦り、不安、恐怖、罪悪感が……緩やかに溶けていく。

 笑い過ぎて涙が出てきた。目元をこすりながら、恩はいつも通りの笑顔を見せた。

「カーレンには敵わないや。普通は落ち込んでる人にそういうこと訊いちゃダメだよ?」

「まあ、そうなんですか? ではどうすればいいのか教えて下さい」

「んー、相手とか状況にもよるけどさ。大丈夫って言ってあげるとか、悩みを聞いてあげるとか……」

「分かりました。では恩さん、『大丈夫』です! それから悩みを聞きます!」

 眩しいほどの笑顔でカーレンは恩の前にちょこんと正座する。

 さあ話せ、と目を輝かせている。実行が早いというか、言われたことを鵜呑みにするというか……

(……なんか、カーレンってすぐ騙されそう。疑わないんだなー。間違ったことは言ってないけど)

 ちょっと心配になってきた。詐欺師とか悪徳商人とかにころっと騙されても不思議じゃない。というか絶対あり得る。

(うわ、どうしよう、セールスマン来たら断れないよきっと。通販でもお得だって言われたら二つ返事で買っちゃうよ!)

 それに悩みを聞く気満々の顔をしている。打ち明けなかったらカーレンの方が落ち込みそうだ。

「……うん、話すから少し落ち着いてね。と言ってもどこからどう話せばいいんだろ」

 カーレンのずれた慰めのおかげで、だいぶ平静を取り戻しつつある。無意識であれ、彼女には救われた。今なら話してもいいだろうか。自分のことを。

 深呼吸をし、カーレンと正面から向き合って少しずつ語り始める。

「まず、さっきの女の人は黎敏(リーミン)って言って、俺の姉だよ」

「恩さんにはお姉様がいたんですね」

「うん。他に三人姉がいて、兄が五人、弟が四人、妹が一人の十五人兄弟なんだ」

 家を出てから増えてさえいなければ。四年の月日は短いようで長い。もしかしたらひとりくらい弟か妹が増えているかもしれない。

「姉上は十年くらい前に藍泉に留学に来ててね、それ以来ずっとこっちで暮らしてる。

 姉上が言ってた『天雨(テェンユー)』っていうのは俺のもう一つの名前」 

「もう一つの名前、ですか?」

「うん……えっと、その……」

 ここまで言うと恩は少し口ごもった。名前のことを話すとなると、どうしても実家の名を出さなくてはいけなくなる。さすがにそれは気が重い。

 なぜだか胸騒ぎがするのだ。その名を口にしてしまったら、何かが壊れていくような。

(でも、話すって言っちゃったしな。それに、姉上に見つかったからあの家に俺が藍泉にいることは知られるだろうし)

 そうしたら、両親か一族の誰かが捜しに来るかもしれない。そうだとしても、あの家に戻る気はない。

「俺の実家は……藍泉の隣国で、このフィグ大陸一の大国、暁篠(あきしの)にある。異能一族・白凰(ハクオウ)の血統、(フォン)家」

 暁篠――正式名は暁篠大帝国。藍泉を含む五つの国が存在するフィグ大陸の中で、最も大きな国だ。その暁篠の中で皇族に並ぶ権力を持つのが(フォン)家である。

「異能一族っていうのは知ってる? 代々、異能を持って生まれる一族のこと」

「あ、はい。聞いたことはあります。人間の中には、異能と呼ばれる特殊な能力を持つ者がいると」

「白凰は不老長寿の異能でね。成人すると成長が止まる。姉上も、俺とさほど年が離れていないように見えるだろうけど、あれでも二十代半ばなんだよ」

 姉だけでなく、母も祖父母も親戚も、何十年経とうと白凰の人間は、みんな若いままの姿を保っている。もちろん自分もそうなるだろう。

「それで名前のことなんだけど、(フォン)家ではなぜだか昔からの決まりで、赤ん坊が生まれた時、両親のどちらかが他国の人間だったら、その母国で通用する名前と、一族の中で通用する名前の二つをつけるんだ」

 ただし、一族の中で、二つの名を持つ者は少ない。だいたいは暁篠の人間同士で結婚するからだ。

「俺の父親はこの藍泉出身で、母親が(フォン)家の人なんだ。

 だから俺には二つの名前がある。鋒家……暁篠で通用する『(フォン) 天雨(テェンユー)』っていう名前、それから藍泉で通用する『高天 恩』っていう二つの名前が」

 だから実家にいた頃は天雨と呼ばれていたし、父方の祖父母の家に遊びに行った時は恩と呼ばれていた。

「高天……先ほどお姉様もおっしゃっていましたね。藍泉名の姓は『高天』だと」

「うん。俺の本当の藍泉名は高天 恩。穂積っていうのは素性を隠すために適当につけた名字だからさ」

 高天と名乗れば、確実に鋒家にばれてしまう。だから性を偽り、父方の祖父の家にも身を寄せなかった。

 全て、鋒家から逃れるためにしたこと。恩は言葉を切り、瞑目した。

「俺が……藍泉に来たのは、鋒家から……鋒家の闇から逃げるため」

「鋒家の、闇?」

 うっすらと重い瞼を開き、恩は静かな声で告げた。

「鋒家は……何十年も前から、ある男と戦い続けているんだ。奴は鋒家を憎み、鋒家を滅ぼそうとしている。

 そいつの名は――靁雯(レイウェン)。俺はそいつと鋒家の因縁という闇が怖くて、逃げ出したんだ……っ」

 苦悩の表情で恩は叫ぶように言った。そのままうなだれ、両拳をひざの上で強く握りしめる。

 カーレンは小刻みに震える恩を痛ましげに見つめた。

 恩が藍泉に来たのは四年前。この四年間、恩は一人怯え続けていたのだろう。

 肉親と離れ、家族に会うことを拒み、名も偽り、誰にも……織枝たちにも打ち明けられず、恐怖を抱え込んできた。たった独りで。

「あいつは鋒家の血筋を絶やそうとしている。鋒家の人間を皆殺しにしようと……っ。鋒家の人間である限り、誰であろうと、どこまでも追いかけてくる。

 あの家に居続けたら、いつか狙われるかもしれない……だから、素性を隠してこの国に来た。でもっ、いつ、あいつに見つかるかと……いつも不安で、怖くてたまらなかった!」

 それほどその闇は恩にとって怖ろしいものなのか。靁雯(レイウェン)という男を知らないカーレンには理解できない苦しみ。

 そっと恩の両手にぬくもりが降りる。顔を上げると、カーレンがやわらかく微笑んでいた。

「つらかったんですね。大切な人たちと別れて……孤独な日々を過ごして。いつ訪れるかもしれない恐怖と戦い続けて」

 ふわ……とカーレンの背中から白い翼が現れる。はらはらと羽根が舞い落ち、恩の頬をかすめた。

「頑張りましたね」

 恩の目が徐々に見開かれる。

「ずっとひとりで、頑張ってきましたね。もう、肩の力を抜いてもいいですよ」

 見開かれた目から涙が零れた。握りしめた手をゆるめ、添えられていたカーレンの手に触れる。

「……うん……っ。ありが、とう……っ」 

 四年の間、自分のしたことを悔やんだこともあった。本当にこれでよかったのか、間違ってやいないかと何度も自問した。

 そのたびに、あいつの影がちらついて目を背けた。後戻りすることも、前に進むこともできず、立ち止まったまま。

 褒められたくてしていたことじゃない。褒められることでもない。己の弱さゆえに、過去を捨て、家族を捨てた。

 ――それでも。

 頑張ったねと言われたこと。少しでも、四年間の自分を許してもらえたようで、心が軽くなった。

 ほんの少しの間だけでいい。今は、この喜びのためだけに涙を流させてほしい。

 恩は家を出て以来一度も流さなかった涙を、思い切りあふれさせた。


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