Sayaka 行きずりのはずの出会い
「もう3年だ。君はまだ若いんだから、蓮のことは忘れて、別の幸せを見つけなさい」
夫、水森 蓮が、突然の事故で亡くなってから、今日で3年だった。
都内にある屋内の納骨堂でお墓参りを済ませ、私は、夫の両親とともにラウンジに来ていた。
話がある、と言われたのだ。
向かい合わせに座った両親は、どこか改まったように私を見て、そして義父が発したのが冒頭の台詞だった。
何を言われたのか? 一瞬頭がフリーズする。
蓮を……忘れろ?
あの人を、私の大好きな夫を、忘れろとそう言うの?
「お義父様、私は……」
思わず否定しようと前のめりになる。
すると、義母が目の前で膝をついて、私の両手を取って見上げた。
義母のいつになく強い視線に、私は口を噤む。
「今まで、ありがとう。蓮も、私達も、沙弥香さんあなたの幸せを祈っているのよ。お願い、もう前を向いて。振り返らないで。あなたの人生を進みなさい。そして、共に生きていける誰かと幸せになりなさい」
ああ……蓮、あなたとの思い出の中で生きていくことを、水森の両親は望んでいないのね。
あなたも?
私は、もう、あなたを忘れなければ、いけないの?
涙は出なかった。
ただ、現実味がない中、ボンヤリと蓮との記憶が頭の中で再現されている。
こんなにも鮮やかに思い出せるのに、何故、忘れなければならないんだろう。
思い出だけだから? ここに新しい記憶はもう生まれないから? 思い出の中で生きていくのは、時々とても哀しくなるから?
もういない蓮、二度とは会えない蓮。
私があなたを忘れてしまうことを、あなたは望んでいるの?
私が、あなたではない他の人を愛して共に生きていくことを、許してくれるの?
本来ならメトロでの移動を、電車に乗る気力もなくてボンヤリと景色を見ながら歩いて帰る。
季節は秋。歩いているうちに日も暮れ始めて、ポツポツと明かりが灯り始めていた。
こんな夕方の道を、蓮と歩いたのはいつのことだっただろう。
「大丈夫ですか?」
「え?」
グラスを片手にぼんやりと考えにふけっていたら、突然掛けられた声に、ゆっくりと振り返る。
ここは、神楽坂にある初めて訪れるバーだった。
シックな木材をベースにしたインテリアの、オーセンティックバーで、なんとなくフラリと入ったのだけど。
落ち着いた雰囲気でここなら大丈夫そうと、バーテンダーに勧められるままカウンターの端に腰を降ろした。
今日はもう、帰宅して食事を作る気力もなく、かと言って金曜日の夕方の喧騒の中に埋もれての外食も嫌で、早い時間のバーに逃げ込んだのだ。
軽食とブランデーで、ふわふわと思考の波に揺られていたところに、隣に座った男性が心配そうにこちらを見ている。
すいぶんと端整な顔立ちで落ち着いた感じの、私と同年代か少し上位の男性だ。
「失礼しました。泣いているのかと」
ああ、確かに……こんな時間に女がひとりで、思い詰めたような顔してロックのブランデーなんか飲んでいたら、訳ありっぽいか。
イケメンの親切なお兄さんに、気を遣わせてしまったらしい。
「……そう、ですね。泣きたい気分では、あるかも」
泣いてはいないけど、泣きたい気分である事は否定できない。結局、義両親に言われた言葉が結構堪えていて、家に帰ることもせずに堂々巡りの思考に陥っているのだから。
「どうぞ」
空になった私のグラスを見て、彼はバーテンダーに「コレと同じものをもう一杯彼女に」と、声をかけて、新しいカルヴァドスのロックを目の前に置いてくれた。
「あの?」
彼の意図がわからくて、戸惑っていると、
「ご馳走しますよ。代わりに打ち明け話なんて、どうですか?」
小さく笑って勧めてくれた。
「……ありがとうございます」
どうやら、聞き役をかって出てくれるらしい。
名前も知らない行きずりの人だからこそ、話せる事もあるんじゃない?とその目は言っていた。
どうやら、余程酷い顔で飲んでいたのか、心配してくれたらしい。
親切な人だ。
少しアルコールも入って、いろいろと吐き出したくなっていた私は、彼の言葉に甘えてサンドウィッチを食べ、新しいグラスに口をつけると、思いつくまま話し出す。
「今日は夫の命日だったんです。彼が亡くなって、丸3年経ちました。墓前にお参りに行ったら、義両親に、もう彼を忘れるようにと言われてしまって……」
言葉に詰まると、穏やかに尋ねられる。
「ご主人は何故?」
「事故でした。突然のことで」
「辛かったね」
「ええ。最初は信じられなくて……毎日、彼の帰りを待っていました。でも、そのうち、もういないんだってわかって。
忘れたくないのに。ずっと覚えていたいのに。でも……皆、もう忘れなさいって。振り返らずに、前に進みなさいって」
「忘れたくないのは何故?」
「だって、私が忘れたら、あの人がどこからも消えてしまいそうで」
「消えないよ。思い出までなくなるわけじゃない」
「はい。でも、忘れようと思っても、そんな簡単に忘れられる訳じゃなくて」
リンゴの香るそのお酒をちょっとずつ舐めるように飲みながら、落ち着いた彼の相槌に促されて、さっきまで頭の中をグルグルと回っていた思考を言葉にしていく。
彼の視線を感じながらひと通りの事情を話すと、彼のグラスの氷の音が鳴った。
しばらくの沈黙が訪れる。
「そうだね。じゃあ、手伝おうか?」
「手伝う?」
彼の発した言葉の意味を捉えかねて、私は顔を上げて彼を見た。
「君が、彼を、忘れられるように」
ゆっくりと確認するように伸ばされた彼の手が、そっと頬にあてられ、親指が唇を触れるか触れないかの距離でなぞる。
視線が外せない。
これは、そういうお誘いだ。
忘れさせてくれる、と。
前に進むきっかけを作ってくれる、と。
ならば…………
私は片手を上げて、頬に当たった彼の手へと重ねる。
「お願いします。忘れさせて」
そんなに酔ってはいないけど、お酒のせいだと心の中で言い訳しながら、私は席を立った。
連れてこられたのは、外資系の高級ホテルだった。
突然の誘いだったにも関わらず、彼はサッと電話を掛けて部屋を押さえてしまうと、タクシーを止めて、そのホテルの名を告げる。
その名称に、たかだかバーで会った女と一晩を過ごすだけなのに、そんなに高級なホテルじゃなくても……とも思ったけど、彼のスーツや靴を見ると、オーダーメイドの一点物のようで、きっとそれなりに余裕もあるのだろうと想像できる。
一連のエスコートもスマートで、こういうことにも手慣れたハイクラス層の男性なんだと、妙に納得もした。
だとしたら、遠慮も不要だろう。
部屋は、夜景が綺麗に見える上層階。キングサイズのベッドにちょっとしたソファースペースもあって、スイートではないけれど多分同年代のカップルなら、記念日なんかで使う部屋かも?なんて思ったりもする。
これなら、余計な詮索もされなさそう、とちょっと安心した。きっと、未亡人に良い思いをさせて、後腐れ無く一晩を過ごすだけ。
そして私も、蓮を忘れるために、彼を利用させてもらう。
手を引かれて部屋の奥に進むと、窓の向こうに広がる美しい夜景に目を奪われる。
すると、後ろから抱き締められるように腕が回されて、顎に伸ばされた手に導かれて、振り返るように顔を上げた。背に感じる体温と、微かに香るシトラスとムスクに、不快はない。寧ろ心地がいい。
この人、背が高い。
座っているときは感じなかったけど、胸に抱き込まれて、視線の先にある彼の顔の位置が思ったよりも高くて、そう実感した。
降ってきた彼の唇が、頬や鼻先を掠めていく。
「名前は?」
「必要?」
軽いキスの合間に囁くように尋ねられて、思わず苦笑した。
合わされた視線が、やや不満げな色を纏う。
「sexする相手の名前位、呼びたい」
それが少し拗ねているようにも聞こえて、ちょっと可笑しくなる。緩く回されている腕の中で、私は彼の方へと向きを変えると、今度は正面から彼を見上げて答えた。
「沙弥香。あなたのFirst nameは?」
「俺は、翔」
すると今度は遠慮のない深いキスが降ってくる。
名前を呼び合えば、それは蓮ではないことを否応なしにも意識させられて。
そしてその後、まるで濁流に呑み込まれるように翔に翻弄されて、全てを暴かれるような剥き出しの欲望をぶつけ合って、私達はいつの間にか……そのまま眠ってしまった、らしい。
肩に少し肌寒さを感じた目覚めは、軽い倦怠感を伴っていた。
見慣れない部屋に一瞬の戸惑いを覚えたけど、すぐに昨晩の記憶が溢れてくる。
ああ、そうだった。
今はもう、夢の中や思い出の中にしか存在しない蓮の影を振り切るようにして、情熱的に翔に抱かれた夜が明けたのだ。
隣に翔の姿はない。もちろん部屋にもその気配は残っていなかった。
ベッドサイドボードに置いてある時計は、8:12を表示している。土曜日とは言え、いつもより遅めの目覚めだった。
そして、その横にはメモが残っていた。
『おはよう
今日は仕事があるので先に出る
チェックアウトは正午だから、ゆっくりしていくといい。精算は済んでいる
昨日は素晴らしい夜だった
今度は昼間に会いたい。連絡を待ってる 翔』
メモ書きの下には、携帯の番号とメッセージアプリのIDも。
「なんだか、手慣れてるのね……でも、もう、会うことはないと思うけど」
行きずりの人だからこそ、さらけ出せた。忘れさせて欲しいと縋ることが出来た。
だから、もう会わない方がいい。
メモをヒラヒラと振りながら、しばし逡巡したけど、結局はソレをゴミ箱へと丸めて捨てた。
寝返りを打って、仰向けになる。
薄手のカーテン一枚が引かれた大きな窓からは、どんよりとした曇り空のせいで朝の光は入ってこない。なんとなく憂鬱な朝だ。
5歳上の蓮とは、私が21歳で知り合って、翌年には結婚した。約2年間の結婚生活が突如終わりを迎えたのが、24歳の時。
彼とは約3年しか一緒に過ごせなかったけど、彼が亡くなってからも同じだけの年月が過ぎた。
3年は、あっという間だったと思う。
停滞していた時間を動かすときが来たのかもしれない。
でも……
「ねえ、蓮。あなたの手が、どうやって私に触れていたか、もう、忘れてしまったわ」
決して短くはない月日が、確かに過ぎ去っていたのだ。
夫ではない男との情事の後が色濃く残るベッドの上で、気怠さを感じつつも、喪失がもたらす切なさに、あふれる涙が止まらなかった。