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10/20

Sho 彼女の部屋と夕食

「お疲れ様、いらっしゃい」


 夜7時半過ぎ、沙弥香はマンションの来客用駐車場まで迎えに出てきてくれた。

 深緑色のふわっとしたニットに、アースカラーのワイドパンツ、それに大きめのストールを羽織って出てきた彼女は、昼間のスーツ姿とは、打って変わってリラックスした雰囲気で、綺麗というより可愛らしい印象だ。

 引き寄せてハグしたいのを堪えて、一歩空けて横に並んで歩き出す。


「1週間ぶりだな。会いたかった」


「昼間、会ったわ」


「G社の水森さんにね」


「ひどいわ。知っていたんでしょう?」


「ああ。驚く顔が見たくて。あと、仕事している沙弥香も」


「やっぱり」


 彼女の案内で、エントランスを抜けて、エレベーターを上がり、部屋へと向かう。

 少し拗ねながら答える沙弥香が、予想通りで笑ってしまう。


「ハハハ、ごめん。でも、多分G社で決まるよ。まだ口外はしないで欲しいけど」


「もう。聞かせちゃ不味いことは、言わないで」


「沙弥香を信じてるから、問題ないな」


「公私混同だわ……ここよ。どうぞ」


 電子ロックを解除して、玄関のドアを開け、招き入れてくれた。普通のシリンダーキーもついていて、二重ロックになっているようだ。

 玄関はマンションにしては広めで開放感がある。

 その先の廊下も広めだった。


「お邪魔します。広いな」


 俺の部屋もそれなりに広いが、ここも同様かそれ以上かも知れない。

 ただ、こちらは低層のマンションなのと、うちのようなホテルライクな感じはない。

 温かみのある落ち着いたインテリアで、白の壁や天井をベースに焦げ茶色の木目のドアや、家具で統一性を出している。


「家族向けだからね。結婚した時に購入したの」


 沙弥香はそう言ってリビングまで来ると、照明を明るくした。

 TVやソファーセットの他に目に入ってきたのは、小さな仏壇だ。周囲の家具のカラーに合わせたコンパクトでモダンなタイプで、部屋の雰囲気にもよく合っている。周囲には水森氏と思われる写真もあった。


「インテリアに拘りを感じるな……君のご主人だね? 挨拶しても?」


 沙弥香を振り返って尋ねると、彼女は小さく笑って頷いた。


「ええ。ありがとう。蓮、葛西翔さんよ。K社の専務様って今日知ったわ」


 まだ根に持っているらしい。


「支社だけどね。水森さん、初めまして」


 俺は仏壇の前に立って、手を合わせる。

 写真の中の彼は、今の俺よりも少しだけ若く見える。眼鏡が似合う穏やかな笑顔の、秀麗な男性だ。


 彼が、沙弥香の夫。彼女を愛し、愛されながらも、沙弥香を遺して逝ってしまった人。

 無念も悔しさもあっただろうけど、3年が経って、俺は彼女と出会うことが出来た。

 彼女に許してもらえるなら、きっと貴方の分も、彼女を幸せにしたいと思っている。


「翔、Washroomはこっちよ。手を洗ったら?」


 沙弥香に呼ばれて顔を上げた俺は、上着のポケットから小さな箱を取り出した。

 彼女の前に立ち、その手を取って掌に乗せる。


「ああ。その前にコレ」


「?」


「ドバイのお土産」


 包装はしていなかったから、彼女にはそのまま箱を開けて見るように視線で促す。


「ゴールドのピアス?」


 ゴールドスークで買った、三日月をモチーフにして小さなダイヤをあしらったピアスだ。


「ああ。好みは分からなかったけど、似合うと思う」


「ありがとう。綺麗だわ」


 嬉しそうにほのかに微笑んだ彼女が愛おしかった。



 俺が手洗いを借りて、リビングに戻ると、奥にあるダイニングキッチンから沙弥香に呼ばれた。

 4人がけのダイニングテーブルの上には、彼女の用意した夕食が並んでいる。


「どうぞ、座って」


「すごいな。これ大変だったんじゃ……」


 皿数6品だ。

 山芋ともずくの酢の物、温野菜とゆで卵のサラダ、ナスの揚げびたし、鶏むね肉のみぞれ煮、豚汁が並び、テーブルの端においてある土鍋の中は、茸の炊き込みご飯だという。


「昨日の今日じゃ、そんなに手が込んだものは無理よ。全部一緒に並べちゃったし。でも、種明かしはしないでおくわ。目一杯ありがたがって?」


「ハハハ、嬉しいよ。美味しそうだ」


「飲み物は冷たい緑茶でいいかしら?」


「もちろん。あ、沙弥香は遠慮なく飲んで?」


「ううん。これ、水出しで抽出したお茶なの。それに今日はおつまみじゃなくて、ちゃんとご飯にしたから、お茶の方がいいわ」


「そう? じゃあ、ありがとう。いただきます」


 酒好きの彼女だが、どうやら俺に気を遣っているわけではないらしい。


「このお茶、なんとなく甘くてまろやかだね、旨い。それに、どれも好きな味付けだ。究極の家庭料理って感じ」


 お世辞でもなんでもなく、心から美味しいと思う。どんなに高価な外食よりも、幸せの味がした。


「口に合って良かったわ。この間はお弁当だったから、少し濃い目の味だったものね」


「どれも美味しかったよ」


 ゆっくり時間をかけて、彼女と話しながら食事をする。俺はドバイでの出来事を、彼女は週明けのトラブルのことを。


 食後は一緒に片付けをして、彼女がテーブルに並べたのは、ドライフルーツと暖かいほうじ茶だった。

 面白い取り合わせだけど、甘過ぎないドライフルーツが結構合う。



 俺は、改めて沙弥香に向き合った。今日は、彼女にどうしても伝えたいことがある。


「沙弥香」


「はい?」


「これから、忙しくなりそうなんだ」


「年末が近いから、大変ね」


「しばらく、会えなくなると思う」


「そう……」


 短く返して言葉を切った沙弥香を、俺は探るように見つめた。

 この3週間、毎週末に時間が取れたのは運が良かった。これから商社は繁忙期に入る。俺も国内や海外へ、多くの出張が予定されていた。四半期決算と来年向けの契約更新時期にかかるからだ。


「少しは、寂しいと思ってくれてるかな?」


「そうね。翔といるのは楽しいから」


 よかった。俺は彼女の中にちゃんと居場所を作れているみたいだ。


「俺は……女性と会えなくなることを、こんなに寂しく感じるなんて、知らなかった」


「翔?」


 見つめた榛色の瞳が、小さく揺れた。


「この間も。君とたった2日間連絡が取れなかっただけで、あんなに不安になるなんて、自分でもおかしいと思った。でも、理屈じゃないな、こういうのは」


「……うん」


 彼女の瞳が伏せらて、視線が途切れる。

 それをもう一度引き戻すように、テーブルに指を組んで置かれた彼女の手を取る。

 再び合わされた視線に、俺は続けた。


「沙弥香、君が好きだよ。俺は君が好きで、君も俺を好きになってくれたら、嬉しいと思う」


「翔と、いるのは好き。でも、貴方と同じ好きかは、まだわからない」


「うん。知ってる。だから、俺の事をもっと見て、もっと知って? 会えなくても、言葉を交わしたい。メッセージでも、電話でも」


「うん」


「その日あった事ととか、考えてる事とか、些細な事でも、沙弥香の声で聞けたら、俺は嬉しい」


「うん」


「それで、俺を選んでくれたら。

 俺のことを好きになってくれて……君の隣に、俺が君の一番近くにいることを許してくれるなら、年末年始の休暇は、一緒に過ごそう」


「……うん、考えとく」


 間をあけて答えた沙弥香に、俺はダメ押しする。


「前向きにね?」


「ええ」


 頷いた彼女にホッとした。これで、メッセージも電話も双方向で堂々と交わせる。

 そして、遠慮することなく、俺の気持ちを伝えることが出来る。

 それに、情の深い彼女はきっと、たとえ他の男からのアプローチがあっても、踏み止まってくれる。

 まだ恋人同士ではないけれど、俺の不在時に横から奪われるのだけは、許せない。密かに護衛をつけることにする。


 安心した俺は、これからの予定を彼女に話す。


「ちなみに週明けからはヨーロッパなんだ。クリスマス前までに片付ける事が山ほどあって。また日曜に出発」


「ああ。そうね。来週くらいからクリスマスマーケットも始まるわ」


「で、その後はトルコ」


「大変ね」


「2週間位で帰ってきたい」


「ふふっ……頑張って」


 彼女の手が宥めるように俺の手を軽く叩いた。

 ああ、そう言えば。

 G社のシステムを導入するかの結果は、俺の出張中に通達されることになると思うが、彼女はうちに出向してくることはあるのだろうか?


「ところでさ、今回の発注、正式に決まったら、君はうちの担当になるのかな?」


「いいえ。リアムっていうエンジニアが行くと思う」


「残念。でも、うちのエンジニアは君のファンが多いから、俺はちょっと安心かな」


「ファン? よく分からないけど。ああ、そういえばあなたにセクハラ疑惑が」


「はあ?」


 セクハラ? 全く身に覚えのない話に、間が抜けた声が出てしまった。


「ほら、名刺交換したでしょう? 専務がわざわざエンジニアに声を掛けたりなんてするから、個人的に誘われたのか?って、瀬川さんに心配されたの。

 もちろん、ちゃんと否定しておきました」


「瀬川って、あの営業の。そうか、ひどい誤解だ」


「心配性なのよ、あの人」


 そう言った彼女の言葉の端に、瀬川に対する若干の親しみを感じて、警戒心が刺激される。

 沙弥香に対する、過剰とも思える彼の物言いも気に食わない。

 俺は記憶に留めて、この話を終わらせる。


「へえ、そう……あ、そうそう、ヨーロッパなんだけど、お土産のリクエストはある?」


「どこに行くの?」


「ロンドン、パリ、ブリュッセル、フランクフルト、マドリード、ローマ、で、イスタンブール」


「うわあ、頼み甲斐があるわあ。リクエストはその都度メッセージします」


 ニッコリといい笑顔で言った彼女に、俺は引き攣った。まさか昼間の件、根に持っているのか? 一体どれだけリクエストが来るんだ?

 買ってくるのは構わないが、移動が続くから荷物が増えるのはちょっと困る。


「あ……お手柔らかに、頼む」




 夜10時を回って、俺はそろそろ帰宅することにした。名残惜しいが、この先の為に、今日はここまでだ。


 玄関のドアの手前で、上着を着て靴を履いた俺は振り返る。


「じゃあ、ここでいいよ。今日はありがとう」


「こちらこそ、ピアス嬉しかったわ」


「ああ。明日は仕事で忙しくて会えないんだ」


「そう。お疲れ様」


「で、日曜のフライトは、午前10時前なんだけど……」


 未練がましい俺は、彼女に見送りに来て欲しくて、でも、無理をして欲しくもなくて、言い淀む。


「羽田?」


 あっさり帰ってきた言葉に、少し拍子抜けする。


「ああ、その」


「いいわよ。空港に行けばいい? それともビュートで迎えに行く?」


 更に、迎えに来てくれるだって?


「え? 送ってくれるのかい?」


「あ、でも、荷物が積みきれないわね。小さい車だから。早朝ドライブがてら見送りに……」


 いやいや荷物なんてどうとでもなる。

 彼女の提案に、俺は思わず食い気味に返す。


「荷物は運転手に任せるよ。秘書も一緒だし。俺だけ君の車に乗ればいい」


「ええっ? それはちょっと、さすがにどうかと。空港で待ち合わせましょう」


「嫌だ。後で出発時間と住所を送る」


 こんなおいしい話、今更無かったことにはしない。


「……OK。わかったわ」


 彼女は両手を上げて降参した。

 それに満足して俺はドアを開ける。振り返って別れの挨拶を告げる。


「じゃあ、また明後日。おやすみ」


「おやすみなさい。気をつけて」


 手を振る彼女に、やっぱり好きだなあと自覚して、名残惜しい気持ちを殺して、扉を閉じた。

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