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バタイフォレクオン

ルーター伯爵家の三姉妹

「うそ、でしょ?」

テレーズはその場にペタンと座り込んだ。


最近ずっと自分に贈り物を送ってきていた美丈夫が、自分の目の前で、両親に愛されていない妹に愛の言葉を告げた。


テレーズに捧げられるはずの言葉、眼差し、全てが自分より劣っているはずの妹に向けられた。目の前の彼、コルネリウスになら嫁いであげてもいいと思っていたのに。


挙句、高度な練度、高魔力量と魔法センスが揃わないと使えないはずの転移魔法を使った。あの妹が。一瞬でこの場から目の前の二人が消えた。あの無能なはずのバネッサが使ったとしか思えない。天才と称されるコルネリウスではなく。


魔力がどこから発せられているのか、この判断だけは間違えたことがなかったテレーズ。バネッサの魔法があんなに凄かったなんて。キレがあって美しく、あり得ない程速かった。


しかもコルネリウスは絶対にバネッサが好きだ。あんな風に見つめられるのはテレーズのはずだったのに。ルーター伯爵家の邪魔者、家族のはみ出し者、バネッサは商人の妻になって貴族ではなくなるはずだったのに。


体内の魔力が上手く循環しない。息苦しい。頭が痛い。思い描いた未来との乖離に耐えられなくなったテレーズは、その場で意識を失った。辺りには焦げたような匂いが漂ったが、すぐに霧散して消えた。


運悪く、そのすぐ近くにはタイダル王子が倒れていた。バネッサに炎の魔法を投げつけて、助けに来たコルネリウスが拘束して引き倒した男。彼は倒れた時に浴びせられた雷魔法のせいで意識を失っていた。愛しいバネッサを炎の魔法で燃やそうとしたことに怒ったコルネリウスは帯電していたので恐らく触れただけで。


その時周囲に人はまばらで、バネッサとコルネリウスが転移するところを見たのはテレーズただ一人だけだった。


王立貴族魔法学園の馬車駐場へ向かう道の途中に、男女が倒れているのを学生が見つけて大騒ぎになった。気絶した女性と拘束されたまま意識を失っている王子。一見事件。


実際は二人はある意味無関係なのだが、何か大変なことを見てしまったかもしれないという期待と、校内でも知られている二人だったことが仇になって様々な憶測を呼んだ。


学園の職員の手配で、タイダルは王宮に運ばれた。宮廷魔法使いに拘束を解いてもらい、治療を受けた。テレーズは王子に害をなした可能性があるとして、気絶した状態のまま馬車で王宮へ運ばれた。さながら眠り姫のようだった、と後に王宮関係者が言ったとか言わなかったとか。


タイダルは割とすぐ意識を取り戻したが、テレーズは意識を失ったまま。表面上傷もなく、服毒した様子もない。医師は、目覚めてみないと分からないが心因性かもしれない、と言った。


心というのはショックを受けると、心のエネルギーを満たす器のようなモノが傷付き、エネルギーがこぼれ落ちていくのだそうだ。魔力と心は深い関係性があり、魔力の体内循環に影響があった場合は特に危険だと心配そうだった。


「このお嬢さんは魔力の練度が低く、耐性が低いんでしょう。近距離で高魔力に晒されたのか、魔力酔いをした形跡もありました。ほら、髪の毛のこの部分です。ね? 色が変わっているでしょう? 恐らく転移魔法が近くで使われたのでしょう。文献で見たことのある色です」


その医者は多くの弟子を連れてテレーズの診察をしていた。大変珍しいケースの昏睡状態なので、弟子に直接観察させたかったらしい。日和見主義の父親の判断で、弟子の見学を了承してしまった。


テレーズの姉のアネモネは、本人の承諾もなく未婚の女性を研究材料に差し出すなんてそれでも親か! と怒鳴りつけた。まだ婚約者もいないのに! と。実は、アネモネが激昂するのは両親に対してのみである。許せないと感じることを彼らはやらかす。これまでの諸々で、両親に対し複雑な感情を持っていたのも関係するのかもしれない。


王家から、王位争奪戦『バタイフォレクオン』開催の知らせが、対象貴族家に届いた時もテレーズはまだ王宮で眠っていた。周知される数日前、アネモネの婚約者、エドガル・アルホフ侯爵令息が先触れもなくルーター伯爵家を訪ねてきた。ちなみに侍女として働いていた三女バネッサが家出をしたその日のことである。


「婚姻を急ごう!」

「どうしたのです? 結婚式は一年後の予定ですよね?」

普段冷静なエドガルは顔面蒼白。アネモネは初めて見る彼の姿に不安そうな顔をした。庭を散策していた父親のルーター伯爵も談話室に呼び出された。


「誰にも漏らさないでいただきたいのですが、数日中にバタイフォレクオンが開催されます」

「え? 可能なのですか? 今の王家が法を変えたと聞いていたのですが」


「流石アネモネ。その通りだ。今の王族が法を歪めたからもう開催できないことになっているとばかり思っていた。しかし、その法よりも高位な『法』があったのだ。始まりの国から脈々と続く『法』が」


ルーター伯爵も顔色が悪い。この国に暮らす者で知らぬ者はいないおとぎ話、『三人の王』。この国は彼らが始めた国で、『バタイフォレクオン』という王位争奪戦が行われ、総合的な成績順で王から伯爵位までの爵位が決まるとされていた。今の王家になってからかなりの年数が経っているし、もう都市伝説の類だとすら思っていた。


学者や様々な識者を集めて膨大な量の問題を作らせ、二十四時間、参加希望者に問題をひたすらに解かせる過酷な戦い。参加資格は伯爵位以上の貴族家の者と定められているのは学園で学んだ。


「バーソロミュー侯爵家のコルネリウス殿が異議申し立てに旅立たれた。王族に不満がある場合に使用できる権利というやつだ。出立前のコルネリウス殿に、ルーター家は伯爵のままではいられないだろうと告げられた。本来なら対象者に通告されるまで秘する義務があるが、降爵の可能性がある家の者が文官として王宮で勤務している場合にのみ、対策の時間が貰える。僕をルーター家の者として扱ってくれたんだ。これは彼の温情だよ。今コルネリウス殿は丘の上の神殿へ向かっている。転移魔法を使ってはいけないという規則があるから、麓までは馬車だ。それから神殿の三千段の階段を一段ずつ上る。異議申し立てが成立して戻ってくるまでは恐らく二日。それまで足掻けるだけ足掻きたいと思うんだ。コルネリウス殿の異議申し立ては間違いなく認められるだろうし、通達が出たらすぐに神殿に向かった方がいいからね」


「異議申し立てという制度があるのですか? そもそもなぜそれが結婚を急ぐという話になるのでしょう?」

「失礼ながら、僕がルーター伯爵家の代表として出るのが一番効率的だと思うんだ。末っ子とはいえ、優秀なバネッサ嬢がいれば一番良いんだが、コルネリウス殿が囲ってしまわれた。今彼女はバーソロミュー侯爵家にいるはずだ。テレーズ嬢は元々の評判も微妙だが、何にせよ今王宮で保護されて眠り続けている。一緒に倒れていたタイダル殿下の証言で疑いは晴れたが、一時は殿下に害をなした人物として身柄を拘束されていたんだ。もちろんアネモネは領主として不足はないし、伯爵位をキープするためだったら充分な実力があるだろう。だが、バネッサ嬢への養育義務違反が判明した今、侯爵位以上の順位が必要となる。違反の罰則は降爵なんだ」


第一位から順に、王もしくは王太子が一人、公爵が二人、侯爵が四人、伯爵が八人選ばれる。それ以下は子爵や男爵に。兄弟姉妹がいればその数だけ受験者は増える。これも学校で学ぶこと。


「養育義務違反、ですか?」

不安そうなアネモネは父親を見た。顔色が悪い。

「バタイフォレクオンのことだ。学校で学ぶこと以外に、異議申し立て制度のことなど、一族で代々伝わっているべき内容がいくつかある。それらをバネッサ嬢が知らなかったことが問題視されている。まあ、今アネモネも知らないことが判明したんだがな」


「わたくしも異議申し立て制度については存じませんでした」

「アネモネ、覚悟を決めよう! 僕と結婚してほしい。このままではルーター伯爵家は、よくて子爵位、最悪男爵位まで降爵する可能性がある。どちらにせよ、領地を国に返さなければならなくなる。今すぐアネモネに代替わりをして、夫婦である程度の成績を取れば何とかなるんじゃないかと思って、こうして提案しに来た。せっかく二人で進めてきた領地改革をアネモネと一緒に見届けたいし、何より最後までやり遂げたい。二人でコツコツと頑張ってきただろう? 仮に誰かが引き継いだとして、僕たち以上に熱意を持って取り組んでもらえる保証もないし、僕たちが知る全てを引き継げるとも思えない。娘たちが学園を卒業するまではとお義父上に請われ、僕たちの結婚を先延ばしになどしていなければ……」


「エドガル様、わたくしは既にあなたの妻のつもりでこれまでも過ごして参りました。単に書類上のことですから、早速動きましょう! お父様、異論はございませんわよね」

「あ、あぁ。あの、モデスタから聞いていなかったのか? 本当に?」


「お義母上は子爵家の出身ですから、一族に伝わる伝承があることもご存知ないはずです。誓約魔法があるせいで、両親が存命の場合はお義祖母様も孫に伝えることができませんから、さぞかしもどかしかったことでしょうね」

「そう、か……。すまない。確かに受け継いだものはある。でも、アネモネに会場に繋がる千段の階段が上れるんだろうか」


「お父様! 状況を分かっていらして? 一刻の猶予もございませんのよ? 階段なんて気合いで上って見せますわ! 打てる手は全部打っておかないと! 後悔するのは終わってからで十分です。 さあ! さっさと婚姻の書類を作ってくださいませ!」


久々のアネモネの怒号にエドガルも身を引き締めた。末っ子のバネッサは昔からアネモネのこれが恐ろしくて仕方がなかった。アネモネは、領地を立て直そうと頑張っていたせいか、両親が不甲斐ない時に感情が昂って怒鳴りつけてしまう癖があった。六歳離れているバネッサには理由までは分からなかったのだろう。


次女のテレーズはしっかりしていると思っていた。ただ、なかなか学園を卒業しないことに違和感はあった。言うことだけは一人前。まさか行動が伴っていなかったとは。


エドガルの口振りから想像するに、やはりバネッサに関する噂は本当だったのだろうとアネモネは裏切られた気持ちでいっぱいだった。天才魔法使いコルネリウスと共同研究をしている優秀な魔女は身内にいたのだ。


「アネモネ、もう一つコルネリウス殿から言付かっているんだ。執事のセバスチャンには伝えたとは言っていたが、彼の立場上難しいかもしれないと言われてね」

ルーター伯爵がモタモタと書類を作っている横でエドガルが眉間に皺を寄せている。


誰が書いた書類なのか鑑定魔法で確認できるので、例え時間がかかったとしても本人が作るしかない。本人の意思に反して書かされたかどうかも分かってしまうし、偽造も見破ることができる魔法。例えゆっくりであったとしても誠心誠意書き上げる必要があるのだ。


「コルネリウス様というと、バーソロミュー侯爵家の嫡子でしたわね。バネッサと交流がある」

「そうなんだ。バネッサ嬢宛に贈った物が本人に届いていないそうなんだが、何か知っているか?」

「いいえ。ねえ、侍女頭を呼んでちょうだい」

アネモネは強張った顔で近くにいた侍女に声をかけた。


「お呼びでしょうか」

侍女頭はすぐに談話室に入ってきた。

「バネッサ宛の贈り物のことなんだけど」

「申し訳ございません!」

侍女頭の姿が一瞬で消えたと思ったら、床に平伏していた。この国にも伝わっている東方の国の習慣。命を投げ出すほどの謝意。そう、土下座である。


「どういうこと?」

「テレーズ様のご指示です。昨夜セバスチャンにバーソロミュー侯爵令息からお手紙が送られてきました。贈り物に関してのご指摘をいただき、至急可能な限り集めた物をこちらにお持ちしました」

部屋の外で待機していた侍女がテーブルに様々な物を並べ始めた。


「旅のお土産、かしらね? まあ! 立派な宝石まで! え。こんなに、たくさん……」

「ああ、僕たちがどう頑張ってもお家取り潰しレベルの所業だね」

「横領? 窃盗? どうしたらいいの?」

アネモネの目には涙が。


「アネモネ様」

セバスチャンが歩み出た。

「残っている物はそのまま、紛失した物はそれなりの物を返してくれれば構わないと伺っております。未来の妻の実家だから、とのご伝言もございました」


「なるほど。バネッサ嬢をバーソロミュー侯爵家に嫁がせるのが条件か。彼女が生み出す知恵も利益も全てがルーター伯爵家とは無縁のものとなってしまうが」

「バネッサはそんなに優秀なの?」


「ああ。恐らく最短卒業記録を更新するだろう。ほら、在学年数は人によるだろう? 平均三年。彼女は一年強で卒業するだろうと言われている。コルネリウス殿との共同研究は『視力を回復する魔法』なんだ。有用性が高く、被験希望者もかなり多いらしい。眼鏡業界には大打撃だが、服飾産業で生き残るだろうと言われている。レンズに関しては他にも利用できるし、他ならぬバネッサ嬢が医療用や天文学用に研究を進めている。新しくいくつかの魔法を生み出す可能性があるとも聞いた」

「テレーズが言っていたことは完全に嘘だったってことね」


「何となく想像できるよ。そもそもテレーズ嬢こそ学園を卒業する見込みが極めて低いらしく、合宿参加者リストに名を連ねている。必要単位数も足りず、共同研究をしている様子もないし在学年数も長くなっているしね。そろそろ後から入った子たちのほとんどに追い抜かれるよ」


「なんてこと……。婚約者を探していると言っていたけど、まさか本当にそれだけだったってこと? お父様、ちゃんと学園に入学する時に説明したのですよね? ちゃんと単位を取って共同研究をしないと卒業できないのだということを」


「そう言われても、私は学園に通っていなかったから……」

「まさかご存知なかったのですか? はぁ。そうでしたわ。お父様は貴族学校の方でしたわね。そこでお母様と知り合われて……」

アネモネは深いため息を吐いた。気まずい空気が流れる。前伯爵だった祖母は勤勉な人だったのに……。アネモネは拳を握りしめた。


「今はとにかく前を向いて、できることをしていくしかありませんわ!」

「そうだね。できることをしよう。じゃあ、まずこの書類にお互いサインをして、と」

エドガルは出来上がった婚姻届を確認すると、アネモネを抱き締めた。


「もっとロマンチックな状況でサインをさせてあげたかった。今は緊急事態だしお互いなんとか切り替えて共に頑張ろう! これまでにも困難はあったし、今回もきっと乗り越えられる。でももし、どうしてもダメだったとしても、二人で前を向いて生きて行こう」


「ええ。あなたとならどこまでも」

「アネモネ。愛してる」

エドガルはアネモネの頬に口付けを贈った。名残惜しそうに行ってくると言い残して婚姻届を提出しに王宮へ向かった。二人はこうして励まし合って、現ルーター伯爵夫妻が無自覚に荒らした領地を少しずつ立て直してきたのだった。


「セバスチャン、エルケ、今はとにかく贈り物を集めて、リストを作って一つずつ確認していきましょう。コルネリウス様のご配慮に甘えてはいけませんわ」

「承知しました」


贈り物に添えられていたカードが侍女頭のエルケによって保存されていたのが不幸中の幸いだった。何が贈られていたのかリスト化することができた。


使用済みになってしまった香水や髪飾りなどは新しい物を可能な限り手配する。手作りの一点物のように代替品がない場合は相当額を、と目録を作って代替品の提案を書き添えた。


コルネリウスの瞳と髪の色に合わせた一点物の髪飾りは凝った作りで、彼のバネッサへの想いが伝わってくるかのようだった。アネモネはその想いを踏み躙った妹、テレーズのことが許せなかった。そして、領地のことばかり考えていて、バネッサが被った不利益に気付けなかった自分のことも。


バネッサはいつからこんな風に扱われていたんだろう。贈り物を姉に奪われるなんて。まさか、他にも何かされていたのでは? エルケに尋ねると、顔色が悪い。テレーズがバネッサ用の予算を自分のものにしていたと告げられて目眩がした。


「なぜ、許したの?」

アネモネはエルケを睨み付けた。

「テレーズ様に逆らったらどうなるか分からないのに、許さないなんて無理です! バネッサ様への嫌がらせをアネモネ様に伝えようとした侍女がどうなったかご存知ないのですか? 顔に淹れたての紅茶をかけられて職を辞したのです。入院した後どうなったかは知りません。可愛らしい女の子だったんです。真面目で一生懸命で。なのにモデスタ様もあの子が悪いと仰って……」


「この家がそんなに歪だったなんて……。わたくし、何も知らなかったわ……」

「領地では災害もありましたし、ご両親の代わりにアネモネ様はお忙しかったですから」

「家はテレーズが守ってくれていると思い込んで……。愚かね。妹だからってテレーズの言うことを簡単に信じて何も調べなかったわ。ダメね。身内だからって考えが甘かったわ」


重い空気が漂う談話室にセバスチャンが戻ってきた。

「アネモネ様、揃った物をバーソロミュー侯爵家に届けて参ります。あちらの執事殿にお預けすることにはなりますが、素早い対応が誠実だと思いますので」

「そうね。こちらに使用済みの品と捨てられた品の目録を用意したわ。代替品の提案がそれでお許しいただけるかの確認をお願いね」

「承知しました。行ってまいります」


セバスチャンを見送ると、アネモネはソファに座り込んでしまった。張り詰めた緊張が急に途切れた気がする。

「わたくし、何も分かっていなかったんだわ。バネッサのこともテレーズのことも。エドガルとの領地改革は大変だったけれど楽しくて、家族のことを何も見ていなかった」


「アネモネ様……。私こそ、もっと早くご報告すべきでした。申し訳ありませんでした」

「いいのよ。怖かったんでしょう? テレーズのことはもちろんだけど、きっと、私のことも。でも、考えるのは後よ。差し迫っているバタイフォレクオンが最優先だわ。さあ、気合を入れて準備をしましょう。それに、動いていた方がくよくよしなくて済むしね。わたくしはお父様に受け継いでいる物を見せてもらいに行くわ。あなたは千段の階段を登るのに向いている服装や飲食物を揃えてもらえる?」

二人はお互い無言で頷き合うとそれぞれ動き出した。


執務室にいる父に声を掛ける前に、深呼吸を一回。扉をノックして入室の許可をもらう。

「お父様、この家が受け継いでいる物を見せてください」

「金庫に入っているよ。多分あれがそうだと思う。私には読めなかったから何について書いてあるのか分からないんだ。今日からは全てアネモネの物だ。役に立つ物であることを祈っているよ。私はモデスタが邪魔しないように旅行に連れ出そうと思う。アレが騒ぐと邪魔だろうからな。こんなことしか思いつけなくてすまない」


「いえ。確かにお父様のおっしゃる通りですわ。残念ながら」

「継承の儀式は落ち着いてからで良いだろう。この書類がせめて後押しになればいいのだが」

差し出された書類は伯爵位の移譲届だった。あとはアネモネがサインをするだけだ。

「健闘を祈る」

父から小さな鍵を渡されたアネモネは、何も言わずにカーテシーをして執務室から出る父を見送った。伯爵位を父から受け継ぐ決意。もう逃げられない。


執務室の金庫を開けると、奥の方に開き扉があった。

「これね」

小さな鍵で扉を開けると中には数冊の本が入っていた。丁寧に一冊ずつ取り出す。全部取り出し終えたアネモネは、そのまま執務室の、父のモノだった机の上で本を開いた。


(日記? いえ、体験記だわ。古語ね。かなり初期のバタイフォレクオンのことかしら。覚えて、限り、問題、書き写す。同じ、問題、ない、思う、傾向、分かる。なるほど。出題された問題を可能な限り書き留めたのね。出題傾向、か……内容までは分からないけど、計算問題、語学、文学、恐らく哲学。うーん、多岐に渡るわね)


準備期間が少ないアネモネは、運べそうな数だけ読めそうな本を選び、残りは金庫に戻した。

(時間がないから全部は無理ね。なるべくたくさん読んでおきたいわ。ああ、筆記用具も必要ね。今こんなことを考えても意味がないけれど、お父様がもっと早くわたくしに伝えてくださっていたら、もっともっと準備ができたのに……。エドガルの言う通りだわ。わたくしでは不十分だったわ)


ポロポロとアネモネの涙がドレスに零れ落ちる。頑張っていると思っていた。できていると思っていた。そもそも、スタート地点から違っていたなんて。

(だから高位貴族は何度バタイフォレクオンがあっても高位のままでいられるのかもしれないわね)


大きな違いはただ一つ。伯爵位以降が参加した回数が少ないからなのだが、アネモネは知る由もない。初回は三人の王のみ。その次からは子どもたちが興した家が加わっていき、徐々に参加者が増えていった。後から加わった家ほど持っている情報量が少ないのは、ある意味仕方のないことだった。


母、モデスタが刺繍をしてくれた優しい色のハンカチで涙を拭った。アネモネは顔を上げて、日記を手に部屋を出て行った。


それからの数日は嵐のように過ぎ去った。婚姻届と爵位移譲届が受理され、バタイフォレクオンの開催が通告された。それまでの間、二人で体験記を読み漁った。


アネモネとエドガルは手続きが間に合ったことにホッとしたのも束の間、神殿に向かって移動を始めた。可能な限り早めに到着したいからだ。受付の長蛇の列に並ぶだけでも体力が削られる。出発直前の忙しい時に王宮からの要請が届き、エルケが王宮でテレーズの世話をすることになった。残りの用事は全てを先送りにして神殿に向かう。


神殿がある丘の麓までは無事に到着した。二人はここ数日の疲れが出たのか、道中の馬車では寄り添って眠っていた。神殿に近づくにつれ、千段の階段が見えてくる。聳え立つ階段はまるで白い壁のようだ。


真っ直ぐに神殿へと伸びている階段の前には門があり、神殿騎士が守っている。受付はすでに始まっていて、身分確認や荷物検査などが行われていた。十数人が既に並んでいた。


板を持った騎士が歩いてくる。列の前方から順にその板に手をかざすようだ。数名が連行されて行く。替え玉受験なのではないかとエドガルが囁いた。あの板に触れると嘘をついているのが分かってしまうのだそう。あの一族はもう終わりだ、と苦い顔でエドガルは言った。


嘘をついているわけではないのに、アネモネは板に触れるのが怖かった。勇気を振り絞って板に触れると、少しひんやりとしていて手が震えた。

「はい、大丈夫で〜す。ご協力ありがとうございま〜す」

エドガルも難なく検査を終え、身元確認を待つ。


緊張を察してくれたエドガルがアネモネの背中を宥めるように撫でた。目配せと微笑みで感謝を伝える。

(エドガルがいてくれて良かった)

アネモネは彼との穏やかな未来を思い描いて、決意を新たにした。


周囲を見ると夫婦で参加している人たちは少なくなかった。エドガルが言っていたように考える人たちが意外と居るのかもしれないし、それぞれの家で伝承されていたのかもしれない。両親の甘さが頭を過ぎる。これまでも、その度に自分がやるしかないのだと何度も自分に言い聞かせ、絶望の淵から立ち上がってきた。


息が上がる。脚が痛い。ひたすらに足を上げて階段を上る。エドガルも辛いだろうに、常に隣にいて気遣ってくれる。身元確認も荷物検査もすんなり通った。


その時からエドガルはアネモネの荷物も背負い、しっかりと手を握って支えとなり、丁度良い加減で引っ張ってくれる。必要な時に飲み物や食べ物をスッと渡してくれる。


アネモネは嬉しくて涙が込み上げてくるのを必死に誤魔化した。泣いたらもっと苦しくなるし、エドガルにも気を遣わせてしまう。階段を一段一段上りながら、『ああ、これは人生だ』と考えていた。


コツコツと積み重ねて今がある。自分、家族、一族、国。きっと自分は何かに生かされてきたのだ。例えどんな結果になったとしても、この気持ちを大切に、真摯に生きていこうとアネモネは心に決めた。


階段を上り切った先に乳白色の神殿があった。一人一人に案内人が付いて、中へと入って行く。会場は広く、無機質だった。無数の白い箱が並んでいる。エドガルの背よりも高い箱。箱の扉を開けると中には机と椅子があった。


案内された席に座る。机の上には既に問題集が数冊置いてあった。どれから解き始めてもいいし、飲食等の休憩は自由に取って構わないと伝えられた。


箱を出たい時に押すようにと板を貰った。箱の外では必ず案内の人が付き添うので、早めに知らせるようにとのこと。準備ができたら問題を解き始める。合図から丸一日が期限だ。

「よろしいですか? はい!始め!」


徹夜で解くもよし、仮眠を取るもよし。日記には可能な限り解いて、辛くなったら仮眠を取る方がいいと書いてあった。計算問題は初めに、飽きないように同じジャンルばかり解かない、焦らない、深呼吸。


(よし)


深い息を吐いて、アネモネは問題を解き始めた。分かる問題から解いていく。その頃のエドガルも問題用紙に向き合っていた。アネモネに見せてもらった日記には『朝四時になったら明の星を見に行け』と古語で書いてあったことを思い出していた。


無言で、案内人同行必須という条件付きではあるが、気分転換に外に出ることもできる。アネモネと三時五十五分になったら入り口で会おうと約束をしていた。


最初エドガルはアネモネのことが苦手だった。自分の両親を高圧的に怒鳴りつけている現場を見てしまったからだ。元々は政略で縁付いた二人。アルホフ侯爵家が欲した条件に合う土地がルーター伯爵領にあったからだ。アネモネは三姉妹で、婿養子が必要。年齢も丁度良い。


両親を怒鳴りつけたアネモネの葛藤を知った時、エドガルの心境は変わった。彼女は頼りない両親のせいで傾いた領の復興にから回っていたのだ。領民のための感情の爆発だったと知って心が動いた。人が良いだけでは領地経営は上手くいかない。あの両親は市井でだったら幸せに暮らせたのかもしれない。


アルホフ侯爵家にも先人の言い伝えは多く遺されている。子どもの頃から慣れ親しんだ類の問題。ルーター伯爵家にあった日記よりも多くの内容が遺されていた。『朝の四時』何が起きるんだろう。


これは侯爵家にはなかった情報だ。もちろん侯爵家には今後も伝えない。ルーター伯爵家の子孫にのみ伝える内容だ。将来この情報を侯爵家に伝えたせいで子孫が苦しむなんてことになったら困るからだ。なるべく多くの問題を解こうと努めながら三時五十五分を待った。


案内人を呼んで入り口に向かうと、アネモネがすでに待っていた。お互いの案内人に挨拶をして『明の星』を探す。よく晴れた夜で、麓の街には所々にある灯りが星のようにも見える。あれのことだろうか。それとも空にある星のことだろうか。


「おや、『明の星』を見に来たのかい?」

おとぎ話の絵本で見たことのある男性に声をかけられた。国を始めた三人の王の一人にそっくりな男性が、まるで絵本からそのまま抜け出てきたかのようにそこに立っていた。


二人は貴族の礼を執った。

「ああ、話さなくていいよ。『明の星』はルーター家に伝わる伝承だったね。君がルーター家の子孫かな。古語を学んだのかい? 頑張ったね。ご褒美だよ。はい、そちらの君も」


魔法が放たれた。二人はキラキラと金色に輝いた乳白色のモヤに包まれた。

「疲労回復効果があるんだよ。君のご先祖が国に貢献した時に望んだ褒美なんだ。今回は渡せてよかった。ではね」


その男性は神殿の入り口には入らず、神殿に沿って奥の方へ進んで行った。

「では戻りましょう」

案内人に声をかけられるまで、その不思議な人の後ろ姿を見送っていた。


嘘のように疲労がなくなったアネモネとエドガルは仮眠を取ることもなく最後の瞬間まで問題を解き続けた。案内人に声をかけられるまで集中が続いていたからか、終わりを告げられてしばらくは放心状態だった。解答用紙が片付けられ、再び案内人が迎えに来るのを待って箱を出る。


入り口まで案内された二人は案内人にお礼を言って別れた。

「不思議なお方だったわね」

千段の階段を支え合って下りた二人は麓の街でお茶を飲んでいた。


「まるでおとぎ話の絵本からそのまま抜け出てきたかのようだったな」

「ええ。そっくりだったわ。あの絵本は実際のお姿を描いたものだったのね。それにあの暖かな魔力、素晴らしかったわ。わたくしも使えるようになりたい。もっともっと学びたいわ」

「ああ。実に素晴らしい体験だった。アネモネ、これからもよろしく」

「わたくしこそですわ。エドガル」

二人はお互いの手をしっかりと握った。


バタイフォレクオンが終わり、いよいよ結果が告げられる。王宮に集まった参加者たちは順に封筒を受け取った。その中には順位が書かれた紙と上位の者には爵位認定証が入っているが、合図があるまでは開いてはいけない。全員が封筒を受け取ると、足下に大きな魔法陣が現れた。


「これより、爵位認定の儀を始める」

この国の者なら誰でも絵本で見たことのある三人の王が姿を現した。会場にどよめきが起こる。


「本物?」

「絵本の!」

「え。何年経っていると……」

「素敵」


三人の王の一人が持っていた長い杖で床をトンっと叩いた。

「ここにいる者のこれまでの爵位を無に帰した」


二人目の王が同じように長い杖で床を叩くと、足下の魔法陣が金色に光った。

「順位確定。順に新しい爵位を叙す」


最後の王も長い杖で床を叩いた。会場の景色が一瞬で変わり、立食パーティーの会場になった。

「労いだ。よく飲み、よく食べ、よく笑うがいい。またバタイフォレクオンがしたくなったら、三千段の階段を上り、濁りなき心で我らを訪ねるがいい」


金色の粒がキラキラと三人の王を包み込むと、光に溶けるように姿が見えなくなった。しばらくの静寂の後、一気に歓声が上がった。


三人の王に会えた喜び、素晴らしい魔法に触れた高揚感、バタイフォレクオンが終わった開放感。様々な感情が会場を揺らした。


封筒の中身を見ずに食べ始める者、封筒を見て喜んだり、落ち込んだり、三者三様。アネモネとエドガルはまず果実水の入ったグラスを受け取って二人で乾杯し、健闘を称え合った。軽食を食べて少しだけ身体を労った後、壁際に用意されていた椅子に座った。


お互い無言で封筒を開く。

『アネモネ・ルーター、第十位。ルーター家は養育義務違反につき降爵。詳細はエドガル・ルーターの書類に記す』


『エドガル・ルーター、第六位。侯爵位相当。ルーター家は降爵するため、伯爵位とする。夫婦で参加した場合は上位の爵位が適用されるため、ルーター家は伯爵位とし、エドガルをルーター伯爵に任命する』


二人は無言でお互いの書類を交換して読んだ。

「良かった」

アネモネの目から涙が零れ落ちた。

「エドガル、ありがとう!」

エドガルはアネモネを抱きしめた。彼は泣き顔を見せたくなかった。

「これからもよろしく」


涙声のエドガルに気付いたことを悟られないように、アネモネも答えた。

「こちらこそ」


エドガルは近くに誰か来たことに気付いて涙を拭った。顔を上げるとコルネリウスが立っていた。

「お疲れ様。どうだった? 何とかなった?」

ルーター家を心配している表情に見えた。


「お陰様で現状維持できました」

「よかった。バネッサが気にすると思って心配していたんだ。代替わりも済ませたんだよね? 早速で悪いんだけど、バネッサとの結婚の書類を作ってもらいたいんだ。いつなら時間が取れる?」


「もちろんいつでも大丈夫ですわ。ただ、これだけは確認したいのですが、バネッサは了承しているんですよね?」

「ああ、返答はもらっている。でも一度両家で顔合わせの時間くらいは取りたいと考えてはいるから、その時に本人に確認してもらって構わないよ。あと、医務室に来てほしい」


「医務室、ですか?」

「そうだ。テレーズ、と言ったか?バネッサに害をなしたあの『姉』が保護されているから連れて帰ってほしいとのことだ。バタイフォレクオンの間は大変だろうからと王宮で対応してくれていたんだ」


「妹が、重ね重ね申し訳ございません」

アネモネはコルネリウスに頭を下げた。

「ああ、贈り物の件もあったな。僕が選んだ品を図々しくも使用した上にそれも、あ、いや、まずは医務室に行こう」


エドガルとアネモネは顔を見合わせた。コルネリウスの様子からテレーズに何か起きたのは間違いなさそうだ。二人は緊張が高まり、無意識にお互いの手を握った。


三人は王宮の職員に案内されて医務室に入った。医師と看護師、そしてテレーズがテーブルを囲んで座っていた。エルケは奥の方に控えていた。

「テレーズ?」


アネモネが話しかけても反応がない。いつもだったら、姦しく自分の要求を遠慮なく言い、人を従えようと画策するテレーズが大人しい。流石に反省しているのだろうか。


血を分けた妹への、あんまりな印象を自分が持っていたことに気付いて、アネモネは自虐的に微笑んだ。

「テレーズ、お姉様よ。迎えが遅くなってしまってごめんなさいね。さあ、一緒に家に帰りましょう?」


アネモネはテレーズの表情がいつもと違うことに気付いた。アネモネのことが分かっていないように見える。困惑した様子で医師や看護師に目線を移す。


「ダメでしたか……。お姉さんに会えばもしや、と思ったのですが」

医師は申し訳なさそうにアネモネを見た。


「記憶喪失です。診断魔法も使用したのですが、受け入れ難い事実に直面したことにより受けた衝撃で記憶領域が損傷を受けたようです。一種の魔力事故と申しますか、傷ついた自分を守ろうとして脳の記憶に関する部位を無意識に損傷させた結果記憶を失った、との診断が出まして。その場にいた方の証言によると、コルネリウス様とバネッサ様が一緒にいらしたとお聞きしたので、皆様にご来室いただいた、という訳なのです」


「バネッサによると、僕とバネッサの様子を見たテレーズ嬢はこれまでに見たことのない顔をしていたそうだから、僕たち二人が受け入れ難い事実だったんじゃないだろうかと推察する。エルケ、何か分かるか?」


コルネリウスに指名されて、部屋の隅に控えていたエルケが歩み出た。アネモネ とエドガルに申し訳なさそうに会釈をしてから話し始めた。

「大変申し上げにくいことなのですが」

「構わない。不敬には問わないから遠慮なく伝えてくれ」

アネモネもエドガルもエルケに頷いて見せた。


「承知しました。テレーズ様は、コルネリウス様がご自分に贈り物をしていると思い込んでおられたようなのです」

「話したこともない相手から?」

「はい。バネッサ様よりもご自分の方が男性から愛される存在であるとも信じていらしたので、バネッサ様に贈り物をする男性がいるとは認められず、ご自分の美貌でコルネリウス様を虜にしたと信じておられたようなのです」


その場にいた全員が黙った。当の本人もこの話を聞いているのだが、自分がテレーズだと覚えていないせいで、そんな人がいるの?と言いたげな表情をしている。ついその表情を見てしまったコルネリウスは顔を隠して笑っていた。肩が震えている。


「それでしたら辻褄が合います」

腑に落ちた顔で医師が告げた。

「憶測ではありますが、テレーズ様は魔力操作があまりお得意ではないのではありませんか?」


「どうなの? エルケ」

「おっしゃる通りでございます。恐らく学園卒業も危うかったかと」

「やはりそうでしたか。実はそういった方々によくある事故と申しますか、あくまでもデータ上のお話ですが、魔力操作が苦手な方は無意識に自らを攻撃するような事故を起こすことが多々あるのです。体内の魔力循環は、慣れてしまえば呼吸をするくらい馴染みのあるものですが、練度が足りない場合は理性よりも感情が優先され、ご自分の嫌な部分を消そうとするのだそうです。今回は記憶が対象でしたが、腕や足を消してしまったケースもございます。大変申し上げにくいことなのですが、以前のテレーズ様にはもうお戻りにならないでしょう。ある意味、赤ちゃんのような存在とお考えください」


「そんな……」

エドガルはショックを受けた様子のアネモネの肩を抱いて手を握った。


コルネリウスの周囲でバチバチと小さな稲妻が光った。

「バネッサが受け取るはずだった予算を使い込んで侍女の仕事をするしかない状態に追い込み、僕からの贈り物を勝手に使ったままもう元には戻らないだと?」


「コルネリウス様!」

コルネリウスの騎士が絶縁性の高い布で彼を包み込んだ。

「冷静になってください! バネッサ様が悲しまれます!」

「フンッ」

バチッと音がして稲妻は布に吸収された。


「この布をお作りになったのもバネッサ様なのですからね! お手製の貴重な布です!」

騎士が布を畳みながらコルネリウスを拗ねたような顔で見た。

「分かってるって。バネッサには内緒だぞ」

「もちろんです。バネッサ様の心配そうなお顔を見るのは我々だって辛いんです」


「贈り物だけではなく、お金まで……。なんて罪深い……。なのに自分はもう覚えておらず償うこともできないなんて……。コルネリウス様、バネッサが受け取るはずだったものはわたくしたちがテレーズの代わりに」


「それも含めて、婚姻の話し合いの時に決めよう」

「承知しました。あの、バネッサが侍女として働いていた、と言うのは?」

「エルケ」

コルネリウスがエルケを見ると、彼女は頷いてからアネモネに申し訳なさそうに話し始めた。


「アネモネ様が領地の視察で出かけておられた時に、テレーズ様がバネッサ様の見た目でお金を使うのは勿体無いからご自分が使うとおっしゃられて。先代はテレーズ様に任せると仰ったきりでした。バネッサ様の体格で逆らうのは危険でしたし」


「そうだったの。じゃあ、勉強で忙しいのではなくて、侍女の仕事で忙しかったのね。わたくし、何も気付けていなかったわ……」

エドガルはアネモネの背をさすった。



◇◇◇◇◇



幾度かの話し合いを経てコルネリウスとバネッサの婚約が整い、ルーター伯爵家は持参金に今までテレーズが横取りしていた分の金額を上乗せして用意した。両親とアネモネはバネッサに謝りはしたが、終わったことですから、とバネッサに言われると黙り込んでしまい、関係修復は叶わなかった。ただ、持参金の一部をルーター伯爵家に寄付して戻してくれた。復興途中の伯爵家にはありがたい金額だった。


テレーズはアレハンドロ商会のベニッシモが引き取ることになった。これから服飾産業に力を入れるそうで、テレーズを見ているとインスピレーションが湧く、というデザイナーがいるらしい。彼にインスピレーションを与える存在、『ミューズ』として雇われた。日常生活が一人ではままならないので、ルーター伯爵家が侍女を派遣することにも決まった。


衣食住を保証してくれる代わりにインスピレーションを与え続ける必要があるが、美貌を保つのは派遣される侍女の腕に掛かっている。それまでテレーズの我儘を叶えているうちに鍛えられた精鋭侍女たちが交代でテレーズの美貌を保っているらしい。それを利用してアレハンドロ商会は美容産業にも商売の手を広げかなり儲かっているそうだ。


コルネリウスとバネッサが共同研究で発表した『視力に関する魔法』は更なる発展を遂げ、事故で目に傷を負って視力を失った患者を治療したことで一気に有名になった。市井でも治療が始まったそうだ。テレーズの脳の損傷を治す話も出たが、脳は眼球よりも構造が複雑なため国の許可が下りなかった。


三女、バネッサはコルネリウスと結婚後、二人の男の子を出産した。その後も数々の新しい魔法を生み出し、いつまでも仲睦まじい二人であった。


二女、テレーズはアレハンドロ商会のミューズとして生涯過ごした。魔力封じの腕輪の装着義務があり、体内で上手く魔力が循環できなかったことが遠因で両親よりも早くこの世を去った。脳の損傷はかなり大きく、魔力が循環できていれば違ったかもしれない。


長女、アネモネはエドガルとの間に二男二女を授かり、子育てと並行して伯爵領の改革を成功させた。灌漑工事を必要とする大規模な改革で、忙しいながらも夫婦で協力して頑張る姿は好意的に受け入れられ、領民から愛される存在となった。二人の魔力練度の重要性を伝える活動は亡くなる直前まで続けられた。


姉妹の両親は領地で自給自足の生活を送った。農業に目覚めたモデスタは、遊びに来た孫たちが、自分が作った野菜を美味しいと喜んで食べる姿を殊の外喜んだ。アネモネには伯爵夫人だった頃よりも幸せそうに見えた。


「バネッサからの返事はないけれど、野菜をバーソロミュー公爵家に送っているのよ」

とモデスタは寂しそうに笑った。


巡り巡ってこの野菜がきっかけとなり、アネモネとバネッサは会話をする機会を得た。あの頃こう思っていたと伝え合うことができた姉妹は、家族ぐるみの交流を始めた。仲良く遊ぶ従兄妹たちを見ながら、アネモネはまだ幼かった頃の三姉妹の姿を思い出していた。



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バタイフォレクオンの実際の様子が描かれていて面白かったです。 魔法のある世界とは言え、3人の初代王が継承権のシステムに実際に現れるとは……。 人間関係については前の作品で書きましたが、 >「バネッ…
同じ家で暮らしてても忙しいとある程度大きくなった他のきょうだいが何してるのかとか、何に不満を持っているのかとかわからないものですものね…家を出て何十年もしてからあの頃はそうだったとわかることは案外多か…
 感想にご返信ありがとうございます。  短期間に幾度も書くのもマナー的にどうなのかとは思いましたが、誤解がないよう幾つか補足させて頂こうと思い、再び書かせて頂きました。 >テレーズがまともだった、と…
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