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どうしてお前だけ

「あ」


 そこは天国ではないだろう。俺は天国に行けるような人間じゃないから。だからと言って地獄というわけでもないようだ。有生は地獄に落ちるような人間じゃないから。室内であるにも関わらず、深く帽子を被りながら短く一言呟く有生を見て、そう思った。


 目を開くとベットの隣に三人の女が椅子を並べて座っていた。有生と、有生の母親と、それと俺のお袋。正確にはお袋は、壁にもたれながらすやすやと寝息を立てていたけれど。


「二日ぶり。よく寝れた?」


 有生の母親の言葉の意味は、ここが病室である事に加えて、卓上の電子時計が示す日時が俺の記憶している日時より二日進んでいた事で、なんとなく察する事が出来た。俺、二日も寝ていたんだ。


「どうする? お母さん起こす? ダイチの君のお母さん、ずっとここにいたんだよ。殆ど寝てないみたい」


「……いや、いい……ってっ!」


 おばさんの提案に対して首を横に振ると、体の節々に軽い痛みが走って情けない悲鳴が漏れてしまった。が、そこで一つの疑問が思い浮かぶ。軽い痛み。そう、俺は軽い痛みを感じ取った。軽い痛みしか感じ取る事ができなかった。


 自分の体に目を向けると、あちこちに治療の痕跡が残っている。でもそのどれもが簡単に包帯を巻いている程度の物であって、俺の記憶している健康状態とは酷くかけ離れていた。あの地獄から奇跡的に生還したとしても、この程度の怪我で済むはずがないのに。


 俺は間違いなく両腕を折られたはずだ。頭の形が変わるまで顔を殴られたはずだ。それなのに何でこんなに軽症なんだ? 病室に設置された真っ暗なテレビに映る俺の顔にしたって、痣は残っているのに腫れは一切残っていない。目が開かなくなるまで顔が膨れ上がったはずなのに、あれだけの腫れがたった二日寝ただけで治ってしまうものなのか?


「あの……俺、どうなったんですか?」


 ポスンと。有生が俺の掛け布団の上にスマホを投げつけた。それを拾って見てみると、画面に表示されていたのはネットニュースのサイト。そこには都内在住の男が公衆トイレの中で児童に暴行を加えた事で逮捕されたと記されている。被害に遭った児童の容態は軽症が二人と……。


「……サンキュー」


 一通りネットニュースを読み終えた後、俺はスマホを有生に返す。スマホを有生に手渡した瞬間、隙をついてその帽子を取り払った。


「あ、てめえ……!」


「……」


 帽子の奥に隠れたその顔の惨状を見て、全身の力が一気に抜けた。有生の顔の半分は、ニュースサイトに記されていた文字だけの情報よりもよっぽど凄まじい。俺なんかの何倍もの治療を受けているじゃないか。眉、耳の隣、それに頬から飛び出た糸くずの群れ。俺達のいざこざに巻き込まれたせいで、何針縫う羽目になってしまったんだろう。


 どうしてこいつがここまでの傷を負って、俺はこんなにも軽症で済んでいるんだ。本来俺の顔こそこうであるべきなのに、これじゃあまるで有生が肩代わりしているみたいじゃないか。


「……なんだよそれ」


「なんでもねえよ。私が勝手にした事だ。むしろ丁度良いだろ? 一人くらいこんなのがいなきゃ、あのクソジジイもすぐ牢屋から出てくるかもだしな。男の顔に一生もんの傷が残るより、女の顔に一生もんの傷が残っていた方が裁判でも有利らしいぜ?」


「良いわけねえだろ」


 俺がそう咎めると、饒舌に喋っていた有生の口が止まる。


「何でお前なんだよ。俺はこれっぽっちでどうしてお前だけそんな怪我してんだよ。おかしいだろ?」


「さあな。知らね」


「知らねえじゃねえよ。何でお前だけがそうなんだよ。お前が一番無関係じゃねえか」


「だから知るかようっせえな。怪我人は黙って寝てろ」


「怪我人はどっちだっ⁉︎」


 俺が語調を強めたからだろう。次第に俺たちの口調に火が灯り出したものの。


「何でお前が……」


 結局先に鎮火を試みたのは俺の方だった。そもそも今の精神状態でヒートアップなんて出来るはずもないんだ。あんな傷跡を見せられて、どう感情を昂らせればいいんだよ。……何でこんな気分にならなきゃいけねえんだ。俺らしくもない。


 けれどそう思っているのは、どうも俺だけではないらしい。


「つうかさー、何だよお前。急にしゅんってなりやがって。お前らしくもねえな」


 有生も同じ事を思っていたようだ。惨めに俯く俺を鼻で笑いながら有生は言葉を続ける。


「今更反省しましたアピール? ハッ、笑わせんなっつうの」


「……りいちゃん」


「勘違いしてんじゃねえぞ? 今まで悪い事して来た奴が一回良い事しただけで許されると思うな」


「ねえ、りいちゃん」


「大体てめえ、人の足引っ張った自覚あんのか? 雑魚なら雑魚らしく逃げてくれりゃよかったんだ。あの場からお前がいなくなってくれた方が私としては百倍やりやすかったね」


「お願いりいちゃん、やめて」


「あれ一回でヒーロー気取りしてるってんなら少し頭冷やせよ。思い上がるんじゃねえぞ。最初から悪い事をしない人間が一番偉いんだ。お前のそれはただの」


 有生の悪態は止むことを知らない。あれだけ仲の良いおばさんが制止しているにも関わらず、有生は口を閉じようとはしなかった。だから俺は驚いている。最愛の存在であろうおばさんの制止さえ振り切る有生の口を、俺のお袋がいとも簡単に止めてしまうのだから。


 お袋は起きていた。壁にもたれかかった姿勢を直し、有生の両肩に掴みかかっていた。そして今にも弾けそうな感情を腹の中に押さえ込みながら言葉を紡ぐんだ。


「……あなたが言いたい事はわかる。あなたがそう言っちゃう原因も……きっとダイちゃんにあるんだよね?」


 お袋は性格が顔に出るような人で、初対面での印象と実際の性格が見事に合致するような女だと思う。そんな控えめな性格の大人にいきなり肩を掴まれれば、流石の有生も圧倒されて口を噤んでしまうらしい。お袋だけが一方的に言葉をこぼし続ける。


「あなたの方が大怪我なのも知ってる……。でも……お願い。今だけは責めないであげて。今だけは何も言わないで……。この子は妹を助ける為に、自分より何倍も強い人に立ち向かったの」


「……」


「お願いだから……」


「いいよ」


 だから当然最後のその一言は有生が発したものなんかじゃない。それを言ったのは俺だ。肯定の意味ではなく、否定の意味でお袋に口を挟んだ。


「別にいいよ。本当の事だから。俺、そいつの事何度も殴ってるし」


「……」


「冗談でも遊びでもなくて、本気で殴った。この前なんかそいつがボロボロになるまで泣かせてやったんだぜ? それを見ながら俺、爆笑してたわ」


 驚いたような顔で有生を見るおばさん。有生はバツが悪そうに視線を逸らす。


「何されたって文句言える立場じゃねえんだよ。妹を助ける為に何倍も強い相手に立ち向かった? それ、俺じゃなくてそいつな。俺はただ巻き込まれただけだから」


 俺の言葉を受け止め、お袋は諦めたように有生の肩から手を下ろした。これで話は終わったと思ったのに、有生が言葉を続ける。


「……いや、お前の母ちゃんの言う通りだ。私今、ムキになっていらん事言った。確かに今言うべき事じゃなかった。……ごめん」


「ごめんじゃねえよ。何でお前が謝るんだよ? お前が一番悪くねえだろ。……意味わかんねえ」


「それでもごめん。また来るよ」


 有生は「サチ」と一言呟き、おばさんの手を握った。おばさんは戸惑いながらも、とりあえず俺たちに軽く頭を下げてこの病室を後にする。こうして病室には妹を利用した兄貴と妹を見捨てた母の歪な親子だけが取り残された。


「そう言えばアキは?」


 会話に詰まった俺は、ふとそんな話題を口走ってしまう。


「……施設。一時的にだけど……」


「これからどうなんの?」


「……」


 お袋からの返答はない。まぁ大体の予想はつく。ただでさえお袋は俺みたいなこぶ持ちの状態で再婚したんだ。そこに更なるこぶが付いてくるとして、今の親父はどんな顔をするか。ただでさえ商社勤めで出張が多くて、たまに家で俺と顔を合わせても微妙な雰囲気になるんだ。そんな相手がもう一人増えるとか、今の親父的にはたまったもんじゃないだろう。今住んでいる家は紛れもなく今の親父の家だ。自分の家なのに自分が一番心休まらないだなんて、それはいくらなんでも酷だよな。


「捨てるなら俺を捨ててくれよ」


 なら。


「俺、何でアキに近づいたか知ってる? あいつ子供のくせに胸でけえだろ。それ目当て。ダチの間で彼女いないのを馬鹿にされたのが悔しくてさ、お袋から盗んだ金であいつを脅して胸揉んだんだよ。その画像をダチに見せつけていい気になってた」


 だったら。


「あんまりじゃねえか。七年も奴隷みたいに親父にこき使われて、久しぶりに再会した俺にも散々利用されて。それだけの事されてもあいつ、最後の最後まで親父から俺を庇ってたんだぜ?」


 二人の子供を受け入れるのが難しくても、一人の子供だけなら受け入れられるって言うなら……。


「親殴ったり、金盗んだりするようなクソガキよりよっぽどいい子じゃん。だからどうせどっちか捨てるなら」


 そこまで言ったけど、そこから先は言わせて貰えなかった。お袋の手が俺の口を塞ぐ。


「何で……そんな事言うの?」


 俺はその手を払い除けて言葉を続けた。


「綺麗事はいいって。俺がお袋の立場だったらこんな子供絶対にいらねえよ。あれだけ酷い目に遭わされて、愛着もクソもないだろ?」


「わかんないよ」


 けれどお袋も負けじと俺の言葉を遮るように。俺の本心を真っ向から両断するように。冷たく、淡々と、思いのうちを打ち明ける。


「お母さんだってわかんないよ。ダイちゃんに殴られる度に、暴言を吐かれる度に、何度も何度も嫌いなった。全部放り捨てて私一人だけどこかに逃げようかとか、何度も思ったりした。……なのに、少し時間が経ったら嫌いじゃなくなってる。あの人と暮らしていた時もそうだった」


 そんなお袋の言い分を聞いて、俺は小さくため息をついた。


「そんなんだからいいカモにされたんじゃん。俺にも、親父にも。ほんと、よくあんな奴の事を好きになれたよな」


「……優しかったの。あの人」


「は?」


 耳を疑うような発言に、思わず間抜けな声が漏れてしまった。


「私にだけはね。あの人が悪い人なのは知っていた。誰かを平気で傷つけられる人なのも知っていた。……でも、私には優しかった。お母さん馬鹿だから……、少し優しくされただけで根はいい人なんだって思うようになっちゃったの。悪い人に優しくされた事で、自分は特別な存在なんだって思うようにもなって。……少し考えればわかるのにね。あの人が私に飽きた時、他の誰かに向けていた拳が誰に向くのかなんて」


 それは十二年間生きてきて、生まれて初めて知った二人の過去だった。もっとも、生まれて初めてだなんて言いつつも、そもそも二人の過去に興味を持とうともしていなかったのは他でもない俺の方だけど。


「お母さん、家が厳しかったからあの人の自由奔放な姿にも憧れていたの。高校生の頃にあの人と駆け落ちして、十六歳の頃にダイちゃんも産んだ。でもその頃にはあの人の興味は私から逸れ始めていて、アキを身籠った頃には完全に私に飽きていた」


「……アホくさ。ならとっとと実家に戻れば良かったのに」


 それをするだけで、お袋はあの暴力の雨から逃げ出す事も出来たのに。


「それが出来なかったからお母さんは馬鹿なんだよ。家出した手前、変な意地があって両親に助けを求める事が出来なかった。地元から離れたせいで仲の良い友達だって一人もいない。……ダイちゃんだけだったよ」


 それはとても不器用な笑顔だった。困ったような、やつれたような、無理して作っているようにしか見えないそんな笑顔。


「まだ赤ちゃんだったダイちゃんだけが、私に笑ってくれた」


 そんなお袋の笑顔を見て、嫌な予感がした。予感を飛び越えて確信さえしていた。きっとお袋は、俺に対して間違った感情を抱いているんだ。


「ダイちゃんの事を嫌いになる度にその時の顔が思い浮かぶの。そしてどんどん不安になる」


 道理でお袋は俺を見限らなかったはずだ。道理で俺なんかに未練を持っていたはずだ。


「ダイちゃんを怒らせないもっと良い言い方があったんじゃないのかな? とか。もしここで私が逃げたらダイちゃんはどうなるんだろう? とか。そんな事ばかり頭に浮かんで、一人だけ逃げようとした自分の事が嫌いになる……」


 その間違いは絶対に正さないといけない。今正さないとお袋は何度も自分からズブズブと底無し沼にハマっていく。だから。


「やっぱりお母さん、ダイちゃんの事が好」


「違えよ」


 俺にはお袋の勘違いを正す義務と責任がある。


「それ、多分ただの勘違い。普段の俺が最悪過ぎるから、昔の俺が余計綺麗に見えてるだけ。親父に殴られた時も優しかった頃の親父を思い出したりしていたわけ? まんまDV男にハマる女のそれじゃん」


 俺はお袋と同じように笑いかけた。鏡を見なくても顔の筋肉の覚束ない動きのおかげで、自分が今どれだけ不器用な笑顔をしているのかがわかる。


「一回俺と離れてさ、アキと暮らしみなって。すぐに自分の間違いに気付くよ。それにアキならキョウイチさんだって絶対気に入って」


「じゃあそんな事言わないでよっ‼︎」


 でも、お袋の表情はある瞬間をきっかけに笑顔が消え失せてしまった。不器用な笑顔を浮かべているのは俺だけだ。なんて滑稽なんだろう。それでいて。


「本当に捨てられたいならそんな事言わないでよ……。いつもみたいにつらく当たってよ……。ずるいよ……」


「……」


 なんて無様なんだろう。お袋の言う通りじゃないか。本当に捨てられたいなら、俺はお袋に幻滅されなきゃいけないんだ。不自然なまでに綺麗に治ったこの体で、いつもそうしていたようにお袋に手を上げるなりするべきだったんだ。


 ……なら、今からでもそうしてみればいいんじゃないかという思いが過ぎった。今までそうして来たように、いつもそうしているように。拳を握って、それをお袋に向けて放つだけ。たったそれだけの事を……。


 ……。


 どうしてだろう。いつもやって来た事なのに、たったそれだけの事が出来ない。拳を握ろうとした瞬間、親父の笑顔が頭に浮かんだ。俺の拳が親父の拳に見えた。とても不快な気分だった。


「ねえ……、ダイちゃん」


 今にも消え入りそうな微かな声でお袋が呼びかける。


「何?」


「……私が不幸になるのは仕方がないと思う。周りの言う事に耳を貸さないであの人について行った私の責任。全部私の自業自得。……でも」


 そしてお袋は一旦言葉を止めて俯いた。……いや、違う。これは俯いているんじゃなくて。


「二人を私の自業自得に巻き込んじゃって……ごめんね」


 謝罪だ。頭を下げているんだ。俺に。


「守ってあげられなくてごめん……。見捨ててごめん……。弱いお母さんで、ごめん……」


 俺なんかに。


 何でだろう。有生と言いお袋と言い、何でどいつもこいつも俺に謝るんだろう。誰がどう見ても一番悪いのは俺じゃないか。本当に謝らなきゃいけないのは。


「アキは引き取るから。お父さんもなんとか説得する。もし反対されても……それでも絶対に二人を引き取るから。お母さん、もう逃げたりしないから……。だから、自分を捨ててなんて言わないで……?」


「……」


 俺じゃないか。


「……俺の方こそごめん」


 やっと謝れた。やっとその言葉を口に出来た。


「今まで……色々ごめん。退院したら部屋にある奴は全部売るよ。足りない分は働けるようになったらバイトして返す。……まぁ、今までいくら盗んだかも覚えてないけどさ。でも、ちゃんと全部返すから」


 やっと言えたのに、胸が苦しい。張り裂けそうだ。


「ごめんなさい」


 だって俺、謝っておいてまた親不孝をしなきゃいけねえんだもん。同じ間違いを繰り返す事になんだもん。


 俺の謝罪を聞いてすすり泣くお袋を尻目に見ながら、俺は近い将来訪れるであろう親不孝について考えた。


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