Sayaka 週末のプレゼン
木曜日は、翌日K社で行われるプレゼンの準備をして、定時過ぎに退社した。
週明けの騒動はすっかり落ち着いていて、業務は通常運転だ。
帰り道の電車内で、メッセージ着信のバイフが鳴る。
「今晩電話で話したい。何時頃なら大丈夫?」
翔からだ。今日から通常通り出勤しているのだろう。
今は、18時半前。帰宅して一段落してから、と考える。
「20時以降なら」
と返信すると、しばらくして、「了解」と短い返事が来た。
シャワーを浴びて、軽めの夕食を準備する。料理を並べ、缶ビールを空けてグラスに注いだところで、電話が鳴った。
「こんばんは。沙弥香」
「こんばんは。お仕事はもう終わり?」
「いや。出張中にストックされていた諸々を片付けてる。今休憩中。息抜きに声が聞きたくて。沙弥香は?」
「ほぼ定時退社して、今ビールを飲み始めたところ。これから夕飯なの。お先にごめんなさい?」
残業している翔にどうかとも思ったが、彼はあまり気にしないだろう。
「じゃあ、俺も軽食を摘みながら話そうかな。社で残業になった時の為に、ちょっとしたストックがあるんだ」
「それがいいわ。ちなみに何があるの?」
おそらく部屋を移動したのか? 扉の開閉音が聞こえる。
「え……と、冷凍ピザとフリーズドライの味噌汁。あとチキンナゲット?か」
冷凍庫を覗いているらしい。おそらく簡易キッチンに電子レンジと湯沸かしとセットで置いてあるのだろう。
「……ジャンクフードね」
なんだか冷凍食品を翔が食べているところがあんまり想像できなくて、笑ってしまう。
電子レンジのボタンを押している音も聞こえてきた。レンジ使えたんだ……当たり前か。
「本当に。ちなみに沙弥香は? ビールのつまみ?」
「翔よりはマトモよ。作り置きだけど……
小松菜ときのこの煮びたし、筑前煮、あとは海藻のサラダ、卵焼きと大根おろしね」
まあ、ツマミには違いないけど、健康的だとは思う。
「すごい。手間かかってる」
「今作ったのは、卵焼きだけよ。海藻サラダは戻しただけだし、大根も擦っただけ。あとは小分けにしてあったものを温めたくらい。ご飯の代わりにビールだし」
「いいなあ、うらやましい」
「よく言うわよ。接待でいくらでも美味しいものを食べに行ける人が」
高級料亭やレストランの味に慣れている翔にとって、決してうらやましい内容ではないと思う。
「家庭料理に憧れるんだ」
それでもどうやら本心かららしい言葉に、苦笑した。
「贅沢な悩みね」
「ところで、明日の夜は、空いてる?」
「ええ。特に予定はないわ」
「夕食を一緒に食べたい」
「いいわよ。昨日までは、ドバイや機内食だったんでしょう? 今日はジャンクフードだし。明日は、翔の行きたいところで……」
週末を翔と過ごすのは、楽しい。だから躊躇うことなく了承を返した。
でも……
「沙弥香の手料理がいいな」
「え?」
「最近、家庭料理に飢えてるんだ。先週末食べた、君の弁当の味も忘れられなくて」
「あの……」
「君の部屋に呼んでくれる? 夕食をいただくだけ。大丈夫、行儀よくすると約束する」
「…………」
答えを返せないうちに、外堀が埋められていく。
「駄目かな?」
甘えるように言われて、白旗を上げた。
この末っ子め。
「はあ、わかったわ。でも、たいしたものは出せないわよ?」
「やった! ありがとう」
「好き嫌いとアレルギー、特に問題なかったわよね? リクエストはある?」
「君が作ってくれるなら、なんでも。仕事が終わったら、着替えて車で行くよ」
ああ、飲む気はないのね。気を遣っているのかしら?
でも、純粋に食事だけのつもりらしいことに、安心する。
「じゃあ、うちのマンションの来客用の駐車場に停められるようにしておくわ。時間の目安がついたら、知らせてくれればいいから」
「うん。じゃあ、そろそろ仕事するよ。また明日」
「お疲れ様。またね」
どんどん踏み込まれて来る感じに少し戸惑うけど、不思議なことに全然嫌じゃない。
私は、リビングの棚の上に置いてある、洋風の小さな仏壇に目を向ける。仏壇は開閉式で、三具足と位牌を祀ってある。隣には、蓮の写真を飾ってあった。
蓮、明日お客様が来るのよ。
貴方にも紹介するわね。
私はそう彼に伝えると、明日の献立を考えながら、片付けと下拵えのために立ち上がった。
翌日金曜の午後は、K社でのプレゼンだった。
今日は珍しくスーツでの出社。
早目に社内のカフェテリアでメンバーが集合して、ランチミーティングをしてから、向かう。
営業から2名で瀬川さんと林さん、総務の名取女史、あとエンジニアの私の、男女2名ずつの4名だ。
「今日は、向こうのセキュリティ部門のエンジニアの他に、総務、経理、役員も2名ほど参加予定だ」
リーダーの瀬川さんが、K社のプレゼン相手を知らせてくれる。
「そう。典型的な日本企業なのかな?」
企業のカラーによって、多少プレゼン内容も変えている。名取さんの疑問は、私も知りたい情報だった。
「財閥系一族経営の総合商社だね」
なるほど。では、少々年配者がいることも考慮して、素人にもわかりやすく、エンジニアに必要な部分は断りを入れて深堀りした方が良さそう。
「それで、今日は日本語話者ばかり集められたの?」
念の為の確認。説明も出来るだけ日本語に寄せた方が良いのかな?
「まあ、そうなる。でも、海外流通も手がけている商社だから、受注後仕事が始まれば、窓口以外は日本語が出来なくても問題ない。よほどの細かいニュアンスじゃなければ、普通に英語は通じるよ」
「なるほど。じゃあ、この面子が揃うのも今日だけ?」
「いや。重要で細かい内容の会議には、このメンバーになるんじゃないかな」
基本的には、エンジニアの出向はリアムでも問題なさそうだけど、たまには顔出す必要があるかも?ってことね。
K社には午後1時半に到着した。
プレゼンは2時からなので、案内してくれるセキュリティ部門の責任者と一緒に会場に向かう。
瀬川さんがK社の社員と打ち合わせたり話したりしている間、私達は資料を配ったり、PCを立ち上げて接続したり、マイクを確認したりと準備に追われた。
時間が近づくと、少しずつ参加者が集まってくる。
私達は挨拶と顔つなぎの為に、瀬川さんの後ろに控えて立った。
最後に入室してきたのは、K社の専務と常務だった。
視線を向けると、覚えのありすぎる男性の姿に思わず目を瞠る。
翔! どうして? あ、でも、商社の専務って言っていた、ような?
視線が合うと、ニッコリと微笑まれた。
あ、コレ、確信犯だ。
私は表情を消して、頭を下げる。
絶対、私が来るって、知っていた顔だ。もう、意地悪なんだから。
怒りというより、呆れの気持ちが大きい。
きっと、仕事をしているところも見てみたかった、とかいう、どうでもいい理由だ。週明けの意趣返しとは思いたくない。
瀬川さんと翔が、挨拶を交わし名刺交換までしたところで、プレゼンが始まった。
まずは瀬川さんが、そして製品仕様と技術的な説明を、私が交代して話す。エンジニアからの質問にも、対応した。
その後、契約内容に関する質問には、名取さんが対応する。
全てが終了したときには、3時前になっていた。
数人を残してほとんど退室したので、私達は撤収作業に入る。
K社のセキュリティ部長と瀬川さんは、具体的な話をしているようだ。
「水森さん、とても分かりやすい説明でした。ありがとう。名刺をいただいても?」
後方から掛かった声に、思わずビクリと反応する。
翔の声だ。
私は小さく息をつくと、振り返って笑顔を作る。
「お褒めいただいてありがとうございます。こちらです」
ポケットのケースから名刺を1枚取り出し、差し出した。
営業じゃないから、日本語名詞なんて持っていないけど、相手は翔だ。問題ないだろう。
「ありがとう。私からもこちらです。話を聞いて、セキュリティエンジニアの重要性を強く感じましたよ。大変なお仕事だと思いますけど、ぜひ頑張ってください」
彼の名刺も受け取る。どうやら、このプレゼンに満足してくれたらしい。仕事を褒められたようで嬉しくなった。
でも、今回のサプライズは本当に予想外。「驚いたわ」と声には出さずに伝えておいた。
不服申立ては、今晩すればいいだろう。
再び片付けをと思ったら、今度は瀬川さんに呼ばれて、セキュリティ部長に引き合わされた。
「水森さん、改めまして。K社セキュリティ部長の柏木です。あなたの事を、素晴らしいエンジニアで凄腕のホワイトハッカーだと、うちのエンジニアが噂しておりまして。
いや、本当に素晴らしいシステムだ」
「今回は当社の製品をご検討いただきありがとうございます。お褒めいただき嬉しいです。この製品は、検知から駆除に力を入れたんです」
「ええ、サイバー攻撃も日々進化しているからね。ところで……」
その後、いくつか技術的な質問をされて、やっと解放された。
帰社して、4人で報告の為のミーティングが終わると、名取さんが、コーヒーを淹れてくれた。
それぞれ、ほっとして口をつける。
瀬川さんがラップトップを閉じて、こちらを見ると微笑んで言った。
「沙弥香さん、お疲れ様。今日は君のお陰で好感触だったよ。ありがとう」
「いえいえ、瀬川さんこそ、素晴らしい采配だったわ。お疲れ様。契約、取れるといいわね」
改めて瀬川さんにお礼を言われたけど、私なんて週の前半はトラブル対応していたし、本当に自分のプレゼンの準備だけだった。細かく指示してくれたのは彼なので、彼が一番の功労者だと思う。それに、K社の信頼も得て、実のある説明会だったし。本当に優秀な営業なのね。
だから、この契約が無事に取れるといい。
「ああ、ありがとう。そうだ、契約取れたら今日のメンバーで打ち上げしない?」
「あら、いいわねえ、瀬川くん。返事はいつ頃なの?」
瀬川さんの提案に乗ったのは、名取さんだ。
彼女は40代のベテラン社員で、お子さんは海外留学中らしい。総務のスペシャリストで、もとは日本の商社で働いていたのだけれど、出産後一度離職。お子さんの小学校入学時にうちの総務に就職して、10年目ということだ。
「来週中位には、もらえると思うんですけど」
「先輩、もう取れても取れなくても打ち上げしましょうよ。今回、俺、結構頑張りました」
林さんは瀬川さんの後輩で、今年25歳になったって言ってたっけ? 瀬川さんが彼を見込んで、教育しているらしい。
彼の台詞に笑いながら、名取さんが私を見た。
「どう? 水森さん。今日のプレゼン素晴らしかったわよ。皆でお疲れ様会もいいんじゃない?」
「そうですね。ぜひ」
フロア違いの部署外の人と、食事や飲みに行く機会なんて、滅多にない。名取さんのお誘いも嬉しかったので、快諾した。
「じゃあ、来週の金曜の終業後にでも。めでたい打ち上げか、お疲れ様会になるかはわからないけど」
瀬川さんがそう言って、開催は決定した。
連絡用にそれぞれメッセージアプリで連絡先を交換する。
それから解散し、私はセキュリティのデスクに戻って定時まで仕事をした後、早々に会社を出た。
駅に向かって歩き出したところで、後ろから声を掛けられる。
「沙弥香さん」
「はい?」
振り返ると、瀬川さんだった。
「今日は珍しく定時上がりだったんだ。沙弥香さんもなんだね」
「私は、月の半分くらいは定時ですよ。この間みたいなトラブルなんてあんまりないですから」
同じ方向に歩き出した瀬川さんも、どうやらメトロに乗るらしい。線は別らしいけれど。
話題は自然に昼間のことになる。
「……ああ、ところで、沙弥香さんは葛西専務と、知り合い?」
「え?」
「今日、プレゼン後に声かけられていたから」
「プレゼンを褒めてもらって、名刺交換しただけよ?」
突然、翔と知り合いかと聞かれて、なんとなくYesとは言えず、思わずあの場のやり取りのことだけを伝えた。
わざわざあそこで名刺交換をしたってことは、初顔合わせということで話を合わせるって事で良かったのよね?
だけど、瀬川さんは何やら難しそうな顔をして、言い辛そうに続ける。
「そう。あの、もし、ハラスメントとかあったら」
「ハラスメント? まさか!」
まさかの翔のハラスメント疑惑だった。ああ、客先の女性を個人的に誘う、セクハラ的な?
いや、そもそも知り合いだし。まあ、一度は関係も持ちましたけど。その後は、紳士的に対応してもらっているし。っていうか、彼はそういう事しないと思う。
私が驚いた様子でいるのを見た瀬川さんは、あからさまにホッとした様子で続ける。
「何もなければいいんだ。ちょっと心配になっただけ。ほら、専務は元財閥系の葛西一族の一員で、あの見た目だし。女性にもすごく人気があるからさ。個人的に声をかけられたり、とか」
「それなら、なおのことハラスメントなんて、ありえないわ。ご心配ありがとう。
あ、私こっちなので、失礼します」
駅に着いたので、私は彼に別れを告げて、自分の使うホームへと向かう。
「ああ、お疲れ様。気をつけて、また」
瀬川さんの声に、私はペコリと頭を下げると、早足で歩き出した。