31、雨の日の追想
あのあと、リベラの両親が王都治安隊に連絡を入れ、彼らはすぐに駆けつけて、執事と料理人たちはその場で拘束されて連行された。
私たちも事情を聴かれ、見聞きしたことをすべて話した。
リベラの両親は激怒しており、「家をめちゃくちゃにされた」として、ジッケル伯爵に正式な賠償請求をおこなうようだ。
その伯爵自身も首謀者として身柄を拘束され、今や爵位剥奪の危機に瀕しているという。
命を狙われていたと知ったカイラは、大きな衝撃を受けていたけれど、それよりも私たちのことを案じてくれた。
私とリベラは、しばらくのあいだ学校を休むことになった。
リベラは数日で体調を取り戻し、早くも登校を再開できた。
けれど、私はあの夜を境に原因不明の高熱で寝込んでしまっている。
医者は魔力の暴走による反動だろうと話した。薬は出されたけれど、効果はほとんど感じられない。
高熱にうなされるのは、前世の記憶を取り戻したあのとき以来だった。
私の両親はひどく心配していて、私は大丈夫だと伝えたくて、無理やり笑顔を作ったりした。それがまた、両親をさらに悲しませてしまって申し訳なかった。
昼間には一時的に熱が下がることもあり、もう大丈夫かもしれないと思える瞬間もあった。
けれど、夜になると決まって熱がぶり返した。
このまま前みたいに寝たきりになるのではないか。そんな不安が胸をよぎる。
そのたびに思い浮かぶのは、前世で伏せっていた数年間のこと。
それから、死ぬ間際のことだった。
そしてついに、夢にまで見るようになってしまった。
私の記憶の中でもっとも強く刻まれた、あの雨の日の出来事を。
*
窓の外は嵐だった。
灰色の空に鋭い雨が叩きつけ、風が唸りをあげて木々を揺らし、屋敷の古びた窓枠を軋ませていた。
外はそれほど騒がしいのに、部屋の中はあまりにも静かで、そのとき聞いた言葉は無機質で冷たく心に刺さった。
「魔法師が亡くなったようです」
硬いパンと具のないスープをテーブルに置いた使用人が、いつもと同じ抑揚のない声で言った。
私は自分の耳を疑った。
全身が凍りついたように固まって、呼吸がうまくできない。
やっとのことで、震える声を絞りだす。
「……どういう、こと? なぜ彼が」
「崖下で遺体が見つかったそうです。詳しいことは知りません」
使用人はそれだけ言って、さっさと背中を向けると立ち去っていく。
「ま、待って」
声を出すと同時にがちゃりと冷ややかな扉の音が響いて、ふたたび静寂が訪れた。
ノエインが死んだ。
その言葉を理解するのに、しばらく時間がかかった。
「そんなの、嘘よ……信じられないわ」
ひどく動揺した私は、やみくもに手を伸ばした。
視界が不明瞭な私にはその手の向こうに何があるのか、ぼんやりとした影でしか見えていない。
サイドテーブルのグラスに当たり、からんと倒れる音がした。
水がこぼれてしまったのかもしれない。
けれど、そんなことに構う余裕などなかった。
「嘘よ……ノエイン、冗談はやめて……そろそろ来てくれるんでしょう?」
体を起こしてベッドから出ようとした瞬間、そのまま床へ転がり落ちた。
ほとんど歩けないこの体では、部屋のすぐ近くのトイレへ行くのさえ壁をつたってやっとのことだ。外へ出るなんて、本来なら到底無理だった。
それでも私は這うようにして扉までにじり寄り、壁に手を伸ばした。
爪を立ててどうにか立ち上がり、扉の取っ手を掴んで開く。
いつものように壁に体を預け、ゆっくりと足を前に出す。
けれど、気持ちばかりが焦ってしまい、すぐに足をとられて転んでしまった。
立ちあがる余力はなく、這いつくばるようにして進む。
冷たい床が手足から伝わってくる。
どうにか階段に辿りつき、足を一段目にかけて、体重を腰に預けた。
一段、一段、ゆっくりと階段を下っていく。
「そうよ……きっと、怪我をしているんだわ……お見舞いに、行かなくちゃ」
彼が死んだ現実を受け入れられない。
この目で見ないと信じられない。
もうすぐ1階というところで、足を滑らせて数段上から転げ落ちる。
尻餅をついた瞬間、鈍い痛みが腰を貫いた。
小さく呻いて顔をしかめる。だけど、止まることはできなかった。
もはや痛みも涙もどうでもよくて、私はただ必死に床を這い、体を引きずりながらエントランスへ向かった。
その途中、廊下の柱の陰に立つ使用人ふたりの声が、耳に飛び込んできた。
「まあ、あの魔法師が?」
「ええ。死後数日は経っていると言われていたわ。身寄りがなかったのね」
「だって追放されてから何十年もひとりなんでしょう? 実は正直、あやしいことでもしているんじゃないかって思っていたの」
「愛想もないし、陰気だし、口も利かないしね。最近よくここに来ていたでしょう。気味が悪くてたまらなかったわ」
「噂ではとんでもない悪事を働いて王都を追放されたらしいじゃないの」
「毒薬でも作っていたんじゃない?」
私の胸中にはふつふつと怒りがわいていた。
感情が抑えられなくなり、思わず声を荒らげる。
「やめて! そんなこと言わないで! 彼が作っていたのは毒じゃないわ!」
ふたりの使用人は私を見て怪訝な表情になった。
もっと言いたいことはあったけれど、私は彼女たちから顔を背けて、玄関に向かってゆっくりと進んだ。
その背後から、ひそひそと交わされる使用人たちの冷たい声が聞こえた。
「まさか、ひとりで2階から降りてきたの?」
「放っておきなさいよ。どうせ、そんなに遠くまで行けないんだから」
使用人たちの嘲笑する声が背後からした。
それでも、私の意識はすでに別のところにあった。
誰になんと言われても、私はノエインを信じている。
彼はたしかに無口で不愛想だけど、ずっと私を案じてくれた。
そこに嘘はないわ。
玄関を開けると雨が横殴りに振り注ぎ、風が強く吹きすさんでいた。
ノエインはもしかしたら、本当に崖から転落して怪我をしたのかもしれない。きっと動けなくて苦しんでいるのだと思う。だから、会いに行かなくちゃ。
そんな思いが膨れあがり、自分自身の体さえ満足に動かせないというのに、屋敷の外に飛びだした。
大粒の雨が容赦なく私の頭を叩きつけ、強風が体を押し返してくる。
私は裸足のままだった。すぐに転んで泥に沈み、どしゃりと冷たい地面に叩きつけられる。
手のひらに石の欠片がめり込み、跳ねた泥が髪にまで飛び散った。
もはや何も見えない。目も、心も。
ただ彼のもとへ行きたくて、風の中を四つん這いで進んだ。
「ノエイン……」
絞りだすように呟いて、私は嗚咽を漏らした。
「ノエイン……ノエイン……!」
わかっている。この体でノエインの屋敷まで行くことなどできない。
使用人たちの話はあまりにリアルで、信じたくなくても、認めざるを得なかった。
ノエインは崖下で発見されたと使用人が言っていた。
この近くの崖といえば、ソラスの丘から見える深い森にある場所だ。
私が足を滑らせて落ちそうになったときに、ノエインが手を引っ張って助けてくれた。
私と彼が初めて出会った場所だった。
「どうして……どうしてあなたが、先に逝ってしまうの……」
雨音にかき消される。
叫んでも、声が震えてしまう。
「私の、たったひとりの希望だったのに……私の最期まで、そばにいてくれると、思っていたのに……」
泥の中に伏せて、私は大声で泣き叫んだ。
「ああああああっ……!」
絶叫が、嵐の中に溶けていく。
何も残らず、誰にも届かない。
一番、伝えたかった声は、もう二度と彼には届かなかった。
それからの2週間は、ほとんど記憶にない。
ベッドの中で、死んだように横たわっていた。
食事は喉を通らず、薬さえも拒んだ。
日に日に体力が奪われていった。けれど、そんなことすら、どうでもよかった。
死が近づいてくるのを、私はどこかで安堵しながら待っていた。
ああ、やっと、この長く冷たい孤独な苦しみから解放される。
誰も看取ってはくれない。
それは最初から覚悟していたことだけど、やはり虚しかった。
たまに病の激痛が全身を襲っても、生きたいとは思わなかった。
ただ、何もかもが終わる瞬間だけを、じっと、静かに待っていた。
そして、その日は驚くほど静かに訪れた。
カーテンの隙間から差し込む光は淡く、部屋の中にぼんやりと霞がかかったようだった。
あれほど待ち望んでいたはずなのに、不思議と心に残ったのは安堵ではなく、ただ虚しさだけ。
「私の人生って何だったの?」
問いかけても、答えてくれる人はもういない。
それでも私は、静かに思い返す。あの日、ノエインが言った言葉を。
だから、私はこの瞬間に、心から願ったの。
そう。たとえば、私は明るくて笑顔の可愛い女の子。
温かい両親に育てられ、美味しい料理でお腹を満たして、可愛らしいドレスを着て、友だちに囲まれて、毎日笑顔で暮らしているの。
恋も、してみたいわ。
私は静かに目を閉じた。
そして、そっと左腕のブレスレットに触れた。
落ちつかないときに自然と手が伸びてしまう、癖のような仕草。
最期の瞬間にもそれをしていることに、わずかばかり驚いた。
痛みはもう、感じなかった。
体の重みがすうっと消えていく。
呼吸は、深く、浅くなりながら、やがて止まっていく。
白い世界が、静かに私を包み込んでいった。
――ねえ、ノエイン。あの世であなたに会えるかしら?
そう願ったその心が、どこかへ届けられることを、ただ祈りながら。
私は、ゆっくりと眠りに落ちた。




