五片、青年に恋した桜。
「今日も君は綺麗だね」
貴方は今日も、私にそう言って微笑んでくれる。
桜の木の…私に────
◆
ここは、とある名家の大きなお庭。ここの庭に生まれ育って百年近くになるけど、こんな風に毎日のように声をかけてくる人間は初めてだ。
私は桜の木。桜に宿る魂…人間界で言うところの精霊、っていうものかしら。
そして、そんな私に声をかけてくれる彼はここの家の長男。
「満開に咲く君は、いつにも増して美しくて素敵だね」
着物の袖に手を入れ、私を見上げてやさしく微笑む。満開に花咲いた時は、こうしてめいっぱい褒めてくれる。
けど、満開じゃない時も、葉桜になっても、葉が一枚もない寂しい木の時も彼は、彼だけは「可愛い」とか「綺麗だね」って笑顔で微笑んでくれる。大抵の人間は私が花をつけ始めた頃から私のことを気にするけど、彼は違った。彼は毎日のように私のことを気にかけてくれた。
私は木だけど…彼に恋してる。
彼のことが好き…大好き。
愛してる。
そんな彼は、幼い頃からひどく病弱で。外出すると倒れることもままあるから、ほとんどの日々を家で過ごしていた。
彼は小説家兼画家で、よく縁側に座り私に話しかけながら、私の絵を描いたり執筆したりしていた。
そんな、ある日のこと。
「今、君をモデルに物語を書いているんだ。主人公の男が可憐なその桜の木に恋をした話なんだけど。男が桜の木に日々恋い焦がれてると、その桜の木が美しい女性になって、男の目の前に現れるんだ。そして最後はふたり…」
いつものように縁側で執筆しながら彼が私に話しかけていると、突然激しく咳き込んだ。いつもの咳き込みだろうと思いつつ、枝を振りながら慌てていると、ゴホッと彼が血を吐いてその場で倒れた。
それから彼は使用人に部屋に連れていかれて、彼の掛かり付けの医者が家に来た。
2日。
4日。
6日。
そして…
(あの方が倒れて一週間になるわね…)
彼が吐血して倒れてから7日目の夜。
彼はまだ寝室から出てこない。
満月の青白い光が煌々と照る薄暗い庭に、私は1本佇み、いつも彼が座っていた縁側の方をぼんやりと見つめていた。
(彼の状態は?大丈夫なのかしら…)
倒れて寝込むことは何度もあったけど、だいたい長くて2、3日くらいだった。けど、今回は7日目…。
彼の家族が日に何度も彼の部屋に出入りしていた。そして、彼の部屋から出てくると、彼の家族は辛そうな顔をし、彼の母親は部屋から出てくるたびに身体を震わせ涙を溢した。
みんなの話し声は、私のところまでは届かなくて。だから、彼がどういう状態なのか分からなくて。
不安で……
(神様どうか…彼をお救いください。彼が元気になって、また私に微笑んでくれますように……)
ひんやりとした夜風に枝を揺らしながら、夜空に祈っていると。
──────サアアアア……
冷たい突風が吹き、私の体が強く揺らされ、花びらがひらひらと零れた。
ザッザッ…
月明かりが届いていない暗闇の方から、こちらへ向かってくる足音が聞こえてきた。
(…え?こんな時間に誰?)
時刻は丑の刻程だろうか。そんな深夜に誰が…
(も、もしかして盗人…?)
そう、警戒していた、時。
────ザッ。
「やあ、こんばんは」
暗闇から出てきたのは、私の愛しい人…彼、だった。
(!?なんでこんな時間にあなたが…?いや、そうじゃない、体調は?平気なのかしら?)
私がそうささめくと。
「へえ、君の声ってこんなに綺麗だったんだ。いつもそうやって僕に話しかけてくれてたのかな?」
彼は私を見上げてそう言った。
(!?な、なんで私の声が?人間には私の声は聞こえないはずなのに…)
私がそう言ってると。
─────ひたっ。
彼が、私の幹にそっと触れた。
「…僕が眠ってる間に、けっこう花びらが散ってしまったようだね」
やさしく私の幹を擦る彼の手が擽ったくて…切なくて。
月明かりに触れる彼の身体が…白く、半透明に揺らめいていた。
「来年も美しい君を見たかったけどなぁ…」
(…だめだったの?)
「…まあ、いつ消えてもおかしくない灯だったからね──でも、これでも長生きしたほうなんだよ。何でか分かるかい?」
(…分かりません)
「…君に恋、したからだよ」
──────サアアアア……
ひんやりとした風が、私と彼の間を通り過ぎてゆく。
見上げていた彼の目線は、いつの間にか私を見下ろしていた。
「君は人の形になると、こんなに可愛い少女だったんだね」
風に揺れる私の黒い髪に触れなが、ふっと微笑む彼。
初めて目の前で見る彼の姿…顔。
愛しくて苦しくて…気づいたら雫が頬を伝っていた。そして。
「…好きです。私も、ずっと前から、貴方のことが好きです。愛しています」
私がそう言うと彼は悲しげに微笑み、私の身体を抱き寄せた。
「…そっか、両想いだったんだね。最期に君の声が…想いが聴けて良かったよ」
「…私のこの身が朽ちたら、今度は人間に生まれ変わります。もし、人間に生まれ変わったら…また貴方と出会えたのなら、その時は私と一緒になってくれませんか?」
さわさわと風に揺らめく私の髪。
淡い月光の中に佇む私と彼には影はない。
「…君が人間に生まれたら、僕は君を全力で探すよ。そして、君を見つけたらその時はきっと────」
──────────────………
私の頬に手を当てながら。
私の唇の向こうに想いを流し込むように、彼は私に接吻した。
…やさしい接吻。
──────サアアアア……
突風が過ぎた瞬間、頬と唇から彼の感覚が消えた。
すっ…と瞼を開くと、そこに彼は居なかった。
花がまだ半分ほど残る、私の体。
枝先からぽたり…と、雫が零れた。
そして彼が亡くなりほどなくして、私は害虫被害に遭い、結局次の春に花を咲かせることなく私は呆気なく枯れてしまった。
◇
「…ほんとにここの桜並木は毎年綺麗ね~…。ふふっ、あなたがいつもやさしく桜たちのお世話をしてくれてるおかげね」
ひらりはらりと、花びら舞い落ちる桜並木通り。手を繋いで歩く隣の彼に言う。
「ありがとう。でも僕の力だけじゃなくて、皆に美しいところを魅せたい、美しくありたいっていう桜たちの気高さや優美さのおかげだと思うよ。それと、ここに来る皆が桜を褒めてくれるから、桜たちも喜んで美しくあろうとするんじゃないかな?」
風で桜木がさわさわ…と揺れる。
風の中に『いつも、ありがとう…』という、彼に向けた桜たちのささめきが聴こえてくる。
その声はきっと、彼に聞こえていないのだろう。けど、私には桜たちの声が聴こえる。
私はもと、桜の木だったから。
私は枯れた後、人間に生まれ変わった。
人間になってある人に──……隣で手を繋いでる彼と一緒になりたくて、神様にいっぱいお願いして、人間に生まれ変わった。
ここの桜が満開の時、彼とはこの桜並木通りで、彼が樹木医として仕事をしている時に私がたまたま偶然通りかかって出会った…ううんきっと偶然じゃない、運命だ。だって、生まれ変わってもずっと彼を見つけることしか、彼に出会うことしか考えてなかったもん。
そして、ここで彼と出会って…一目で彼だった気づいて。でも、彼は私のことは記憶にないみたいで。
それでも、彼は私と一緒になってくれた。
そして、今お腹の中には…彼と私の小さな愛の結晶が息づいてる。
「それにしても、あなたってほんとに桜好きよね」
「…それはそうだよ、僕の初恋は桜の木だったからね。…まあ、大昔の話だけど」
「…え?」
彼が私ににこっとやさしく微笑むと、風が桜木を揺らし、さくら色の花びらをひらりはらりと降らせた。
ここは県内で有名な桜並木通り。
桜が満開の時期にここを歩くと、幸せになれると噂されている場所である──────────