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異世界で小学生やってる魔女  作者: ちょもら
第五章 わかっていた少年
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走馬灯、役立たず

 心の底から願っていた。どうか俺の予想は杞憂であってくれと、宗教なんて信じもしていない癖に都合の良い時ばかり神様って奴を信じてしまった。でもそんな俺の願いはトイレに乗り込んだ瞬間、呆気なく崩れ去った。


 そこには俺の予想した通りの光景が広がっていた。地面に這いつくばるアキと、有生の首を絞めあげる親父の姿。有生の顔は赤と青が入り混じった紫色に染まり、これでもかと言わんばかりに血の気が主張している。それに反して有生の体からは力が抜け落ち、その腕は勢いを失った振り子のようにゆらゆらと揺れていた。


 俺は非力だ。学校でイキれるのは周りが皆んな俺より小さいから。学校の外でイキれるのはタクちゃん達が側にいてくれるから。そんな非力な俺がこの程度な不意打ちで親父に襲い掛かったって、親父の手から有生を解放させられるとは思えない。


 けれど俺は知っている。大人でも、子供でも。男でも、女でも。そこを狙われたが最後、まともに立てられなくなる弱点を知っている。俺でなくても小学校のダチならみんな知ってるよ。


 俺が勢いに任せて蹴りつけたのは、親父の膝の裏だ。誰だって一度はやった事があるだろうし、やられた事だってあるはずだろう。膝カックン。俺の蹴りが斧のようだなんて冗談でも思わないけれど、大木が力無く崩れ落ちる。その手を有生の首から離しながら。


「有生ーっ!」


 有生に駆け寄り、その肩を揺さぶった。


「おい有生! 起きれるか? おい!」


 呼吸が浅い。痙攣にも近い、浅く早い呼吸を何度も繰り返している。まるで陸に釣り上げられた魚を見ているようだ。その首に纏わりつくように刻まれた大男の手形が事の重大さを教えてくれる。


 けど少しずつ。少しずつだけど浅い呼吸が安定し始めた。頭に閉じ込められ血も体に戻って行ったのか、異常なまでに紫色に染まった顔も徐々に人間らしい肌色へと落ち着きを取り戻す。目の焦点も少しずつ合わさって来て。


「……ダイチ?」


 そう答えた。声が漏れたのではなく、はっきりと言葉を発した。


 本当にギリギリだったんだ。マジで殺される所だったんだ、こいつ。もう少しでこいつ、本当に……。


「雑魚のくせに馬鹿な事してんじゃねえよクソ女……」


 胸を撫で下ろす感覚というのを生まれて初めて感じた。……その時。


「……ダイチ! 後ろ!」「お兄ちゃん!」


 有生とアキが同時に叫ぶ。声につられて反射的に振り向くと、そこには虚ろな視線を向けながら、清掃中につき立ち入り禁止のパネルを天高く振り上げた親父がいた。


 パネルの行き先は一目瞭然だった。俺は咄嗟に避けるべく四肢に力を込めて。


「……っ」


 でも、俺の下には正気を取り戻したばかりの雑魚がいるのを思い出す。


 鈍い音がした。それは俺の愚行が引き起こした音だった。痛い。ただただ痛い。右目の視界が赤いのは、きっと右のこめかみから垂れる血のせいだろう。大人に本気で殴られると、人はこうなるんだな。視界が揺れる。前後の判別がつかなければ左右の判別もつかない。だけど上下の判別はついた。有生が俺の目の前にいると言うことはここが下か。有生に覆い被さりながら親父の攻撃から庇ったおかげで、それだけははっきりと理解出来た。


 参ったな。パネルなんて所詮プラスチックだと思ってたけど、コンビニで貰えるスプーンやフォークとはわけが違うわ。体育の時やクラブ活動の時に三角コーンを何度も運んだじゃねえか。あんなデカくて重いプラスチックの塊をあんなデカい親父に叩きつけられて、無事で済むわけねえのに。


「おい……っ、おいダイチ! 何やってんだよお前!」


「……うるせえよ。ありがとうございますくらい言えっての」


 俺のこめかみから何かが離れて行くのを感じた。それが叩きつけられたパネルである事はすぐに理解出来た。親父は二度目の鉄槌を振り下ろすつもりらしい。


「有生……。お前、金玉一つ潰させれば頼み聞いてくれんだよな……?」


 親父に合わせて俺も立ち上がる。平衡感覚は狂ったままでも、小便器を掴みながらなんとか直立する事は出来た。命の危機を目の当たりにしたら、汚いだなんて気持ちは粉程もわいてこない。


「あとで両玉潰させてやるから……アキ連れて逃げろ」


「逃げろって……、お前こそそんなに血ぃ出してるくせに」


「いいから!」


 親父が二度目の鉄槌を繰り出した。縦方向に振り下ろした初撃と違い、今度は横方向に振り回す攻撃。パネルの先端が再び直撃したらもう二度と立ち上がれる気がしない。だから俺は前進した。前進した所でどうにかなるとも思えないけど、体当たりの一つでもかませばもしかしたら再び親父を転ばせられるかも知れない。後退して逃げに徹するよりかはまだ希望がある。……が。


 足が滑った。原因は明白。親父が床に零した酒に足元を掬われたんだ。俺は顔から床に飛び込むも、しかし不幸中の幸い。いや、不幸中の激運。親父のパネルが俺の頭上をすかした。パネルはそのままトイレの壁に衝突し、真っ二つに叩き折られる。その衝撃に親父が一瞬怯んだのを俺は見逃さなかった。


 もう一度だけ踏ん張り、起き上がる。完全に起き上がらなくてもいい。中腰のままでいい。親父の膝に体当たりをかまし、俺はもう一度親父を転倒させる事に成功した。


「早くアキ連れて逃げろ! 有生ぇ‼︎」


「でも!」


「でもじゃねえよ! てめえが一番無関係なくせに殺されそうになってんじゃねえぞ雑魚! さっさと行け‼︎」


 有生は久しぶりの酸素にありつけた体で、よろめきながらも立ち上がった。覚束ない足取りをしつつも俺達を横切ってアキの元へ駆け寄り。


「行かせるわけないだろ」


 しかしその長い黒髪を親父に掴まれる。有生の口から小さな悲鳴が漏れた。しかし。

「てめえっ⁉︎」


 直後にそれ以上の悲鳴を親父が漏らした。夏場故の短パンが仇になったな。親父の左足にしがみつきながら、俺はその左腿に歯を立てた。


 ……でも、ダメだ。あわよくばこれで怯んで有生の髪からから手を離してくれればと思ったけど、親父の手は依然ガッチリと有生の髪を掴んだまま。寧ろ痛みの反動でより強く握りしめているようにさえ見える。この一噛みは状況を打破する決定打にはならなかった。じゃあならなかったらどうなるかって言うと。


「何してんだこの野郎⁉︎ ダイチぃーっ!」


 こうなる。逆上した親父の圧倒的な筋力に振り払われ、よろけた隙に俺の顔面目掛けて親父の爪先が飛び込んで来る。俺はそれを避ける事が出来なかった。


 生まれて初めての感触だった。鼻のど真ん中に硬い塊がめり込んでくる。俺の顔、マジで文字通り凹んでいるんじゃね? ……やばいかも。これ、洒落になってねえよ。


「あ……っ、ゔぁっ……ふぅ……」


 息が出来ない。喉に大量の液体が溜まって空気を吸い込めない。血だ。大量の鼻血が口内と喉を満たしている。何度血を飲み込んでも、飲み込んだそばから次々と鼻血が注がれる。それだけでももう十分過ぎる絶望だと言うのに、絶望の連鎖は止まらない。


「お前もだよ」


 親父は俺の顔から足を抜き取ると、次の矛先を有生へと向けた。親父はまだ有生の後ろ髪を掴んだままだ。有生は目一杯の抵抗を試みているが、俺よりも小さくて軽い体で何が出来るって言うんだ。有生に出来る抵抗なんて最早口でイキるしかなくて。


「おい! 離せクソジジイ! てめえ自分の子供に何したかわかってん」


 そんな最後の抵抗でさえ親父にあっさりと、力付くで封じられてしまったんだ。有生の口から小さな女の口から出るものとはとても思えない、獣のような悲鳴が漏れた。親父は有生の髪を掴みながら、その顔を壁目掛けて叩きつける。一度、二度、三度、四度。そして。


「……」


 五度目の衝突を迎えた時、有生の口からは悲鳴さえも消え果てた。有生の口からは今にも消え入りそうな程の小さな呼吸音しか漏れなくなった。親父が拳から力を抜くと、有生の体は流れるように重力に従って落ちていく。それでもまだ手足を動かすだけの気力と体力はあるようだけど、それだけだ。手足がなんとか動くだけ。亀にも劣る鈍さでしか移動も出来ないようだった。


「小さい方はどうにでもなるとして」


 独り言でも呟くように、ボソボソと親父は語り出した。その視線はもはや有生を捉えておらず。


「デカい方はどうしたもんかな」


 俺を捉えている。間違いなく、はっきりと俺の方を見ている。親父は真っ直ぐに俺の前まで足を進め、そして蹴った。


「お前が」


 蹴った。


「入る鞄は」


 蹴った。


「流石にないな」


 一心不乱に。無我夢中に。顔なり、肩なり、胸なり、腹なり。俺の体という体を余す所なく蹴り尽くした。


「なぁ、ダイチ。お前どうなりたい?」


「……」


 俺は。


「何か言ってみろよ」


「……い」


「ん?」


 俺には。


「……ごめん……なざい」


 それしか手段が残されていなかった。命乞い。あぁ、命乞いだよ。しょうがないだろ?


「だずけえ……うださい……」


 他にどうすりゃいいんだよ。腕力じゃ勝てない。気力でも勝てない。そもそも勢い任せの考え足らずで乗り込んだのが間違いだったんだ。俺じゃ勝てないのは目に見えていたじゃないか。


「ゆるじで……」


 俺一人じゃ親父には勝てない。仮に有生と同時に立ち向かったとして、そんなの親父からすればチワワ二匹と戦っているようなもの。丸太のような筋肉を纏ったあの怪物だ。倒すどころか逃げる事も出来ない。有生とアキを逃すどころか、俺一人でさえ逃げられない。


「やめで……」


 あーあ。全身があったけえや。痛みで体が暖かい。血で顔が暖かい。骨が折れてるのかどっかの血管が切れてるのかわかんないけど、体の中まで暖かい。そして何より尻周りが暖かい。お漏らしって小六になってもするもんなんだな。……本当に。


「お願い……じます……」


 本当に。


「お願いじます……やめで……だうけて……」


 馬鹿みたいな人生だった。


「やだ」


 そう答えながら拳を向ける親父は。恐らく俺の人生最後の光景になるかもしれない親父の顔は。買ってもらったばかりの玩具で遊ぶ子供のように、とても澄んでいた。そして。


「……」


 そんな親父の拳は、俺に飛んでは来なかった。理由は簡単だ。邪魔が入ったんだ。第三者ではなく、動けない有生でもない邪魔者が。親父の背後から飛びついたアキが、永久歯も生え揃っていないであろうその小さな牙を、親父の腕に突き立てていた。


「何してるの?」


「……」


「何してんのか聞いてんだよっ‼︎」


 腕に止まった蚊でもはたき落とすように、親父はアキを振り払う。子供とはいえアキは小五だ。小五並みの身長を持った肉の塊だ。そんな重量物も親父の前では綿毛同然らしい。振り払われたアキの体が、トイレの個室のドアに激突する。親父の標的が俺からアキへと切り替わる。つまり。


「……」


 俺は助かるかもしれないんだ。そう思えるだけで、不思議と表情に笑顔が込み上がったような気がした。


 有生が通報して何分経っただろう。憶測でしかないけれど、三分以上は経ってるんじゃないか? ならあと半分だ。これと同じだけの時間が経った頃には警察が駆けつけてくれるはず。


 残りの三分半を俺一人で受け切る事は出来なかっただろう。親父の腕力でそれだけの時間を一方的に殴られちゃあ間違いなく死んでいた。……でも。


「てめえ何噛んでくれてんだ? この野郎」


 アキが肩代わりしてくれた。俺が受けるはずだった暴力をアキが引き受けてくれた。これ、かなりの時間稼ぎになるんじゃね? そうだよ。これが答えだ。最適解だ。


 アキは今から親父に殴られる。何発か、十何発か、下手したら何十発かもしれない。何百発かもしれない。でも数分だ。数分さえ耐え切れればそれで終わり。駆けつけた警察に保護されて、受けた傷も病院で手厚く治療して貰えるはずだ。


 いいじゃないか。それが一番いいじゃないか。俺一人が犠牲になる必要はない。俺も有生もボロボロなんだ。お前の為にボロボロになったんだ。肝心のお前だけが無事ってのも、なんか違くね? ここは平等に行くべきだろ。


 ……ってか前提からして違うじゃん。よくよく考えれば俺はアキを助けに飛び込んで来たんじゃない。有生だ。有生に抱いた罪悪感を払拭する為に来たんだよ。そうだ、俺はお前が嫌いなんだ、アキ。七年前からお前の事が嫌い嫌いで仕方がなかった。


 鈍臭いお前が万引きにミスるせいで俺までとばっちりを受けた。冷蔵庫の中が消えて行く中、お前のミルクや離乳食だけが充実していた押し入れを妬んだ。寝る時も起きる時も、何をするにも暢気についてくるお前が憎かった。タクちゃんと出会えて、お前以外の親しい友人が出来て本当に嬉しかった。嬉しかったんだ、俺は。


 だから今だけは我慢してくれよ、アキ。明日からは不幸な目にはあわせねえからさ。その代わり、今日だけでいいから不幸を受け入れてくれ。……俺、間接的とは言え大嫌いなお前の為にここまで尽くしてやったんだぜ? タクちゃんみたいな友達が出来たら簡単に距離を置いちまうような、そんなクソみてえな絆の為にここまで頑張った。


 でもさ、クソみてえな絆ってのはお前も同じだろ? あん時はたまたま俺だったってだけで、もし反対にお前に友達が出来ていたら、お前だって俺に同じ事をしたはずだ。お前、俺に友達が出来たって知ってどう思ったよ? 七年前のあの日、お前から逃げてタクちゃん達と遊んでいた俺を見て、お前はどう思ったよ。


『……お兄ちゃん』


 めちゃくちゃ嫉妬しただろ?


『……お兄ちゃん友達出来たの?』


 あれだけ仲が良いって思い込んでいたはずの俺を羨んだろ?


『……凄い』


 俺達の関係なんて、本当にそんな……。


『おめでとう』


 そんな……。


「……」


 ……あれ。何だこれ? ……いや。……いやいや。違うじゃん。全然……。

 あいつ、別に俺に嫉妬なんかしてないじゃん。羨んでもなかれば憎んでもない。アキがいつ俺に嫉妬したよ。いつ俺を憎んだよ。あいつは妬むどころか、友達の出来た俺を祝福して……。


「アキ。お前も死ぬか」


 なんで今なんだ。どうして今思い出すんだ。七年も前の事を。綺麗さっぱり忘れ去っていたはずの思い出を、こんな鮮明に。こんなはっきりと。走馬灯ってやつなのか? ならダメだろ。走馬灯って、目の前のピンチから抜け出す方法を過去の経験から見つけ出す為のもんじゃん。こんな最悪な走馬灯があってたまるかよ。だって俺今。


「……っ、……ざっ……、けんなあああああああああっ!」


 助かるどころか自分から死にに行こうとしている。


 全身が痛い。呼吸さえ出来なくなるような痛みだ。盛大に尻餅をついた時とか、強烈な腹パンをされた時もこんな風になる。でも、呼吸も出来ないって言うのは半分間違いだ。呼吸っていうのは勝手にする呼吸と、自分の意思でする呼吸があるから。


 痛みで出来なくなるのは無意識に行われる勝手な呼吸の方。口から息を吸って息を吐く、自分の意思で行う呼吸はどんなに痛くても誰にも邪魔出来ない。俺は痛みもろとも飲み込むように息を吸った。


 もうこれが最後だ。これ以上は本当に動けない。体の中に残るそんな最後の最後の予備エネルギー全てを使い果たし、親父の背中に蹴りを入れた。


「ぶぢ……殺す」


 悪かったな、アキ。嫌な兄貴で。自分勝手で身勝手な兄貴で。……なぁ、アキ。


「ブチ殺すぞグソジジイっ!」


 死んで詫びれば許してくれるか。

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