33、戻ってきた日常
ある朝、目を開けると驚くほどすっきりとしていた。
頭の痛みも体のだるさも消えて、まるで長く深い眠りからやっと解放されたような気分だった。
ゆっくりと体を起こして窓のほうへ目を向けると、カーテンの隙間からやわらかい光が差し込んでいた。
私はうーんと背伸びをして、深く息を吸い込んだ。
「なんだか生き返った気分」
すべて悪夢だったのかもしれないと思うほど、気持ちが晴れやかだった。
着替えを済ませて身支度を整え、階段を下りてダイニングルームへ向かう。
扉を開けるとパンの香ばしい匂いとスープの香りがふわっと鼻をくすぐった。
すでに両親が座って待っていたので、私はスカートの裾をつまみ、控えめなカーテシーをおこなった。
「おはよう。お父様、お母様」
挨拶をすると、両親は安堵したように微笑んだ。
「おはよう、ミレア。もう起きて大丈夫なのかい?」
「無理しなくていいのよ」
ふたりの優しい声に反応し、私は満面の笑みで答える。
「心配かけてごめんなさい。もう大丈夫」
侍女に椅子を引かれて腰を下ろすと、目の前にふわふわのパンケーキが置かれた。
他には食用花のあしらわれたサラダ、香ばしいベーコンエッグ、なめらかなじゃがいものポタージュスープがある。
侍女が紅茶を淹れてくれたあと、パンケーキにクリームを添えて、シロップをたっぷりかけてくれた。
「美味しそう。いただきます」
ナイフを入れるとすうっと生地にやわらかく沈むパンケーキ。
それを口に運ぶと、とろりと甘いシロップとクリームが広がり、ふわっとした生地が溶けていく。
頭の中に花畑の世界が広がって、そこで心地よく浮かんでいる気分になった。
「幸せだあ」
思わず呟いた言葉に、両親が目を合わせて微笑んだ。
そして、ひさしぶりの学校だ。
少し緊張しながら正門を通ると、制服を着た生徒たちが目に飛び込んできて、少しなつかしい気分になった。
前世ではあんなに嫌だった学校なのに、今は楽しみでしかない。
少し授業に遅れているから頑張って追いつこう。
そんな意気込みで校舎へ向かう。
すると他の生徒にまぎれて、ふいに声をかけられた。
「やあ、ミレア。もう学校に来て大丈夫なのか?」
「フェデル様」
フェデルはフード付きのコートに眼鏡という姿に変装している。
そんな格好をしても彼の放つ王族オーラを完全に消すことはできないのだけど、遠目から見れば誰も気づかない。
フェデルの視線がふと、私の胸もとに向けられる。
「ネックレス、ちゃんとつけてきたんだね」
「はい。ありがとうございます」
「ノエインが作ったんだよ。僕はお願いしただけ」
「魔力制御ができるなんて、お守りみたいですね」
「君の平穏な学校生活のためにね」
フェデルは穏やかに笑った。
本当に、前世とは別人ではないかと思うほどフェデルが気さくで優しい。
完全に彼に心を許しているわけではないけれど、少なくとも今は憎むべき相手ではなくなった。
それどころか、わりと好感を持てるようになっている。
「おや、作った本人が来たよ」
フェデルの視線の先にノエインの姿があった。
彼は眠そうにあくびをしながら歩いてくる。
「おはよう、ノエイン。今日は寝坊しなかったね」
「……ああ」
「昨夜は眠れたんだね」
「まあまあ」
ノエインはフェデルからふいっと目をそらしてそう言った。
ふたりの会話を聞いていると、ノエインは普段あまり眠れていないのかもしれないと思う。
「じゃあ、僕は用事があるから先に行くよ。ミレア、またね」
「はい」
フェデルは軽く手を振って去っていった。
いくら変装していても、やはり気づく人はいて、ちらちらとフェデルに目をやる人が数人いた。けれど、話しかけようとする者はいなかった。
「逆に目立つだろ、あれ」
ノエインの呆れたような言葉に、私は思わずうなずいた。
それから、私はちゃんと向き合って、彼に訪問してくれたことの礼を言った。
「お見舞いに来てくれたって聞いたの。ありがとう。それに、このネックレスもあなたが作ってくれたって」
私は首から下げた紫水晶のネックレスを手に取る。
ノエインはにこりともせず、短く「ああ」と答えた。
「それに、花束も……」
「あれはフェデルが持って行けと言ったから」
「そうなんだ」
少し間が空いた。
沈黙が、なんとなく気まずい。
実はノエインに会うのに少し緊張していた。
私は彼がお見舞いに来てくれたときのことをあまり覚えていない。
夢と現実の境目が曖昧で、前世のノエインに語りかけていたような気がする。それが夢だったのか現実だったのかはっきりしない。
つまり、不信感を抱かれている気がするんだよね。
「あの、実はあなたが来てくれたとき、私はあんまり記憶がなくて……何か変なことを口走っていないか心配だよ」
おずおずとそう言ってみたら、ノエインは表情を変えず視線だけそらした。
やっぱり、私は何か変なことを言ったのかな。もし前世のことを口走っていたら、ノエインは私のことをおかしいと思っているよね。
ドキドキしながら待っていると、彼はふたたび私に視線を戻し、真顔で答えた。
「ケーキ、食いたいって」
「へっ……?」
「だから、ケーキだよ」
「わ、私……そんなこと言ったの?」
「ああ。腹でも減ってたんだろ」
ケーキの夢は見なかったんだけどなあ。
でも朝ごはんのパンケーキはいつもより美味しく感じた気がする。
「よかったな。体調回復して」
ノエインはそれだけ言うと、さっさと私から離れてしまった。
思わずその背中に声をかける。
「ありがとう!」
彼はその言葉に無反応だったけれど、私はしばらく彼の背中を見つめていた。
だって、本当に嬉しくてたまらなかったから。
無言でも、そっけなくてもいい。
この世界であなたが生きているなら。
「おはよう、ミレア」
背後から声をかけられて、私は胸の奥が熱くなって小さく震えた。
そっと振り返るとそこには、リベラの姿がある。
泣きそうになるのをぐっとこらえ、私は満面の笑顔で応える。
「おはよう、リベラ!」
私が両手でリベラの手を握ると、彼女もぎゅっと握り返してくれた。
「ミレア、本当によかったわ。お見舞いにも行ったのだけど、苦しそうにしていたから心配だったの」
「ごめんね。気がつかなくて。来てくれてありがとう」
「ううん。回復してよかったわ。また、ここで一緒にいられるのね」
「うん! いられるよ。ずっと」
リベラも感極まったのか、涙ぐんでいた。
その表情がたまらなく愛おしく思えて、私は人目もはばからずに抱きついてしまった。
「リベラ、大好き。一緒に頑張ろうね」
「ええ。ミレアと一緒なら何だって頑張れるわ」
私たちはハグをしたあと、手をつないで校舎へ向かった。
私とリベラが教室へ入ると、クラスの子たちの視線が集まった。
リベラが言うには、みんなアンデル家の事件のことを知りたがっているらしい。
だけど、直接訊いてくる人はいなかった。
みんな、腫れ物にでも触れるかのように、どこかぎこちない空気が漂ってくる。
ただ以前のように、あからさまに無視されることはなくなった。
なぜか「おはよう」と挨拶してくれる子が、少しずつ増えていた。
ラナは変わらずそっけない。
けれど、もう私に強く関わろうとしてこなかった。
そのせいか、彼女の取り巻きたちもすっかりおとなしくなった。
魔法史の授業では、生徒たちはどこか退屈そうにしていた。
旧帝国の繁栄と衰退、そして帝国滅亡後に誕生したこの国と周辺国との関係など。
前世と合わせて二度目の私は、おさらいのような感覚で聞いていた。
けれど、始祖と魔塔の仕組みについてはあまり知らないので、私は熱心に先生の話に耳を傾けた。
魔法学の授業では、基本的な火、水、風、土といった魔法に加えて、応用魔法についても紹介された。
結局私はなぜ氷魔法が使えたのか、いまだにわからない。水魔法を応用した高度な魔法で、上級生が使える程度ということをリベラが教えてくれた。
自分でも、いつ使えるのかはっきりしないので、少し怖いところもある。
あと、授業では絶対に習わないであろう逆行魔法については、院長先生から他言しないように言われている。ということは、あまり使ってはいけない魔法なのだろうと思う。
このことはリベラには言えない。そしてノエインにも言っていない。もしかしたらフェデルから聞いて知っているかもしれないけれど。
わからないことがたくさんある。
だけど、それが今は楽しくてたまらない。
私は魔法について、もっと学ばなければいけない。
「ミレア・エヴァン。魔力値35」
実技授業のとき、エメリア先生の声に私は落胆した。あきらめという気持ちもある。
毎度のことながら、私の魔力値は低い。
魔力制御のネックレスをつけてから、ますます数値が下がった気もする。
授業のときだけでも外したい、そう思ったこともある。けれど、また暴走するかもしれない恐怖が、私を踏みとどまらせた。
「でも、二桁よ。確実に成長してるわ」
周囲の呆れた空気の中、リベラだけが明るく私を励ましてくれた。
「うん。次の目標は50にするよ」
「まあ、次は100でしょう?」
あっけらかんとそう言うリベラに、私は思わず笑ってしまった。
なんだか悩んでいる自分がおかしくなる。
「うん。次は100を目指すよ」
魔法師として生きると、私は決めた。
それは当初、自分と周囲の未来を変えるための手段だった。
でも、今は違う。
私には、守りたいものがたくさんできてしまった。
私の両親や、友だちになってくれたリベラ。
それに、王太子フェデルとの今の関係。
そして、ノエインの未来。
今世は、みんな幸せになるんだ!




