行ってきますのキスが欲しくて
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
今日こそは……と期待を込めて、ギュッと目を瞑る。
毎日保湿ケアを頑張った甲斐があって、唇はぷるぷるのつやつや。今朝は旦那様の好きな苺と、蜂蜜をかけたパンケーキしか食べていないから。味もにおいも大丈夫なはず。
遥か頭上から降りてくる影が、ピタリと止まる。私のおでこの前で、どうすべきかと躊躇っているようだ。
ふふっ。早起きして、分厚い前髪を作ってしまいましたからね。そこにはキス出来ませんよ。
ほら、他に空いている所があるでしょう? 苺と蜂蜜の香りの、ぷるつやの……
チュッ
薄い唇の感触と、微かに漏れる温かな吐息。尊いそれを受け止めたのは、期待していた場所ではなく、左の頬だった。
影が離れ、明るくなった瞼を開けると、そこには旦那様のぎこちない微笑みがあった。
「……お気をつけて」
寂しい唇で何とかそう言い、一緒に玄関ポーチへ出る。外套が包む広い背が、木枯しの中に消えて見えなくなるまで、力なく手を振っていた。
互いの父親が、貴族学院時代の親友だった私達。
5歳の頃から許嫁で、12歳で婚約して、17歳の誕生日に結婚してから半年が経った。
優しくて、親切で、私をずっと大切にしてくれる旦那様。おまけに見目麗しく、外を歩けば大抵の女性は振り返り、熱い視線を送る。それだけではない。貴族学院の魔力科を首席で卒業した才人で、現在は王室の研究所に勤める、エリート中のエリートだ。
片や伯爵令嬢という身分以外には、何の取り柄もない私。勿体ない……釣り合わない……そんな殊勝な考えも、十二年間募らせた恋心には勝てなかった。
たとえ恋愛結婚でなくとも。『愛してる』とか『好き』だとかを、一度も言われたことがなくても。夫婦になれば自然と愛が育まれていくものだと、そう信じていた。
実際、結婚生活は素晴らしかった。旦那様になった婚約者は、以前にも増して私を大切にしてくれている。どんなに仕事が忙しくても、私との時間を何より優先してくれるし。それに毎晩……蕩ける程に甘く、私を抱き締めてくれる。そう、夕べだって……と幸せな余韻に浸りたいところだが、火照る身体とは反対に、心は落ち込んでしまう。
どうして?
どうして夜はちゃんと唇にキスをくれるのに、行ってきますの時はおでこなのかしら。二年前に嫁いだお姉様も、私より少し早く結婚した友達も、行ってきますのキスは唇だって言っていたのに。
これは勘だけど……明らかに唇を避けられている気がする。お願いすればしてくれるかもしれないけど、はしたない妻だとは思われたくないし。
まだ芯に残る旦那様の温もりに、胸が切なく疼いた。
翌朝────
私はショックでどうにかなりそうだった。
どうせ……と自棄になり、旦那様の嫌いなミルクをドバドバ入れた紅茶を、三杯も飲んでしまった。
もう期待なんかしない。目も瞑らない。泣きたいから早く出て行って欲しいと唇を噛み締めていると、顔を覗き込まれ、心配そうに問われた。
「……どうした?」
「別に、何も。早く行ってらっしゃいませ」
感情が抑えきれず、酷い返事をしてしまった。情けなくて下を向いていると、悲しげな声が降ってきた。
「……行ってきます」
パタリと玄関のドアが閉まるや否や、私は自分の部屋に駆け込み、ベッドにダイブする。ふわふわの枕に顔を押し当て、わあっと泣いた。
……行ってきますの時だけでなく、とうとう夜も唇にキスしてくれなくなってしまった。そんなはずはない、抱き合う肌はこんなに熱いんだもの……と、自分から何度も唇を寄せてみたけれど、ふいと躱されてしまう。他の場所にどんなに沢山キスをくれたって、少しも嬉しくない。急速に熱が冷めた私は、結婚して以来初めて旦那様の腕を抜け出し、ベッドの隅で眠ったのだ。
もういいわ……。唇なんか、トゲトゲのガサガサで構わない。朝も夜も、気にせず自分の好きな物を食べてやるわと、そのままふて寝した。
それでも夕方になれば大分気持ちが落ち着き、何とか笑顔で旦那様を出迎えることが出来た。もしかしたら具合でも悪かったのかもしれないと思い直し、今夜も素直に旦那様の腕に抱かれてみる。
だけど……やっぱり唇にはキスしてくれなかった。
『どうして唇にキスしてくれないの?』
なんて訊いて、
『妻の務めを果たせばいい(身体だけ)』
とか、
『愛していないからだよ、ごめん』
なんて返されたら、今の私はきっと死んでしまう。
“ 妻 ” として、もっと心が強くなるまで、私は旦那様と距離を置くことにした。
夫婦の寝室ではなく、自分の部屋で眠るようになってから一週間が経った。最初は具合が悪いのかと心配してくれていた旦那様は、そうではないと気付くと、途端に悲しそうな表情を浮かべた。
……どうしてそんな顔をするの? 悲しいのは私の方なのに。
今朝の「行ってらっしゃいませ」も、妻に相応しい淑やかな笑みで言う。すると、背を屈めても絶対に届かない距離から、消え入りそうな「行ってきます」が返ってきた。
広い背がこんなに儚く見えるのは、突然降り始めた雪のせいかしら。
その日の夕食後のことだった。旦那様から話があると言われ、緊張しながら部屋を訪れる。妻の務めを果たせと叱られるのだろうか……と身構えていたけど、旦那様は普段よりも朗らかに迎えてくれた。
「おいで」と机の前に連れて行かれ、木製の太い針のような物がズラリと並んだ箱を見せられる。
「……針?」
「糸車の錘、糸を巻き付ける部分だよ。君も読んだことがあるんじゃないか? お姫様がこれに手を触れて、眠ってしまう物語を」
「……ああ!」
子供の頃大好きだった本だ。魔女に呪われたお姫様は、16歳の誕生日に、糸車の錘に触れて長い眠りに就いてしまう。美しいお姫様を、勇敢な王子様がキスで目覚めさせてくれる、女の子の憧れのストーリーだ。
「あれは一部実話でね。魔女の呪いのかかった錘が、王室に保管されているんだが、それを元に医療用の魔道具を開発することになったんだ」
「医療用?」
「ああ。これで患者の指を軽く刺すと、一時的に深く眠らせることが出来る。切開など、痛みを伴う治療に便利なんだ。……ほら、針に番号が振ってあるだろう? これは眠りの深さを表していて、治療によって使い分けるんだ。1から5まで。数字が小さい程眠りが深く危険な為、取り扱いにも気を付けなければいけない」
あの物語が実話だったことにも、それを元に便利な魔道具が生み出されようとしていることにも、私は驚きわくわくする。興味津々で箱を覗き込んでいると、旦那様は1番の錘を指差し、厳しい口調で言った。
「1は、腹を裂いても腕を切り落としても目覚めない程の、深い眠りに就かせることが出来る。ただし……二時間以内に、患者を愛する者から唇にキスされなければ、そのまま命を落としてしまう」
キス……!
そんなところまでお話と一緒だなんて。
「他に方法はないの? 愛してくれる人がいなかったら使えないじゃない」
「その通り。それを今研究しているんだけど、負の呪いをベースにしているから難しくてね。気になって、こうして家にまでサンプル品を持ち込んでしまったんだ。だから……僕が作業をしていても、決してこれに触れてはいけないよ。特に1番には」
途端に恐ろしくなり、背筋に冷や汗が伝う。
もし……もし私が1番に触れてしまったら、旦那様は唇にキスをしてくれるのかしら。……いいえ。もししてくれたとしても、私を愛していなければ不発に終わってしまう。実家も嫁いだお姉様も遠方に住んでいて、馬車で片道三時間以上は掛かるし。
……うん、私は間違いなく死んでしまう。そう思うと、無性に悲しくなってきた。
「触れなければ大丈夫だよ」
肩に大きな手を置かれて初めて、自分が震えていたことに気付く。一週間ぶりの温もりがじわっと沁み入り、涙が出そうになった。
「分かりました。気を付けます。お仕事、あまりご無理なさらないでくださいね。では……おやすみなさいませ」
妻らしくそう言い部屋を出て行こうとしたが、「待って」と引き止められてしまう。何だろうと身構えるも、君の淹れたハーブティーが飲みたい、持って来てくれないか? という頼み事だった。何だそんなことかとホッとし、私は笑顔で返事をした。
十分後────
ティーセットを載せたワゴンを押し、再び旦那様の部屋を訪れるも返事がない。
お仕事に集中しているのねと、そっとドアを開け中に入るが、机にその姿はなかった。
「……旦那様?」
近くの床に視線を落とした私は凍りつく。彼の逞しい身体が、床の上にぐったりと横たわっていたからだ。
さっきまで元気だったのにどうして!? と駆け寄れば、投げ出された長い腕のもっと先に、あの錘が転がっていた。……まさか!
その番号を見て私は愕然とする。
「ユーリス! ユーリス!」
必死に呼び掛けるが、全く反応がない。その顔に苦しみの色はなく、心地好さそうに眠っているだけに見える。
どうしよう……とりあえず誰か呼ばなきゃと立ち上がった瞬間、さっきの会話が頭に響いた。
『二時間以内に、患者を愛する者から唇にキスされなければ、そのまま命を落としてしまう』
愛する者……もちろん、私は彼を愛しているけれど。幾ら意識がないからと言って、嫌がっている人に勝手にキスしてはいけない気がする。他に誰か……と考え、真っ先に浮かんだのは、結婚と同時に家督を譲って田舎に隠居してしまった彼のご両親だ。馬車で片道五時間……絶対無理だわ。他は……あ、そうよ。使用人達でもいいじゃない。みんなユーリスのことを愛しているわよね?
私は廊下に出て、歩いていた侍従を捕まえると、有無を言わせずユーリスの元へ連れて行く。事情を話し、キスして欲しいと頼むも、青ざめた顔で首を振られてしまった。心なしかユーリスの顔まで青ざめてきた気がして、私は焦る。眠るだけだと聞いていたのに……苦しいのかしら。
「奥様がして差し上げるのが一番よろしいかと思います」
「……そうかしら」
「はい、間違いなく」
「でも……私ね、まだ歯を磨いていないの。旦那様の嫌いなクリームシチューを食べてしまったし、生姜入りの紅茶と、にんに」
「大丈夫です! 全く問題ありません! それよりも早くキスして差し上げた方が……まだ研究中のサンプルなのですから、万一ということだってありますよ? 時間が経てば経つほど、後遺症が残る可能性も」
「そう……かしら」
「はい、そうです!」
気のせいか、ユーリスもこくりと頷いた気がする。
「じゃあ、私がしてみるわ」
「はい、是非! 私は部屋の外で待機しておりますので、何かありましたらお呼びください」
力強くそう言うと、侍従は部屋を出て行ってしまった。やるしかない……わよね?
試しにと、綺麗な銀髪の下の綺麗なおでこに、チュッと唇を落としてみる。
……ダメ。
次は綺麗なほっぺ。
……やっぱりダメか。
私は覚悟を決め、ごくりと唾を飲み込む。一応「ごめんなさい」と謝ってから、桜の花びらみたいな綺麗な唇に、そろそろと自分の唇を近付けた。
チュッ
°ஐ*。:°ʚ♥ɞ*。:°ஐ*。:°ʚ♥ɞ*。:°ஐ*
「うーん……」
綺麗な瞼が開いて、澄んだ青い瞳が覗いた。
「ユーリス!」
「……ああ、やってしまったのか」
指先の錘に視線を送りながら、ユーリスは眉を下げる。ゆっくり身体を起こすと、私を見つめて優しく微笑んだ。
よかった……と安堵感が押し寄せると共に、色々な感情がぐるぐると暴れ出す。
「君が助けてくれたのか?」
その言葉に、抑えきれなくなった感情が、ついに涙となって溢れてしまった。
「ごめんなさい……勝手に唇にキスしちゃって……ごめんなさい」
「……何で謝」
「早く助けなきゃって思って。後遺症が残ったらどうしようって。ユーリスが私の唇にキスしたくないのは分かっているのに。……ごめんなさい。本当にごめんなさい」
うわあんと泣く私を、ユーリスは戸惑いながらも、広い胸に抱き締めてくれる。涙と鼻水で綺麗なベストがぐちゃぐちゃなのに、嫌がることなく優しく背中を撫で続けてくれた。
やがて少し落ち着くと、向かい合い、静かに問われた。
「聞き間違いかもしれないけど。ええと……僕が君の唇にキスしたくないって……さっきそう言った?」
「ええ。言ったわ。だってそうでしょう?」
「そんなこと……一度も思ったことがない!」
「嘘よ! だって、いつも行ってきますのキスはおでこじゃない。最近は夜だって唇にしてくれないし……変なとこばっかりしつこくキスして、もう嫌!」
「変なとこ……」
溢れ続ける涙に翻弄される私を、ユーリスは赤い顔で眺めている。らしくない仕草で銀髪を掻きむしり、ゴホンと咳払いすると、気まずそうに口を開く。
「ええと……白状すると……」
まだ “ 妻 ” の準備が出来ていないのに、彼はその理由を語ろうとしている。仕方ない……爆発してしまった自分が悪いのだ。ずずっと鼻を啜り、覚悟を決めて耳を傾けた。
「唇にキスなんてしたら、仕事に行けなくなるだろう? ただでさえ、君と離れがたいのに!」
…………聞き間違いだろうか。
予想だにしなかった言葉に、耳を疑う。
パクパクと言葉にならない言葉を発した後、やっと声が出てくれた。
「でも……でも、夜はどうして?」
「君が僕とのキスを嫌がっていると思ったんだ。だって……朝も夜も、キスしようと唇を近付けるだけで、目を固く瞑って身体を強張らせるし。やっぱり……僕の口に問題があるのかなとか、色々考えて」
「問題?」
「うん。実は夕食後にこっそり、一人で晩酌しているんだ。君が酒を嫌いなのは知っているけど、どうしても我慢出来なくて。もちろん歯はちゃんと磨いているけど、臭いは残るだろうし。意識して、量も頻度も少しずつ減らしているけどまだ完全には……」
言われてみれば、彼の呼気には、ほんのりアルコールのにおいが混ざっている。確かにお酒は苦手だけれど、彼自身の香りと合わされば、甘くて爽やかでとても心地好い。それに……夜はすぐ熱に浮かされてしまうから。においなんて感じる暇もないのに。そんなことを気にしていたなんて、何だかおかしくなって、くすりと笑った。
「貴方はお酒を飲んでも、すごくいい匂いよ。だから気にしないで、好きに飲んでね。あ、でも身体が心配だから、一日一杯までにして欲しいな」
そう言うと、ユーリスはパッと顔を輝かせ、「君の為にも長生きしないとな」と頷いてくれた。
綺麗な笑顔にうっとりと見惚れていた私は、そこに浮かぶ桜の花びらを見て、大事なことを思い出す。
「あっ……ああっ!」
「どうしたの?」
「私……貴方にもう一つ謝らなきゃ」
きょとんと首を傾げるユーリス。天使みたいに無垢なその姿に、罪悪感で一杯になる。
「あのね、私……夕飯を食べてから、まだ歯を磨いていませんでした。貴方の大嫌いなクリームシチューを二杯もお代わりしたし、食後に生姜入りの紅茶も飲んじゃったのに。あと……」
「にんにくだろう?」
「分かっちゃ……いました?」
「うん。だって、目の前でバリバリ食べていたじゃないか。フライドガーリックのサラダ。それに僕の唇に、にんにくの刺激的な香りが……」
「言わないでえ!」と、ユーリスに飛び掛かり、にんにくで汚してしまった唇を両手で塞ぐ。ユーリスは私を受け止めながらも、はははと楽しそうに笑い転げた。もうっ!
あ……
ユーリスは唇から私の手を離し、掌にチュッとキスする。柔らかな皮膚は彼の熱を繊細に伝え、頭から爪先までを簡単に痺れさせてしまった。
私が押し倒してしまったような、危うい体勢のまま抱き合う二人。色気を孕んだ熱っぽい目で見上げられれば、私はもう少しも動けない。
彼の唇から、掠れた声が漏れる。
「……互いの意思を、ちゃんと確認したい」
「はい」
「僕達は、お互い唇にキスをしたいと思っている。何を飲んだとか食べたとかよりも、一つに熔けてしまいたいと。……そういうことでいいんだよね?」
返事は私の顔に書いてあったらしい。答えようと開いた唇に、もうユーリスが滑り込んでしまう。
夢中で息を絡めている内に、隣の寝室へ運ばれ、ベッドに落とされていた。唇、指、そして……
離れていた一週間分の熱で、心も身体もドロドロに熔けていった。
意識を手放す寸前で、切ない声が突き抜けた。
「……愛しているよ、マディ」
◇◇◇
結局あの魔道具は危険だということで、実用化は見送られたらしい。夢があったのに残念ねと言えば、私の旦那様は『ソウダネ』と不自然な笑みを浮かべた。
今は、どんなに強烈なにんにく臭も消す歯磨き粉を作る為、妖精の粉を研究中らしい。旦那様は好きな物を食べていいよって言ってくれるけど……やっぱり私は気になっちゃうから。魔法の歯磨き粉、完成したら嬉しいな。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
今朝も旦那様は高い背を屈め、私のおでこに尊い唇を落とす。瞼を開けるとそこには、旦那様の名残惜しそうな微笑みがあった。
唇は寂しいけれど、もう少しも悲しくない。
ただいまのキスを楽しみに、今日も陽だまりみたいな時間を過ごすの。
ありがとうございました。