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花妻さまの香草茶館~鬼に娶られた鬼狩りの娘は愛を知って花笑む~

作者: 四片霞彩

 初めて託された家宝は重かった。まるで人一人宿っているかのように。

 それでも地面に置くわけにはいかなかった。ようやく家族の一員として父に認められたのだから――。


 ◇◇◇


(もう少し……!)


 まだ冬の気配が残る白月に目を焼かれそうになりながら、桃花(とうか)は手近に落ちていた石を投げる。鬼を封じていたという松の大木を擦り抜けた投石はそのまま繁みの中へと消えると、闇夜に紛れて影も形も見えなくなったのだった。

 肩で息をしながら、腰に佩いた家宝の妖刀の位置を直そうとしたところで、桃花は自分の掌に血が滲んでいることに気付く。尖った石の先で切ってしまったに違いない。


(冬場の水仕事ですっかり手荒れしていたから、余計に傷がつきやすいのかも……)


 そんなことを考えながら、桃花は擦り切れて色褪せた海老茶色の紬の袖で掌を乱暴に拭うと、妖刀の柄が汚れてしまわないように古びた手拭いで傷口を縛る。


(今度こそ……!)


 桃花の制球力に問題があるのか、それともこの方法が正しいのか考える余地はない。家長である父の命令は絶対。特に鬼狩りについて、父の右に出る者はいないのだから。

 先程よりも大きな石を拾って腕を振り上げた桃花だったが、その弾みで足を取られて身体が傾いでしまう。後ろに転倒することを覚悟して目を瞑った時、後ろから頭上の石と腰を支えられたのだった。


「さっきから何をやっている」


 近くから聞こえてきた低い声に顔を上げると、白い月明かりを背に受けながら桃花を見下ろす鼻梁の整った男の姿があった。

 桃花より少し年上と思しき若い男は均整が取れた容姿に加えて、仕立ての良さそうな赤茶色の着流しと黒色の羽織を身に纏っていた。一見すると遊び人のような格好ではあるが、とりわけ桃花が目を奪われたのは珍しい赤錆色の短髪と――その頭から生える黒い一本の角であった。


「お、に……」

「鬼が珍しいか、人間?」


 鬼に対する物珍しさよりも男の凄艶さに言葉を失う。あやかしは人間の美しさを超越すると噂で聞いていたが、まさかここまで絶美とは思わなかった。初めて感じる肌が粟立つような感覚に目が潤みかける。

 白月を背に受けているからか、鬼の男が持つ優美さと妖艶さが増しているような気さえして、取り憑かれたように男に吸い寄せられる。背筋が冷たくなりながらもまじまじと見つめ返していると、男の切れ長の黒い瞳に呆けた顔の桃花が映る。どこか高貴な雰囲気を纏う男とは違って、下賤な生まれと揶揄されて家族に小間使いとして扱われてきた薄汚い貧相な顔の桃花が――。

 膝が震えて今にも崩れ落ちそうになっていると、不意に男が自信に満ちた笑みを浮かべる。何をされるのか息を呑んで見守っていると、男の指が桃花の腰を撫でたのだった。


「どうした? 俺を狩りに来たのだろう。それとも()に惚れたか?」

「……っ! ち、ちがっ!」


 男はますます桃花の耳元に顔を近づけると、誘惑するように甘言を囁く。


「そう恥ずかしがることもない。ここには俺とお前しかいない。惚れた鬼にとくと触れるといい……」


 呼吸さえ忘れて男の腕の中で身動きが取れなくなっていると、いつの間にか腰に触れていた男の手が妖刀の柄に伸びていた。咄嗟に手を払いのけると、男を突き飛ばして距離を取る。


「ちっ! 失敗したか。もう少しでその妖刀を回収できたんだけどな……」


 不愉快そうに舌打ちする男の姿から、どうやら先程までの甘い言葉の数々は桃花を油断させて妖刀を奪うための演技だったと気付かされる。桃花が夢見心地の少女のままだったら、危うく引っ掛かるところだった。

 ――本当にあの家から自分を救い出してくれるんじゃないかと。夢を見そうになった。


「あっ、貴方は! どうしてこの妖刀を狙っているんですかっ!? これは狩谷(かりや)家に代々伝わる家宝で……」

「その妖刀は八百年近く前に俺たち鬼の一族から、鬼狩りの一族と称するお前たちが奪ったものだ。俺の家族と共に」

「よく分かりませんが、この妖刀で貴方を斬って、もう一度そこの松の大木に封印します。そのために貴方が住む松に向かって石を投げて、姿を現すのを待っていたのだからっ!」

「あんなへっぴり腰な投石で俺が出てくるなんて思われていたとは片腹が痛いな。それからその情報源はどこからだ。俺が松に住んでいるなんて。完全に封印が解けて、とっくに鬼の領地に帰っている」

「で、でも。貴方の身体はまだ松の大木の下に眠っているって、父様が……」

「騙されている。その様子だと、その刀が妖刀と呼ばれる所以さえ聞かされていなさそうだな。お前が腰に帯びているその刀が、所有者の魂を糧に鬼斬りの力を増幅させる代物だというのも」

「所有者の魂を糧に……?」


 男の言葉で反射的に腰の妖刀に目を向ける。見た目は普通の打刀ではあるが、自宅に飾られていた時からどこか禍々しい力が漏れていたことは否めない。家族の誰も気付いていなかったようだが……。


「鬼を狩る特別な力を宿しているから妖刀と呼ばれている。と、代々伝え聞いています。鬼の力を絶つのに必要な、善良な鬼から貰った特別な力が宿っているとも」

「半分は正解だが、実際は違う。善良な鬼から貰ったんじゃなくて奪取したんだ。呪術によって、その鬼の身体と魂を無理矢理切り離してな。身体は千斬られてあやかしから人間を守る楔として各地に埋められ、魂はその鬼を殺した一族の手で鬼が持っていた刀に移された。俺を封印して、家族の魂を刀に捧げた、あの憎き狩谷一族の手によって……!」


 どういうことだろうと、桃花は混乱する。子供の頃からずっと聞かされてきた話とまるで違う。

 悪は鬼で、その悪を退治した狩谷家が正義じゃないのか。その証が狩谷家に代々伝わる妖刀と、国から与えられた「鬼狩り一族」という称号じゃないのか。


「鬼の魂を宿した刀は所有者の魂を喰らう妖刀へと変わった。その鬼の名前にちなんで、妖刀『落椿(おちつばき)』と名付けられて……」

「し、知りませんっ! そんなのデタラメです!」

「出鱈目かどうか妖刀を見ればいい。お前も感じているだろう。こうして話している間もずっとその妖刀からは負の力が発せられている。これから生贄となるお前を屠ろうと妖刀が待ち構えているのだ……」


 足元がぐらつくような不安定な感覚。今まで信じていた物が瓦解していく。嘘だ、認めたくない、と自分の内側から悲痛な叫び声が聞こえてくる。

 初めて父から与えられた任務が、妖刀の生贄なんて思いたくないと――。


「悪いことは言わない。その妖刀をこっちに渡してお前は親兄弟の元に帰れ。鬼は再起不能な重傷を負って逃げ帰ったと言えばいい。その辺でくたばっているかもしれないと……」

「出来ません。だって鬼の封印に失敗したなんて父様に報告したら、私、私……今度こそ母様のようになるかもしれない……」

「何だって?」


 桃花の呟きに男は訝しむように眉を顰める。身体から血の気が引いて、頭の中が真っ白になる。

 今まで信じていたものを否定されて、後に残されたのが絶望だけだと知った時、人はどうするべきなのだろう。桃花の身体が身震いする。


(もう、どうとでもなれ!)


 自棄を起こした桃花は腰から妖刀を抜くと、男に振りかぶる。「おいっ!」と制止する声が聞こえてくるが、目を瞑ってしまえば何も分からない。

 妖刀の生贄になるにしても、鬼の言う通りに逃げ帰るにしても、その先に待ち受けているのは桃花の死のみ。他の選択肢が無い以上、少しでも家族にとって益のある道を選ぶしかない。

 鬼を倒して、妖刀の生贄になる道を――。

 頭上に掲げた妖刀を力任せに振り下ろした桃花だったが、あっさりと男に刀身を掴まれて阻止されてしまう。


「こんな馬鹿な真似は止めろ。命が惜しくないのか?」

「あ、ありませんっ! だってどの道、死ぬ以外に選択肢はないのだからっ! だったら、ここで貴方を斬って妖刀の生贄になった方が父様だって喜びます!」

「その父親に利用をされているというのに何故慕おうとする? 妖刀の生贄にして、お前を殺そうとしているんだぞ!? そもそも鬼の封印なんて並みの退魔師や陰陽師でも出来ない至難の業だ。はなからお前の魂を吸収して力が増幅した妖刀の回収だけが目的だろう!!」

「でも八百年前の貴方は封印されました。それなら私だって……!」

「あの時は家族を人質に取られて油断したからな! 今の俺には手加減をする理由はない。ここでお前を殺して、灰になるまで地獄の業火で燃やし尽くすことだってできる」


 刀身を掴んだ掌から血が流れだしてもなお、男は顔色一つ変えなかった。それどころか冬の空気のような険を帯びた眼差しに委縮してしまいそうになる。

 脅しでもなんでもなく全て本当のことなのだろう。妖刀のことだけではなく、桃花一人を狂焔で灰にすることも――。

 そんなことを考えていると、男は空いている手で桃花の首を捻り上げる。桃花は「ぐっ……!」とくぐもった声を漏らすが、やがて気道を圧迫されて息が苦しくなる。身体から力が抜けると、男は桃花の手から妖刀を奪って地面に放り投げたのだった。


「これでもまだ死んだ方がいいと言うつもりか……?」

「ぅ……ぐうぅ……ぅ……」

「もう一度言おう。お前に俺は封印できない。このまま俺に殺されて妖刀を奪われるか、大人しく妖刀を置いて逃げ帰るかのどちらかしかない。本当は殺したくなかったが仕方ない……」


 桃花の首を捻り上げる男の手に力が込められる。両手で男の手首を掴んで抵抗するが、体格の良い男はびくともしなかった。

 もう駄目だと桃花の視界が明滅し始めた時、どこからともなく現れた幽霊のように半透明な少女が男の腕にぶら下がったのだった。


海石榴(つばき)……」


 男は圧倒されたように呟くと、急に首元を掴んでいた力を緩める。解放された桃花は咳き込みながらその場にへたり込むが、そんな桃花を庇うように桃花よりずっと年下と思しき少女は男の前で両腕を広げると、身長差のある男をじっと睨みつけたのだった。


(あの子は……!)


 桃花の頭の中で在りし日の思い出が蘇る。まだ少女だった桃花の心を救ってくれた存在。もう二度と会えないと思っていた大切な友達――。


「しきちゃん……」


 その呟きに少女は振り返ると、柔和な笑みを浮かべる。質の良さそうな白椿柄の黒地の小紋と白地に赤椿の帯、そして背中に流したよく梳かれた長い黒髪からいかにも育ちの良さそうな華族のお嬢様といった雰囲気を纏っていたが、頭からは一本の黒い角を生やしていた。二度と会えないと思っていた霊体も同然の少女の身体ごしには男の憤る姿が見えたのだった。


「海石榴、どうして止めるんだ!? そいつはお前を攫って、妖刀なんかにした一族の末裔だ。こいつの一族を根絶やしにしなければ気が済まない。俺たち兄妹を苦しめた罪は償ってもらわないと!」


 男がどんなに息巻こうが、それでも海石榴と呼ばれた少女は嫌というように泣きそうな顔で何度も左右に首を振る。もう争ってほしくないと、これ以上諍わないでと、私たちに伝えようとするかのように。

 やがて怒りが冷めたのか、男は徐々に顔を曇らせると脱力したように息を吐く。


「お前が止めろというのならそうする。だが家族を奪われたこの怒りは、妹を妖刀にされたこの悲しみは、どこにぶつけたらいい……。俺はどうすればいい……」


 悲痛な声と共に男は片手で顔を覆う。恐らく、この男は妹と別れる原因を作った狩谷一族に長らく憎悪を募らせていたのだろう。封印されている間もずっと……。

 悲しみに打ちひしがれる男にかける言葉もなく、ただその姿を眺めていた桃花に対して、海石榴は何か閃いたのか男に近づいて行く。


「つっ、海石榴……ちゃん?」


 桃花が止める間もなく、海石榴は男に話しかけるように肩を叩いて注意を引くと、次いで桃花の元に駆け寄る。そうして男に見せつけるように、桃花に抱きついてきたのだった。


「ど、どうしたの!?」


 海石榴の行動に桃花は驚く。霊体である海石榴の身体は桃花を擦り抜けてしまうが、それでも不思議なことに本当に抱きしめられているような温もりを感じた。海石榴が人懐こい笑みを浮かべているというのもあるかもしれないが、誰かにこうして抱きしめられたことはほとんど無いので悪い気はしない。

 男は唖然とした顔で桃花たちを見つめていたが、やがて「なるほどな」と柔らかな笑みを浮かべて桃花に歩み寄る。及び腰になっている桃花の前で膝をつくと、男は海石榴ごと桃花を抱きしめたのだった。


「あ、あの……! 今度は何をするつもりですか……!?」


 妖刀が手元から離れた以上、身を守るものを何も持たない桃花はただ当惑するしかなかった。腕を振り解こうにも、男は愛おしむように桃花の頬や髪を撫で、それを見る海石榴も嬉しそうにしているのでどこか悪びれてしまう。


(こ、これはあれよ! 捕食する前に獲物を弄ぶ獣と同じよ……!)


 猫が捕食対象である鼠を食べる前に玩具として遊ぶのと同じように、きっとこの男も殺す前に桃花を愛でているだけだと考える。そうじゃなければこの状況に説明がつかない。

 赤面しながら飽きて離してくれるのを待っていると、男は耳を疑うような言葉を口にする。


「お前、俺の嫁に来ないか?」


 その瞬間、桃花の思考が停止してしまう。すぐに正気に戻ったものの、口から出てきたのは「へっ……?」という間の抜けた言葉だけだった。


「こ、殺すんじゃなかったの……?」

「海石榴は……妹は憎しむのではなく、愛せと言った。憎悪に注いでいる活力を情愛に注げと。俺は妹の言葉を尊重する。それが妹を助けられなかった兄貴にできる贖罪だ」

「それと、今の求婚にどんな繋がりが……?」

「俺は妹を妖刀にした狩谷家の祖先たちを許すことは出来ないが、海石榴が守ろうとするお前は許そうと思う。すぐには出来そうにないが、いずれ今の狩谷家の者たちも……。そのためには狩谷家に対する憎悪を抑える存在が必要となる。俺が怒りや憎しみを抑制できなくなって、殺意を向けそうになった時、それを諫め、踏み留めてくれる存在が……。出来れば、ソイツはすぐ近くに居てくれると助かる。手を伸ばしたら触れられて、こうして抱き寄せて愛撫すると心が和らいでいく存在が……」

「それなら私じゃなくてもいいんじゃあっ……!」

「海石榴のことで頭に血が昇った時に、それを狩谷家の血を引くお前が止めてくれるのなら、今の狩谷家には罪がないと頭を冷やせる。それに言っていたな? 自分には死ぬ以外の選択肢がないと。それなら別の選択肢を与えてやる。俺の嫁に来い。生贄なんて馬鹿なことはさせない。俺が愛してやる。身も心も蕩けるまで愛し尽くす。俺に身を委ねて、共に来い」


 居場所を与えてくれるという男の温かい言葉が胸に染み入る。この言葉が今までずっと欲しかった言葉だと気付いて、桃花の目頭が熱くなる。

 妖刀を奪おうと甘い言葉で誘っていた時とは違う力強い言葉。どこまでも真っ直ぐで、でもどこか脆さを感じさせられる。ようやく支えになるものを見つけて、それを離したくないというような、喪失感を知っている者特有の不安と寂しさを含む声さえも。

 きっとこの男はその言葉の通り、本当に桃花を愛してくれるだろう。そうじゃなければ、こうして壊れ物を扱うように抱きしめ、身を寄せてこない。明らかに脆弱な桃花の身体に合わせてくれている。体格や力の差を理解しているだけではなく、喪うことの悲しみを知っているから……。

 このままこの男の手を取ってしまおうかと、考えてしまう。この先の桃花の行く末を気に掛けてくれたのはこの男だけだった。父を始めとする桃花の家族は、妖刀が所有者の魂を吸収することを知っていたはずだが誰も気にしてくれなかった。

 それでもまだ心のどこかで父を信じたいと思う自分がいる。鬼斬り一族の血を引く者でありながら、一族を裏切って鬼に嫁ぐという矜持も許せなかった。

 桃花は自分と男の身体の間に手をつくと、そっと力を込めて身体を離す。「ごめんなさい」という言葉と一緒に。


「貴方の気持ちには答えられそうにありません。急に嫁入りの話をしても困りますし、鬼狩り一族が鬼に嫁ぐなんて、これまで鬼狩り一族を信頼してくれていた人たちを裏切るような気がして……」

「そうか……。ところで怪我をしているんじゃないか。お前」


 男は着流しの袖を捲ると、手首に付いた乾いた血を見せる。先程首を絞められたて抵抗しようと男の手首を掴んだ際に、掌の血が付いてしまったのだろう。自分の掌を開けば傷口を縛っていた手拭いが消えており、代わりに血が擦れた跡があった。


「あっ、さっき石を投げている時に切ってしまったみたいで……」


 男から目を逸らしながら桃花は掌を隠そうと背中に隠そうとするが、すかさず「見せてみろ」と掴まれてしまう。


「良かった……石で切ったというから深い傷を想像したが、思ったより浅いようで安心した。だが化膿する前に手当した方がいい。傷口が浅くても手当てを怠れば、取り返しがつかないことになるからな」


 再度「良かった」と呟く男に桃花は見惚れてしまう。しかし次の瞬間、男は桃花の掌に口を近づけたかと思うと、至って真面目な様子で乾いた血に舌を這わせたのだった。


「ひっ……!?」

「簡単だが消毒をしてやる。ついでに怪我の回復もな。ただこれはあくまでお前が生まれ持つ傷の再生能力を向上させるだけだから、家に帰ったら医者か使用人に頼んで手当てしてもらえ。傷痕が残ったら嫌だろう、お前も」


 この鬼は心底桃花の身を案じてくれている。それは男の傍らに立つ海石榴も同じで、今にも泣きそうな顔で桃花をじっと見つめていたかと思うと、治療をするように桃花を諭す男の言葉に何度も頷く。二人があまりにも真剣な顔をしているので、桃花は何も言えなくなってしまう。

 ――その代わりに、桃花の中でこれまで教えられてきた鬼に対する認識が崩れ落ちていく音を聞いたのだった。


「……って、どうした? 急に泣き出したりして……痛かったか?」

「えっ……」


 その言葉で弾かれたように顔を上げた桃花は自分の視界が歪んでいるのに気付く。これが桃花の目がおかしくなったのではなく、両目から溢れる涙で視界が歪曲していると理解するのに数秒を費やすと、慌てて反対の手の甲で目を拭う。心配そうな二人に「大丈夫です」と答えたのだった。


「怪我なんて日常茶飯事なのに、ここまで気にしてもらったのが嬉しかっただけです。あの、ありがとう、ございます……」


 久しく笑っていなかったからか、人を安心させる笑みというのが作れなかった。男や海石榴を真似して口角を緩めてみたものの、「不細工」と呼ばれている顔がますます不細工になっただけのような気がした。男も訝しむように片眉を上げたので、やっぱり変な顔をしているに違いない。


「そ、そうか。狩谷家のことなら鬼に限らずどのあやかしも知っている。政府からの信頼も厚い一族だと。さぞかし豪華な暮らしを送っていると思っていたが、お前を見る限りそうでもないんだな。手はあかぎれて、みずぼらしい恰好までして……。髪を留める簪も欠けているじゃないか。これは桃の花か?」


 男の手が桃花の後頭部で髪をまとめる欠けた桃の簪に触れたので、反射的に手を払ってしまう。しまったと思ったのも束の間、桃花は男から離れると距離を取ったのだった。


「すみません。これは母の形見なので触らないでください……」


 桃花が酷く怯えているように見えたのか、男は赤錆色の髪を掻きながら「悪かった」と謝罪する。


「今日はもう帰れ。だが妖刀は近い内に貰い受ける。お前と共に」


 男は海石榴に「またな」と声を掛けると、一陣の風と共に闇夜の中に消えてしまう。後には桃花と海石榴、そして妖刀だけが残されるが、その海石榴も桃花に向かって微笑むと霞のように消えたのだった。


「た、助かったの……?」


 しばらく呆然としてその場に座り込んでいた桃花だったが、やがて我に返ると地面に落ちたままの妖刀を拾い上げて欠けていないことを確かめる。鞘に戻して安堵したのもほんの一瞬、この後に待ち受けていることを想像して恐怖で身が縮んでしまう。


(で、でも。封印に失敗しちゃった。どうしよう……。父様になんて報告したらいいんだろう……)


 でも帰らないわけにはいかない。桃花にはあの家しか居場所がないのだから。逃げ出したい気持ちを堪えると、桃花は覚束ない足取りで狩谷家の屋敷に戻ったのだった。


 ◇◇◇


「この役立たずっ!!」


 朝の空気をつんざくような父の怒鳴り声に桃花は身を委縮する。そして間髪を入れず、義母からの平手打ちを左頬に受けるとその場に倒れ込んでしまったのだった。

 明朝、自宅である狩谷家の屋敷に帰った桃花を待ち受けていたのは、家長である父の叱責と桃花を嫌う義母からの暴力であった。

 出迎えくれた父の書生に帰宅を伝えたところ、寝間着姿で血相を変えて飛んできた父の政仁(まさひと)と、同じく寝間着姿で現れた政仁の正妻であり桃花の義母でもある早桐(さぎり)によって、奥座敷へと連れて行かれた。そうして桃花が鬼と会ったことや話した内容を語る前に父は烈火のごとく怒り狂い、義母からは体罰と称して執拗に暴力を振るわれたのだった。


「この一八年間育てた恩も忘れて、鬼も退治できないとはなんと嘆かわしい!」

「さすがはあの卑しい女中の子供ね。鬼斬り一族として名高きこの狩谷家の名声に泥を塗るのがなんて上手なのかしら!」

「ち、違います……。母様は関係ありません……」

「おだまりっ!!」


 今度は繰り返し腹を蹴られて桃花は「うぅ……」と声を漏らしながら身体を曲げる。空っぽの胃から胃液がせり上がってきそうになるのを口を固く結んでどうにか堪えると、助けを乞うように父に目を向ける。しかしその父も、情けの無い目でただ桃花を見下ろしているだけだった。


「生き恥を晒して帰ってくるくらいなら、せめて命を捨てる覚悟を決めて妖刀で刺し違えてきなさい! 育ててもらった恩を仇で返すつもりね!」

「この妖刀は、使い手の魂を吸収すると聞きました。魂の数だけ強くなるとも……」

「それが何だと言うのだ! 鬼狩りの狩谷家の一員たるもの。誰かの犠牲失くして鬼は狩れない。一族のために魂を捧げられる名誉を不意にするとは、なんと罰当たりな……。お前など一族の恥だ! せっかく与えてやった死に花を咲かせる意味も理解できない無能に生きる価値は無い! 金輪際、お前に鬼狩りの任務は与えん! 命じるまでこの敷地内から出ることも禁ずる!」


 義母の罵倒、父の発狂寸前の声を聞き流しながら、桃花は心の中で落胆する。やはり桃花の父と義母は知っていたのだ。妖刀が所有者の魂を喰らって力を増幅することや、妖刀を使った桃花が命を落とすことも――妖刀の生贄になることさえも。

 両親の声が聞こえたのか、縁側に繋がる襖からは父と義母の子供たちである桃花の腹違いの妹と弟が事の始終を見ているが、止める気はないらしい。それどころか面白いものを見ているように嫌な笑みさえ浮かべている。

 桃花の腹違いの弟妹にして父と義母の血を引く正当な狩谷家の子供たちでもある、華麗な妹の早映(さえ)と優秀な弟の剛仁(たけひと)は、使用人たちからも慕われる将来有能な鬼狩り姉弟だが、その実態は裏で両親と同様に桃花を虐める極悪非道な姉弟でもあった。

 普段は両親の顔色を窺って平静を装い、厳しい両親たちよりも優しく使用人に接することで、使用人たちの間でも評判の良い穏やかな主人を演じているが、実際は人目がないところで桃花を殴り、悪し様に扱うような冷淡な一面を持っていた。桃花と違って、二人は物心がついた頃から鬼狩りの訓練を積んで、政府の命令で鬼狩りを行ってきたので、腹違いながらも姉である桃花を見下しているのだろう。

 加えて、鬼狩りについては一切の妥協や失敗を許さない父と義母の苛酷とも言える教育によって、溜まった怒りや苦しさの捌け口として桃花を利用しているのかもしれない。

 二人からの暴行を受け続ける中で、桃花は薄々考えるようになったのだった。


(分かっている。誰も助けてくれる人なんていない。いつものように父様と義母(おかあ)様の怒りが収まるまで、何も考えずに堪えているだけ……)


 これまでも義母からは暴力を振るわれてきたが、誰も桃花を助けてくれなかった。父や腹違いの弟妹たち、使用人でさえも。

 それも全て父が正妻である義母を差し置いて女中として働いていた桃花の母に手を出して、十日で桃花を孕ませたから。よりにもよって父との間に子供ができないと義母が嘆いていた時期に……。

 桃花は産まれたものの、母は産後の肥立ちが悪くてすぐに亡くなってしまった。当時を知る使用人の話によると、父が母を助けずに見捨てたとも、嫉妬に狂った義母が母を殺したとも言えるような酷い扱いをしたらしい。

 女中が産んだ子供ながらも鬼狩り一族の血を引く桃花を捨てるわけにもいかず、産まれたばかりの桃花は使用人たちによって育てられて、生きるためにこの屋敷の使用人になった。最低限の読み書きや計算は教わったものの、学校に通うことも、お洒落をして出掛けることさえも許されなかった。それどころか外からの来客に桃花の姿を見られることさえ憚り、少しでも来客や出入りの商人と話しただけで今のように激しく罵倒し、乱暴をされた。中には父と義母を止めようとしてくれた使用人もいたが、主人の怒りを買って解雇されただけであった。次第に桃花と両親の間に関わる者はいなくなり、桃花は孤独となった。

 ようやく桃花が解放されたのは朝餉の時間になってから。実に数時間もの間、桃花は両親から責め苦を受けた。当然使用人も同然の桃花の朝餉は用意されておらず、炊事場に行って使用人用の食事を分けてもらうしかなかった。


「桃花。なんだいその化け物みたいな顔は!」


 炊事場に立ち入った途端、女中たちのまとめ役である年嵩の女中長が声高に怒鳴る。その声で他の女中たちが振り向き、そしてすぐにまたかというような顔で興味を失くす。桃花は事情を説明しようとするが、顔が腫れていることで上手く口を開けず、ただ口を開閉させて、情けない呼吸音を漏らしただけであった。そんな桃花にやがて女中長はわざとらしく大げさな溜め息を吐いたのだった。


「そんな顔で屋敷内をうろつかれても迷惑だよ。あたしが旦那様と奥様に怒られちまう」

「ず、ずみま……」

「仕事はいいから部屋に戻ってな。腫れが引くまで出て来るんじゃないよ!」


 邪険に手を払われると、桃花は背中を丸めて与えられた部屋に戻るしかなかった。とぼとぼと壁伝いに使用人部屋の並びにある自分の部屋に戻っていると、後ろから「桃花お嬢様」と年若い女中に小声で呼び止められる。


「旦那様や女中長からは仕事をしない者に飯を与えるなと言われていますが……」


 そう言って渡された古びた銘々膳の上には、古びた吸物椀に入った白湯と欠けた食器にほんの数枚だけ並べられた漬物の切れ端が載せられていた。


「昨晩も何も召し上がっていませんよね。このままでは倒れてしまいます」

「でも……」

「膳は後ほどこっそり部屋に回収します。では」


 銘々膳を桃花に押し付けると女中は人目を気にしながら足早に去って行く。昨晩の桃花は父の命で鬼を封印しに夕暮れ時に出かけたので、夕餉を口にしていない。その前も朝早くから来客があったことで料理に残り物が出なかったとのことから、朝餉と昼餉も食べていないかった。最後に何か口にしたのは一昨日だろうか。

 ここで長く働いている女中長は両親には逆らえない。二人が桃花の食事を抜くように指示を出したらそれに従う。基本的に食事は両親と弟妹が優先、次いで屋敷で働く使用人たち、桃花はその下だった。

 余りものがあれば食べられるし、何も余りが出なければ食事は抜き。運が良ければ、野菜くずなどを貰って飢えをしのげるが、それも女中長の目がないところでだけ。そんなことを女中長に見咎められたら、両親に告げ口されて数日は食事を与えられない。そうなれば井戸の水を飲んで空腹に耐えるしかなかった。

 食事以外に着物や小物なども使用人以下の物しか与えられない。明らかに使用人が捨てようとしていたものや貧民層が使うような壊れかけたものしかもらえなかった。

 それでも桃花は生かされているだけまだ良いと思っていた。もし本当に桃花が生きていて都合が悪いのなら、母が亡くなった時に娘である桃花も一緒に息の根を止められている。狩谷家の後継者として生かされていたとしても、義母に子供が産まれた時に屋敷を追い出すくらいはしているはず。

 今日まで桃花が生かされていることには意味があると、ずっとそう考えていた。それがようやく昨日鬼の封印の任務を与えられて理解できたところだった。

 その生かされていた理由が、妖刀の生贄に捧げられるためだったとは信じたくなかった。


(でももしかしたら、本当に妖刀の生贄にするためだけに生かされていたのかも……)


 必要最低限の物以外は置かれていない殺風景な自室の窓下に座って、呆然と外を見ながら桃花は考える。せっかく貰ったからと、白湯と漬物の切れ端を口にするものの、顔が腫れて口が開かず、加えて唇の端が切れているのかじわじわ染みて痛い。


「いたっ!」


 白湯が入った吸物椀の縁が唇の傷に当たって小さく悲鳴を上げる。椀から溢れた白湯は桃花の胸元を湿らせ、濡れた箇所を中心に広がった染みがますますみずぼらしさを強調させた。桃花はほとんど襤褸切れ同然の煤けたハンカチを行李から取り出して胸元を拭くが、目からは絶えず雫が落ちてきたのだった。


(こんなことなら、やっぱりあの時、妖刀の生贄になっておけば良かった……)


 手の甲で目を拭いつつ、人知れず涙する。妖刀は屋敷に帰って引っ立てられるように奥座敷に連れて行かれた際に、父に没収されている。今頃は平時のように奥座敷の床の間に飾られているに違いない。どうにかしてもう一度妖刀に触れて、桃花の命を生贄に捧げられないだろうか。

 こんな想いをするくらいなら帰って来るんじゃなかったと、今の桃花はそればかり考えている。


(それともあの鬼の求婚を受けるべきだった? 妖刀を欲しがっていたから、妖刀を持参金代わりに渡したら迎え入れてくれたかも……)


 桃花の怪我を気遣い、丁重に扱ってくれたあの鬼が恋しく感じられる。掌に負った傷を思い出して確認すれば、男が治療と称して口付けた傷はほとんど治りかけていた。これなら痕も残さずに数日で塞がる。

 本来なら敵対しているはずの狩谷家の血を引く桃花に治療を施す必要はない。求婚を断った時点で優しく接する理由はなくなったのだから。

 それでも男が傷の手当てをしてくれたのは、男自身が本来優しい性格であることを現しているのだろう。こんな取り立てて良いところがない、貧相な桃花に愛情を向けてくれたあの男の元に行かなかったことが、今更ながら大損したように思えてくる。


「せめて、あの鬼の名前を聞いておけば良かったかな……」

「嫁ぐ気になってくれたか?」


 その声で弾かれたように振り返れば、窓の外にあの鬼の男が立っていた。男は友人の家に来た時のような親しさで窓硝子を軽く叩くと室内を指差す。


「いつの間に、どうして!? 屋敷の結界は!?」

「説明はあと。とりあえず中に入れてくれないか? さっきから屋敷を守護する式たちが近くを彷徨いて落ち着かないんだ」


 桃花が恐る恐る硝子戸を開けると、男は軽々と入り込んでくる。

 狩谷家の敷地はあやかしから屋敷を守る強力な結界に加えて、地上、上空ともに父の式神が不審者の侵入を監視している。たとえ人間の泥棒であっても、狩谷家に足を踏み入れた途端、式神から攻撃を受けるはずであった。しかし桃花の部屋を見渡す男の姿を見る限り、擦り傷一つ負っていない。父の式神が鬼に効かないことなどあり得るのか……?


「意外と狭い部屋だな。ここは物置部屋か?」

「私の部屋……です……」


 改めて言葉にすれば虚しさが胸の中に広がる。両親や弟妹たちはともかく、使用人でさえもっと広い部屋を与えられている。こんな桃花と男の二人しかいないにもかかわらず、窮屈に感じられる物置も同然の狭い部屋を使っているのは、なけなしの温情で使用人として屋敷に置いてもらっている桃花だけであろう。

 男は妖刀を持っていた桃花を狩谷一族の令嬢と思っているようだが、実際の桃花は使用人以下の存在だ。労働をしなければ食事も与えられず、失敗をすれば暴言と暴力に晒される存在。各家庭で飼われている犬や猫などの動物でさえ、もっと大切に扱われている。愛玩動物以下の桃花は奴隷と言っても過言ではない。


「部屋……? って、その顔はどうした? 帰りに野党か悪いあやかしにでも襲われたのか?」

「こ、これはっ、その……」


 急に恥ずかしさが込み上げてきて、桃花は顔を伏せる。男は膝をついて目線を合わせたかと思うと、両手で掬い上げるようにして桃花の両頬を包む。


「泣いていたのか?」

「……」


 何も答えないでいると、桃花は否応なしに上を向かされるが、その弾みで目尻から涙が零れてしまう。男はすぐさま長い指先で零れた涙を拭ってしまうと涙筋を辿るようにして、桃花の目尻に残っていた残りの涙も払ってくれたのだった。


「なっ、なにをっ……」

「じっとしていろ。綺麗さっぱり拭いてやるから」


 そう言って男は高級感のある着流しの袖で頬の腫れが痛まないように優しく頬を拭いてくれる。男の不可解な行動に言葉もなく瞬きを繰り返していると、やがて桃花の胸の中で何かが氷解されていくのを感じたのだった。


(何だろう、この感情……とても心地良くて、くすぐったい……)


 むくむくと沸き上がる感情に戸惑いを覚える。これまで凍りついていた心や感情が男との触れ合いで溶かされて、湖面に向けて浮上しているようでもあった。

 家族に暴力を振るわれていく中で、いつの間にか希望や救い、愛情といったいくつかの感情を桃花は心の奥底に沈めてしまっていた。その内の一つが男によって氷解して、春の陽気を纏った雪解け水のように胸の中に広がろうとしていた。

 得体の知れない熱を帯びた感情が身体中を火照らせ、久しく動かなかった心を刺激するが、男の頭から生える黒い角が視界に入った瞬間、冷水を浴びせられたかのように急速に熱が引いてしまう。


(そっか。これも妖刀を手に入れるための作戦の一つなんだよね……)


 男の言葉が自分に向けられたものでは無いと気付いた途端、溶解した心が再び霜に覆われてしまう。これから出会った時と同じ甘言で嫁入りを誘惑されるだけだろうと期待を萎ませた桃花に対して、男はたった一言だけ口にしたのだった。


香雪(こうせつ)

「こうせつ……?」

逢魔(おうま)香雪。それが俺の名前。さっき聞いておけば良かったって言っていただろう」


 誰にともなく独り言ちた言葉を聞かれていたと知って、桃花の顔はますます紅潮する。すると、香雪は桃花に顔を近づけて、顔の腫れが最も酷い箇所に軽く口付けを落とすと、誰にも見られないように桃花の顔を胸の中に埋めたのだった。


「腫れが引くまでこうしていろ。こんなみっともない姿を他の奴に見られてたまるものか。はぁ……こんなことになるのなら、あの時無理にでも攫っておくべきだったな……」


 心の底から桃花をこの家に帰したことを後悔しているように溜め息を吐く香雪に、桃花はおずおずと気になっていたことを尋ねる。


「どうして、ここまで優しくしてくれるんですか……? だって、私は貴方を殺しに行ったんですよ……」

「敵対者だろうが、犬猿の仲だろうが、鬼と人間だろうが、惚れた女に優しくするのに理由が必要か?」

「私には惚れるところなんて何もありません……。妹の方がずっと可愛いですし、弟のように教養もなければ、二人のように器量も良くないですし。鬼狩りなんて一度もしたことないですし」


 震える声で否定した桃花の肩を、香雪はますます強く抱き寄せる。


「あのな……。容姿だけじゃなくて知識や才能も、最初から身につけている奴なんてそういない。少しずつ磨いていくものなんだ。お前はまだ何もしていない無垢な存在なだけ。これから覚えればいい。俺のところで」

「貴方のところで……?」

「こんなところで飼い殺されて妖刀の生贄になるのを待つくらいなら、俺の嫁に来い。うんと愛して、たくさん知識を詰め込ませて、胸張って言える特技を持たせてやる。そうしたら自分に自信を持てるようになって、自然と美人になるだろう。どんな女にも負けない俺の自慢の花妻(はなづま)にな」

「花妻……」

「約束する。お前はこれから花のような美しい女になる。お前はここで妖刀の生贄になるような女じゃない。狩谷の連中が妖刀の生贄にしようとしたことを悔やむくらいの清廉で優雅な才女になる。その一歩を俺と一緒に踏み出さないか? 俺が絶対にお前を幸せにしてやる」


 香雪の言葉が胸にじんと浸透する。さっきの両親たちの態度で確信した。ここに居ても桃花は近い内に妖刀の生贄として差し出される。

 逃げるなら今だ。ここまで育ててもらった恩を全く感じていないわけではないが、香雪と出会う前よりは気持ちが失せている。この先に待ち受けているのが死のみと分かってしまったからだろう。生まれた時から自分を可愛がってくれた飼い主が、実は自分を食べるために育てていたと知って脱走を企てる家畜と同じような気もしてならない。

 でもそれなら食べるためではなく、鑑賞のために大切にしてくれる飼い主の元に向かいたいと家畜だって考えるだろう。今の桃花もそんな気持ちだった。

 香雪と共に鬼の領地に元に向かっても、結局は死しか待っていないかもしれない。それでも両親よりほんの少しでも香雪が桃花を愛してくれるのなら、香雪と一緒に行きたいと考えてしまう。


「桃花……」

「んっ……?」

「桃花って呼んでください。香雪……様」


 香雪の胸の中から顔を上げれば、香雪はよくやったと言いたげな満面の笑みと共に抱きしめてくれる。

 誰かに笑みを向けられることが、こんなにもくすぐったいものだと桃花は知らなかった。香雪の腕の中で桃花は早速一つ学ぶ。


「香雪でいい。すぐに連れて帰りたいところだが、俺にはまだやることが残っている。手伝ってくれないか?」

「妖刀ですよね? 海石榴ちゃんの魂が宿っている妖刀『落椿』……」

「ああ。お前と海石榴を連れて帰る。それが今日ここに来た目的だ」

「何か考えがあるんですか?」

「まあな。ただこれは海石榴の協力次第にもなるが……」


 桃花が首を傾げている間に香雪は片手で桃花を抱き上げると、そのまま軽々と窓を飛び越える。

 迷いなく歩き出した香雪が向かった先は、妖刀が飾られてる奥座敷とは反対に位置する屋敷の正面に位置する門だった。

 鬼が屋敷内に侵入しているというのに結界だけではなく式神も静かで、それがより不気味さを増さしていた。本来ならこういったことに一番敏感なはずの家族でさえ、身近に迫っている危険に全く気付いておらず、その事実に桃花の背筋が冷たくなる。


「妖刀が置かれている奥座敷に行くのなら、正門よりも裏の勝手口から入った方が近いですが……」

「それが一番楽だが、せっかくだからお前を嫁に貰い受けることについて許可を得ようと思う。仮にもお前の家族だからな」

「どうやって父様や義母様と会いますか?」

「まあ、見てろって」


 香雪は目の前の壁に手をつくように掌をかざすと、そのまま何かを握り潰すように掌をきつく握りしめる。その瞬間、硝子が砕けたような嫌な音が辺りに響いたかと思うと、頭上からぱらぱらと薄い硝子片のようなものが落ちてくる。香雪の腕の中で桃花が身体を縮めて頭を守っていると、香雪が羽織りの袖を翻して硝子片が当たらないように頭に掛けてくれたのだった。

 一拍置いて屋敷の奥から足音と共に叫び声が聞こえてきたかと思うと、やがて混乱と騒めきが小波のように屋敷の中に広がる。そしてその中心と思しき者たちは、桃花たちがいる正門に姿を現したのだった。


「これは何の騒ぎだ! 狩谷家の結界が破られるなど、これまで一度たりとも……。そこにいるのは鬼か。そいつと一緒にそこで何をしている?」

「八百年前の雪辱を果たしにきた。あの日、お前たちが誘拐した妹を取り返して、こいつを嫁にもらうために」

「気でも狂ったか。鬼風情が。お前の妹はもういなければ、それを奪っても痛くも痒くもない。所詮、妖刀の生贄に差し出すために、今まで生かしてきた命だ。生贄に使えないのなら、無用の長物。引き取ってもらって気持ちがせいせいする」

「そうよ。生贄とはいえ、ここまで育ててやった恩も忘れて鬼を屋敷内に手引きした上に、鬼に嫁ぐなんて、お前はわたくしたちに一体どれほど迷惑を掛けたら気が済むのかしら!?」


 はっきりと二人に言われた「生贄」という言葉が槍のように胸を貫く。泣きたい気持ちを堪えるように頭を低くして香雪にしがみついていると、香雪は羽織を掛ける手で桃花の身体を引き寄せてくれる。聞かなくていい、聞く必要はないと、言ってくれているかのように。


「無用の長物はお前たちの方だ。こいつの価値に気付いてないどころか、妹の魂が宿った妖刀さえ上手く扱えていない。正しく使えてさえいれば、俺の封印は解かれなかったし、こいつを生贄にしなくても、あと二百年はこの地の守護が続いたのにな」

「何だと……」

「挨拶も済んだことだし、中に上がらせてもらう。案内を頼めるか?」


 最後の言葉は桃花に掛けられたものだった。首を縦に振ると、香雪は土足のまま屋敷に足を踏み入れる。騒ぎを聞きつけた使用人たちが廊下の影から様子を伺う中、桃花は時折香雪に道を尋ねられながらも奥座敷へと向かう。奥座敷へと繋がる次の間に足を踏み入れたところで、二人を阻むように腹違いの弟妹たちが進路を塞いでいたのだった。


「ここから先へは通さないわ!」

「その木偶の坊はどうなっても構いませんが、父上より家宝である妖刀を守るように仰せつかっています。この場所から疾く去ね」


 抑揚のない弟妹の言葉に香雪は怯むこともなく、ただ冷徹ともとれる軽蔑した目を二人に向ける。


「こいつはお前らの姉だろう。なんでお前たちまでこいつを虐める。両親の真似をして大人ぶっているつもりか?」

「違うわ! そいつは姉なんかじゃない! 人の皮を被った羽虫以下の存在よ!」

「そうか。じゃあ姉が羽虫なら、同じ親から生まれたお前たちも羽虫だな。所詮、蛙の子は蛙だ。その意味に気付かない限り、お前たちは両親と同じ道を歩むだけだ。……この家も地に堕ちたものだな」


 香雪の言葉に色を失った二人を無視して、香雪は奥座敷に続く襖を開ける。部屋に入って桃花を畳みの上にそっと下ろすと、床の間で飾られていた妖刀の元へと向かう。


「迎えに来た。……うちに帰ろう。海石榴」


 万感の思いが込み上げているのか、香雪は妖刀を手に目を瞑るとその場で固まる。そんな香雪を見守っていたからか、桃花は背後から忍び寄ってきた足音に反応が遅れてしまい、気付いた時には義母によって羽交締めにされていたのだった。


「こいつが……この親娘が悪いのよっ! わたくしの人生を邪魔して、泥を塗って! こいつさえ生まれなければ、こいつさえ生まれなければぁぁぁっ!」


 鼻息も荒く、憤怒の表情を浮かべた義母の手には小刀が握られていた。その切り先を桃花の首に当てながら、義母は猛り続ける。けれどもその様子を見ても、香雪は取り乱すどころか顔色も変えずに、ただ冷徹なまでに義母を見つめていた。


「本当にこいつだけの責任か?」

「そうよっ! この娘の母親は女中でありながら少し手を付けられただけで、たった十日で身ごもった上に、産まれた子供をわたくしに押し付けて勝手に死んだのよ! 十日で孕んだ子供だからって、桃花なんて名前だけ残して! 生きているのも恥に思うような、もっと惨めな名前を付けてやったというのに……! 桃の花なんて贅沢な名前、この娘には似つかわしくないわ!」

「それだけか?」

「自分が腹を痛めて産んでもいない不貞を働いた婢女の娘を我が子として育てなければならない苦痛、殺したくても狩谷家の後継者として生かさなければならない痛惜。たかが鬼ごときには理解できないでしょうね」

「そうだな。よく理解した。お前たち一家は(もも)の家族に相応しくない。やはり桃は俺が嫁にもらう。お前らは勝手に堕落しろ」


 吐き捨てるような香雪の言葉に義母だけではなく、弟妹や遅れてやって来た父までもが息を呑む。桃花が義母に捕らわれてからというもの、香雪からは怒気と共にあやかしの力の源である妖気が立ち昇っていた。室内を満たす瓦斯のように妖気は広がり、徐々に奥座敷の間の空気を重くする。このいつ爆発してもおかしくない妖気を感じ取っているのは桃花だけのようで、他の家族は誰も気付いていない。

 鬼を始めとするあやかし狩りを生業にする狩谷家にとって、あやかしが発する妖気を感知できないのは前代未聞だろう。あやかしの存在に気付けないまま、命を失ってもおかしくない。これではあやかし退治など夢のまた夢。

 それでもなお、鬼狩り一族としての誇りを自負する家族の姿に、桃花の背筋がぞっと冷たくなる。


「お前たち、何をしている? 鬼の話など聞く必要もない! 早くあの鬼から『落椿』を取り戻すのだ!!」


 一触即発な空気に圧倒されながらも、父は震え声で弟妹たちに妖刀を回収するように指示を出すが、そんな弟妹たちは香雪から発せられる怒気と桃花を人質に殺意を向ける実母にすっかり気圧されたのか一歩も動けないらしい。父は舌打ちをすると香雪を捕らえる呪術を唱え出すが、香雪は鼻で笑って一蹴したのだった。


「いいぜ。『落椿』が必要なら返してやってもいい。その代わり、一つ条件がある」

「なんだ? その能なしなら好きにしていい。持参金は一銭も出さないが」

「お前らが何と言おうと、はなから桃はもらうつもりだ。金なんて必要ない。条件と言っても簡単だ。お前たちがこの妖刀の主に相応しいかを見るために、『落椿』を鞘から抜いて、俺に斬りかかってくるだけだ。最もこの妖刀を鞘から抜いた時点で、妖刀の贄として捧げられてしまうが……。そっちの小さい奴らでもいいぞ」


 香雪は妖刀の柄を父や弟妹に向けるが、誰もが厳しい顔をしたまま固まってしまう。さっきまで恨みを込めて語尾を強く発言していた義母でさえも悔し気に唇を噛み続けていた。


「つまりわたしたちに妖刀の生贄になれ、と言っているのか?」

「富と名声を守るためなら命の一つを捨てることくらい造作もないだろう。遥かな昔から鬼狩りの一族として、人間とあやかしどちらからも名の知られた狩谷家が、鬼狩りを拒否したという不名誉な噂を流されるよりずっといい。妖刀に気に入られれば、鞘から抜いても何ともないはずだからな。……それに近いことを桃にも言ったんじゃないか? 妖刀を抜いて、命を捧げる覚悟で俺を斬れと」


 桃花は肯定するように首を小さく上下に動かす。最初に父から香雪の退治と再封印を命じられた際、狩谷家の人間たるもの妖刀で刺し違えてでも鬼を倒すように言われていた。

 実際のところは妖刀の生贄になることを指していたが、あの時の桃花は父の言葉を額面通りに受け取っていた。香雪に教えられる前にもっと早く父の意図するところに気付いていたら、さすがにこの家から逃げ出していたかもしれない。


「どうした? 誰も妖刀を抜けないのか? 桃は妖刀を抜いて、俺に斬りかかってきたぞ。桃には命じた癖して、お前たちは我が身かわいさに出来ないのか?」

「このっ……! 好き勝手言わせておけば調子に乗って、夫や子供たちになんてことを……!」

「黙れ」


 侮蔑とも言える香雪の冷ややかな声に室内の温度が下がる。香雪の目は本気で殺意を帯びている。いつ家族に斬りかかってもおかしくない。


(私が止めなきゃ……。だって香雪について行くって決めたんだから……)


 昨晩求婚された時に香雪は言っていた。狩谷家への憎悪で我を忘れた時にそれを諫め、止めてくれる存在が必要で、その役割を狩谷家の血を引く桃花に担って欲しいと。初めて桃花を必要として、生きる意味を与えてくれた香雪の役に立ちたい。そんな香雪が狩谷家のへの怒りを鎮めるための止め栓としての役割を桃花に求めているのなら、桃花はそれを果たさなければならない。

 桃花は乾いた口をどうにか舌で潤すと、震えるような声で香雪に嘆願する。


「駄目……。駄目です、香雪。そうやって怒ったら駄目です……」

「桃……」


 驚いたように香雪が黒目を見開く。そして満足そうに顔を綻ばせると、桃花に向けて妖刀を差し出す。


「聞いたか。お前の家族は妖刀が怖くて抜けないらしい。それならこの妖刀はお前のものだ。妖刀を抜いてこいつらに見せてやれ。お前がこの妖刀『落椿』に気に入られた真の所有者だと」


 桃花は油断していた義母を突き飛ばすと香雪に向けて走り出す。背後から怒髪天を衝かれた義母が桃花を捕まえようと手を伸ばすが、すんでのところで見えない盾に弾かれる。香雪か妖刀に宿る海石榴が守ってくれたのだろう。弾かれた際の鈍痛が疼くのか、義母は伸ばした手を押さえながら声なき声を上げたのだった。


「お母様!!」

「早桐!!」


 家族の視線が義母に向かう中、桃花は手を伸ばして勢いのまま妖刀を受け取ったものの、足がもつれて倒れそうになる。香雪に支えられてどうにか体勢を整え、鞘から妖刀を抜いた瞬間、桃花たちを中心に華やかな甘い香りが広がると、刀身が怪しく光り出したのだった。


(な、なにっ!?)


 昨日抜いた時とは明らかに様子が違う妖刀に桃花は何度も瞬きを繰り返す。誰もが目を離せずにいると、妖刀から海石榴が姿を現したのだった。


「ひぃぃ……! 鬼が増えたぞっ!! 」

「なによ。あれが妖刀の正体だと言うの……!?」

「父上、早映姉さん。気をつけてください。あの鬼、妖刀に封印されていた時とどこか違います。本当に生きているかのような妖力を放っています」

「さすがに弟は気付いていたか。だがその様子だと海石榴を見るのは全員初めてのようだな」


 得意げに胸を張った香雪は家族に向けて妖刀を構えた桃花の肩を抱くと、「もういい。降ろせ」と耳元で囁く。その言葉に従って構えを解いて鞘に戻すと、桃花を守るように海石榴が家族の前に立ち塞がったのだった。


「つ、海石榴だと……!?」

「お前たちの先祖が誘拐して刀に封印した俺の妹だ。名前くらいは知っているだろう。『落椿』なんて洒落た名前をわざわざ妖刀につけるくらいだからな」


 落椿――妖刀に堕ちた海石榴。それがこの妖刀の由縁なのだろうか。これまで桃花も深く考えたことがなかったが、海石榴の魂を妖刀に封印した狩谷家の先祖は、自らが打ち取った鬼の名前を記念として妖刀に名付けたのかもしれない。


「海石榴。どうする。お前は自分を妖刀にした狩谷一族を憎むなと言ったが、桃に酷い扱いをした狩谷一族を憎むなとは言っていない。お前はこの家で桃に酷く当たるこいつらをずっと見てきた。お前たちが望むのなら、こいつらを消し炭にしてやってもいい」


 その言葉を合図に香雪の掌に鬼火が生じる。すっかり及び腰になった両親を庇うように弟妹たちが桃花たちの前に立ち塞がるが、それとほぼ同時に振り返った海石榴が左右に首を振る。次いで二人から促されるように視線を向けられた桃花も同じように首を横に振ったのだった。


「香雪がそんなことをしなくていいです。海石榴ちゃんも」

「いいのか。ずっとお前を苦しめて、妖刀の生贄にさえ捧げようとしていた奴らだぞ」

「もういいんです。だって香雪が新しい居場所をくれて、家族さえ扱えなかった『落椿』の所有者だって知れただけで、充分心が満たされました」


 ずっと父に必要とされたいと思う反面、桃花は心のどこかで自分はこの家の荷物じゃないかと思っていた。だからこそ妖刀を扱って、鬼を退治できれば、自分はこの家にとって必要な存在になれるんじゃないかと期待していた。家族と対等かそれに近い存在になれるのではないかと。

 でも実際は違っていた。家族の誰も出来なかった妖刀を抜いて、真の所有者になれた時点で、桃花は家族のずっと上の存在になっていたのだ。

 これまで家族には散々酷い目に遭わされ、悲しい思いや辛い思いもたくさんした。育ててもらった恩はあるものの、それさえも相殺されるような命の危機に遭わされそうになった。妖刀の生贄という死と隣り合わせの危険と――。

 ただその結果、香雪や海石榴と出会い、新しい世界に連れて行ってくれるという香雪の手を取ろうと思えた。桃花の中で今までがんじがらめになっていた何かが解かれて、変われたような気さえしたのだった。


「香雪はさっき言っていました。この家は地に堕ちたと。それならここで私たちが直接手を下さなくても、いずれ再起不能なまでに地に堕ちます。貴方があえて手を汚す必要はありません」

「そうか……。二人がいいなら、それでいい。これ以上の長居は無用だ。帰るぞ。俺たちの家に」


 そう言って香雪が指を鳴らすと、どこからともなく牛車が庭に飛んでくる。半透明の牛が曳く全体的にどこか古びたようにも見えるこの牛車は、朧車と呼ばれているあやかしだろうか。駆け出していった海石榴が危なげなく朧車に乗り込むと、今まで何も書かれてなかった簾に嬉しそうな年嵩の男の顔が現れる。


「見た目は怖いが、良い奴なんだ。これから世話になる機会が多いだろう。少しずつ慣れてくれればいい」


 桃花が朧車を怖がっていると思ったのか、香雪が優しく諭すように話しかけてくれる。ぎこちないながらもほんのわずかに笑みを浮かべた桃花が香雪に肩を支えられて朧車に足を向けた時、後ろから「待ってください!」と弟に呼び止められる。


「どうして、それなんですかっ!? 僕の方がそれよりもあやかしを退治しています! 鬼だって何匹もっ……! それなのにどうして僕じゃなくて、そいつが妖刀の真の所有者になれるんですか!? 僕の方がずっとずっと優秀で……」

「まだ気付かないのか。桃の弟。どうして自分が妖刀に選ばれなかったのか、その理由を」

「なんですか?」

「桃や俺たちあやかしを見下す傲慢な態度、自分たちが正しいという決めつけ。生まれが全てを決めると言う、その凝り固まった思考。これからも鬼狩りとして生きていきたいのなら覚えておけ。全てのあやかしが悪で、全ての人間が正義という、その善悪を勝手に決めているのはお前たち鬼狩り一族を始めとする人間だ。まして海石榴を道具や化け物扱いしたお前たちを海石榴が選ぶなど古今未曾有、この先も決してあり得ない!」


 かっと頭に血が昇ったのだろう。顔を朱に染めた弟は懐から小刀を抜くと、桃花に向けて大きく振り下ろす。油断していた桃花は反応が遅れて避けきれず、妖刀を持ったまま後ろにひっくり返りそうになるが、それを庇ってくれたのは香雪だった。二の腕に刺さった小刀を抜くと、真っ青な顔をした弟の足元に赤い血をまき散らしながら投げつける。


「お前たちはどこまでも愚劣だな。救いようがない……」


 傷口を強く手で押さえる香雪に、桃花は自分の襤褸切れ同然のハンカチを取り出して傷口を結ぶと止血を手伝う。


「香雪、血が出てる……すぐに手当てをしないと……」

「いい……。それより俺の角を引っ張ってくれないか?」


 言われた通りに香雪の赤錆色の髪から覗く一本の黒い角を両手で掴む。頭から生えているはずの角は少し引っ張っただけであっさりと取れると、桃花の掌に収まる。


「えっ……」


 桃花が戸惑っている間に香雪は角を取り上げると、険しい顔をしたまま放り投げる。香雪の角は畳を転がると、唖然とした父の足にぶつかって止まったのだった。


「鬼を何人も倒したから凄いというのなら、鬼の頭目だった俺から角()()を奪った桃はもっと凄いことになるな」

「なっ……!? そんなの僕にだって出来ます!!」

「鬼の角、妖狐の尾、そして天狗の翼。それらにはあやかしが持つ妖力が詰まっている。人間が手に入れられれば、どんな疫病や万病も完治し、不老不死にさえなれるとも……。あやかしにとって妖力は命そのものだ。妖力を失ったあやかしは姿形を保てなくなる。それ故に手に入れるのは困難な代物だ。あやかしから剥ぎ取った瞬間に、あやかし共々霞のように消えてしまうからな。だが真の実力を持った陰陽師や鬼狩りは、あやかしの姿形を維持させたまま、妖力だけを切り離せるという。……この家で桃以外に出来る者はいるのか?」


 今度こそ両親も弟妹も黙ってしまう。そんな家族を鼻先で笑った香雪は、今度こそ桃花を促すように肩を抱くと朧車に足を向ける。


「この屋敷には二度と戻らない。必要な物があれば、今の内に取りに行け」


 香雪の言葉に首を振ると、最後に一瞬だけ家族()()()人たちを振り向く。怯えるように桃花たちを見つめる四人から視線を外すと、次いでどこか楽し気な様子の海石榴が目に映る。

 そんな海石榴が乗る朧車にひょいと飛び乗った香雪が手を貸してくれたので、桃花は手を取ると朧車に乗り込む。三人で乗るとやや窮屈な朧車の簾を少しだけ捲ると、産まれてから一八年間世話になった屋敷を見上げたのだった。


(母様。私、これからは香雪の――鬼のお嫁さんになるの。鬼の花嫁なんて全く想像がつかないけれど、でもこれからは今よりもっと幸せになるから……)


 ゆっくりと上昇し始めた朧車の中で、寂しさや切なさといった幾つもの感情が八重波となって胸に押し寄せる。桃花は泣くのを堪えるようにぐっと目を瞑って頭の後ろに腕を回すと、髪をまとめる欠けた桃の簪に触れる。

 父や義母、弟妹たちから虐められ、女中長からも手酷い扱いを受けて傷ついて泣いた日もあったが、今朝の年若い女中のようにこっそりと桃花を助けてくれる者もいた。

 母が亡くなって、義母が母の荷物を処分した時も、母と仲が良かった女中がこの桃の簪だけ回収してくれた。女中がここを辞めて屋敷を出て行くことになった際に桃花が譲り受け、その時に言われた。『これがお嬢様のお名前です』と。

 生前母が特に大切にしていたという簪をしばらくは大切に隠し持っていたが、ある時、桃花が屋敷の仕事をしている間に幼い妹が部屋を荒らして勝手に持ち出そうとした。たまたま桃花が気付いて取り返したものの、その際に簪を落として花びらが欠けてしまったのだった。

 それ以来、桃花はこの桃の簪だけは肌身離さず持ち歩くようにしていた。桃花にとって命の次に大切なものは、母との唯一の繋がりであるこの桃の簪くらいだろう。この桃の簪には桃花に対する母の想いが詰まっていると信じたい。

 そんなことを考えていると、後ろから優しく抱きしめられる。顔を上げると、桃花の哀愁を察した香雪が穏やかな表情を浮かべていた。


「あまり身を乗り出すと落ちるぞ」


 後ろに流れて行く慣れ親しんだ屋敷から目を逸らすと、朧車はゆっくりと上空を進みだす。桃花は簾から手を離すと、香雪に身体を支えられて朧車の奥へと向かう。


「これから何をしたらいいんですか? 家事は一通りできますし、夫婦の営みも……努力するつもりでいますが……」


 使用人同然の扱いを受けていた学のない桃花でも、さすがに夫婦の営みくらいは知っている。

 鬼狩り一族の血を絶やさないように、狩谷家の娘は早くから陰陽師や退魔師の家系に嫁がされる。子供は多い方が良いとされ、後継者に不測の事態が起きた時に備えて、そこから狩谷家の血を引く養子を迎えることも珍しくない。

 狩谷家で不憫な扱いを受けながらも、これまで追い出されることなく生かされてきたのは、ずっと狩谷家の血を引く後継者を産まされるためか、弟妹たちに何か起こった時のための予備だと考えていた。――妖刀に差し出す生贄として生かされてきたとは、思いもよらなかった。

 すると香雪は桃花の腰を支えながら天井に目をやると、何かを考えるように「う~ん」と唸る。


「特に何も考えていなかったな。夫婦になった以上、いずれは男女の契りも結ぶだろうが、今はお前の身体や体調を整えることが優先だからな。祝言を挙げるまで、しばらくは何もしなくていいんじゃないか」

「そんな! そこまで気を遣っていただかなくても、私は元気です」

「怪我を負った小鹿同然のボロボロの身体で何を言っている。こんな身体で新しい環境に馴染めるわけがないだろう。無理をして倒れるのが目に見えている」

「身体が傷だらけなのは香雪も同じです。弟に腕を刺されて、角だって折れて……。どちらも怪我の具合はどうですか?」

「こんな傷、大したことない。放っておいてもじきに塞がるだろう。鬼の治癒力は人間の比じゃないからな」

「でも……」


 香雪の言う通り、鬼の治癒力の高さは人間の回復力を遥かに凌駕している。それどころかあやかしの中でも屈指の頑健さを誇るとされている。余程の深手を負わない限りは一昼夜で快癒するだろう。

 だがそれも鬼の力の源である妖力があってこそ。妖力の根源ともいうべき角を失った香雪の回復力は落ちている。桃花たち人間と同じくらいなのか、それ以下かは分からないが、妖力も無い状態ですぐに傷が癒えるとは考えられない。桃花が知らないだけで、香雪には何か秘策があるのだろうか。

 不安な気持ちを上手く伝えられない悔しさから桃花は唇を噛む。そんな桃花の気持ちに気付いているはずの香雪は「心配してくれて、ありがとな」と感謝の言葉を口にして、桃花の頭をぽんぽんと軽く叩いただけであった。


「俺のことより桃は自分の心配をしろ。必要なものがあれば(すず)――弟に届けさせるから、今の内に考えておけ。最低限の着替えしか頼んで来なかったからな」

「でも何かしなければ、私が香雪の傍にいる意味がなくなってしまいます……」


 香雪なら大丈夫だと思っていても、やはりどこか心細い。これまで誰かの役に立たなければ自分に生きている意味はないと、桃花が思ってきたからだろうか。

 家族からどんな扱いを受けても逃げずに女中として身の回りの世話や屋敷の家事をしてきたのも、そして鬼狩り一族の一員としてあやかしから人間を守ろうとするのも、そうしなければこの世界、そして鬼狩り一族に生まれてきた意味が無いと考えていたからだった。

 直接的にしろ、間接的にしろ、どちらも桃花が働くことで誰かの役に立っている。対価も無しに、誰かの愛情や好意を受けられるとは思えなかった。

 もし万が一にも怪我や病気で身体が動けなくなって自分に与えられた務めが果たせなくなったら、役に立たたない桃花は処分されるかもしれないと、あの屋敷に住んでいた時はずっとそればかり恐れていた。桃花を産んで儚くなった母のように見捨てられるかもしれない、それとも足を折った馬が人の手で終わりを迎えるのと同じような目に、桃花も遭うかもしれないと――。


「意味なんて必要ない。ただ単に俺が傍にいて欲しいと思ったから、お前を嫁に迎えようとあの屋敷に行った。狩谷家の現状も見られて、鼻も明かせて清々した」


 満足そうに胸を張った香雪に少しだが気持ちが晴れる。わずかに気が楽になった桃花はずっと心に引っ掛かっていたことを尋ねたのだった。


「ところで、どうして屋敷に入れたんですか? それ以前に屋敷の場所自体、教えていなかったと思いますが……」

「お前の血の匂いを覚えていたから、そこから気配を辿った。屋敷を囲む結界もかなり弱まって、魔除けの効果があって無いようなものだったから、割とすんなり中に入れたよ」

「血の匂いって……。あの掌を診た時ですか?」


 昨晩、石で掌を切って血を流した際に香雪が心配して応急処置を施してくれたが、その時に桃花の血を覚えたのだろうか。血の匂いから気配を辿るということは人間には出来ない。

 どんなに優しくても、やはり香雪は鬼なのだと自覚させられる。


「ああ。お前の血は甘くて優しい。熟れた桃の実も同然の甘さで耽溺しそうになる。これからは心ゆくまで味わえるかと思うと、楽しみで胸が踊る。本当はすぐにでも吸い付きたいくらいだ」

「吸い付くって……!」


 掌に接吻されたことを思い出して、急に恥ずかしさが込み上げてくる。あの時でさえ羞恥を覚えたというのに、吸い付かれたらどうなることか……。

 桃花が熱を帯びた頬を両手で押さえていると、目の前に白い頬を膨らませていじけたような顔をした海石榴が現れる。


「なんて顔をしているんだよ。別に桃を虐めているわけじゃないぞ」


 霊体となっている海石榴は話さないが、表情や仕草から何を言いたいのか分かる。膨れ面のまま香雪に詰め寄る海石榴に桃花は口元を綻ばせる。


「海石榴ちゃんも私たちの会話に交ざりたいんだと思います。海石榴ちゃんにとっても、香雪と……お兄ちゃんと会うのは久しぶりだから」

「そういえば、お前は海石榴を見ても、最初からあまり驚かなかったな。面識があったのか?」

「面識があったというよりは……」


 桃花と目が合った海石榴が花のような笑みを浮かべる。陰りのない笑みが桃花の冷え切った心に染み入る。


「あの屋敷での心の支えでした。子供の頃からずっと……。ここ数年は会えていませんでしたが」


 幼い頃の桃花は今よりももっとのろまで鈍臭く、何か失敗をする度に両親に手を上げられ、女中長に怒鳴られた。その度に屋敷の裏庭で泣いていたが、そこに姿を現したのが海石榴だった。

 その頃は名前さえ分からず、実体を持たない霊体のように急に現れては消えてしまう海石榴のことを、父が屋敷内に放っている式神の一体だと思っていた。勝手に「しきちゃん」と呼んで、時に慰めてもらい、家族の部屋を掃除した際にごみ箱から見つけた新聞や雑誌をこっそり拾ってきては二人で読んだ。しばらくは定期的に海石榴と会っていたが、徐々に姿を見かけなくなり、ここ数年は全く現さなくなった。

 父が屋敷の警護以外の仕事を海石榴に与えたのだろうと思っていたが、海石榴が妖刀に封印されていた鬼だったというのなら、桃花の前に姿を現さなくなったのには何か理由があったに違いない。

 そんな桃花の心情に気づいたのか、代わりに説明するように海石榴はじっと香雪に視線を向ける。


「海石榴が姿を現すには妖刀の所有者が持つ霊力が必要となる。霊力というのはお前たち鬼狩り一族や陰陽師たちが持つあやかしを見聞きする力だ。それくらいは知っているな?」

「はい。父様や義母様、弟妹たちもみんな霊力を持っています。霊力が高いとあやかしを祓い清めることも出来るんですよね? うちのような鬼狩り一族や陰陽師の家系というのは、代々その霊力が高い一族と言われているとか……」


 人間は誰しもが、生まれつきあやかしを見聞きする力――霊力を持っていると言われている。歳を重ねるごとに弱まり、成人する頃には消えてしまうと言われているが、中には残っている者もいる。それが陰陽師や鬼狩り一族であった。

 彼らが持つあやかしを視認し、祓う力はこの生まれ持った霊力の大きさに比例する。修行次第では高めることもでき、日々あやかし退治で消費する霊力の回復を促進することも可能であった。

 桃花のように霊力を持ちながらも修行を受けていない者の霊力は時間を掛けて英気を養う以外の方法が存在せず、全快までの空白の間は無防備になる。あやかしと遭遇して命を狙われないように用心が必要であった。


「お前の屋敷に張り巡らされていた結界というのは、元は海石榴が宿る妖刀から発せられたものだ。その妖刀の力の源流というのは所有者の霊力。霊力と人の魂というのものは直結されているから、どちらかが力尽きればもう片方も枯渇してしまう。妖刀に霊力を注ぎ過ぎても、やがて持ち主の魂まで妖刀に持っていかれる。これが妖刀に捧げられる生贄の原理。その最初の生贄が海石榴だった」


 香雪は淀みなく滔々と話し続ける。


「妖刀に魂を喰われるというのも、所有者の霊力切れによるもの。生まれつき桁外れの霊力を持っていれば、そう簡単に妖刀に魂を飲み込まれないし、海石榴は自由に姿を現せて、屋敷の結界も弱まらない。例えばお前のようにな、桃」

「わ、たし、ですか?」

「お前の霊力は桁違いに高い。あの家族の中で誰よりも。だからこそお前だけが海石榴の姿を認識して、妖刀の所有者になれた。もしお前が妖刀の真の主として、鬼狩りの修行を受けていたのなら、俺も入れないような強固な結界が完成していただろうな」


 今でこそ妖刀の所有者は桃花になったが、前の所有者は父であった。香雪が侵入できるまでに結界が弱まり、海石榴が姿を現せないほどに弱まっていたということは、父の霊力が少なかったと考えられる。

 父が妖刀を抜いた姿は見たことがなったが、鞘から抜いたら妖刀の生贄になることを知っていたのだろう。妖刀を抜いた瞬間になけなしの霊力ごと魂が妖刀に持っていかれると知っていれば、そう簡単に抜刀できるはずがない。

 それは他の家族も同じで、香雪に妖刀を抜くように勧められた時に桃花以外の誰も手を伸ばさなかったのは、自分が持つ霊力の弱さと妖刀が欲する生贄の仕組みを知っていたからに違いない。


「お前の家族はお前が桁外れの霊力を持たない小物だと考えたのだろう。それで妖刀の生贄に捧げようとした。俺を退治する命令をして、妖刀の生贄に捧げて、後々妖刀だけ回収しようと……。他の親族や鬼狩りの奴らだって、俺のような強い鬼が相手なら、お前が蒸発した理由は幾らでも想像できる」


 そうして父は桃花の魂を取り込んで力を取り戻した妖刀で再度屋敷の結界を強化させて、鬼狩りとしての地位を不動のものにしようと目論んだのだろう。その企ては香雪と桃花、そして海石榴の手であっさりと外れてしまうことになるが。


「香雪が妖刀を取り返した今、あの屋敷はどうなっているのでしょうか……?」

「自尊心の高い一族のようだからな。きっと今頃、妖刀に見立てた刀を元通りに床の間に飾って、秘密裏に結界の張り直しを頼んでいるんじゃないか。長いこと鬼狩り一族として名を馳せていれば、協力者となる陰陽師くらいいるだろう」

「そうですか……」

「あいつらのことは放っておいて、お前は海石榴との旧交を温めたらいいんじゃないか。妖刀の真の主になったことで、今後海石榴は妖刀から自由に姿を顕現できるようになる。鬼の世界で生きていくのに必要な知識は、海石榴からも教えてもらえるだろうからな。妖刀の扱い方なんかも、俺たちよりずっと詳しいだろう」

「えっ……。妖刀は香雪が持ち歩くわけじゃないんですか?」

「俺は妖刀に頼らなくても自分の力でどうにか出来る。対して、お前は丸腰だろう。身を守るためにも妖刀は扱えるようになった方がいい。全ての鬼が人間に好意的とは限らないからな。……もしかすると俺の花妻になったことで、これまでよりも危険な目に遭うかもしれない」

「それは香雪が鬼の頭目だから……ですか?」


 厳密には鬼の頭目()()()らしいが、香雪はそれ以上を語るつもりはないらしい。朧車の壁に寄りかかって「……まあな」と翳りを帯びた顔をした。


「悪いけど、到着までまだしばらく時間が掛かるから、少し休ませてくれないか。お前たち二人を迎えに行くのに不眠不休で動いたからか、ようやく疲れが出てきたらしい。急に身体が重くなった。桃も少し休め」

「そうですね。私も徹夜だったからか、少し眠い……です」


 あの屋敷から遠ざかって安心したからか、それとも香雪と同じように昨晩からの疲労が出てきたのか、桃花は「ふぁ」と小さく欠伸をする。

 両手で妖刀を抱えて、朧車を背に目を瞑ろうとすると、香雪が枕代わりとして膝を貸して、海石榴が母親のように頭を撫でてくれる。

 二人の優しさにこそばゆい気持ちになりながら、桃花は朧車の揺れと微睡みに身を委ねたのだった。


 ◇◇◇


『しきちゃん!』


 ぐちゃぐちゃになった新聞紙を抱えた幼い桃花は薄暗い屋敷の裏側に息せき切ってやって来ると、周囲を見渡しながら声を掛ける。しきちゃんと呼ばれた海石榴はどこからともなく顕現すると小首を傾げたのだった。


『掃除をして余った新聞紙をもらったの! そうしたら、ここ見て!』


 桃花は新聞紙を広げると一点を指で差す。覗き込んだ海石榴もハッとしたように、新聞をまじまじと見つめだす。


『帝都に茶館が出来たんだって。西洋で飲み物を出す「カフェー」を真似して、珈琲や珈琲牛乳が飲めるみたい。どんなところなのかな?』


 新聞には帝都に新しく開店したという「茶館」の記事と宣伝が書かれていたが、特に桃花が興味を持ったのは、その茶館で提供されているという「珈琲」と呼ばれる黒い飲み物や、珈琲に牛の乳を淹れた「珈琲牛乳」なるものを飲む人たちの写真であった。

 西洋で作られた「コーヒーカップ」と呼ばれる持ち手のついた湯呑みを持つ人たちは、炭のように黒々としたコーヒーに口をつけていたが、中には楽しそうにトランプをしながら珈琲を飲む人や新聞紙を手に商談をしている人もいた。珈琲一杯の値段は女中の給金より遥かに高額ではあったが、この国とは全く違うと噂される西洋の未知なる文化に魅力を感じたのだった。


『日本にもお茶を飲みながらお団子も食べられるお茶屋さんがあるから、もしかするとこの茶館でも西洋の菓子類が食べられるかもしれないね。煎茶のように西洋のお茶もあるのかも……。いつか行ってみたいな~』


 以前、住み込みの女中から茶屋で買ってきたという焼き団子をこっそりもらって食べたことを思い出したからか、桃花のお腹が情けない音を鳴らす。掌でお腹を押さえながら桃花は苦笑するが、海石榴は何か思うところがあるのかじっと新聞を眺めていた。


『しきちゃん?』


 桃花が声を掛けるが海石榴は何の反応もしなかった。桃花が口を開くより先に、そのまま姿が霞のように消えてしまう。

 海石榴が突然現れて消えるのはよくあることだが、この時ばかりはいつもと様子が違っていた。

 どこか切なそうに――悲し気な顔をしていたのだった。


 ◇◇◇


「んっ……」


 そっと目を開けた時、最初に映ったのは年季の入った木の天井だった。優しい木香に包まれながらぼんやりと天井の木目を見つめていた桃花だったが、次第に頭がはっきりしてくる。


(夢を見ていたの……?)


 夢を見たということは熟睡していたということ。明日も生きていられるか、五体満足な状態で一日を終えられるのかと、これまで怯える日々を過ごしていた桃花にとって、高級品と思しきふかふかの布団で満足がいくまで眠れたのは久方ぶりのことだった。


「海石榴ちゃん……」


 枕元の妖刀を胸に抱きながらそっと呼びかければ、傍らに海石榴が姿を現す。にこりと笑う海石榴の姿を見ただけで、胸の奥から熱いものが込み上げてきそうになる。

 幼い桃花の心の拠り所だった海石榴。家族や女中長からどんなに酷い目にあっても、海石榴と会えばそんな悲しみは吹き飛んだ。海石榴だけは桃花を否定しなかったから。

 義母からは「不義の子」、女中長からは「グズ」と呼ばれ続けてきた桃花を「一人の人間」として扱ってくれたのは、「友人のしきちゃん」こと海石榴だけだった。ある時から呼んでも現れなくなった大切な友人にまた会えたことがこんなにも嬉しいなんて……。

 溢れそうになる想いを堪えていると、海石榴の半透明な白い指先が頬に触れる。きっと桃花を心配してくれているのだろう。


「私……どれくらい寝てた?」


 海石榴は上を向いて考えると、指を五本立てる。美男美女の見た目もそうだが、考える時の仕草まで香雪と同じだったので、本当に二人は兄妹なのだと実感させられる。


「あれから五刻も寝てたんだ」


 香雪たちと朧車に乗って狩谷家の屋敷を出て、香雪の膝枕で眠りについたところまでは覚えている。いつの間にか目的地に着いて、香雪が部屋に寝かせてくれたのだろう。狩谷家で与えられた桃花の部屋の何倍も広く、それでいて客間のように必要最低限の物しか置かれていない殺風景な部屋を眺める。


「ここは香雪の家なんだよね?」


 自信が無いのか、はにかみながら小さく頷く海石榴と、記憶の中の「しきちゃん」の姿が重なる。子供の時と今の海石榴が寸分違っていないからか、まだ全てに絶望する前の幼い自分まで思い出して、愛おしさと懐かしさで身体中が温かくなる。

 歳を重ねた分だけ、桃花は絶望で打ちひしがれた。家族による先の見えない虐めと味方がいない孤独に怯え、やがて感情は薄れていった。いつか家族に愛してもらえるかもしれないという希望は、果てしない虐めと罵倒の数だけ失望へと塗り変わり、擦り切れて摩耗した心は重く堆積した土埃に覆われ、二度と払われないかと思った。

 それを海石榴が、そして香雪が取り除いてくれた。今はほんのわずかしか陽の光が届いていなくても、いつか完全に桃花の心から土埃が無くなる日は訪れるかもしれない。香雪が桃花を「花妻」として、存在を求めてくれたあの時から、そんな淡い期待を抱けるようになった。早く元気になって、香雪の力になりたいとやる気に満ちる。


「香雪はどこにいるの?」


 布団から出て身支度を整えながら海石榴に尋ねるが、分からないというように困り顔で首を傾げられてしまう。香雪も疲れたと言っていたので、どこかで休んでいるかもしれない。寝て疲労が回復したのなら、次は空腹を訴えるだろう。

 何もしなくていいと言われたものの、これまでの習慣なのか身体を動かさないと落ち着かない。


「炊事場に行ってみたいの。海石榴ちゃんも一緒に来てくれる?」


 恐る恐る頼めば、海石榴はぱあっと花が咲いたような笑みを浮かべる。妖刀を腰に帯びると、先を行きたがる海石榴の後について行くように部屋を後にしたのだった。


 ◇◇◇


 一階に降りた桃花たちが炊事場を探してあちこちの部屋の引き戸を開けていると、やがて大きく開けた部屋を見つける。大切に使われてきたと思しき古びた木製の机と椅子、埃一つ落ちていない畳敷きの座敷席が数席用意されており、大きな硝子戸からは澄晴の空が見え、柔らかな白日の光が射し込んでいた。引き戸を開けて外に出ると、庭にも木で作られた丸机と背もたれのついた椅子が置かれていたのだった。


「これって……」


 いつか新聞で読んだ茶館を思い出す。客がいないことを除けば、机と椅子が並ぶ様子や庭に設置された丸机と椅子が並ぶ様子は茶館とほぼ同じであった。記憶の中の茶館との違いは建物が異国を想起させるような洋風な造りではなく、悠久の時を経たような古色を帯びた木造の民家といったところだろうか。

 築年数が何十年、もしかすると何百年に及ぶかもしれない古びた建物ではあったものの、家主が手入れを怠っていないからか古臭さは一切感じられなかった。何度も手入れをしたと思しき萱葺きの屋根や風雨に曝されたことで色が変わった木の外壁さえも、全て古式ゆかしい和の趣を味わえる雰囲気を醸しだしていたのだった。

 季節の花々が咲き乱れるよく整えられた長閑な庭を眺めながら、敷石を伝って門まで出ると門前に真新しい看板が出ていることに気付く。何が書かれているのか確認しようと門から出たところで、「もし」と声を掛けられたのだった。


「貴女はここの従業員ですか?」


 心臓が飛び上がりそうになりながら振り返ると、そこには香雪と同年代ぐらいの若い男が桃花を訝しむように銀縁の眼鏡の奥から睨み付けていた。

 皺一つない仕立ての良さそうな黒い着流しと煎茶色と白色の七宝柄の羽織を身に纏った男であったが、それよりも頭から生やした二本の黒い角に目を奪われる。鬼の男は艶のある長い濡羽色の髪を首元で一つにまとめて眼鏡をかけていたものの、顔形や背丈は非常に香雪と似通っており、そして香雪の妹の海石榴とも似ていると思ったのだった。


「従業員? いえ……」

「では、客ということですか? この茶館に来た」

「茶館?」


 男の言葉に看板を見れば、黒々とした細い筆跡でこの場所の正体が書かれていた。

 ――ようこそ、「香草茶館・椿」へ、と。


「香草茶館……?」

「その様子では客でも無いようですね。茶館の従業員でも客でも無い。そんな人間がここで何をしているのですか?」


 詰問されるような厳しく低い声音に縮み上がる。目を伏せて身体を小刻みに震わせる桃花に男は不機嫌そうに眼鏡を押し上げるが、その弾みで首から下げた銀のネックレスが大きく揺れる。文字が刻印されたいくつもの銀の輪が重なり合ったネックレスの内側には瑠璃色の丸い宝石が嵌まっていた。

 背筋をまっすぐに伸ばした几帳面そうな男にはやや不釣り合いな意匠のネックレスは、男との違和感を主張するように陽光を反射して光輝いたのだった。


「失礼。聞き方を間違えたようですね。貴女はここの家主とどういった関係なのでしょうか?」

「家主というのは、香雪……のことでしょうか?」

「そうです。彼を名前で呼んだということは、何かしらの関係をお持ちと見受けします。彼とはどのような関係でしょうか?」

「……っまです」

「はい?」


 妻というだけなのに、何故か喉の奥で詰まったように言葉が出てこない。屋敷を離れて気持ちが落ち着いたことで頭が冷静になったからか、本当に自分は香雪に娶られたのかと、徐々に不安が這い上ってくる。

 香雪に誘われるままついてきたものの、やはり「不義の子」と呼ばれ続けて虐められてきた桃花に、鬼たちを統制してきた首長の香雪は不釣り合いな気がしてならない。自信に溢れた美丈夫の香雪には、器量や裁量に優れたもっと相応しい伴侶が似合うのではないか。ちょっと睨まれただけで怯んでしまうような不細工な桃花では無く、堂々と胸を張って凛然するような美人が――。

 何も言えないまま、ただ真っ青な顔をして俯いていると、長いような短いような沈黙を破るように男が短息する。そうして桃花に背を向けると、敷地内に歩を運んだのだった。


「あの……」

「無駄な時間を取らせました。茶館の中で待たせていただきます」


 長い濡羽色の髪と不似合いなネックレスを揺らしながら、男は不機嫌な様子も隠さずに歩いて行く。桃花も男の後を追いかけるように屋敷に戻ったのだった。


 ◇◇◇


 男は椅子や座敷席が並ぶ部屋の引き戸を開けると、がらんどうとした大部屋に足を踏み入れる。やはりこの場所は茶館として使用されている部屋なのだろうか。男は慣れたように日当たりの良い窓際の席を選ぶと椅子に腰かける。

 男の正体を尋ねようと話しかけようにも、男から漏れる気難しい空気に圧倒されて手をこまねくことしか出来ない。それに加えて、茶館の看板を出しておきながら、誰も接客に来ないのも気掛かりであった。

 客以外の人の気配も全く感じられないので、誰も来ないからと茶館の店主や従業員は全員外出してしまったのかもしれない。ここが狩谷家だったら間違いなく、両親や女中長が烈火のごとく怒り狂って、屋敷中の女中や書生を叱責している。

 これまでの習慣なのか、放置されている男の姿に気を揉んでしまう。


(香草茶館ってことは、提供されるのは香草を使った飲み物ってことだよね……?)


 香草なら桃花も聞いたことがある。西洋では神代の頃から「自然の薬」として、食べ物から香水まで幅広く使われているらしいが、この国では最近普及し始めたばかりでまだまだ知られていない。華族などの上流階級の間では徐々に浸透しているらしいが、下町では実物さえ出回っておらず、狩谷家でも話を聞く程度だった。

 口にしたことが無いので香草を使った飲みの物味が全く想像できないが、薬湯のような苦いものなのか、はたまた汁物や煎茶のような誰にでも飲みやすいものなのか――。


(せめてお品書きでもあれば……)


 自分にも何か出来ることはないか考えながら廊下に繋がる引き戸を開けると、すぐ目の前に海石榴が立っていたので危うく声を上げそうになる。


「つっ、海石榴ちゃん……!?」


 男に気を取られて海石榴の存在をすっかり忘れていた。きっと今まで桃花の代わりに炊事場を探してくれていたのだろう。何かを期待するように桃花を見上げる海石榴の姿から、きっと炊事場を見つけて呼びに来てくれたのだと察する。弾むような足取りの海石榴に手招きされる形ですぐ隣の部屋に入ると、大きな炊事場に辿り着く。


「ここにあったんだ」


 誇らしげに胸を張る海石榴に桃花は「ありがとう」と礼を言うと、多少の申し訳なさと共に戸棚や氷冷蔵庫を開ける。氷冷蔵庫の中はほとんど空だったが、戸棚には紙が貼られた硝子製の瓶が無数に並べられていた。一つを手に取ってまじまじと見ると、外に出ていた看板とよく似た筆跡で文字が書かれていたのだった。


「これは……カミツレ、でいいのかな?」


 硝子瓶の中には乾燥した白い花びらと黄色の花托が入っていた。わずかに蓋を開けて匂いを嗅ぐと、果物のような爽やかな匂いに心が満たされる。見たことがない花なので、香草の一種かもしれない。

 その他にも桃花が初めて見る草花が瓶に分けられて戸棚に入れられていた。これらも全て茶館で提供されている香草だろうか。


「変わった植物がたくさんある……これ全て食用なんだよね。香草茶館っていうくらいだし……」


 そう言いつつ海石榴に頭を向けた桃花は、そのまま固まってしまう。さっきまで得意げな顔をしていた海石榴がどこか呆けたように小さく口を開けて、戸棚を見ていたからであった。


「海石榴ちゃん……?」


 桃花の呼びかけに海石榴はハッと我に返ると、慌てた様子で近くの卓を指す。そこには手書きで「お品書き」という半紙が置かれていた。書いている途中だったのか文字は半乾きで、品目や値段も一部しか書かれていないようだった。


「カミツレ茶って、この花を使ったお茶ってこと? 他にも薄荷茶や檸檬草茶、茉莉花茶ってあるけど、これも香草を使ったお茶の名前なのかな?」


 戸棚にはそれぞれ「茉莉花」、「檸檬草」と書かれた紙付きの硝子瓶があったので食品の名前であることは間違いない。

 店の者は茶館に客が来店したら、このお品書きを渡すつもりで作成していたのだろう。代わりに桃花がこの品書きを先程の男に渡してもいいが、茶館とは無関係の桃花が勝手なことをしていいのだろうか。

 それなら香雪か茶館の関係者が戻ってくるのを待つのが無難だろうが、どちらもいつ戻るか分からない。屋敷内に香雪の姿も見えないので、茶館の関係者と一緒に出掛けた可能性が高く、このまま男を待ちぼうけにしてしまっていいのか、桃花は妖刀の柄に触れながら逡巡する。

 ここが狩谷家なら両親や女中長の顔色を伺って男をそっとしておくだろう。両者共に桃花を人前には出したがらなかったので、来客の相手は常に他の女中や書生にさせていた。勝手に手を出すと激しい罵倒と叱責の嵐に襲われ、罰として気が済むまで食事を抜かれる。

 その割には頼んだ女中や書生が失態を犯すと、その怒りを桃花に向けてきたので、桃花は息を潜めるようにあの家で過ごさなければならなかった。


(でもここは狩谷家(あのいえ)じゃない。香雪に恥をかかせないためにも、ここは私が場を繋げないと……!)


 男のもてなしに失敗して香雪や茶館の人たちに迷惑をかけてしまったら、今度こそ香雪の元を追い出されるかもしれない。そうなったら行き場のない桃花に待ち受けている運命は生き倒れだけだろう。狩谷家にいた時以上の不幸な運命を辿ることになるのなら、いっそのことあやかしに喰われた方がずっといい。

 それでもほんの少しでも香雪の役に立つ可能性があるとしたら、失敗しても後悔はしない。自分に価値を見出してくれた香雪のために何かしたい。

 気持ちを固めると、桃花は袖をたすき掛けにする。乾ききっていない半紙の品書きを手に、男の元に取って返したのだった。


 ◇◇◇


「あの……すみません」


 おずおずと男に声を掛けると、男は窓外に向けていた視線を桃花に向ける。冷ややかな細い目に委縮するが、桃花は背筋を伸ばすと真っ直ぐに男を見つめ返す。


「お品書きを、お持ちしました……」

「貴女が? 先程この茶館の従業員では無いと仰られていましたが?」

「今は違いますが、でもこの茶館に来たお客様のおもてなしをしたいという想いは私も同じです」

「貴女が私をもてなすということですか?」


 疑うような男に桃花は何度も首を縦に振ると、品書きを男の目の前に置く。


「そ、そうです……。お飲み物は何にしますか? 用意をしてきます……」

「必要ありません。どうぞお構いなく」

「で、でも……」


 品書きを一瞥することもなく、男は再び目線を庭に戻してしまう。


「もてなしたいのなら勝手にやってください。私は人を待っているだけですので」


 最初の印象が悪かったからかすっかり見下されているらしい。これまでだったらここで引いて裏で落ち込んでいるところだが、今の桃花は違う。腹にぐっと力を入れると、「わかりました」と落ち着いた低い声で話し出す。


「私の好きにやらせていただきます」


 桃花の言葉に男はハッとしたように顔を向けて何か言いたげな様子でいたが、その時には桃花は深く一礼をしていた。

 男の顔をよく見ないまま、桃花は品書きを手に部屋を立ち去ろうとすると、引き戸のところで海石榴が待ち構えていた。桃花たちの話を聞いていたのか、海石榴はどこか懐かしむような切ない顔をしていたものの、やがて深く頷くと炊事場を指す。


「好きにもてなすとは言ったけど、どうしようかな……」


 炊事場に戻って引き戸を閉めると、悩むように独り言ちる。そんな桃花に対して、海石榴は迷いなく香草の硝子瓶が並べられている戸棚に向かうと、その内の一つを取るように桃花を促す。硝子瓶を取った桃花は瓶に書かれた文字を読み上げたのだった。


神目帚(かみめぼうき)……って読み方でいいのかな?」


 海石榴を振り返れば正解というように首を縦に振られる。次いで神目帚の硝子瓶を指した後に、急須で茶を注ぐような仕草をする。これを男に出せということだろう。

 硝子越しの神目帚は乾燥させた緑色の草といったところであったが、試しに匂いを嗅いだ桃花は目を丸くする。


「これって……!」


 カミツレという乾燥した白い花も林檎のような甘い香りがしたが、この神目帚という草からは和薄荷によく似た清涼感のある爽やかな匂いがした。

 和薄荷は食欲不振や虫刺されに良いと言われている薬草で、桃花も狩谷家が所有する野山で何度か摘んだことがある。香草と言っても、やはり草花ごとに見た目や匂いは違うらしい。

 馴染みの香りで疲れた心を和ませていると、頬を膨らませた海石榴に早く茶を淹れるように急かされる。


「でもね、海石榴ちゃん。私、神目帚を使ったお茶を淹れたことが無いから淹れ方が分からないの。それに茶館のものを勝手に使っていいのかな……」


 品書きに書かれていた飲み物なら後で桃花が支払えばいいが、この神目箒を使った飲み物は品書きに書かれていない。実は貴重な香草だったとしたら、後で高額を請求されるかもしれない。

 ほとんど身一つで嫁いできた桃花は金に換金できるような金品を持ち合わせていないので、労働かそれこそ身体で返すしかなくなってしまう。香雪に迷惑をかけるような事態にならなければいいが……。

 そんな桃花の不安な胸中を察したのか、海石榴は桃花の身体に抱きつくと大丈夫というように真っ直ぐに目を見て微笑んでくれる。霊体の海石榴に抱きつかれても桃花の身体を通り過ぎるだけ。それでもいつも本当に抱きしめられているような温かさを感じるのは何故だろう。

 尻込みする桃花を勇気づけようとしてくれる海石榴に心が決まる。


(しきちゃんは変わらないね)


 いつだって海石榴ことしきちゃんは桃花を信じて味方になってくれた。両親や女中長からの謂われなき疑いや言葉で傷ついた桃花を慰め、そして桃花の無実を信じてくれた。それはしきちゃんの本当の名前を知った今も変わらない。海石榴が桃花を信じるように、桃花も海石榴を信頼している。その海石榴が神目帚で茶を淹れるように言うのなら、桃花はそれを信じるだけである。


「神目帚のお茶の淹れ方を教えてくれる? それかどうやって調べたらいいのかを」


 桃花の決意に気付いたのか海石榴は花が咲いたような笑みを浮かべる。

 すっと離れて湯を沸かすように手振りで教えてくれる海石榴に桃花の口角がわずかに上がったのだった。


 ◇◇◇


 海石榴に教えてもらいながら人生で初めての香草茶を淹れた桃花は、身体をビクビクさせながら男の元に運ぶ。男は相変わらず外を眺めていたが、桃花が近づくと何かに気付いたように振り向く。


「お待たせいたしました。香草茶をお持ちいたしました……」


 運ぶ前に自分が試飲した時は平気だったのに、いざ男の目の前に運ぶと自信が無くなってしまう。桃花の消え入りそうな語尾に男はわずかに眉を寄せたものの何も言ってこなかったので、それを良いことに木製の盆に載せていた神目帚の茶葉が入ったティーポットと呼ばれる白い陶器製の急須と、同じくティーカップと呼ばれている白い陶器製の湯呑みを机に置いたのだった。


「ティーポットの中に香草茶が入っていますので、お好みの量を注いでください。抽出は完了しているのですぐに飲めます」


 桃花が話し終わるかどうかという前に男はティーポットの蓋を開けると、訝しむように湯面に浮かぶ翠色の草を見つめる。


「これは何の香草ですか?」

「神目帚を使った香草茶です」

「何故、この香草で茶を淹れたのですか?」

「えっと……なんとなく、貴方に似合う気がしたので……」


 本当は海石榴に言われたからだが、それを説明すると話がややこしくなりそうだったので適当な嘘を吐く。すると男はティーポットの蓋を戻して、躊躇いなくティーカップに香草茶を注ぐ。とぽとぽという音と共に注ぎ口から溢れ出る黄金色の液体を眺めていると、清々しい香りが辺りに広がる。

 深緑の森に包まれているような爽快感のある香りに心を癒されている間、男は白い湯気が立ち昇るティーカップをじっと見つめていたが、やがて手にすると口をつける。固唾を呑んで見守る桃花だったが、やがてティーカップから口を離した男が安堵の息を漏らしたのだった。


「こんなに心安らぐ美味なる香草茶を飲んだのは遠い昔以来です。人間と思って、完全に侮っていました。この鈴振(すずふり)……感服いたしました」

「よかったぁ……」


 緊張が弛んだからかつい安心して声を発してしまう。すぐに桃花は「すみません……」と蚊の鳴くような声で謝罪するが、自らを鈴振と称した男は小さく笑みを浮かべただけであった。


「この香草茶はかつて妹が淹れてくれたものと同じ味なのです。もう遥か古、人間にとってはそれこそ気の遠くなるような往古のこと。二度と口にすることは叶わないだろうと思っていた思い出の味です」

「その妹さんというのは、今は……」

「もういません。人間に連れ去られて、それからはもう……」

「すみません。辛いことを聞いてしまって」

「いいえ。往時を思い出させてくれた貴女には聞く権利があります。この香草茶を飲んでいると、兄や妹と過ごした日々を追想します。まだ兄妹が揃っていた幸せな幼少期を……」


 ティーカップに口を付けながら過去に想いを巡らせている鈴振の横顔を見つめていると、桃花の後ろに海石榴が顕現する。追憶に浸る鈴振の邪魔をしないように、桃花は小声で海石榴に話しかけたのだった。


「神目帚のお茶、喜んでもらえたよ。これも海石榴ちゃんが茶葉や淹れ方を教えてくれたおかげだね……」

「海石榴!!」


 鈴振の叫び声に桃花は飛び上がると、咄嗟に盆で頭を庇う。これまでの条件反射で目尻に涙を溜めて身を小さくして身体を震わせるが、鈴振の眼中には海石榴しか映っていないようだった。桃花を押し退けると足早に海石榴の元にやって来る。


「どうしてお前がここに……。狩谷家はどうなった? お前を攫ったあの憎き鬼狩り一族は……」


 言葉を発せない海石榴は助けを求めるように桃花を見やる。海石榴に釣られて鈴振も視線を向けるが、その瞳には目線だけで相手を射貫きそうな怒りが込められていた。


「娘、お前は狩谷家の者か?」

「わ、私は……」

「答えろっ! 返答次第ではただでは済まさない!!」


 後ずさる桃花に怒気を露わにした鈴振が詰め寄る。海石榴が鈴振を止めようと動くが、それより先に間の抜けたような声が割って入ってきたのだった。


「ただいま……って。お前ら何をやっているんだよ!!」


 一触即発の空気を切り裂くような明るい声は庭に繋がる引き戸から入って来た香雪が発したものだった。その声に張りつめていた身体が軽くなった桃花は鈴振から距離を取ると、三人から離れたところで溢れた涙を拭う。

 気持ちを落ち着かせながら手の甲で目を擦っていると、事情が分からないながらも駆け寄ってきた香雪に抱きしめられたのだった。


「俺が出掛けている間に何があったんだよ。みんなして桃を虐めて、こんなに泣かせて……」

「ち、ちがいますっ……! 私が勝手に泣いているだけで……海石榴ちゃんもその鬼の人も関係ないです……」

「関係ないわけあるか! ほら、どこが痛い? 俺が妖力で治してやるから、な?」


 掌で桃花の頬を包んだ香雪が残った涙を唇で吸い取ってくれる。涙筋にまで舌を這わされて、桃花は「ひゃぁ!?」と悲鳴に似た声と共に香雪を突き飛ばしてしまう。


「どこも怪我していません! 他の人が見ている前で恥ずかしいです!!」

「他の奴らって……どっちも身内だから大丈夫だって。なぁ?」


 香雪に話を振られた二人を見れば、海石榴は嬉しそうにニコニコと笑い、対して鈴振は眼鏡を押さえながら真っ赤になった顔を明後日の方向に向けていた。前者は良いとして、後者はとても大丈夫とは思えない。

 やがて鈴振は大きく咳払いをすると、わざとらしく眼鏡の位置を直したのだった。


「そろそろ教えていただけますか。そちらの女人はどなたでしょうか。()()

「なんだ。自己紹介もまだしてなかったのか。こいつの名前は桃花。狩谷家から嫁いだ俺の自慢の花妻だ」

「兄者の伴侶!? それも狩谷の娘ですか!?」


 穴が開くほどに桃花を凝視した鈴振だったが、やがて困惑の表情を浮かべる。


「よりにもよって、どうして狩谷の娘を娶るのですか!? 私たちはあの一族に海石榴を奪われた復讐を企てていたはずです! 宿敵の娘を選ぶなど、一体どのような風の吹き回しですか!?」

「どうしてと聞かれても……誰かを好きになるのに理由が必要なのか?」

「それは……」


 すっかり鈴振が香雪に言いくるめられる形となったところで、「あの……」と桃花がおずおずと話しを切り出す。


「おふたり……いえ、海石榴ちゃんを含めて、三人はどういった関係なんでしょうか?」

「紹介するよ。こいつは鈴振。俺の弟で、海石榴の兄。今は鬼の一族をまとめる頭目の役割を担っている」

「弟で兄ということは、三人は兄弟なんですか?」

「そうだ。俺たち三人は同じ日に同じ親から産まれた。まあ三つ子って奴だな」

「三つ子なんですか?」

「そっ。俺が兄貴で真ん中が鈴振。一番下が海石榴だ。親父が鬼の一族を束ねる頭目で、俺と鈴は跡継ぎになるべく育てられたってわけ」


 言われて見比べれば、確かに三人はよく似ていた。香雪と鈴振は髪色や服装が違うだけで、ほとんど同じ顔形をしており、海石榴にも二人の兄と同じ要素を感じられた。

 桃花と下の弟妹たちは腹違いということもあり、ほとんど似てなかった。同じ母親から生まれた弟妹は顔や雰囲気、好みが似通っているだけではなく、癖まで同じだった。不義の子として嫌われていることに加えて、家族と違う自分だけ異質な存在に思えてしまい、あの家での桃花はますます疎外されているような気がしてならなかった。


「親父が身罷って狩谷家に封印されるまでは俺が頭目だったけど、今は鈴が頭目の任についている。元より自由人な俺よりも根っからの役人肌な鈴の方が頭目に適してるから、鈴が頭目を継いでくれて鬼の一族も安泰だろうさ」

「頭目に相応しいのは私ではなく兄者の方です。前頭目である親父殿の長兄なのですから。封印から目覚めた以上は、早く頭目の座に戻ってください」

「嫌だよ。俺はこの茶館を経営しつつ、桃や海石榴と一緒に余生を謳歌するんだ。『角なし』の俺より、よほどお前の方が頭目に相応しい」

「『角なし』であったとしても、兄者には他のどの鬼も敵わない稀有な妖力を持っています。貴方以上に頭目に相応しい人はいません」


 二人が繰り返す「角なし」が指すものに気付いた桃花は顔を曇らせる。嫌な想像が頭を過ぎり、聞かずにはいられなかった。


「香雪が『角なし』って呼ばれる理由って、私をあの家から連れ出すために自分の角を折ったからですか……? そのせいで香雪が不憫な目に……?」

「ちがうちがう! 桃は関係ない。狩谷家にくれてやったのはただのつけ角。俺の頭に角が無いのは生まれついてのことだから」


 触るように香雪に促されて、桃花は中腰になった香雪の赤銅色の頭に指を這わせるが、頭には角が生えていた形跡すら残っていなかった。最初から何も無かったかのような香雪の頭に目を瞬かせる。


「本当ですね……」

「鬼の中には先天的に角が生えない者が稀に存在する。そういった鬼のことを、あやかしたちは『角なしの鬼』と呼ぶんだ。俺たちが生まれた頃はまだ珍しかったが、今では生まれてくる鬼の一、二割は『角なし』だ。当然、怪我や病気で角を失う者もいるから、人工的にはもっと多いけどな」

「確か鬼の角には妖力が詰まっているんですよね。その妖力はあやかしにとっての魂みたいなものとか……。角が生えていない鬼っていうのは、妖力を生み出せないんじゃないですか。でも香雪は私の傷を治して、屋敷の結界を破りましたが……」

「『角なし』だからといって、必ずしも妖力を持っていないとは限りません」


 鈴振は眼鏡の奥から黒曜石のような目を真っ直ぐに向けてくる。


「『角なしの鬼』は大きく分けて二通りに分けられます。一つは何らかの理由で妖力を持てなかった鬼。角が生えていないことを除けば、見た目は鬼ですが、妖力を持たない以上、人間と同じように歳を重ねて、身体も老化します。対して、もう一つは生まれながらに強力な妖力を持つ鬼です。角が生えていなくても、自らの体内で妖力を生成することが出来ます。寿命も他の鬼と同じかそれ以上、身体の成長も好きな時に止められます。兄者は後者の鬼なのです」


 あやかしが持つ妖力というのは、人間が持つ精力とほぼ同じものを指す。違いがあるとすれば不可思議な幻術を使うところと、人間離れした見目麗しい姿、そして果てしなく長い寿命であるが、あやかしも決して不老不死では無い。一定の年齢に達すると身体の成長は止まるが、それでも少しずつ老いていく。

 少しでも若さと長寿を長引かせるのに必要なのが妖力だが、その妖力も生きた年数だけ少しずつ衰えていく。角からの妖力の配給が滞ると、やがて寿命は尽きてしまうが、強力な妖力を持つ『角なし』はそうしたことが無い。

 体内で生成された妖力に身体を満たされた『角なし』たちは、角による妖力の制御が無い分、自由に妖力を使用できる。身体の成長や老化の操作に限らず、永遠に近い寿命を生きることも可能であるが、その代わり妖力の使用に制約が無いため、一歩間違えれば力の使い過ぎで命を落とすこともある。

 自分で生み出せる妖力の許容範囲を超えた場合、角を失った鬼と同じように『角なし』も霞のように消えてしまう。体内で妖力を生み出せると言っても、一度に生み出せる量には限界がある。それを超えてしまうと、たとえ強力と呼ばれる『角なし』であってもひとたまりもない。

 そんな『角なしの鬼』にとっての妖力の使用というのは、まさに自分の命と引き換えになる諸刃の剣と言えるだろう。


「妖力の制御を担う角が無い分、昔は力の加減が出来なくて苦労したよ。今はどうってことないけどな」

「大変でしたね……」

「大変だったのは、力を暴走させた俺を止める親父や鈴、海石榴だよ。鬼の力すら操れないこんなのが次期頭目って言われても信じられないだろう。だから俺より鈴が適任なんだって。人には向き不向き、得意不得意があるからな。俺には多忙な頭目よりも、のんびり出来る香草茶館の経営が向いているってだけ」

「この茶館って香雪のお店だったんですね。時の流れを忘れて寛げるような、和と洋が混ざり合った素敵な茶館です」

「ありがとな。まだまだ閑古鳥が鳴いてるし、海石榴ほど美味い香草茶は淹れられないけど、これから腕を上げて従業員を集めて、豪勢な祝言を挙げられるくらい稼ぐからな」


 眩いばかりの笑みを浮かべながら桃花の頭を愛撫する香雪に、「その件ですが」と鈴振が意外なことを口にする。


「茶館の経営を姉者にも頼んでみるのはいかがでしょうか。姉者が淹れる香草茶は海石榴が淹れたものと同じくらい絶品でした」


 先程まで海石榴の仇である狩谷家から嫁いできた桃花に渋面を作っていた鈴振の提案に全員が驚嘆する。注目を浴びた鈴振は自分が言い放った言葉の意味に気づくと、頬を赤く染めて横を向いてしまう。


「誤解の無いように言っておきますが、私が否定したのはあくまで狩谷の娘であって、貴女の香草茶の腕まで否定した覚えはありません」

「へぇ〜。そんなに美味かったのか、桃が淹れた香草茶は。俺にも淹れてくれるよな? 花妻さま」

「わ、私は海石榴ちゃんに教わりながら淹れただけで、すごいところなんて何も無い……です……」


 顔を赤くして桃花は首を何度も振るが、香雪と鈴振だけではなく、海石榴までもが桃花の話を信じていないようだった。意味深な笑みを浮かべる海石榴に同意するように鬼の兄弟はそれぞれ頷く。


「俺たちも海石榴に淹れ方を教わったけど、どっちも海石榴が淹れた香草茶には遠く及ばないよな」

「左様です。姉者は香草の効果や性能を発揮させる才能をお持ちなのでしょう。これはこの茶館になくてはならない才能です。他の人間だって持っていないかもしれません」

「止めて下さい! 本当に私は何もしていないんです。全部海石榴ちゃんのおかげで……」

「桃花」


 急に低い声で名前を呼ばれたかと思うと、香雪に両肩を掴まれて上を向かされる。いつもの飄々した顔ではなく、狩谷家でも見せた真面目な表情に自然と胸の鼓動が早くなる。

 両親たちと違って桃花が勝手に発言したり、笑ったりしたとしても、香雪は叱らなければ殴りもしない。それならこの胸の高鳴りや顔の火照りは緊張や恐怖じゃなく別のものが原因となるが、この感情の正体は何だろう。

 香雪の艶やかな唇が開くまでの刹那の間、逡巡するがその答えは見つかりそうになかった。


「狩谷の屋敷で言っただろう。お前はまだ何も知らないだけで、これから俺の元で知識を詰め込んでいけばいいって。早速得たんだよ。すごいじゃないか」

「そうですか……?」

「ああ。その才能は大切に成長させて特技にしたらいい。ここからお前の新しい人生が始まるんだよ」


 香雪の言葉がくすぐったい。おまけに頭まで撫でられて、自然と桃花の頬が緩んでしまう。顔を上げれば自信に溢れた香雪が、次いで機嫌が良さそうな鈴振の姿が目に入ったかと思うと、海石榴が抱きついてくる。

 ここまで誰かに愛されたことも、必要とされたことも無かった。ここを自分の居場所にしていいのだと、ようやく光明が射したような気がした。


「私、香草のことをもっと知りたい。香雪や海石榴ちゃん、鈴振さんが大切にしてきたものを……。私も茶館を手伝ってもいいかな?」


 暗く閉ざされていた桃花の世界が、光り輝きながら開かれていく。もう誰かの影に怯えなくてもいいのだと、自分らしく生きていいのだと。

 それに気付いた時、頭や胸がうずうずして身体中に広がっていくのを感じた。歓喜で打ち震えるとはこういうことなのかもしれない。


「勿論だ! これからよろしくな。俺の花妻さま」


 今なら自信を持って名乗れるだろう。自分は香雪に嫁いだ花妻なのだと。

 桃花は雪消の中から芽を伸ばした花のように、わずかに顔を綻ばせると頷いたのだった。


 ◇◇◇


 その日、遠くで鳴り響く宵の鐘を聞きながら、湯浴みを済ませた桃花が部屋に戻ろうとすると、炊事場の明かりがついていることに気付く。引き戸を開けると、中では香雪が薬缶で湯を沸かしていたのだった。


「悪い。うるさかったか?」


 桃花に気付いた香雪はバツが悪い顔をするが、桃花は首を左右に振る。


「いいえ。飲み物を淹れるなら、私が淹れます。丁度、湯浴みを終えたばかりで喉が渇いていたので……」

「せっかくだから茉莉花茶を頼もうかな。淹れ方を教えるからやってくれるか?」


 承諾すると、香雪は戸棚から「茉莉花」と書かれた硝子瓶を出してくれる。

 あの後、香雪たちに聞いたところ、門前の看板や硝子瓶、品書きの文字は全て香雪が書いたものだと教えられた。住居と茶館を兼ねたこの家や、この家の近くに建つ香草を育てている温室の持ち主は鈴振だが、実際に管理をしているのは香雪だということも。

 仕事に戻るという鈴振が桃花に対する数々の非礼を詫びた際に、この家と温室の鍵を譲ってくれた。『私の代わりに茶館と温室、兄者と海石榴を頼みます』と言って。

 そして可能であれば、今後は桃花にも茶館や温室を切り盛りして欲しいとも頼まれた。香雪一人では限界もあるだろうから、と。見た目は厳しそうだが、鈴振も家族想いの優しい青年なのだろう。

 そんな鈴振が心配する香雪は炊事場の作業台にすり鉢やすりこぎ、香草が入った硝子瓶をいくつか出して、今まで何かを作っていたようであった。包丁とまな板に加えて、油紙も出されていたので、これから切り分けるところだろうか。


「明日の骨董市の用意をしていたんだ」

「骨董市があるんですか?」


 桃花の見ているものに気付いたのか、茶器を用意していた香雪が手を止めて教えてくれる。


「この近くの神社で開催されるんだ。昼に聞いたら、まだ場所が空いてるって言われたから申し込んできた。茶館の宣伝も兼ねて何か出そうと思ってさ」

「何を出すんですか?」

「香草入りの石鹸だ。茶館に来た客の土産用として好きな大きさに切って販売していたけど、どうせ誰も来ないから明日の骨董市の売り物用として小分けにしていた」


 どうやら茶館で売っていた時は大きさや個数、重さに応じて値段を付けていたが、骨董市では最初から値段を決めて小分けにした状態で売るつもりらしい。

 小分けにしてあらかじめ価格を決めておけば、手に取りやすく、何より試しにと買いやすいだろう。気に入ってくれれば石鹸を求めて茶館に足を運んでくれるようになり、茶館を利用する常連客にもなってくれるかもしれない。まさに一石二鳥の良案であった。


「私も手伝ってもいいですか? 香草入りの石鹸に興味があるんです」

「それは構わないが……。疲れていないのか?」

「鈴振さんが来るまで寝ていましたし、夕餉の後は海石榴ちゃんと雑誌を読んでいただけなので体力は有り余っています。手伝いに来てくれた化け狸の姉妹にもゆっくりして良いと言われましたが、逆に落ち着かなくて……」


 夕方に鈴振と入れ違うように、通いで手伝いに来ているという化け狸のあやかし姉妹たち――見た目は桃花と同い年くらいだったが、実年齢は香雪たちと同じだった。が、夕餉と湯浴みの用意をしに来てくれた。

 桃花のことは香雪から聞いていたようで、夕餉の支度をする二人に手伝いを申し出たものの、主人である香雪の妻に家事をさせるわけにはいかないと、丁重に断られてしまった。

 夕餉の時間以外は香雪も部屋にこもって何かをしていたようだったので邪魔しないでいたが、もしかすると骨董市の用意をしていたのかもしれない。


「これまでは使用人同然に働いていたので休む暇も無かったんです。でもここではゆっくりさせてもらって、食事や湯浴みも用意してもらって至れり尽くせりで。それなら代わりに空いた時間は香草について知識を深めたいと思ったんです。そうしたらもっと茶館や香雪の役に立てますよね?」

「真面目な花妻さまだな。女主人らしく、もう少し踏ん反り返ったっていいのに」


 その時、薬缶で温めていた湯が沸いたので、桃花はあらかじめ香雪が用意していたティーポットの中の湯を捨てると茉莉花を入れる。湯を注げばティーポットの中で茶葉が踊って、優雅に澄んだ甘い香りが漂いだす。


「やっぱり茉莉花茶はいいな。優しい香りに心が落ち着く」

「茉莉花茶もそうですが、香草ってどれも良い香りがして癒されますよね。昼間に入れた神目帚もそうでした」

「香草って万能なんだ。飲めば病気、塗れば怪我に効くし、美容や保湿にも最適。匂いを嗅いだだけでも精神を安定させる効果もある。調味料として料理に使っても良いし、部屋に飾れば綺麗だし魔除けにもなる。使い方は無限にあるんだ。この国ではまだまだ香草を重要視していないが、外つ国では薬と同じくらい重宝されている」


 茶葉を蒸らしている間、ティーポットと同じようにティーカップにも湯を注ぐ。香雪の説明によると、あらかじめ湯通しするのは、冷たいティーポットやティーカップに直接湯を入れると、温度が下がって茶葉の香りや風味が損なわれてしまうから。言われてみれば、これまで冷たい湯呑みに熱々の煎茶を注ぐと、飲む頃には煎茶が温くなっていたような気がした。


「茉莉花っていう花はな、陽が沈んでからこの甘い香りを漂わせるんだ。海を渡った東の国々には、『昼は薔薇、夜は茉莉花が花の女王になる』っていう言い伝えさえ残っている。それだけ香草は昔から愛されてきたんだよ」

「何でも知っているんですね。香草の知識や効能だけじゃなくて、歴史まで詳しくて」

「俺の知識は、全部海石榴の受け売りだ。海石榴は香草のことは何でも知っている。独学で覚えたんだ。書を読んで、自分で育てて、俺と鈴に試飲させて……。何百年経っても、アイツには敵わないよ」


 蒸らし終える頃には、馥郁とした茉莉花の香りは湯を注いだ時よりも増していた。温めていたティーカップに薄黄色の茉莉花茶を注いで香雪に渡せば、喜んで口をつけてくれる。「美味いな」と端的に褒められただけで、頬が温かくなって充足感に包まれたのだった。


「海石榴ちゃんもすごいですが、それを覚えている香雪だってすごいです。香雪も香草が好きなんですね」

「香草が好きというよりは、香草が好きな海石榴と鬼の世界に香草を広めようとしている鈴、そして香草について勉強したいと思っている桃が好きだから、俺も好きなようなものだけどな。俺がしていることって、お前たちの手伝いみたいなものだよ。茶館の経営もその一つだ。海石榴の夢だったからな」

「海石榴ちゃんの……?」

「おそらく海石榴はこの国で誰よりも早く香草が持つ効能に目をつけていた。幼少の海石榴にとって、香草は自分を生かす薬みたいなものだったからな。人工の薬が身体に合わない海石榴のために、親父が西洋から見つけてきた自然の薬だ」

「海石榴ちゃんって持病を抱えていたんですか? 今は全然そう見えませんが……」

「子供の頃はな。生まれた時から身体が弱くて長く生きられないって言われてた。そんな海石榴のために、親父は色んな薬を取り寄せては試した。当時はまだ高級品だった香草もな。それを薬として服用していた海石榴も次第に興味を持つようになって、やがて自分で育てるようになった。鈴からもらった温室の鍵があるだろう。あの温室も元々は香草を育てていた海石榴のために、俺と鈴が作ったんだ」


 鈴振から貰った温室の鍵はこの家の鍵と共に部屋に保管している。茶館だけではなく温室まで三つ子にとって大切な思い出の場所だと知らなかった。


「海石榴は自分を救ってくれた香草をもっと多くの人に知ってもらって、誰でも安価な値段で手に入れられる世の中になって欲しいって願っていた。そうしたら救える命がもっと増えるはずだからって。そういつも自分の夢を話していたよ。結局その夢は叶わなかったけどさ。それなら俺が代わりに叶えてやろうって。封印が解けて暇を持て余していたし、何かしていないと見合い話や頭目の話ばっかりくるし、多忙な鈴の代わりに温室の管理をする奴も必要だったしで、俺が一番適任だからな。時間も潰せて、生活費も稼げて、海石榴の夢も叶えられて、この上なく最高だろう。美味い香草茶を淹れる可愛い嫁も来てくれてさ。果報者だよ」

「茶館の名前が『香草茶館・椿』っていうのも、もしかして……」

「そう。海石榴の名前から名付けたんだよ。『香草茶館・椿』。あいつが生きていた証が、この茶館だ」


 桃花が出会った時には既に海石榴は妖刀の一部となっていた。だから妖刀になる前の海石榴のことを聞いても、どこか空を掴むようで現実味が無かった。それが香雪の話を聞いて、本当に海石榴はこの世界に生きていた一人だったのだと気付かされる。海石榴と海石榴を愛する二人の兄の幸せを奪ってしまったのは、間違いなく桃花の先祖に当たる狩谷家の者たちだと。


「ごめんなさい。海石榴ちゃんの夢を奪ってしまって……」

「何でお前が謝るんだよ。それより明日の骨董市の準備の続きをするから、手伝ってくれよ」


 香雪は立ち上がると、窓辺から豆腐箱に似た木製の箱を持ってくる。中には香草らしき草花が固まった乳白色の石鹸がぎっしりと入っていたのだった。


「元から店に置いていた石鹸だけだと足りないからさ。追加でこれも出そうと思って」

「何の香草を使っているんですか?」

「薄荷と薫衣草(くんいそう)だ。薫衣草は紫や青い花だ。温室にも咲いている」


 戸棚を振り返れば「薫衣草」と書かれた硝子瓶が置かれていたので、試しに蓋を開けて香りを嗅いでみる。清々しい香りから紫や青の花畑の情景まで想像が膨らんで、うっとりと夢見心地になる。


「気に入ったか?」

「こんなに心癒される香りに包まれて湯浴みを出来るのなら、湯浴みの時間が楽しくなりそうです」

「そいつは良かった。切り分けるから油紙に包んでくれるか。手荒れするから布手袋を忘れずにな」


 用意してもらった布手袋を嵌めると、香草が包丁で切り分ける石鹸を受け取る。石鹸の大きさに合わせて油紙を裁断して包むのは大変だったが、慣れてしまえば簡単だった。あっという間に包み終わると、最後に切り残った石鹸の両端が残る。


「それも包みますか?」

「う~ん。箱から出す時に断面が削れて見栄えも良くないし、大きさも半端だから、これは売れないな。捨てるのも勿体ないし、茶館に来た客におまけとして渡すか……」

「良かったら、その石鹸をいただいてもいいですか?」

「えっ。欲しいなら、売り物用の綺麗に切った方をやるよ」

「それは売り物ですから……。私も使ってみたいので、捨ててしまうのなら欲しいです。石鹼らしい石鹸をあまり使ったことが無いので、明日から湯浴みの時に使ってみたいです」


 狩谷家で暮らしていた頃、女中同然の桃花には石鹸と言いつつも、いつも使用後の質感や品質がいまひとつな偽物ものしか回ってこなかった。

 数年前に庶民でも買えるような質の良い石鹸が発売されたが、まだ石鹼が高級品と呼ばれていた頃には石鹸を名乗った偽物が多く流行していたそうで、当時狩谷家で働いていた書生も本物と間違えて偽物をつかまされたことがあったらしい。

 桃花に渡されていたのはその時に買って余っていた偽物ではないかと、当時から屋敷で働いている女中に教えられたのだった。


「さっき湯浴みをした時に使いやすい石鹸で驚いたんです。これまで使ってきた石鹸は洗い流した後に肌がごわごわして、肌荒れすることもあったから使いたくなくて……。この石鹸で手や身体を洗ったらどうなるのか気になります」

「じゃあ実際に使って感想を聞かせてくれよ。で、自分だけの石鹸を作ったらいい。香草はたくさんあるからな。足りない時は温室から採ってきて、乾燥させて使えばいいし」

「私も自由に使っていいんですか?」

「桃もこの茶館の一員だからな。新商品の開発は大歓迎だ。看板にも桃の名前を追加しておくからな」

「そこまでしなくていいです。私、自分の名前が嫌いなんです。十日で孕んだから桃花なんて……」


 桃花を罵る時に義母は繰り返し言っていた。「十日で孕んだから『桃花』なんて安直な名前」、「似合いもしないのに桃の花って漢字まで当てられて」と。

 言われる度に母が残してくれた名前を傷つけられるようで苦しかった。どうせ名前を残してくれるのなら、もっと違う名前が良かった。義母が罵倒の際に使っても心が痛まないような名前を……。

 自分を抱くように身体に腕を回して、皮膚が食い込むくらいに爪を立てていると、香雪が呆れたように溜め息を吐く。


「あの母親の言うことなんて気にしなくていい。どんな名前だったにしろ、どうせ罵るんだ。それにお前の本当の名前って桃花(ももか)だろう」


 香雪の言葉に衝撃を受けると、桃花は目を丸くして凝視する。


「そうなんですか?」

「いくら手をつけられて十日で身籠ったからって、自分の子供に『とうか』なんて名前をつけるか? それならそのまま十の日で『十日(とうか)』って名付ければいいだけだろう」

「それは……」

「お前のお袋さんが無病息災を願って、『ももか』って名付けたに決まっている。桃の花には邪気を払って、長命を願うって意味があるからな」

「そんなのは偶然です。産まれた時からずっと『とうか』って、呼ばれています……」

「それもあの母親がお前を虐めるために、勝手に読み方を変えたんだろう。もしくはあの母親を慕う女中がお前たち親子を貶めるために、勝手に読みを変えて報告したか……。本当の読み方を知っていても、さすがに屋敷の女主人に逆らったら首が飛ぶからな。みんな黙っているしかなかったんだよ。あの桃の簪を除いてな」

「桃の簪……」

「あの簪は年季が入っていて欠けていたけど、値打ち品でよく手入れされていたのが分かる。お前の手に渡る前から大切にされていたんだ。きっとお袋さんが……」


 癖で頭の後ろを触るが、湯浴みの前に部屋で外して温室や屋敷の鍵と一緒に置いてきたのを思い出す。


「……母と仲が良かった女中が教えてくれたんです。この簪が私の名前だって。ずっと『とうか』の名前の由来を言っていると思っていましたが、本当の名前のことを言おうとしていたんですね……」

「あくまでも俺の想像だけどな。お前が望むなら、これからは『ももか』って呼ぶ。今のところ、名前を知っているのは、俺の兄妹と通いの化け狸姉妹だけだからな」

「今のままでいいです。香雪のおかげで、これからは自分の名前を少しだけ好きになれそうな気がするので……。香雪たちのお母さんはどんな方なんですか?」

「俺たちの母親は鬼神だったよ。綺麗で強くてさ……もういないけどな」

「すみません……」


 どことなく香雪が痛みを堪える顔をしたので、桃花は咄嗟に謝るが、香雪は気にしなくていいというように頭を撫でてくれる。


「このままお前を独り占めしていたら、部屋で待ってる海石榴に怒られそうだ。明日の用意を済ませてしまおう」


 道具を洗うという香雪に頼まれて、桃花は先程油紙で包んだ石鹸を竹笊に並べていく。他にも必要そうなものを持ってきては風呂敷の上に並べると一つにまとめてしまうと、これで明日の用意はほとんど完了であった。

 部屋の前まで香雪に送ってもらった時には、夜もすっかり更けていた。


「海石榴が怒っていたら俺が悪いと言ってくれ。遅くまで付き合わせて悪かった」

「いいえ。香雪もゆっくり休んでください。それではおやすみなさい」


 そうして背を向けた桃花だったが、後ろから両肩を掴まれたかと思うと首筋に柔らかなものが触れる。肩越しに振り返ると、香雪が口付けていたのだった。


「ぁの、こうせ……」

「おやすみ。俺の花妻さま。良い夢を見てくれよ」


 最後に音を立てて首筋を吸うと、ようやく身体を離してくれる。そうして香雪は片手を上げながら去っていったのだった。


(い、今、く、首に、せっ、接吻をっ……!)


 これまでの治療目的とは違って、愛し合う男女がする口付けに身体中がソワソワする。心臓が破裂しそうなくらいの激しい鼓動を聞きながら、どうにか部屋中に入ったものの、へなへなと膝の力が抜けてその場に座り込んでしまう。

 火が燃え上がりそうなくらい紅潮した頬を押さえながら、改めて桃花は自分が香雪に嫁いだ花嫁であることを実感させられたのだった。

 あまりの衝撃に思考が停止したばかりか、心もぼんやりとしていた桃花だったが、やがてこのままここに座っていたら海石榴に怪しまれてしまうことに気付くと、慌てて布団に潜って頭まで毛布を被る。

 昼間に寝てしまったからか、それとも別の要因があるのか。この日はなかなか寝付けずに寝返りばかり打ったのだった。


 ◇◇◇


 あくる日の朝方、妖刀を腰に帯びた桃花は香雪や海石榴と一緒に骨董市の場所となる神社に向かっていた。化け狸の姉妹によって慣れない化粧を施され、普段着にするのも勿体ないような紬を身に付けているからか、今朝からどことなく心が弾んでいた。


「その着物。よく似合っている」


 桃花の代わりにほとんどの荷物を持ってくれた香雪が隣から声を掛けてくれる。


「ありがとうございます。鈴振さんにもよくお礼を伝えてください」


 これまでの癖で朝未だきに起き出すと、桃花の枕元には狩谷家で着ていたような襤褸を縫い合わせたのような紬ではなく、撫子色に手毬柄の紬と新品同然の草履を用意されていた。聞けば、鈴振が桃花のために海石榴が着ていた紬を仕立て直してくれたという。

 その鈴振は頭目の仕事が忙しいのか、まだ夜も明けきっていない朝月夜の時間帯に桃花が使う日用品だけ届けて、すぐに立ち去ってしまった。鈴振を出迎えた香雪が骨董市に露店を出すことを伝えたらしいが、行けるかどうかは分からないという煮え切らない返事をされたという。


「礼なら桃から直接鈴に言うといい。ああ見えて、鈴は義理堅いからな。はっきり断らなかったということは、顔くらいは出すかもしれない」


 香雪はあっけらかんとした口調で話したが、そんな鈴振を出迎えた香雪もいつから起きていたのか謎であった。化け狸の姉妹が朝餉の支度に来た時にはすでに起きていたというので、もしかすると寝ていないのかもしれない。

 その証拠に桃花を部屋に送り届けてからは、茶館の宣伝や場所を記した引き札を書いていたという。


「そうします。でも、本当にいいのでしょうか。全て海石榴ちゃんの物なのに私が勝手に使ってしまって……」

「誰も着ないまま押し入れで肥やしになっているより、誰かに来てもらった方が着物も嬉しいだろう。そうだろう、海石榴?」


 桃花たちの先を歩いていた海石榴だったが、名前を呼ばれると何度も頷く。生前は病弱だったと聞いたが、今はそう見えないくらい元気溌剌としている海石榴は、妖刀から自由に姿を現わせるようになったこともあって、さっきから道端の猫を追いかけ、幼児くらいの年頃の小鬼に手を振って遊んでいた。


「もうすぐ神社に着くが、他の鬼には気をつけろよ。昔と比べて人間を伴侶に迎える鬼は増えたが、天敵とも言える鬼狩りの一族を伴侶に迎えた者はいない。俺の伴侶というだけでも悪目立ちするんだ。危害を加えられないためにも、無益な争いは避けたい」


 家を出る前に香雪と二つの約束を交わしている。その内の一つは外で狩谷家の者だと名乗らないこと。

 香雪たちに限らず、これまで狩谷家の者に親兄弟や伴侶を殺され、封印された鬼は多く存在する。狩谷家に憎悪を募らせている者は多く、桃花の存在を知った途端、腹いせに危害を加えられる可能性があった。

 もう一つは肌身離さず妖刀を携えて、海石榴と行動を共にすること。

 妖刀とほぼ一体化しているとはいえ、海石榴の妖力は計り知れない大きさを持っており、鬼一人を撃退するのは造作もないという。いざとなったら妖刀を抜いて、海石榴と一緒に応戦することも視野に入れるように言われたのだった。


「分かりました」

「そう肩肘を張らなくても、いざという時は海石榴が守るだろうし、今日は俺もついている。鬼にも良い奴と悪い奴がいるから、今日はそれを見極める目を養うくらいの気持ちで良い。後はせっかくの骨董市を楽しむ余裕もな」


 石段を登って赤い鳥居を潜り抜けると、骨董市の会場となる神社の境内は鬼やその伴侶と思しき人間たちですでにひしめき合い、賑わいを見せていた。用意が完了した場所から売買を開始しているようで、すでに鬼たちが集まっている露店もあった。

 こういう催し物に初めて来た桃花も骨董市を眺め歩くが、出品されている物はいずれも時代がかかった調理道具や古めかしい家具が多数を占めているようだった。

 他にも草臥れながらも趣のある日本画や黄ばみと黴が目立つ絵巻物、古着とは思えない艶やかな柄の新品同然の反物まで、各々の売り物を各自が敷いたござの上に所狭しと並べられていた。

 骨董市と言いつつも出品する物に決まりは無いのか、必ずしも使い古した物を出さなくてもいいらしい。


「本当に人間もいるんですね……」


 すれ違う人たちに目を向けると、やはり客の大半は鬼のようで頭や額から角を生やす者の数が圧倒的に多かったが、そんな中でも時折桃花と同じ人間を見かけた。人間たちの傍らには必ずと言っていいほど鬼たちが付いており、手や腕を絡ませながら親し気な様子で歩いていたのだった。


「全ての鬼が人間と仲が悪いわけじゃない。鬼狩り一族(一部の人間たち)が鬼退治に躍起になっているだけで、地域によっては人間と鬼が当たり前のように共存している。俺たちが住んでいるこの辺りもそうだ。鬼の領地だが人間の伴侶を迎えて、夫婦で仲睦まじく暮らしている者が多い。今の頭目である鈴の統制が取れているからか、人里に下りて人間に悪さをする鬼も少ない。……俺の時とは大違いだ」


 香雪が自分自身を嘲笑するように吐き捨てたので、反射的に桃花は「違います」と答える。


「鈴振さんがしっかりと統制が取れるように香雪が根底を作っていたから、鈴振さんが辣腕を振るうことができるんです。頭目として香雪がこれまでやってきたことは、決して無駄ではありません」

「……ありがとな。慰めてくれて」


 香雪の言葉に胸が温かくなるが、先程から鬼狩り一族の血が影響しているのか、この喧騒の中でも鬼たちが無意識の内に放つ妖気とその中に含まれる威圧感の両方を感じ取って、桃花の肌はずっと粟立っていた。

 性別や年齢、身長に体格もてんで違う鬼たちが一様に揃う姿は、圧巻と同時に恐怖さえ感じられる。救いなのは桃花に興味を持つ者が少ないことだろうか。

 桃花を――というよりは香雪を品定めするように見ていく者は多いが、傍らを歩く桃花にまで注意を払う者はいない。それでも腰に差す妖刀を見て、桃花の出自に勘付く者がいないともしれないので、どうにかして紬の袖で隠せないか試しに身体の内側に寄せてみる。

 それだけで何が変わるともしれないが、気持ちが多少楽になったのは確かだ。境内に足を踏み入れた途端、妖刀に戻ってしまった海石榴の気配を間近で感じ取れるのも心強い。

 ここに来て狩谷家や鬼狩り一族のことを口外にしないと約束させた香雪の言葉が、ようやく身に染みる。

 ――今ここで、桃花が狩谷家の血を引く鬼狩りの娘だと知られたら、どんな恐ろしい目に遭うことか……。

 身震いすると、無意識の内に桃花は香雪の着流しの袖に手を伸ばして頼ろうとしていた。荷物を持った香雪の両手が塞がっていることに気付いて手を引っ込めかけたものの、それを見逃さなかった香雪にすかさず掴まれてしまう。


「想像以上に人の出が多いから、はぐれないように手を繋ぐか。これも逢引の基本だ」

「あっ、あいびき!?」


 てっきり桃花が慄いていることに気付いて手を貸してくれたのかと思っていたが、まさかの理由に声が裏返ってしまう。素っ頓狂な声を上げた桃花に対して、香雪は片手で荷物を持ち直すと、何ともない様子で「そう。逢引」と返しただけであった。


「これが俺たちの初めての逢引だからな。お互い楽しい思い出にしたいだろう」

「それは……そうかもしれませんが……」

「恥ずかしがらなくても、俺たちに与えられた区画はすぐそこだ。それまでの辛抱だから我慢しろよ」


 香雪に腕を引かれる形で歩く桃花だったが、心なしかさっきよりも注目を集めているような気がした。骨董市で逢引をしているのが場違いなのか、それとも鬼たちを束ねる元頭目の香雪が連れているからか。いずれにしても羞恥を覚えることに変わりはない。

 目線を下にして頬を染めながら歩いていると、ようやく桃花たちが与えられた区画に辿り着く。荷物を並べるござは主催者が用意してくれたようで、辛うじて大人二人が並んで座れるくらいの大きさのござが敷かれていた。持ち込んだ物を広げればすぐに露店を始められそうだった。


「石鹸を並べたらすぐに始めるからな。最初は一五銭から。値切り交渉をしてきたら、相手に合わせて少しずつ価格を下げて、最低でも九銭くらいで止める。銭貨は人間たちと同じものを使っているが、計算は問題ないか?」

「簡単な計算と読み書きは教わったので大丈夫だと思います。女中の仕事をするのに必要だからって、渋々女中長が教えてくれました」


 弟妹たちと違って桃花は小学校さえ通わせてもらえなかったが、万が一にも狩谷の娘を名乗ることになった際に最低限の教養はあった方が狩谷家の体裁が保てると、父が女中長に命じて教えさせた。

 自分の仕事が増えることに腹立たしさを隠さない女中長に半ば脅されるように、桃花は最低限の読み書きと計算を叩き込まれたのだった。


「それなら一安心だな。後は石鹼を買った客にこの引き札を渡す。買わなくても香草に興味を持った客がいたら遠慮なく渡してくれていい。宣伝は多ければ多い方が良い。伝聞で広めて貰える可能性もあるからな」


 手渡された引き札には香雪の流麗な文字で香草茶館の新しい名前が書かれていたので、つい桃花は読み上げてしまう。


「『香草茶館・椿……と桃』?」

「『香草茶館・椿桃(つばいもも)』って読むんだ。桃に似た果実の一種だ。仮だけどお前たちらしい名前だと思ってそれにした。茶館の門前に出している看板も昨夜の内に直したから心配いらない」

「そんな名前の果物があるんですね……。用意も早くて、手伝えなくてすみません……」

「いいって。お前にはこれから宣伝を頑張ってもらうからな。今日は張り切って香草と茶館の魅力を客に売り込んでくれ」


 そう意気込んだのも束の間、しばらくしても桃花たちの露店に立ち寄る者はいなかった。

 時間の経過と共に往来には人が増え、すぐ隣や近くの露店には鬼や人がひっきりなしに来ている。それなのに何故か桃花たちの露店は遠巻きに見られただけで素通りをされてしまう。

 危機感を覚えた桃花がなけなしの勇気を振り絞って、近くを通った鬼や人に自ら声を掛けたものの、皆一様に桃花とその後ろに座る香雪を見た途端、蜘蛛の子を散らすように去ってしまうのだった。


「どうして誰も立ち寄ってくれないのでしょうか……。私の声の掛け方が原因? それとも狩谷家の血を引いているから……?」

「桃は悪くない。原因があるとすれば……俺だな」


 項垂れた桃花の頭を軽く叩くと香雪は音もなく立ち上がる。両手を握りしめて、縋るように見上げるが香雪はござから出てしまう。


「しばらく席を外すから店番を頼む。俺がいなくたって、海石榴がいれば大丈夫だろう」

「そんなことを急に言われても……。あの、香雪が原因ってどういう意味……」


 桃花の問いに答えることもなく、香雪は足早にその場を去ってしまう。入れ違いに妖刀から海石榴が姿を現したので、再度同じことを聞くが、海石榴も首を傾げただけであった。


(どうして? やっぱり私に原因があるの? 香雪が悪いってどういうこと……?)


 香雪は桃花に愛想を尽かしていなくなってしまったのだろうか。一緒に居ても役に立たないどころか、商売の邪魔になるからと。

 香雪を追いかけて謝った方が良いのか逡巡していると、年嵩の女鬼二人が桃花たちの露店に近づいてきたので桃花は表情を明るくする。


「こ、こんにちは。ここでは香草を使った石鹸を……」

「嫌だわ。『逢魔の角なし』が視界に入るだけでも不愉快なのに、その連れの下賤な人間に声を掛けられるなんて……」


 袖で鼻や口を押さえて、汚いものを見たというように表情を歪ませると足早に通り過ぎようとしたので、すかさず追いかけると「待って下さい!」呼び止める。


「私のことはどう言おうと構いませんが、『逢魔の角なし』ってどういうことですか? 角が無い鬼は駄目なんですか?」

「貴女は何も知らないのね。鬼にとっての角は鬼そのもので、存在意義でもあるのよ。角がない鬼なんて、鬼もどきじゃない」

「でも香雪は妖力を持っています。角が無くても鬼としての妖力を持っている以上、皆さんと同じ鬼で間違いありません。今は身につけていませんが、つけ角だってしていましたし……」

「あんな角! 先代鬼神様の形見じゃない。瀕死の重傷を負われた頭目様の命と引き換えに、自らの命を捧げたと言われているあの先代鬼神様の!」

「その頭目様が怪我を負ったのも、『逢魔の角なし』が鬼狩りに誘拐された家族を救おうとしたのが原因なんでしょう。角が生えていない無い半端者の分際で図々しいこと。封印されて良い気味だったのに」

「封印が解けたからって、こんな怪しげな草花を売り歩かないで、身の程を弁えて蟄居していればいいのに。変な臭いに鼻が曲がりそうだわ。おまけに芋みたいな娘からも臭って」


 愉快そうに笑い合いながら去っていく女鬼たちに桃花は言葉を無くす。

 鈴振が命に関わる怪我を負ったことがあるのも、香雪たちの母親が鈴振を救うために自らの命を捧げたことも。

 その全ての原因が狩谷家に攫われた海石榴を助け出そうとした――『角なし』の香雪にあることも。


(違う。香雪は悪くない。悪いのは海石榴ちゃんを妖刀の生贄に捧げようとした私たち……狩谷家)


 狩谷家が奪ったのは海石榴だけじゃ無かった。

 三つ子の母親と彼ら逢魔家の平穏な日々、そして『逢魔の角なし』として後ろ指をさされながらも、頭目としての務めを果たしてきた香雪の立場。

 到底、桃花一人で償えるものではない。


(どうしたら香雪の力になれるの? 私に何が出来るの?)


 涙が溢れそうになって、ぎゅっと目を閉じていた桃花だったが、すぐ後ろから聞こえてきた声に振り返る。


「あら、可愛いお嬢さん。一人でお留守番? 露店の人はどこに行ったの?」


 ござの上で正座をしながらこてんと首を傾げる海石榴に話しかけていたのは、木の杖をついて額から角を生やした鬼と思しき老婆だっだ。

 桃花が近づいていくと、顔を輝かせた海石榴がしきりに桃花を指して何かを老婆に伝えたがる。老婆にはそれだけで充分伝わったようで、愛おしむように皺の寄った頬を緩めたのだった。


「あら、貴女はこの露店の方?」

「はい……。香草の石鹸を売っています」

「香草……? 薬草のことかしら。薬草の石鹸なんて初めて聞いたわ」


 杖で石畳を叩きながら、老婆は朗らかな笑みを浮かべる。その表情で桃花はハッと気付いて、袂に手を入れると丸めた手拭いを取り出す。


「石鹸、試してみませんか? ここに同じものがあるので……」


 手拭いを開くと、中からは昨晩香雪に貰った石鹸の切れ端が姿を現す。もしかしたら石鹸の宣伝をする際に使えるかもしれないと考えて、手拭いに包んで持ってきたものだった。


「あら〜。見た目は蝋燭に似ているのね」

「手作りですが、使い心地だけじゃなくて、洗い終わった後の手触りや匂いも良いんです。石鹸に使っている薄荷と薫衣草は肌の保湿にも最適で、私も今朝使って感動したところです。匂いはあまり強くないので、薫きしめている香の邪魔にもなりません」


 香雪が持っていた荷物の中に水の入った竹筒があったのを思い出して取り出すと、中の水を自分の手と石鹸に掛ける。老婆が注目する中、湿り気を帯びた手で石鹸を擦っていると、やがて掌が白い泡に満たされたのだった。


「不思議な香りね。でもどこか懐かしいわ」


 泡に呼応するように薫衣草と薄荷の爽やかな香りが辺りに広がっていくと、その香りに気付いた通行人たちが足を止めてくれるようになる。白い泡に包まれた桃花の手から小さなしゃぼん玉が飛び立った頃には、桃花たちを中心として石鹸に興味を持った人たちが集まっていたのだった。


「何をやっているのかしら?」

「変な臭いって思っていたけど、なんだか心が落ち着くわ」

「石鹸なんてどれも一緒だろう。ただあの嬢ちゃんの石鹸は泡立ちが違うな……」

「かあちゃん、見えないよ!」

「静かにしなさい! 今良いところなんだからね!」


 そんな老若男女の話し声が耳に入ってきたことで、ようやく自分が注目を受けていることに気付いて膝がガチガチに震え出す。

 次の言葉を発しようにも口が乾いて、上手く言葉を乗せられない。そうしている間にも見物客は増加して、桃花の注目もより増していった。

 頭の中が真っ白になって、早くこの時間が去らないかと思い始めた時、視界の隅で桃花の腰に抱きつく少女の姿を捉える。

 桃花の大切な友人である海石榴であった。


(海石榴ちゃん……)


 桃花を勇気づけるように身を寄せる海石榴に気持ちを奮い立たせると、最後の仕上げとして竹筒の水を自分の手にかけたのだった。


「石鹸で洗うと、こんなに綺麗になりました……。どうですか? 泡立ちや香りの良い石鹸が一五銭。値切りも出来ます。そしてもっと石鹼が欲しいと思った人は、ぜひ『香草茶館・椿桃』に足を運んでください。石鹸にも使っている香草を使った美味しいお茶が飲めますよ」


 集まった観客に向けて石鹸で洗った手を見せていた桃花だったが、その瞬間に先程まで騒いでいた人だかりが水を打ったように静まり返ってしまったので、全身から冷や汗が流れ出す。観客たちが興味を持っていたのは石鹼ではなかったのだろうか。それとも香草茶館の宣伝を混ぜ込んだのがおかしかったのか。

 頭の中で嫌な想像を繰り返していると、どこからかか細い拍手が聞こえてくる。音の出所を探すと、両手を叩いて桃花を賞賛してくれたのは最初に声を掛けてくれた老婆であった。


「面白いものを見せてもらったわ。香草だったかしら。薬草なら昔から柿の葉やクマザサ、紫蘇があるけど、あれとは違うの?」

「今紹介した石鹸に使われている薫衣草はこの国の外……異国から伝わった植物なんです。海を渡った先にある諸外国では『自然の薬』として昔から利用されています。そこでは飲食以外にも身体に塗ったり、部屋に飾ったり、香のように焚きしめると疲れが取れて、心が安定したりするそうです」

「言われてみれば、その石鹸の匂いを嗅いでから、少しだけ身体が役になった気がするかも。そう思えば、悪くない香りかもしれない」

「本当ね。朝から働き詰めで疲れていたけど、まだまだ頑張れる気がしてきたわ」


 桃花の説明に同意するような言葉が広がっていく。すると、先程の老婆が銭貨を掌に載せて差し出してきたのだった。


「二ついただけるかしら。一つは自分用に、もう一つは贈答用に欲しいのよ」

「あっ、ありがとうございます!」


 老婆の購入する声が呼び水となったのか、女を中心に購入を希望する声が増える。桃花は傍らの海石榴と顔を見合わせると、後を絶たない買い込みの声に対応したのだった。


 ◇◇◇


(つ、疲れた……)


 最後の客が帰った時には石鹼はほぼ売り切れであった。引き札も配り終えたので、後は香雪が戻るのを待って引き揚げの準備をするだけというところに、周囲の注目を浴びながらも迷いなく近づいてくる者がいたのだった。


「大繫盛だったそうですね。姉者」

「鈴振さん!」


 居住まいを正した桃花に鈴振は「そこまで畏まる必要はありません」と、昨日より幾分か優しい口調で話す。


「残っていたら全て買うつもりで来ましたが、どうやらその必要は無かったようですね」

「すみません。鈴振さんの分を取り置きするのを忘れていました……。今朝も着物を用意して届けてくださったのに……」

「それなら心配は無用です。一つは手元にありますからね。姉者が売り子をされていたという、この露店で購入したものです」


 そう言って鈴振が袂から取り出したのは、間違いなく今日の骨董市のために桃花が油紙に包んだ石鹸であった。どうして今来たばかりの鈴振が持っているのか、目を瞬かせていると鈴振の後ろから聞き慣れた声がやってきたのだった。


「婆さんも相変わらず元気にしているな。わざわざ木の上で昼寝していた俺を見つけるなんて、勘が鈍ってないんじゃないか」

「育ての親に向かって婆さんなんて言うんじゃないよ! まったく自分の嫁を置いて仕事をさぼるなんて、そんな子に育てた覚えはないよ!」


 そんな他愛のない話をしつつ、時折、隣を歩く老婆の木の杖で足首を突かれながら、香雪は陽気な笑みを浮かべて桃花たちの露店にやってくる。


「香雪、と……その女性って……」

「お疲れ様。上出来だったらしいな。その時の桃の活躍について、婆さんに聞いていたところだ」

「婆さん言うんじゃないよ! さっきはありがとうね。香雪の女房さん。良い物を買えたよ」

「い、いえ……」


 どうして石鹸が売れるきっかけを作ってくれた老婆と香雪が親し気に話しているのか。

 首を傾げていると、咳払いをした鈴振が疑問に答えてくれる。


「こちらの老婦は私たち三人の乳母なのです。名を有明(ありあけ)と申します。今は頭目である私の世話役をしています。有明、彼女が兄者の伴侶である桃花姉者です」

「あの悪戯小僧だった香雪お坊ちゃんが嫁を迎えたと聞いて、様子を見に行くように鈴振お坊ちゃんに頼まれてね。それがまさかこんな気立ての良い別嬪さんだったなんてね~。あの悪ガキには勿体ない娘だよ」

「別嬪なんてことは……。あれ、三人の乳母だったってことは、海石榴ちゃんとも面識がありますよね。でも最初は初対面のように話していましたが……」


 海石榴を見ればあからさまに目を逸らされる。おそらく最初から有明の正体に気付いていたものの、石鹸を売ろうと必死になっていた桃花に気を遣ってずっと黙っていたのだろう。


「海石榴お嬢さまを責めないでね。黙っているように頼んだのはわたしなんだよ。鈴振お坊ちゃんに頼まれた物も買えて満足さ」

「頼まれたものですか?」


 有明と鈴振を交互に見て、「あっ」と気付く。有明が購入した石鹸の内、一つは贈答用と答えていた。その贈り先というのが、忙しくて行けるか分からないと話していた鈴振の分だったのだろう。

 桃花の視線の意味に気付いたのか、鈴振は居心地悪そうに眼鏡の位置を直しながら、「……坊ちゃんは止めて下さい」と小声で有明に反論したのだった。


「鈴振さんに頼まれて来ていたなんて気付かなくてすみません。おかげで石鹸が売れて、とても助かりました。ありがとうございました」

「いいんだよ。楽しいものも見られて、ついでに自分の分も買って有意義な時間を過ごせたからね。それにしても薬草はひと通り知っていたつもりだけど、まさか外つ国には知らない薬草があるなんてね~。今度茶館にもお邪魔させてもらおうか」

「ありがとうございます! ぜひ来て下さい。私や海石榴ちゃん、香雪もお待ちしています」

「俺は婆さんなんて待っていないけどな」

「働いている内は婆さんなんて言うんじゃないよ!」


 そうして仕事が残っているという鈴振と、鈴振に途中まで送り届けてもらうという有明が帰ってしまうと、桃花たちは撤収作業を始める。

 他の露店はすでに撤収したようで、残っているのは桃花たちを含めても数組だけであった。


「骨董市はどうだった? 楽しかったか?」

「はい。あの、香雪……」


 まだまだ桃花が知らない香雪たちのことを知りたい。香雪たちの幼少期、三つ子の母親のこと、海石榴の誘拐と鈴振の怪我、そして香雪自身について。

 先程の女鬼たちの反応で理解した。おそらく香雪たちはまだ桃花に隠し事をしている。

 役に立つかは分からないが、ほんの少しでも香雪たちの力になれる可能性があるのなら、桃花も協力したい。

 あの日、香雪が狩谷家から桃花を救い出してくれたように、桃花も香雪を救いたい。香雪の大切な家族である鈴振や海石榴のことも。

 そのためにはもっと香雪たちのことを知りたいと心が疼く。これまでは自分以外のことに構う余裕が無かった。そんな桃花が香雪たちを知りたいと思ったのがそれもそのはず。

 こうしている今も少しずつではあるが、桃花の心は香雪に想いを寄せ始めているのだから――。


「どうした?」

「いいえ。何でもありません。今回売り子をしてみて、自分が香草についてまだまだ何も知らないことに気付かされたんです。それでこれから私も香草の良さや魅力をもっと知って、たくさんの人に伝えたいと思いました。そうしたら海石榴ちゃんと香雪の夢を叶えるお手伝いが出来ますよね……?」


 頬を朱に染めながら桃花が恐る恐る申し出ると、二人は無言で顔を見合わせたので、余計なことを言ったのかもしれないと不安が募りだす。

 今の言葉を取り消してもらおうと口を開きかけた時、ようやく兄妹は揃って相好を崩したのだった。


「香草について、これからみっちり教えてやるから覚悟しておけよ。俺の花妻さまが淹れる香草茶は世界一美味いって鬼の世界に広めるためにも、あの茶館を有名にするつもりでいるからな」

「それは過大評価な気がします……。ねぇ、海石榴ちゃん?」


 名前を呼ばれた海石榴は、どうしてそんなことを言うのかという顔をして子犬のように小さく首を傾げたかと思うと、妖刀の中に戻ってしまう。

 海石榴が首を傾げた意味は、香雪と桃花のどちらの言葉に対してなのか。

 今はまだ知る術が無い桃花だった。

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