Sho 喪失の怖さを知る
「どうした?」
日曜日の朝7時前、チャンギ空港のファーストクラスラウンジの奥、プライベートスペースで、フライトを待ちながら仕事を片付けていた時だった。
五道の焦りを滲ませた呼びかけに、俺は顔を上げる。
「スタンフォードの近くで2時間ほど前に銃撃事件が発生しました」
スタンフォードの近く? 銃撃事件?
「まさか……」
心臓が嫌な音を立てて、胸が軋むような気がした。
沙弥香? いや、今朝メッセージが届いていた。恩師に会いに行くと言っていた。
今、サンフランシスコは、土曜の午後3時頃か?
冷たい汗が背筋を伝う。
五道はそんな俺を見ながら、事務的な口調で言葉を続ける。
「現地の情報が錯綜していて正確な情報は入ってきませんが、被害者に邦人も巻き込まれて、救急搬送された、と。名はセガワタイチ」
「⁉」
聞いた瞬間、俺は、沙弥香の携帯の番号をタップしていた。しばらくして、呼び出しのコールが鳴る。繰り返すコール音を聞きながら、俺は五道に言った。
「父に連絡を取ってくれ。出たら、変われ!」
10回ほど鳴ったコール音はそのまま切れる。俺はもう一度、沙弥香の携帯を鳴らす。
「クソッ! 頼む。出てくれ!」
祈るように、繰り返す音を聞きながら、どうしようもない焦燥感にかられる。
頼む!無事でいてくれ!
「専務、会長が捕まりました」
五道が、彼の携帯を俺に差し出した。
「翔、どうした?」
父の落ち着いた声が、俺を現実へと引き戻した。
今やるべきことはなんだ?
俺は、どうすればいい?
「……パロアルトで銃撃事件が起こりました。今、沙弥香が現場近くにいて、連絡がつきません。藤堂家にコンタクト取ることは出来ますか?」
父が電話の向こうで軽く息を呑む。だが、すぐに尋ねてきた。
「護衛は?」
「今回彼女は出張ですから。海外までは同行させていませんが、彼女の携帯を追うことは可能かと」
「うちの警備部門に追跡させる。藤堂くんにも連絡を取ってみよう。で、お前達はどうなっているんだ?」
父が藤堂家に連絡を取るなら、確かに俺達の関係を説明しておく必要がある。
「恋人になりました。藤堂家にもお伝えしてもらって構いません。状況次第では、俺も現地に飛ぼうと思います」
沙弥香の無事が確認できればいい。
だが、万が一彼女が巻き込まれたりしていたら……考えるだけで、おかしくなりそうだった。
俺は、大きく息をついて、気持ちを整える。
多分、父も俺の様子を薄々察したのだろう。言い聞かせるように、言葉を続ける。
「まずは、正確な情報を集めるところからだ。お前は今日帰国予定だな? 何時のフライトだ」
「8時過ぎの羽田行きです」
「時間がないな。出来る限りこちらでも調べよう。とりあえずお前は、そのまま東京に戻りなさい。また連絡する」
そう言って、父は通話を終えた。
俺の携帯からは、三度沙弥香にかけ直しても誰も出ることなく切れてしまった。
沙弥香……
彼女と俺の関係を突きつけられた気がした。
俺が彼女の夫だったら、家族だったら、彼女の身に何かあればきっと真っ先に、会社や大使館或いは病院からでも連絡が来るだろうに。
ただの恋人でしかない俺は、沙弥香の安否すら知ることが出来ない。
俺にとって沙弥香は、俺自身よりも大切な、たった一人の女性なのに。
頼む。
生きていてくれ。
どうか無事で、心配かけてごめんなさい、と前みたいに言って欲しい。
「専務、うちの警備からです」
五道が、再び俺に携帯を差し出す。
「俺だ」
「翔様、水森様の携帯の位置情報を割り出しました。銃撃事件の犯行現場から動いていません」
「なんだと? どういうことだ?」
事件に巻き込まれて病院に運ばれたとかなら、携帯も移動しているはず。
考えたくはないが、もし、命を落としていたとしても、もう2時間前に起こった事件現場から携帯だけが動いていないという意味がわからない。
車に置き忘れた?
いや、彼女なら電話することが可能なら、状況を会社や家族に知らせるはずだ。当然、俺にも。
嫌な予感をヒシヒシと感じる。
まさか、彼女は……
「追って調査します。現地の者も動かして、今現場に向かわせています」
「……わかった。頼む」
いや、大丈夫だ。沙弥香は生きている。
だって、約束した。年末を一緒に過ごすと。
沙弥香の笑顔を思い出し、俺は頭を振った。
「専務、そろそろゲートのブースに入らないと」
携帯を五道に返すと、搭乗時刻が近づいていた。
俺は、荷物をまとめて立ち上がる。
「ああ、行くぞ」
俺達は、沙弥香の無事を祈りながら、ラウンジを後にした。
父と衛星回線を通して電話が繋がったのは、フライトから4時間が経過した頃だった。
「藤堂くんと連絡が取れた。翔、落ち着いて聞きなさい。沙弥香さんに怪我はないらしい。しかし、行方不明だ」
「は?」
「銃撃事件現場には、同僚と居合わせたようだ。瀬川太一という男性だ。彼が彼女を庇って右胸部を撃たれたらしい。EMTが彼を救急搬送する際、受傷の状況を説明し、G社や大使館に連絡を入れたのも彼女だ。だが、その後連絡が、つかなくなった。携帯と彼女の荷物が現場に残されていた。もう1人、彼女達と一緒にいた大学教授の消息も不明だ」
「沙弥香は生きてる……」
ああ、沙弥香が生きていた。
最悪の事態も考えられただけに、消息不明とはいうが、生きていることにまずは安堵する。
だが、一体どういうことだ?
「ああ、藤堂くんは誘拐を考えて、警察に捜査を依頼したと言っている」
「誘拐……一体誰が……」
「銃撃事件とは関連性はなさそうだが。ちなみに撃たれた瀬川くんは、無事に手術が終了して、会話も可能だ。1週間以内で退院出来るだろうと。彼によると、大学教授との面会後、三人で昼食に行ったそうで、そこで事件に巻き込まれた、と」
瀬川が沙弥香を庇って撃たれたと言っていたが、彼もなんとか無事でよかった。万が一瀬川に何かあれば、もしかしたら沙弥香は、瀬川を受け入れるかも知れない。それは許せそうになかった。
それに、誘拐?
誰がなんの目的で?
殺すつもりなら、銃撃事件現場からわざわざ連れ去る必要はない。
身代金目的なら、藤堂家かG社に連絡が行くはずだ。
彼女自身が目的だとすると……
「教授……沙弥香のMIT時代の恩師か」
「どうする? 翔。現地に行くか? 社長と常務に緊急事態だと伝えて、仕事を振ることは可能だが」
「お願いします。あと、彼女の恩師である大学教授についての調査も」
「わかった。引き続き調べよう。シスコへは、羽田17:30の便を手配する。間に合うな?」
「ええ」
「羽田には、櫻井に荷物を持たせて行かせる。お前は手荷物だけ持って、カウンターに向かえばいい。シンガポールとはずいぶんと気候が違うからね。五道は、お前の仕事を引き継がせるためにこちらに残しなさい」
「わかりました。ありがとうございます、父さん」
「お前も気をつけなさい。戻ったら、沙弥香さんと一緒に顔を出すんだよ」
「はい。行ってきます」
父のサポートがありがたかった。結婚を考えていると、彼女のことを話しておいてよかった。
彼女が怪我なく生きている、それだけで前を向こうという気になれる。
沙弥香、必ず見つけ出す。
君を迎えに行くから。
羽田で俺は五道と別れ、警備の櫻井が合流して、そのままサンフランシスコまで飛んできた。
俺達はとりあえず、彼女と最後に居合わせた瀬川の話を聞くべく、彼の入院している病院へと向かった。
「忙しい貴方が、わざわざ来たんですね。沙弥香さんの為に」
ベッドから身体を起こし、重症だった割に意外と元気そうな瀬川を見てホッとする。
だが、彼は、面白くなさそうにそう言った。
「当たり前だ。仕事なんて、いくらでも替えがきく。だが、君にも礼を言わなければ、と。ありがとう。沙弥香を庇ってくれたと聞いた」
「貴方の為じゃない。気がついたら、身体が動いていたんですよ。それよりも、彼女は見つかったんですか?」
「……まだだ。これから、藤堂家に行くことになっている」
「ディッセル教授は、沙弥香さんの才能を称賛していました。彼が、彼女を害するとは考えにくいのですが」
「ああ。身代金の要求とかは無いそうだ。だが、彼女は才能あるエンジニアだ。その才能欲しさの組織や国絡みの誘拐も考えられる。この国は、日本と違って中南米とは陸続きだ。国境を越えられたら、厄介だ。誘拐が発覚した時点で、その辺りも手配したそうだが……」
「……事件からもう24時間近く経っている。8時間もあれば、国境迄だって行ける」
「うちの警備部門も動かしてはいるが、まだ消息がつかめない。教授が一緒に行方不明なのも気にかかる」
「確かにあの二人が手に入れば、ハッカー集団は国や大企業相手に効果的なサイバー攻撃が可能ですね」
「ああ、そうだよな。じゃあ、彼女はきっと生きている。大丈夫だ。沙弥香は絶対に探し出す……君は、どのくらいで退院出来るんだ?」
「銃弾の摘出は出来たし、右の肺に大きな損傷はなかったので、合併症がなければ、あと4、5日後には」
「そうか。よかった。ご家族も心配しているだろう?」
「ええ。ですが、この通り比較的元気なので、来なくていいと伝えました。本社からも人は来てくれていますし、藤堂家の方からも気を遣ってもらっていますしね」
確かに、沙弥香を庇って怪我をしたなら、藤堂家も彼に出来るだけのことはするだろう。
いっそのことうちで面倒見るか、と思う位には面白くないが、沙弥香の命の恩人だと思えば溜飲も下がる。
ただ、彼は教授を疑ってはいないようだが、沙弥香の携帯が発見された辺りで、睡眠薬入りの水が僅かに残ったペットボトルが転がっていたらしい。
恐らく、一緒にいた教授が沙弥香を連れ去った。背後にどれだけの組織がいるかはまだ不明だが、今うちの警備は、教授を徹底的に洗い出して追跡している。
「まあ、大事にしてくれ。俺はもう行く」
「葛西専務、沙弥香さんをどうかお願いします」
「君に言われなくても。彼女は、俺の妻になる女だからな」
俺は瀬川にそう言って、病室を後にした。
そしてその後、俺は藤堂家を訪ねた。
玄関で迎えてくれたのは、藤堂夫妻だ。
「いらっしゃい。遠いところをすまないね」
藤堂氏は顔に疲労を浮かべているものの、落ち着いた様子で俺を招き入れた。
「初めてお目にかかります。葛西翔と申します。沙弥香さんとお付き合いさせていただいております」
「ああ、沙弥香からも聞いている。葛西先輩、君のお父上からも連絡をもらったよ。わざわざここまで来てくれたんだね。ありがとう」
頭を下げて挨拶した俺に、彼は穏やかにねぎらってくれた。
俺は顔を上げて、早速本題に入る。
「その後、何か進展は?」
「いや……だが、FBIが動いている。娘は必ず見つかると信じている」
「うちの警備部門も動かしています。待つことしか出来ないのは歯痒いですが……私も信じています。彼女は必ず帰ってくると」
藤堂氏は俺の言葉に頷くと、隣に立つ女性の肩を抱いた。沙弥香に面立ちの似た綺麗な女性だ。
「翔さん、沙弥香の母の由依です。立ち話もなんですから、どうぞ」
憔悴の色は隠せないが、彼女は笑顔を浮かべて室内へと誘ってくれた。
「初めまして、由依さん。では、お邪魔します」
案内されたのは、リビングだ。
手入れされた庭を臨むリビングは、開放的な空間でありながら、落ち着いたインテリアで居心地が良い。
俺にソファーをすすめ、彼らも向かいに腰を下ろす。
「先日、沙弥香が帰ってきてね。そろそろこっちに戻って来たらどうかと尋ねたら、君と付き合ったいるから、と断られたところだったんだよ」
「そうでしたか……」
「そうしたら、こんな事件が起こって、今度は君のお父上から電話をもらって、驚いたよ。君達は、いや、君は沙弥香との結婚を考えているのかい?」
「はい。もちろん、彼女がまだ水森氏のことを忘れられていないのは知っています。でも、少しずつ変わってはきています。彼女は私を選んで、新しい恋を始めてくれた。だから、結婚はまだ先でもいい、と思っていたんです」
「そう」
「でも、今回のことで思い知りました。
家族でも夫でもない私は、安否確認さえままならない。彼女に何かあっても、一番に知らせが来ることはない。
それに、彼女を守ることすら、思うようにいかない」
「翔さん、貴方は……」
それまで黙って俺達のやり取りを聞いていた由依さんが、俺に何かを言いかけて口ごもる。
俺はそれに頷いて、二人に向き合い、決意を込めて宣言した。
「私は、彼女を、沙弥香さんを愛しています。失うことは考えられないし、もう手を放したくない。何がなんでも探し出して、取り戻す。そして、彼女と夫婦になりたい」
「……君はずいぶんと情熱的な男だったんだな。以前、葛西氏に君のことを聞いたことがあるが、彼の話と印象が違っていて、驚いたよ」
藤堂氏が表情を緩めて、言った。
確かに以前の俺は結婚に興味もなければ、女性に対して淡白だった自覚もある。
「彼女に、沙弥香さんに出会って、私は変わったのかもしれません。どうか、私達の結婚をお許しいただければ、と思います」
「姉さんは、相当拗らせてるから、難しいと思うよ?」
割り込んできたのは、若い男の声だ。
俺は声の方に振り向いて、藤堂氏に容貌の似た彼に、確かめるように尋ねた。
「君は、彼女の弟?」
「一樹だ。姉さんは、失うのが怖いのさ。貴方に心を預けてしまうことを躊躇する程にね」
部屋の入口近くの壁にもたれて、彼は答える。
その言葉に苦い気持ちが湧き上がってきた。
きっと、水森氏を亡くした時の沙弥香を、彼は見てきたのだ。だから彼女の心の奥底にある、誰かを愛して自分を委ねる怖さを理解している。
「その怖さを、俺も今回、初めて知ったよ。でも、もう彼女を知らなかった頃には戻れない。
俺は、沙弥香を絶対に取り戻す。
そして、俺達はもう決して互いを失わせないように、守り抜く」
そう。俺も思い知った。
沙弥香を失ったかも知れないと思ったときの、恐怖とどうしようもないくらいの喪失感を。
息が止まりそうな位の痛みと苦しさを。
だからこそ俺は、互いにこんな想いはしたくないし、させたくもない。
特に沙弥香には、こんな苦痛を二度と与えたくない。
「翔くん。君の気持ちは良くわかった。沙弥香をこれほど想ってくれている君に、反対することは何もないよ。ただ、沙弥香の気持ちは、ちゃんと大事にして欲しい」
藤堂氏の言葉に、俺は真摯に答える。
「はい。必ず。
私はもう行きます。うちの警備と彼女を追います。藤堂さん、FBIから何か知らせがあったら、私にもお知らせください。お願いします」
「ああ、約束しよう。君も気をつけなさい。FBIにも君達のことは知らせておこう」
「ありがとうございます。では」
俺は立ち上がって、沙弥香の家族にもう一度頭を下げると、踵を返す。
一刻でも早く、沙弥香を見つけ出して、腕の中に抱き締めたかった。