Sayaka 出張と帰省
『 』は英語で
「 」は日本語での会話です。
出張を明日に控えた月曜の夜、翔から電話が掛かってきた。
私は両親からのお土産リクエストを眺めながら、スーツケースを開けたところだった。
「明日のフライトは夕方?」
「ええ、成田なの。日系のエアラインで飛ぶわ」
久しぶりの成田だ。午後1時過ぎには家を出ようと思う。
「そうか。今日、G社との本契約だったよ。瀬川マネージャーが来た」
「そう」
急に変わった話題に首を傾げながら先を促す。
「彼も明日からアメリカなんだね。一緒に行くのか?」
ああ、瀬川さんから聞いたのね。
「そうみたい。私も総務に手続きに行って、今日知ったわ」
「彼に君とのことを聞かれて、恋人だって匂わせておいた」
「仕事中に何を話してるの?」
「君のことだけは、少しも譲れないからね」
どうやら、二人の間で何やらやり取りがあったらしい。仕事中に何やっているんだと思いながらも、気持ちもわかる。
私も、他の女性が翔にアプローチするのは、嫌だし落ち着かない。いつの間にか、彼に対して独占欲めいたものを抱くようになっていたことに、軽い驚きを覚えながら、答えた。
「翔ったら……私からも彼にちゃんと話すわ。貴方のことが、好きって。ちゃんと恋人になったって。だから、心配しないで?」
「沙弥香のことは信じてる。だけど、彼は君を諦めていない」
「強引なことをする人じゃないし、大丈夫よ」
そう、瀬川さんは、ちゃんと紳士だ。押しは強いけど、私の気持ちを無視したりはしない。その辺りは、なんとなく信じられた。
「ああ。それはわかってるんだが、どうも君のことになると、落ち着かなくて。すまない」
「ううん。逆の立場だったら、私もきっと不安になったと思うから。聞いてくれて、ありがとう。貴方を知らずに傷つけることにならなくて、よかったわ」
「君は本当に……参ったな。好きだよ」
「うん。私も」
翔の言葉に素直に返して、じんわりと胸が温かくなる。
恋人と同じ気持ちを交わせることが、嬉しい。
「明日から、気をつけて行っておいで」
「ええ。翔もね。次に話せるのは、週末くらいかしら? またメッセージ送るわ」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
翔も紳士だ。初めてがあんな始まりだったけれど、ちゃんと私の気持ちが追いつくまで待ってくれていた。
忙しい時間をやり繰りして、メッセージや会話を交わし、時には出会って、お互いを知って、ちゃんと好きになった。
そして、私の蓮に対する気持ちや思い出も引っくるめて、好きだと伝えてくれる。
年末が楽しみ……彼と過ごす時間が心地良くて、もう会いたい。
でも、とりあえずは目の前の仕事を片付けないと。
私はスーツケースにパッキングしながら、彼を想った。
翌日は、余裕を持って空港に到着する。
ビジネスのチェックインカウンターに向かうと、瀬川さんに声を掛けられた。
「やあ、沙弥香さん。これからチェックイン?」
「ええ。瀬川さんは、もう?」
「ああ。それにしても、荷物多くない?」
瀬川さんは、結構早目に来ていたらしい。
彼が持っているのは、ビジネス用の鞄だけだ。スーツケースはもう預けたのだろう。
私のスーツケースを眺めて少し驚いた様に言った。
「実家から頼まれて……お陰で朝から買い物に行く羽目になったわ。まあこのサイズになっちゃったけど、スーツケース一つに収まってよかった」
「それは大変だったね。手伝うよ」
「ありがとう」
彼がスーツケースを引き取ってくれたので、素直にお礼を言った。手荷物は、パソコンと機内で使う化粧品位だからそう多くない。
私達は早々にチャックインを済ませると、出国審査を終えて、ラウンジへと向かった。
コーヒーとちょっとした茶菓子を摘みながら、本社へとメールをして、現地でのスケジュールを確認する。
私は出張中、いくつかプライベートの用事を済ませる必要があるので、それも伝えておく。
「予定については、了解。ところで、席はどこだった? ああ、通路挟んで隣同士かな?」
「うん。多分そうね。まあ、夕食食べたら、寝ちゃうから」
「……昨日、葛西専務に会ったよ。彼だったんだね」
少しの間をあけて、瀬川さんが切り出した。
ああ、昨日の件だ。彼に伝えておかなくては。
「ええ。恋人に、なったの」
「そうか。思いっきり牽制されたよ。まあ、俺もちょっと煽っちゃったからなあ」
だから、一体貴方たちは、仕事中に何してるんですか?
「瀬川さん、あの……」
「ああ、大丈夫だよ。見守らせてって言っただろう? 邪魔するつもりはないんだ」
「……はい」
「君が幸せなら、それでいいんだよ……ただ、少しだけ、君を諦められるまでの、時間が欲しいんだ」
「ごめんなさい」
貴方の気持ちに答えられなくて。
「謝らないでくれ。ただ、距離をおかないで?」
「わかったわ」
別に、避けたり、距離をあけようとは思っていない。彼が気にしないなら、私は態度を変えるつもりはないのだ。
フライトは順調で、定刻でサンフランシスコに到着した。
空港の制限区域から出ると、本社から顔見知りが迎えに来てくれていた。
役員秘書の1人、中国系の女性Msリー・ファレンだ。少しだけ年上の頼りになる女性で、秘書としても有能である。
『ファレン、久し振り』
『サヤカ! 1年ちょっとぶりよ。元気そうね』
軽いハグを交わしていると、後ろから声が掛かる。
『Msファレン、世話になります』
『タイチも、相変わらずいい男ねえ』
『それはどうも。ファレンも変わらずお美しい』
握手を交わしている二人はいつもこんな感じだ。笑顔と褒め言葉で本心を隠していると言うか……結構気は合っていると思うのだけれど。
『ホテルで荷物を預けたら、午後一度社に顔出して、明日からのスケジュールを確認するわよ。夕飯はどうする?』
『私は、夕方に家族と約束があるわ。タイチ、ファレン、明朝合流でいいかしら?』
『もちろん。楽しんできてきて』
前もって伝えてあったから、特に問題なさそう。
『じゃあ、タイチは私と一緒にどう?』
『喜んで』
どうやら二人で夕食に行くことになったらしい。
よかった。
その日の夜、私は半年ぶりになる実家に来ていた。両親から頼まれたお土産を山程抱えて。レンタカーを借りたので、出張中の移動は自由が効く。
玄関のベルを鳴らすなり、両親と弟と皆で迎えてくれる。変わらない姿に、帰ってきたことを実感した。
「皆、ただいま」
「沙弥香、会いたかったわ。元気そうでよかった。変わらないわね」
「半年じゃ、そう変わらないわよ。はい、お土産」
抱きしめてくれる母が、変わらず温かい。
私は、ずっしりと重いバッグを差し出した。
「ありがとう! 頼んで良かったわ。日本のものは美味しいのよね」
受け取ったのは弟の一樹で、母と一緒に、早速中を覗き込んでいる。
「しばらくは、ご飯のお供に困らないな。ありがとう、姉さん」
「時々無性に食べたくなるからね」
父も機嫌良さそうに笑っている。
中身は、日本では定番の高級ふりかけやちょっといいお茶漬け、昆布の佃煮、老舗の出汁、食べるラー油、大粒の減塩梅干しなど、まあ、こちらでは少々手に入りにくいもの。
お取り寄せがわりに、ブランドを指定して、毎度こうしてリクエストされるのだ。
久しぶりの家族揃っての夕食は、やはり母の手料理。
皆で乾杯して、今日はすき焼きだ。
漬物や酢の物やちょっとした箸休めの他に、しっかりとご飯まで炊いてある。
アメリカにいるとはいえ、これがうちの定番だった。
「沙弥香、貴女そろそろこっちに帰ってきてもいいんじゃない?」
「もう、3年経つのだろう?」
仕事のことや近況をお互いに話したところで、ポツリと母と父が、言う。
蓮が亡くなって3年。
うちの両親にとっても、区切りを意識した時間経過なのかも知れなかった。
私は、姿勢を正して、皆に向き合う。
「そのことなんだけど……水森の両親にも、もう忘れるようにと言われたの。
それで、実は、私、今、日本でお付き合いしている人がいる」
「え? ホントに?」
3人が驚いた顔で、私を見る。
「うん。葛西 翔さんっていう方。日本では大手の商社の、K社の役員なの。しばらく前に出会って、先日お付き合いすることになったわ。蓮のことも含めて、私のことを丸ごと好きだと言ってくれる人」
「葛西さんって、あの葛西さん? 葛西さんのところの息子さん?」
母が目を瞠って、父と私を交互に見ながら尋ねる。
「あの、って知り合い?」
私の頭の中にも疑問符が浮かんでいる。
どういうこと?
それに答えたのは、父だ。
「ああ。おそらく、彼の父親の葛西氏は、私の大学の先輩だね。ここ4、5年会っていないが……」
「そうだったんだ。翔にはお兄さんが二人いるって言っていたわ」
「ああ、じゃあ、末っ子だ。そうか……」
父が、何やら思うところがありそうな表情を浮かべる。
そこに一樹が割って入った。
「結婚するの? 姉さん」
「まだそんな話は全く。付き合い始めたばかりよ」
「でも、二人ともいい年だろ?」
「いい年って……私は、一度結婚しているし……それに、もう、結婚にはこだわらないんだけどな」
そう。結婚には拘ってはいない。
ただ、側にいられたら、良いと思う。
「翔くんは、どう考えているかわからないだろう? ちゃんと話し合わないと」
「沙弥香、私達は貴女の考えを尊重するけど、日本に住み続けるなら、家族はいた方が良いと思うわ」
父と母が言うこともわかる。
でも、まだ付き合い始めたばかりで、その先まで考えることをなんとなく躊躇う気持ちもあった。
蓮のことをどう折り合いをつけたら良いのか。
翔のことは好きだけど、どこかで彼を失う可能性を考えてしまう自分がいて、気持ちにブレーキをかけているのかも知れない。
翔のことを蓮と同じように愛してしまったら、彼の喪失をひどく恐れてしまいそうな気がして、怖いのだ。
そんな気持ちを読んだように、一樹が軽い口調で言った。
「まだ、そこまでって感じじゃないんだろ? 気楽にさ、結婚しなかったら、こっちに戻ってくればいいじゃん」
「一樹。貴方が結婚してここに住むなら、出戻りの姉は邪魔だわ」
「まだそんなことを考える彼女はいないけどな。どっちにしろ俺が結婚したら、新婚のうちは出ていくし」
先のことはわからない。なるようにしかならないし、あんまり深く考えるなよ?
そんなふうに諭された感じがして、私は頷くと、話題を変えた。
「まあ、どちらにしろ、もうしばらくは日本にいる予定。年に1、2回はこっちに顔を出すわ」
「今回はいつまでいられるの?」
「月曜日のフライトで帰国するわ。土曜は、お世話になった教授のところに顔を出しに行くつもり。今、スタンフォードにいるのよ。日曜はもう一度こっちに顔を出すわ」
「じゃあ、日曜日は一緒にお料理しましょ?」
「いいわね。楽しみにしてる」
私は週末の約束をすると、本社近くのホテルへと戻っていった。
水曜から金曜にかけては、社内研修の講師やシステムの調整、本社の社員とのカンファレンスなど、瀬川さんとは一部被るところはあったものの、ほぼ別行動で過ごしていた。
翔とは、時差があるのでメッセージアプリを通してのやり取りだけで、声は聞けていない。
ただ、家族に翔と付き合い始めたことを話したことは、伝えてあった。
今日は土曜日。
恩師に会いに行くことを瀬川さんに話したら、ぜひ紹介して欲しいと言われて、一緒に会いに行くことになっていた。
「ディッセル教授に紹介してもらえるなんて、光栄だよ」
そう言う彼の声は弾んでいる。本当に嬉しいらしい。
「瀬川さん、結構論文も読んだって言っていたわね」
「ああ。君と共同で出していた分は全部。他にも引用参考文献であった分と、最近のものも」
「本当に、関心を寄せてくれていたのね」
「言っただろう? 君のファンだったって」
「ええ。まあ」
これに関しての瀬川さんの熱量は、ちょっと理解できないけれど。しかも先生の分までとなると、この分野に対する興味だと思う。
私達は大学の先生の研究室へと、学生時代の話をしながら、向かったのだった。
『先生、お久しぶりです』
先生は、学生時代にお世話になっていた頃から、あまり変わらない様子だった。
今は、40代後半になったはずだろうけど、あの頃から齢をとっていない感じ。
『おお、待っていたよ! サヤカ、5年ぶりになるかな? こちらが?』
先生には予め話してあったので、私は瀬川さんを紹介する。
『はい。お知らせしていたタイチ・セガワです。先生の論文を読んでいて、お会いしたいと。今一緒の職場で働いていて、本社に一緒に来たので』
『初めまして。お会い出来て嬉しいです』
『こちらこそ。サヤカと一緒に働いているなんて、エキサイティングでうらやましいね』
『本当にいろいろ勉強させてもらってます』
二人は、先生が最近書いた論文について、早速盛り上がっている。
私も時々話に加わりながら、有意義な時間を過ごして、あっという間に正午を回っていた。
『ああ、もうこんな時間だ。二人とも、ランチでも一緒にどうかね?』
『ありがとうございます。ぜひ』
皆で大学近くのレストランへと出掛けることにした。
今日は天気も良くて、冬なのに暖かい日で、この辺りでは美味しいと評判のシーフードレストランに行くと言う。
先生は常連なので、良い席を融通してもらえるらしい。
私の運転で向かい、ショッピングモールの駐車場に車を停めて、隣接するレストランへと歩き出した時だった。
突然、パン、パン、パンと連続した音が響き渡る。そして、近くにいた人々が叫び声を上げて、走り出した。
『え?』
振り返った先にいたのは、銃を持ち、周囲の人に向かって発砲している男だった。
一瞬、それが現実なのかわからなくなり、立ち尽くす。
「危ない!……ック」
いきなり、瀬川さんに手を引かれ、彼の腕の中に抱え込まれた。
そして、全身に彼の体重が掛かり、思わずその場に二人で崩れ落ちる。
彼の顔が、苦痛に歪んだ。意識はあるようだけど、声が出せなさそうな様子に、やっと現状を理解する。
私を庇って、瀬川さんが撃たれたのだ。
「瀬川さん? 瀬川さん!」
焦った私は、慌てて彼の名を繰り返す。
お願い!大丈夫だと言って!
みるみる青褪めていく顔色に、私は彼の名を呼ぶことしか出来ない。
『サヤカ、落ち着け』
先生の声だった。隣に伏せた先生が、こちらに向かってゆっくりと言った。
そして、折り重なっていた瀬川さんは、私の上から身体をずらすと、そのまま横になって、口を開いた。
「沙弥香さん……君は、無事、だね? 大丈夫……だから」
途切れ途切れながらも、ちゃんと喋れている。
そのことに、泣きそうなくらいほっとして、私はやっと自分のするべき事に、考えが及んだ。
「瀬川さん……とりあえず救急車を呼びます」
手元にあったバッグから携帯を取り出して、911をコールする。
周辺には、もう銃を持った男はいなかった。
私は、瀬川さんの傷も確認する。
右の背部、肩甲骨のすぐ下あたりに傷があったけれど、出血はそう多くない。ハンカチをあてて押さえながら、救急車を待つ間、会社と日本大使館にも連絡を入れた。
間もなくやってきたEMTに、瀬川さんの搬送をお願いして、私はそこでやっと息をついた。
『大丈夫だよ、サヤカ。タイチは死なない。EMTも言ってただろう? 水でも飲んで、一息入れよう』
私を手伝いながら、どこかに連絡していた先生が、買ってきたペットボトルの水を差し出してくれた。先生の言う通り、瀬川さんは大丈夫そうだ。
『はい。ありがとうございます……え?』
喉が乾いていたのだと思う。一気に飲んでしまったところで、ふっと力が抜けていく気がした。
『おっ……と。大丈夫か? サヤカ?』
支えてくれた先生の声が遠くなる。
視界が霞んで、私の意識はそのままブラックアウトした。