Sho 偶然の出会いに堕ちる
都内にある屋内の納骨堂で行われた友人の一周忌に参列した後、会社に確認作業に戻る必要があった俺は、更衣室で喪服からスーツへと着替えると、ラウンジで迎えの車を待つことにした。
「もう3年だ。君はまだ若いんだから、蓮のことは忘れて、別の幸せを見つけなさい」
どうやら先客がいるらしい。
俺は何気なしに声がした方に視線をやると、奥の席に3人の男女が座っていた。
こちらに背を向けて座る2人と、その向かいに座る若い女性。
思わず入口で立ち止まった俺は、その若い女性に視線を引きつけられる。
20代前半くらいの美しい女性だ。
明るい焦げ茶色の真っ直ぐな髪、小さな顔に整った目鼻立ちはどことなく日本人離れしている感じだ。肌の露出が少ない黒のワンピースに、ほっそりとした白い首筋が対照的で、どことなく色気がある。
だがその表情は強張り、今にも泣き出しそうな様子だった。
そんな彼女の前に、背を向けている女性が跪いた。
「今まで、ありがとう。蓮も、私達も、沙弥香さんあなたの幸せを祈っているのよ。お願い、もう前を向いて。振り返らないで。あなたの人生を進みなさい。そして、共に生きていける誰かと幸せになりなさい」
女性は何かに耐えるように、唇を噛んで俯いた。
その儚げな姿から、なぜか視線を外せない。
だが、その時ポケットに入れていたスマホが震える。
どうやら迎えが到着したらしい。
俺は後ろ髪を引かれつつも、踵を返し玄関へと向かったのだった。
「ここでいい。今日はもうこのまま上がっていいぞ。荷物だけ部屋に入れておいてくれ」
「かしこまりました」
いくつかの確認作業と書類仕事を終えた俺は、今日は早目に会社を出て、専属の運転手に神楽坂で降ろしてもらう。
一周忌で中途半端な時間に会食だった為、空腹感はない。故人である友人のことを想いつつ、その後ラウンジで見かけた昼間の女性ことがなんとなく頭から離れなかった俺は、偶に顔を出すバーへと向かう。
今晩は、一人で飲みたい気分だった。
木製の重厚なドアを開けると、落ち着いた雰囲気のカウンターが現れる。
いつものようにバーテンダーに声を掛けようとして、だが片隅に座る女性に、思わず目を瞠った。
彼女だ。
午後に納骨堂のラウンジにいた、あの女性だ。
あまりの偶然に驚くと同時に、俺はバーテンダーに視線で断って、彼女の隣の椅子へと滑り込んだ。
「いらっしゃいませ。今日は珍しいですね」
ホットタオルを出しながら声を掛けてきたバーテンダーの後半の台詞は、俺がわざわざ自分から若い女性の隣に座ったことに対してだろう。
いろいろな事情で女性からのアプローチが多い俺は、こういう場では一人で静かに飲みたいからと、隣の席を空けてもらうことが多いからだ。いつもは女性と隣同士になる事も避けている。
まだ夜は早めのこの時間、店にいるのは俺と彼女だけにも関わらず、わざわざ隣に座った俺に、だが彼女は気がつくこともなく、ぼんやりとグラスを回しながら、丸い氷がゆっくりと琥珀色の酒に溶けていく様を眺めている。
俺は、ウィスキーをストレートで頼むと、舐めるように舌の上で転がしながら、横目で彼女の様子を窺った。
伏せ気味の瞳を縁取る上向きの長い睫毛、白い陶器のような肌、スッと通った鼻筋。憂いを纏ったどこか寂し気な横顔が、妙に庇護欲を掻き立てる。
昼間の耐えるような表情は今はないが、なんとなく涙を流さずに泣いているような、そんな顔だ。
そして、グラスを持つ左手の薬指には、プラチナの華奢なリングが嵌められている。
昼間聞こえてきた会話から察するに、彼女は多分未亡人だ。3年と言っていた。法要ではなく、墓参りだったのだろう。黒のワンピースではあるが、喪服よりも華やかな印象のそれは、華奢な彼女によく似合っている。
だが、目の前のサンドウィッチは殆ど減っていない。
グラスだけが空きそうだった。
「大丈夫ですか?」
まるで泣いているようだとか、食事に殆ど手を付けずに強い酒を飲んでいることとか、昼間のこととか。
気になることはいくつかあって、特定せずに俺は彼女に声を掛けた。
「え?」
ゆっくりと彼女が、俺を見る。
涙は溢れていないものの、榛色の大きな瞳が潤んでいて、その複雑な色合いに魅入られる。
初めて合った視線に、心臓の拍動をひときわ大きく自覚した。
だが突然声をかけられてことで、彼女の顔に僅かな警戒心が浮かんだようにも見えた。
「失礼しました。泣いているのかと」
軽く目を伏せて、突然声を掛けた非礼を詫びる。
「……そう、ですね。泣きたい気分では、あるかも」
彼女の表情が、少し困ったような、自嘲を伴うようなそんな風に変わる。
そして、耳に心地良い落ち着いた声と、綺麗に伸びた背筋、どこか上品さを感じる所作に、育ちの良さも感じられた。
それに飲んでいる様子を見ても、酒を覚えたてという感じではない。見た目は20代前半にも見えるが、実年齢は30の俺とそう変わらないかもしれない。
いい女だ。
もっと彼女を知りたい。その声を、もっと聞いていたい。
俺は彼女のグラスが空になったのを見て、バーテンダーに2杯目をオーダーする。好みが分からないから、彼女が今飲んでいるものを。
「どうぞ」
カルヴァドスのロックだったらしい。ここのカルヴァドスはオー・ダージュ15年ものだ。
40度以上のこれを、酔った様子も顔色も変わることなく飲んでいる彼女に意外性も感じながら、テーブルに置かれたそれを掌で指して、勧めた。
「あの?」
彼女の視線が、俺とバーテンダーとグラスを一巡する。
困惑と戸惑いが伝わってきて、初見の客から奢られる酒には慣れていないのかと、そのアンバランスさが可愛らしくて、思わず小さな笑いが漏れた。
「ご馳走しますよ。代わりに打ち明け話なんて、どうですか?」
酒を奢って彼女の話が聞けるなら、何杯でもご馳走しよう。
名前も歳も知らない初対面の女に、こんなに興味が惹かれて、自分から近付いて声を掛けるなんて、未だに自分でも信じられないが、俺の勘が彼女を逃がすなと告げている。
酔ってはいなくても、アルコールで口の滑りは良くなるだろうし、直接の知り合いでない他人になら言えることもある。誰かに相談できていたのなら、そもそも彼女はここで一人で飲んでもいなかっただろうから。
「……ありがとうございます」
素直に頷いた彼女に、俺は提案が受け入れられたことにほっとする。
俺の酒も無くなったので、彼女と同じ物をロックで注文した。彼女には、食事もするように促す。
「今日は夫の命日だったんです。彼が亡くなって、丸3年経ちました。墓前にお参りに行ったら、義両親に、もう彼を忘れるようにと言われてしまって……」
始まった話は、彼女の亡くなった夫とのことだった。
昼間聞こえてきた話や左手薬指の指輪から、彼女が未亡人であることはわかってはいたが、3年という月日は彼女にとって、さほど時間の流れを感じられない停滞の期間だったようだ。
だからこそ、もう二度とは会えない故人をずっと想い続けてはいけない、忘れて前に進むようにと言われて、整理できない気持ちに悩んでいる様子だった。
死しても尚、健気に一途に想われている彼女の夫を羨ましく思う。
そして、そんな彼女の愛情を得られたら、どんなに幸せだろうとも思う。
今日、彼女と出会えたことは僥倖だ。
故人を忘れる切っ掛けを待っているなら、与えてやればいい。
忘れさせて、彼女の中の時間を動かし、新しい恋は俺とすれば良い。
プロフィールなんて何も知らなくても、その仕草や声、言葉選び、今目の前にいる彼女のどれをとってもを好ましく思う。
「そうだね。じゃあ、手伝おうか?」
俺は、慎重に手を伸ばす。今までに経験したことのない緊張を隠して。
どうかこの手を掴んで?
そして、俺に堕ちてきて?
「お願いします。忘れさせて」
そっと握られた手に、どれだけ安堵したか、きっと君は知らない。
今晩、彼女の時計の針を進めることが出来たのなら、もう逃さない。絶対に捕まえる。
本命と決めた女だ。
引かれない程度に良いシチュエーションで、優しく丁寧に、愛情を込めて。
そう思ったけど、本当にファーストネームしか名乗らない、名乗らせてくれない彼女に、少しばかりの意趣返しも込めて、少々意地悪もしながら、しつこく抱いたのは許して欲しい。
彼女にとっては、おそらく故人以外の男はいなかったと思う。
俺は誘われればそれなりに応じていたし、求められて付き合った彼女がいたこともあったから経験はそれなりにあるけれど。
それでも彼女との触れ合いは別格だったし、こんなに丁寧に奉仕的にそれを楽しみながら抱いたこともこれまでになかった。
本当に、手離せそうにない。
でも彼女は、沙弥香は、やっとこれで気持ちに区切りをつけたところだ。
故人を忘れるためだけに俺に抱かれたに過ぎない。
だから、今度は彼女にちゃんと恋人として好きになってもらったら……と決める。
二人でシャワーを浴びて、彼女を腕に抱いて眠る。
まだ仮初の関係なのにも関わらず、幸せな充足感にあっという間に眠りに落ちた。
翌朝、目が覚めたのは早朝5:30を回ったところだ。まだ外は暗い。
隣で眠る沙弥香を起こさないように、俺はそっとベッドを抜け出した。
今日は土曜だが、いくつか片付けなければいけない仕事がある。本当に名残惜しいが、そろそろここを出て、一度部屋に戻らなければ。
常夜灯のおかげで身支度も苦労なく出来た。
沙弥香の眠りは深そうだ。少しあどけない感じもする彼女の素顔に、思わず笑みが浮かぶ。そっと触れるだけの口吻を落として、俺は連絡先を記したメモを残した。
それでもこれだけでは不安で、申し訳ないと思いながらも、彼女のバックを開けさせてもらう。
カードケースに入っていた免許証を見つけて、写真に収めて元に戻すと、俺は彼女との再会を想像して、静かに部屋を後にした。