第1話 空から落ちてきた女神
都立慶星高学校は、市内では中の上程度の偏差値の学校である。なんの変哲もない、いつも通りの朝。
九月も中旬。夏休みが終わり、学生たちが友人たちと話をしながら登校してくる。
「でさー、バルキトラプスに乗って草原を走ったんだ。それがもう気分爽快!」
「うんうん! 風が程よく冷たくて気持ちよかったんだな」
「へえ、いいなあ。あたしもバルキトラプスに乗ってみたかったぁ」
仲良さげに並んで歩いているのは亜橲=畔上、井上玲汰、藤浪幸緒の三人。
この星、リーフェの双子星とも呼ばれるシェーシアの生まれである亜橲は、セミショートの紫の髪に黄色の眼。
やや太り気味のぽっちゃりした体型ながら、人のよさそうな表情の玲汰。明るい茶色の髪と眼。
女としては背が高く、涼しげな目元の幸緒。少しハネ気味の髪は、藍泉国人の中で最も多い黒髪で眼は灰色だ。
「幸緒ちゃんも来れればよかったんだな。ドゥーラサファリパーク」
「タイミング悪くライブ本番と重なっちゃったからね~。ほんと残念」
古代セキエキという爬虫類生物が進化したドゥーラは、大きさも種類も多種多様だ。
主に陸生で水生のものや羽の生えている種類もあると言う。
共通しているのは全身が硬い鱗に覆われているということ。
バルキトラプスは二本足で歩く陸生のドゥーラ――ティエロドゥーラだ。
馬ほどの大きさで人間に懐きやすく、家畜にされているものが多い。
ドゥーラサファリパークはドゥーラを放し飼いにしている自然公園のことで、人気があるテーマパークの一つだ。
ため息をつく幸緒に亜橲が尋ねる。
「そうだ、藤浪。ライブの方はどうだったんだ?」
「もっちろん成功! 盛況だったわよ」
がぜん元気を取り戻した幸緒。その傍らで玲汰がぽつりと呟く。
「来れなかったと言えば……恩くんもなんだな」
「ああ、そうね。あたしらのライブにも顔出せないって言ってたし」
「バイトだっけ。夏休み中に始めたとか言ってたけど、なんのバイトしてるんだろうな。聞いても全然教えてくれな……」
にわかに校門の方が騒がしくなった。周囲を歩く学生たちが浮足立つ。
歓声を上げる女子学生、中には校門の方に駆け足で戻る学生までいる。
男子学生も顔を綻ばせてそちらに注目し、これからやってくるある学生を待ち構える。
「おっ。噂をすれば、だな」
亜橲たちも立ち止まり、校門を振り向いた。
一台のエアバイクが校門に入ってくると、とたんに女子だけでなく男子までもが黄色い声を上げた。
「キャアーッ、穂積くーん!」
「恩君が来たわぁ~っ」
「あ、恩せんぱーい!」
「穂積ーっ、おはようー!!」
「おはようございますぅ、穂積先輩!」
「恩先輩、これ受け取ってくださーい!」
減速したエアバイクはあっという間に学生たちに囲まれる。
その中心にいる学生は、口々に挨拶したりプレゼントを渡してくる学生たちに困った顔で挨拶を返し、なんとか輪を抜け出してくる。
疲れた顔で出てきた男子学生は前方の亜橲たちに気づくと、パッと表情を明るくさせた。
「亜橲! 幸緒! 玲汰!」
エアバイクを手で押しながら笑顔で駆け寄って来る。少し長めの深紅色の髪に、緋色の眼。十七歳とは思えない幼い顔立ちと小柄な体。
彼の名は穂積 恩。この学校のアイドル的存在だ。
「おはよー、恩。今日も大量ね」
「少し持ってあげるんだな」
「ありがとう、玲汰。もう毎日大変だよ」
「穂積はうちのアイドルだからなぁ。いいじゃないか、もらえる物はもらっておけば。あ、ほら、穂積の好きなパンダもあるぞ」
亜橲が手のひらサイズのパンダマスコットをちらつかせると、恩は頬を赤らめてキュンとするが、すぐにはっとして顔を逸らす。
「べ、別に、そんなの好きじゃないし。くれるって言うから仕方なくもらってあげただけだよっ」
「何言ってるんだよ! ホントはすごくうれしくてたまらないんだろ? 顔に出やすいくせに天の邪鬼だよなぁ、穂積って」
ぺんっ、と亜橲に肩を叩かれ、恩はぐうっと言葉に詰まった。
「ほ、ほんとに仕方なくだってば!」
「ふーん。じゃあこれは僕がもらっちゃってもいい?」
「ぅえっ!?」
揶揄の笑みを浮かべる亜橲。恩は名残惜しそうな顔でちょっと涙目だ。
「畔上ってばからかわないの!」
「いてっ。あはは、悪い悪い。つい」
幸緒に後頭部を叩かれ、亜橲はマスコットを戻す。恩は返ってきたマスコットを見て、こっそりうれしそうに微笑むが、三人にはバレバレである。
四人並んでてくてく歩いていると、二階の教室の窓から元気な声が降ってきた。
「恩ちゃーん! みんなー! おっはよーう!」
見上げれば黒髪おかっぱの少女がぶんぶんと手を振っていた。恩が手を振り返し、亜橲たちも顔を綻ばせる。
教室に行くまでも、いろんな人に注目されたり声をかけられたりし、恩は自分の教室――二年C組に入った。自動ドアが開くと同時に、さっきの少女が文字通り飛びついて来た。
「おっはよー、恩ちゃん! またモテモテだったねぇっ」
「わわっ、ちょっと、みんな見てるよ」
少女は同年代の男子の中で、比較的背の低い恩よりも一回りほど小さかった。
彼女は円藤まひろ。恩たちとは同級生だが、実年齢は十三歳だ。高学校は、小学校の卒業資格を持っていれば何歳でも入れるので、おかしいことではない。
「恩ちゃんが注目されるのはいつものことじゃない」
「えと、そうじゃなくて……」
あわあわと行き場のない手を動かしていると、眼鏡をかけた少年がクスクスと笑いながら近寄ってきた。
「まひろ、恩が困ってるよ?」
「だってぇ、恩ちゃんに会えるの久し振りなんだよ? 夏休み後半からはほとんど連絡つかなかったじゃない。
恩ちゃん! その間どこで何してたの? どうしてまひろたちに全然連絡してくれなかったの!?」
ぎく、と恩が体を強張らせた。二週間ほど前から、ヴァモバ――携帯端末の一種で、電話やメール、インターネットなどの機能がついている――はほとんど電源を切った状態だったし、家にもあまり帰っていなかった。
では、その間どこにいたのか。それは……
「こーら、まひろ。そんな尋問みたいな言い方したら恩がかわいそうだろ」
眼鏡の少年はまだ恩に抱きついていたまひろを引き離す。
まひろとさほど変わらない背丈。黒髪に灰色の眼。顔立ちもどこかまひろと似ている彼は円藤 要。まひろの双子の弟だ。
「誰にだって話したくないことがあるさ。ねえ、恩?」
「う、うん…」
内心ホッとして恩は微笑んだ。夏休み中、恩はバイト先に泊まり込んでいた。
しかし、そのことは言えない。言ったらなんのバイトをしているのか、確実に問い詰められるだろう。言いたくない。あそこのことは……誰にも。
ぷ~、と頬をふくらますまひろに要はくすりと笑う。まひろの体を自分の方に反転させ、その頬を両手でそっと挟み込んだ。
「それに、あんまりぼく以外の男に抱きついてちゃダメだよ。たとえ恩相手でもね」
「要ちゃん……」
まるで恋人同士のように熱い視線で見つめ合う二人。恩を含む学生たちは「お熱いねぇ」と手でパタパタ仰ぐしぐさをして散っていく。
これが恩の日常。気の合う仲間たちとふざけ合ったりしながら、だるい授業と講義を受ける。そんな日常がずっと続いていくものだと思っていた。
午後の講義が終わり、恩は慌ただしくバイトに向かう。今日は帰り際に講師から呼び出しを喰らい、予定が狂ってしまった。このままでは遅刻してしまう。
駐輪場へ走って行く途中、何人かの学生に呼び止められたが、「急いでるから!」と適当に返す。
盗難防止のチェーンを外し、キーをはめ込んでエンジンボタンを押す。すると、エアバイクの車体が十センチほど浮き上がった。
エアバイクは反重力システムが組み込まれた、スクータータイプの二輪車だ。移動用として最も活用されている。
エアバイクに乗り込んだ恩は、バイト先への道を急ぐ。バイト先は隣の市である宝生市。学校からだとエアバイクで四十分ほどかかる。
(間に合うか? いや、間に合わせる! でないと俺、あいつにどんな仕打ちされるかぁ~っ!)
雇用主の恐ろしい笑顔がよぎる。ブルっと恩は身震いした。自然とエアバイクのグリップを握る手に力が入る。
「うおーっ、絶対間に合わせてみせるぅーっ!!」
安全運転を心掛けながらも、恩はエアバイクのスピードを上げた。脇道に入り、何気なく空を見た。
「今日もまだ暑いなぁ」
学校は冷暖房完備なので気にならなかったが、外に出れば夕方でも残暑が厳しい。
ここ藍泉国は北方の国だが、この辺りはその中でも南部なので、秋らしさを感じるようになるのはもう少し先だろう。
空を見ていた恩は、ふと空から地上へと落ちていく何かを見つけた。
「ん? あれ、なんだ?」
逆光でよく分からないが、それは人の形に見えた。
(え、まさか人!?)
いったいどこから落ちてきたのか。頭上には雲以外何もない。それより、もし本当に人ならば、このままでは地面に叩きつけられてしまう。
「やばいっ」
恩はエアバイクのスピードをさらに上げ、人らしきものが落ちてくるあたりに目星をつけてエアバイクを停車させる。
周囲に誰もいないことを確認し、恩は強靭な脚力で塀の上に飛び乗り、そばの電柱を蹴って空中へ飛び上がる。
落ちて来る人影を見事抱き止めたが、その軽さにぎょっとし、地面に着地する。まるで大きなビニール人形を抱いているような軽さだ。
「もしかしてこれ、ビニール人形か?」
と、抱いていたそれの顔を見た恩は赤面した。
白磁のような肌、伏せられた長いまつげ、柔らかそうな唇。
ほんのり色づいた桜色の頬は、それが人形でないことを物語っている。
長くゆるやかに波打つ金色の髪と、変わった服装ながらロングスカートをはいているところからして女性だろう。
(き、綺麗だなぁ……)
一瞬にして恩は心を奪われた。
この人はいったい何者なのだろう。なぜ空から落ちてきたのだろう。
疑問が浮かび上がったその時だった。
突如、彼女の背中から一対の純白の翼が現れたのだ。恩は当然、目を丸くする。
手をかすめた羽根の感触はまぎれもなく本物だった。恩が呆然としていると、彼女のまつげが微かに震える。
「……ん…………」
「!」
閉ざされていた瞼がゆるゆると開かれる。エメラルドグリーンの瞳が、恩の顔をとらえた。
「……まあ……」
「あ、あの」
見つめられた恩はどぎまぎした。女性は二、三度瞬きをすると、ぼんやりと言った。
「おはようございます……」
「へ?」
第一声に恩は面食らった。おはよう? 今は夕方。夕日が沈む頃だ。恩が何も言えずにいると、彼女は寝ぼけ眼のまま尋ねてきた。
「あなたは……どなたですか?」
「えっ、お、俺は」
「わたし……どうなったんでしょう?」
「……えーと……」
いまいちつかみにくい。恩はずっと女性を抱えていたことに気づいて、慌てて下ろす。
「ご、ごめんなさい!」
「? なぜ謝るのでしょうか。あなたは悪いことをしたのですか?」
小首を傾げる女性に、恩は言葉を濁す。
「いや、えっと……」
「あら? 翼が出ているわ。もしかしてあなたは男性の方ですか?」
今頃気づいたらしく、女性は自分の背中の翼を見てきょとんとする。
「そう、ですけど」
「そうですか。困りましたね。見られてしまいました」
と言いつつもまったく困っているように見えない。顎に人差し指を当てて、小首を傾げている。
「こういう時はどうすればいいんでしたっけ。うーん……忘れてしまいました。とりあえず翼はしまっておきましょう」
初めて女性は微笑み、ぽん、と両手を軽く叩いた。恩はその笑顔にどきっとする。
女性が「ウィスプ=ウォルテルク」と呟くと、白い翼がすぅっと消えた。
「!? 翼が……」
「ああ、思い出しました。リーフェを散歩していたら、太陽の光にくらくらっとなったので、落ちてしまったんでした。あなたが助けてくれたんですか?」
思い出したというから対処方法かと思いきや、落ちた理由だった。
女性がぐっと顔を近づけてきたので、恩はかあっと顔を赤らめて、ずささっと後退した。
「? どうかしましたか?」
「いいいいえ、なんでもないです! とにかく無事でよかった」
「はい。ありがとうございました」
ぺこりっと頭を下げ、女性はきびすを返した。
「それでは、さようなら」
にっこりと満面の笑みで女性はどこかへと歩いていく。恩はぽかんとしてその場に立ち尽くした。