暇つぶし ③
三話までしばしの日常回 7/20
この五年間、私は自分が受け持つ魔女の子達の世界を渡り歩いて来た。そこがどのような世界なのか、何が起きた世界なのか、魔女の子達に万が一の事があった場合に備え、世界毎の文化や歴史も学んだつもりだ。
ネス湖のネッシー。スコットランドのネス湖に生息するとされる首長竜で、この世界における二十世紀最大級のミステリーの一つでもある。その目撃例は古くから存在するものの、その殆どは地元の伝承レベルの枠から飛び出る事はなかった。しかし西暦一九三四年、とある外科医が撮影した写真が世界をざわつかせる。その写真にはネス湖の水面から首を出す首長竜の姿が写しだされていたのだ。
それから時は流れて一九九三年。その写真が実はおもちゃの潜水艦を使ったフェイクである事が関係者によって告白された。そもそも告白される大分前から、湖の波紋の形状を見た専門家の見解により、写真に写るネッシーの全長は数十センチ程しかない事は明らかになっていたと言う。
この世界に恐竜はいない。それらは遠い遥か昔に絶滅したはずなのだ。その生き残りがこんな小さな島国の小さな湖にいるだなんて。夢物語もいい所ね。
「ありえないわね」
だから私は彼の夢物語を否定した。私のような出来損ないの魔女でも思いつくようなありったけの根拠を掻き集め、真っ向から否定してやったのだ。
「あなたはこんな外界から隔離された湖に、本当に大型の首長竜が暮らしていると思っているの? 仮にそれが恐竜時代の生き残りだったとして、種の存続には最低でも雌雄百対の番が欲しいわ。合計二百匹って所かしら。それだけの数がこの湖に生息していると思う? 数億年もの間、人の目から隠れて? 仮にそれが可能だったとして、餌はどうなるの? この湖に首長竜二百匹が生存出来るだけの餌があるとでも」
しかし、時間が許すならいつまでも饒舌に喋り続けられた私の舌が、そこで動きを止めてしまう。湖に両足を突っ込んだ少年が、私の顔目掛けて湖の水をかけて来たのだ。自分の夢を否定されて怒ったのだろうか? 私の舌が、口から僅かに入り込んだ湖水のしょっぱさを感じ取った。
「無いだろうね。ここがただの湖なら」
……しょっぱい?
「この湖は淡水じゃない。湖底の方で海と繋がっている汽水湖だよ」
私はこの湖に着水するまでの数秒間を思い出す。確かに視界の端には港町があって、その向こうにはどこまでも続く大海原が広がっていたのを覚えている。
「僕の記憶に残る怪獣の姿は、ワニみたいにゴツゴツとした岩のような皮膚を纏っていた。これは他の生物から身を隠す為に進化して会得した擬態方法じゃないのかな? それに僕が怪獣と出会ったのも、今日のような蒸し暑い夏だった。もしかして彼らは温かい海を求めて、渡り鳥のように世界中を泳ぎ回っているのかも知れない。だとしたらこの湖は彼らが夏に留まる一時的な住処だ。本格的に夏になればここにやって来て、九月か十月頃になればまた南下して行く。そして来年の夏になるまでは南の海でバカンスでも楽しんでいるんだよ」
少年は笑顔で語り続けた。その様子は自分の好きな漫画やアニメの話を、一生懸命母に説明する無邪気な子供のように見える。
「……なんて」
しかし、そんな無邪気な笑顔もある一瞬をきっかけに、年相応の男らしい表情へと変化した。ヒーローも怪獣も実在しないと理解しきった大人の表情に。
「全部そうだったらいいのになーっていう、僕の妄想。ごめんね? 変な話しちゃって」
「……」
ふと、そんな少年の表情に既視感を覚えた。私はどこかでこんな表情をする人物を見かけたような気がするのだ。普段は子供のように幼稚な顔付きでありながら、時折年相応の大人な一面を垣間見せる、そんな人物を。
「謝る事はないわよ。私はただ首長竜の存在が信じられないだけ。夢を語るのは悪い事ではないわ。あなたが夢を追い続けた所で首長竜が見つかるとは限らない。でも、夢を諦めなければあなたは学者にだってなれる可能性がある。夢を持つのはいい事よ。それがどれだけ馬鹿げた事でもね」
「あはは……学者か。僕、勉強は嫌いだからな……」
少年は苦笑いを浮かべた。
「あなた、お名前は?」
「僕?」
少年は答えた。
「有生 福。今年受験の高校三年生をやってます」
それは彼が答えて来た質問の中で、最も私を納得させた答えだった。
「君は?」
「サイコパス・シリアルキラー」
「うん、何て?」
「冗談よ」
私も少年に笑いかける。彼のような器用な笑い方は出来ないけれど、それでもちょっとした悪戯に漏れ出てしまう程度の笑顔は出来るのだ。
「ヒュミー」
私はこの五年間の中で、初めて異世界の人物に自分の本名を明かした。今年の卒業試験は、私も魔女の子達と一緒に彼から記憶を奪う事になりそうだ。
「あ、やっぱり外国の人だったんだ」
「まぁね」
「どこの国の人?」
「遠い所」
「M78星雲?」
「ウルトラマンじゃないのよ」
それから私達はたわいもない雑談を続けた。彼の事、私の事、彼の学校の事、私の仕事の事、彼の友人の事、私の友人の事。そして五年近く会っていないという彼の姉の事。もっとも、私の身の上話は全部今この場で考えついたフェイクだけれど。
「へー、海洋学ね。それってやっぱり怪獣の影響?」
そして今は彼の進路について話していた。
「まぁね。こんな事を友達や先生に話すと笑われるんだけど」
「友達や先生に話しているの?」
「そりゃあ嘘は吐いてないから。小さい頃から不思議な物を色々と見てきた。幽霊みたいなもの、妖怪のようなもの、正体不明の変なもの」
「……」
それはきっと精霊だ。他の精霊を吸収し、形を持つまで肥大化した精霊。どんなに肥大化したところで魔法を信じない人間には決して見える事はないけれど、物心がつく前の子供や野生動物、それに霊感の強い人間にはどうしても見えてしまうらしい。
だとしたら彼が見た首長竜の正体もそんな肥大化した精霊なのかも知れないけれど。しかしそんな巨大な精霊がいるのならとっくにザロンが食べているはずだ。だからきっと彼が見たと言う首長竜の正体は、やはり彼の思い違いか、或いはこの湖で溺れ掛けた彼が見た幻覚でしかないのだ。
でも珍しい人ね。ここは科学の発達した世界。幼い頃に幽霊や妖怪を見たと触れ回ろうものなら、嘘吐きだのホラ吹きだの言われて迫害される。きっと彼にもそんな経験はあっただろうに、この歳になっても自分が見た物を疑わずに吹聴するだなんて。
「そんな子供時代を過ごしたもんだから、今じゃすっかりオカルトマニアだよ。嘘吐きって言われるのも、頭がおかしいって笑われるのも、すっかり慣れちゃった」
「……そうね。私だって笑うわ」
「だよね」
「あなたの夢じゃなくて、あなたの行動をよ。あなたの夢には行動が伴っていない。明日からもう七月よ? あなたの夢が本気なら、今はゴミ拾いよりも受験勉強を優先するべきじゃないの?」
「それはわかってるんだけどね……」
彼は気まずそうに笑いながらゴミ袋の口を閉じた。そして私の隣に腰を下ろして、誰かに抱擁を求めるように手を伸ばす。すると何を言われたでもないのに、野生動物達は彼の意図を察してその腕に包まれにやって来た。
「身が入らないや。まだ見えない将来より、今見えているこの子達やゴミの方が気になってしょうがない」
「……言い訳ね」
私は視線を彼から夕闇に染まる空へと移し、大きく深呼吸をした。
「ねぇ、フク」
「何?」
「足が痛いわ。もう我慢出来ない」
「そう?」
フクの視線が私を捉える。これが俗に言う悟りを開いた人間とでも言わんばかりの、全てを見透かしたような視線。
「足が痛いのは本当だろうけど、我慢出来ないのは嘘だよね」
「……」
動物と心を通わす少年か。人や魔女も広義の意味では動物だ。そもそも動物という概念自体、人が生み出した人以外の動く生命の事を指す。人は己を自然から切り離された特別な生物だと思っているけれど、神の視点から見れば人だって立派な動物なのだ。
私の心を読んでいるとまでは思わない。けれど動物と心を通わせられる彼は、きっと言葉の裏に隠された嘘も敏感に感じ取ってしまうのだろう。私が嘘の身の上話をした時も、彼は見透かしたような表情で私の言葉に耳を傾けていた。最初からフィクションである事を理解した上で物語を聞くような、そんな様子だった。
心霊現象に何度も遭遇していて、野生動物に懐かれやすく、そして人の嘘に敏感。精霊を見る事の出来る者の特徴と寸分違わず彼は一致している。
「男なら女の嘘くらい受け入れなさい。モテないわよ?」
「受け入れたら君は僕に惚れるの?」
「一%くらいはあり得るんじゃない?」
「そっか。じゃあ期待も込めて騙されておくね」
彼はそう言うとまた私を抱き抱えようとしたけれど。
「待って。このまま町まで運ぶ気? 振動が響いてたまらないわ。町まで行って担架を持ってきて」
「あはは……、面倒な嘘をつくね」
彼はそう笑うと、リュックに手を伸ばしてその中身をいくつか取り出した。タオルに、着替えに、それに軽食と水筒。その後彼は私の頭を持ち上げ、リュックを枕代わりに差し込んでくれた。そして私の体にタオルや着替えも敷き詰めてくれる。
「戻って来る頃には日も落ちているだろうから。気休めにしかならないかもだけど濡れたままよりはマシでしょ? お菓子と飲み物も勝手にどうぞ。どうしても寒いようなら動物達をカイロ代わりに抱っこしてあげて。凄くあったかいんだ」
「嫌よ。マダニがつく」
彼は苦笑いを浮かべながら立ち上がった。すぐにでも町へ向かい、私の要望通り担架を持って来るのだろう。そしてこれが私と彼の別れにもなる。次に会う事があるとすれば、それは魔女の子達が魔界へ帰る日。この日の記憶を消す為に、私は再び彼の元へ姿を現す事になる。……でも、わざわざ彼から記憶を消さなくても済む方法が一つだけあるのよね。霊感の強い人族の男だからこそ可能な抜け道が。
「ねぇ、フク。あなたハーレムに興味はある?」
私はフクの背中に向けてそう問いかけた。
「ハーレム? ないない、僕甲斐性無しだから。それに」
「それに?」
「僕はどちらかと言えば尽くすタイプだからね」
フクはそうとだけ答え、担架を求めて町まで降りて行った。私は彼の背中を見届けて、彼の背中が見えなくなるまで見届けて、そして周囲に私以外に人がいないのを確信して本を取り出した。
「ザロン」
最初に使ったのは瞬間移動の魔法。それで私はこの近辺で最も背が高い木の上に腰を下ろした。良い景色だ。湖一帯が見渡せる、とても良い景色。
「ザロン」
私は湖を視界に留めながら二回目の魔法を使う。二回目に使った魔法は念動魔法。念動魔法によって湖の水は、まるで巨大な蛇が密集しているかのようなうねりを見せた。湖全体に私の神経が張り巡らされたような感覚が浸透する。湖の形、湖の成分、そして湖に住む多種多様な生物の存在が手に取るようにわかる。そして。
「…………これは」
その存在を察知した時、私は思わず口角を微かに吊り上げてしまった。まさかこのまま廃棄になるだろうと思っていた魔法に使い道が出来るだなんて。
私はその魔法を使う前にマントから三つのボールを取り出した。この魔法をより確実な物にする為の下準備である。
「ザロン」
そして三度目の魔法。私が使える最後の瞬間移動だ。私はこの瞬間移動を使って湖の北端、湖の南東端、湖の南西端にそれぞれボールを飛ばした。今、この湖は三つのボールで結ばれた三角形の領域にすっぽりと収まった。
私は運よく上位階級に上り詰める事が出来た魔女だ。本来の実力は下位階級レベルでしかない。これはそんな私が上位階級に匹敵する魔法を使う為のおまじない。私は三角の領域に収まった湖目掛けて最後の魔法を。
「清掃魔法、ザロン・ウィズーノ・ルークリーク」
ホリーとそのパートナーのやり取りを見て、ほんの気まぐれでインストールした使用用途の限定され過ぎた魔法を、久しぶりに呪文を添えて唱えてやった。
湖の中からゴミが掻き集められて行く。湖のほとりに散らばったゴミも纏めて一箇所に集って行く。これにて今月の私の魔法は終了。数時間後に日付が変わるまで、私はこの木の上で静かに過ごすしかなくなってしまったわけだ。
いい? フク。
『身が入らないや。まだ見えない将来より、今見えているこの子達やゴミの方が気になってしょうがない』
助けてくれたせめてものお礼に、あなたが勉強に専念出来ない理由の半分を取り除いてあげたわ。これでもまだ勉強に身が入らないなら、あなたは救いようのない怠け者よ。
「せいぜい勉強して立派な大人になりなさい」
私は木の幹にもたれながら、日付が切り替わるのを待ち続けた。
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