終着点
「ーーへえ、来てくれたんだ」
その男は世界の終焉がすぐそこまで迫っているとは思えないほど穏やかな声と表情で、息を切らして立ち尽くす類を振り返った。
海に面した崖の上に座りながら、小さく微笑む彼の後ろには朝焼けの空が広がっている。
黒い髪を潮風に揺らし、切れ長の目を細め微笑を浮かべているその男は類の幼馴染だった。
類は、男の一言に荒い息のままずんずんと大股で彼との距離を詰める。
「あんたが私を呼んだんでしょうが」
言いながら、手にしていた紙をその無駄に整った顔の前に突きつけてやれば、男は何が可笑しいのか「そうだったね」と小さく笑った。
紙は数時間前にこの男の家で見つけたものだ。
家の鍵は空いているのに本人は不在で、代わりに見つけたのがこの一枚の紙切れだった。
すでに皺くちゃになってしまった紙には、見慣れた癖のある右上がりの字が綴られている。
『いつもの場所で待ってる。』
間違いなく目の前に座るこの男、類の幼馴染である悠の筆跡だった。
一体どういうつもりかと詰め寄る類に、悠は答える代わりにまあ座れよと自分の隣の地面を軽く叩いた。
どうやら座るまで答えてもらえなさそうだ。
仕方なく渋々とそれに従うと、悠は類が座ったのを横目で見てから口を開いた。
「どういうつもりも何も、そのままだよ」
「いや分からないから」
明らかに言葉が足りないって。
白いパーカーを着て首を傾ける悠に、類は呆れたように溜め息を零す。
この幼馴染とは物心つく頃からの長い付き合いで、幼い頃から何処かふわふわとした、マイペースな奴だった。
そして何故かいつも類の後をついてまわり、気づけばいつも隣にいる。
初めこそ鬱陶しいと思ったものだが、次第に悠が隣にいることが類にとっても当たり前のようになっていた。
実家のご近所さんから始まり、互いに社会人となってからもその付き合いは続いていた。
そのせいか、悠は全てを口にしなくても類には伝わると思っている節がある。
悠の悪い癖だ、と類はもう一度溜め息を吐く。
「私に、何か用があるんじゃないの」
「類こそどうして来てくれたの?」
「私の質問は無視ですか。そして呼んでおいてそれはないでしょ」
こちとら一体何事かと、タイムリミットが迫る中で必死にあちこち駆け回ったというのに。
あんまりな悠の言葉に、文句を言ってやろうと口を開きかけたところで、静かな声がそれを遮る。
「だってお前、『最期は美しい場所で美しいものを見ながら死にたい』んじゃなかったの」
その一言に、ヒュ、と喉が鳴った。
言葉を失い目を見開く類を、その色素の薄い瞳で真っ直ぐに見つめ、悠がもう一度問う。
「ねえ、どうしてここに来てくれたの?」
***
ーーーそれは今から二年前のこと。
「私、旅に出るわ」
「ーーーは?」
馴染みのラーメン屋で、唐突に宣言した類に、悠は素っ頓狂な声をあげた。
そしてすぐに「いやなんで?」と突っ込んだ。
「地球消滅まで、あと二年もないでしょ?」
三年の内に地球が消滅すると発表されてから、約一年。
発表された当時は、どうせデマだと皆が笑い飛ばした。
しかししばらくして、それがどうやら確からしいことが分かると、突然突きつけられたタイムリミットに多くの人は残された時間の使い方を考え始めた。
そして、それは類も例外ではなかった。
「ああ、そういえばそうだね。もう二年無いのか」
まるで忘れていたとでも言うような悠の言い方に、こいつ大丈夫か、と類は幼馴染の頭が本気で心配になった。
地球消滅を前に、こんなにも呑気でいられるのはきっとこいつくらいだろう。
「それで?」と続きを促された類は、残りのラーメンの汁を啜る悠を眺めながら、発表から今日までを振り返る。
この一年、地球の消滅を回避する術を探しながら、同時に人類をどうにか存続させようと様々な議論が世界中で行われていた。
宇宙へと人間を送り出す計画もあちらこちらで囁かれていたが、果たして三年で全人類を脱出させることが可能なのだろうか。
きっと自分は、地球と共に終わる。
そう悟った類は、ならば自分のやりたいことを全てやってやろうと、始めにやりたいことリストを作った。
しかし一年も経たぬ内にそのほとんどに片が付いてしまった。
思っていた以上に自分のやりたいことというのは少なかったらしい。
あと二年、何をしよう。
愛する人達と過ごす人も少なくないが、類の場合、既に家族は他界しており、恋人などもいなかった。
そうして、類はふと気づく。
死ぬ時、自分は一人だと。
安い小さなアパートの一室で一人で死ぬのかと、自分の最期を想像してみるとそれは何か嫌だった。
最期はこんな狭い場所よりも、もっと別の場所がいい。
例えば広くて美しい場所とか。
ーーーそうだ。
ーーー最期に目にするのは、美しいものがいい。
「ーーーだからね、私死に場所を探しに行こうと思う」
その時、いつも煩いくらいによく喋る悠は、類が話している間ずっと口を噤んでいた。
気づけば既に悠の器は汁もなく空っぽで、珍しく深妙な表情で、何かを考え込んでいるようだった。
「最期は美しい場所で美しいものを見ながら死にたい」
類が最後にそう締め括れば、それまで黙っていた悠はただ一言、こう言った。
俺も一緒に行く、と。
そして、類と悠は二人で旅に出た。
世間の混乱の中でかろうじて機能している公共機関を乗り継いで、あちこちへと足を運んだ。
色とりどりの花が咲き乱れる平原。
底が見えるほど透き通った美しい湖。
優しい木漏れ日と澄んだ空気で満ちた森。
満点の星が輝く丘に、夕焼けが美しい海の浜辺。
どこも美しく素敵な場所ばかりだった。
類はその景色にただただ見惚れ、その隣で悠は楽しそうに笑いながら同じように景色を眺めたり、写真を撮ったりしていた。
そして、悠は必ず類にこう尋ねた。
「どう?ここは類の最期の場所にふさわしい?」
その問いに、類はぼんやりとその場所での自分の最期を想像し、最終的に否と答えるのが常だった。
どれも素晴らしい景色だったのに、どうしても「ここだ」と思えない。
最初は選びきれないだけだと思っていた。けれど、あまりにも全てが「違う」と感じてしまうこの感覚は、単にわがままとか贅沢とか、そういう問題じゃない気がしていた。
なにか、もっと根本的なことを、自分は見落としている気がする。
そんなことを約一年半繰り返し、ある時、ふと類の方が悠に尋ねた。
「ねえ、悠」
「なに?次はどこへ行く?」
「悠はさ、もう見つけたの」
ーーー自分の終わる場所。
類の問いに悠は一瞬目を見開き、そして優しい眼差しで微笑んだ。
「うん」
少しばかり眉を下げ、控えめに口端だけを上げた小さな笑み。
いつも大きく口を開けて笑う彼にしては珍しい笑い方だった。
「俺はもうずっと前から見つけてたよ」
ーーーその言葉が、類と悠の二人の旅の終止符となった。
二人で一度自分達の家に帰り、そしてそれからは類が一人で死に場所を探すようになった。
既に場所を決めた悠を自分につき合わせる必要もないと思ったからだった。
しかし一人だけの旅はなんだか物足りなく、なぜか心にぽっかりと穴が空いたようだった。
景色は変わらず美しく、目を奪われるものばかりだったのに、どこか「欠けている」と感じてしまう。それが何なのかは、まだ分からなかった。
結局、消滅まで一ヶ月を切る頃には自然と足が地元へ戻り、そしてまた悠と一緒に、何気ない日々を過ごすようになっていた。
悠と過ごしながら、どこで最期を迎えようか考え、ついにその答えを見つけられぬままその日がきてしまった。
消滅の日も、気づけば悠のもとへと足が動いていた。
そして、そこで類は悠の代わりに一枚の紙切れを見つけることとなる。
***
「ーーー本当に、どうして来たの」
崖の草の上に座り、頬を撫ぜる風を感じながらこれまでを思い返していた類は、悠の言葉に現実に引き戻される。
「あと五分もしたら発表された消滅の時間だ」
「…」
「ここが類の最期の場所になっちゃうけど」
その言葉に、悠から視線を逸らす。
この崖は、幼い頃に悠とよく訪れた場所だった。
崖の上からは広い海が一望でき、遠くには緩やかに弧を描く地平線が見える。
波の音と、頬を撫ぜる風が気持ちいい場所で、旅を終えてからも二人で散歩に度々訪れていた。
「…見つからなかったよ。ここで終わりたいって、そう思える場所がなかったんだ」
「あんなに色々な所に行ったのに?」
「うん。どこも素敵だったけどね」
ふうん、と小さく相槌を打つ悠に、類はそういえば、と口を開く。
「悠の方こそどうなの」
「俺?」
「自分の最期の場所、見つけてるんでしょ」
「うん」
「なのにあんな紙残して、こんな所に座ってさ。まさかこの崖がその場所?」
「いいや?」
きょとんとしたように否定する悠に、類はだったらなぜとさらに頭に疑問符を浮かべる。
そんな類を見て悠は可笑しそうに一つ笑みをこぼす。
「俺はね、どこでも良かったんだ」
色鮮やかな花畑。透き通った湖。
穏やかな森に、星の輝く丘。
夕日に染まる浜辺、地平線が見える崖の上。
どこでも、良かったのだと悠は言う。
「ーーー類の隣なら、どこでも良かった」
悠の思いもよらぬその言葉に、類は目を見開いて隣の悠を見つめる。
その色素の薄い瞳には、慈しむような、優しい色が浮かんでいる。
「でも、類の望む最期が俺と一緒とは限らないから。だからあの紙を残した」
「…馬鹿じゃないの。もし私があの紙を見つけてなかったら、どうするのよ」
「うん、だからこれは賭けだったんだよ」
最期の賭けだったのだ、と。
もしも類が悠のもとを訪ね、あの紙を見つけ。
そしてこの場所に来てくれたのなら。
「ねえ、類。最期まで俺の隣にいてよ」
その一言に、ようやく類はああ、と気が付く。
どんなに美しい場所も、終の場所に選べなかったその理由に。
決して「場所」が足りなかったのではない。
美しさも、条件も、足りていた。
それでも、何かが欠けていると感じていたのは。
悠の想いに気づかないまま、自分の「隣」に誰がいるかを見落としていたからだった。
「悠」
「……うん?」
崖下から流れてきた潮風に揺れる黒い髪。
地平線から昇る朝日の光に照らされ煌めく優しい色の瞳。
こちらを見つめ微笑みを浮かべる悠の姿と、その背後に広がる朝焼け色の空。
それは、あと少しで世界が消滅するとは思えないほど美しく、穏やかな景色だった。
ーーーこんな所に、あったんだ。
類は悠の瞳を見つめ返し小さく笑う。
「私、今、見つけたよ」