表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界で小学生やってる魔女  作者: ちょもら
第五章 わかっていた少年
72/369

虎を狩る狐

「とりあえずその千円は寄越せ」


 くしゃりと紙が握り潰される音がした。アキの千円を奪い取った音と考えて間違いないだろう。 


「ったく……。どうせならもっと金目のもんを盗んで来いよなッ!」


 そしてまたしても響く暴力と悲鳴の音。……だが、まだ暫く続くと思われた怒り狂った親父の声色は、何かをきっかけに再び平静さを取り戻し、とても和やかな物へと切り替わった。


 カチカチ、と。ペットボトルや瓶の蓋を回して開けるような、そんな音が聞こえた。次に聞こえたのは、液体が高い所から低い所へと流れ落ちて行く音。そして瓶を投げ捨てたような荒々しい音も。そんな音が計三回聞こえた。そして。


「アキちゃん。これ飲んで?」


 最後に聞こえたのは、そんな親父の穏やかな声色だった。


 有生が徐に壁から背を離した。そのままスタスタと公園の入り口まで歩いて行く。俺はそんな有生の背中を見つめながら、昔出会った野良猫の事を思い出していた。


 それは学校の帰りにたまたま見かけた野良猫だった。テレビか何かで見た事がある。飼い猫と野良猫の寿命差は倍以上もかけ離れているのだと。


 冬休み明けの出来事だった。その猫は当時低学年の俺でもわかる程に弱り切っていた。飼い猫のように温かい部屋に住めず、飼い猫のように満足な食事にもありつけていなかったんだろう。俺はたまたま残してランドセルに詰め込んでいた牛乳を取り出し、猫の前に零してみる。猫はのそのそと牛乳に頭を近づけ、舐めては咳き込み、舐めては吐くを繰り返した。きっとこいつはこの冬を越せずに死ぬんだろうなと。すぐに理解した。


 あの時と同じ音がする。舐めては咳き込み、舐めては吐き出すあの時の音がトイレの中から聞こえてくる。そりゃそうだ。あの酒は量こそ20mlって少なさだけど、アルコール度数で言えば20%くらいはあったと思う。それでも本物のショットと比べれば低い方らしいけど、少なくとも酒を飲み慣れない奴がいきなり飲むような物じゃない。


 親父、めちゃくちゃ楽しそうに笑ってるな。スマホで動画の撮影ボタンを押した時の電子音まで聞こえてきたよ。そんな不協和音に耐えかねた俺は、有生と同じように壁から背を離した。そして有生を追うように公園の入り口へと向かった。


「おい有生。何して……」


 公園の入り口で何かをしていた有生の背に声をかける。


「はい。……はい。出来るだけ早くお願いします。私……多分今からぶっ殺されるから」


 有生は電話をしていた。スマホからは慌てたような女の人の声が聞こえてきたけど、有生はそれを一方的に切ってしまった。有生がどこに電話をかけていたのかは何となく察しがついた。


「警察?」


「あぁ」


「どれくらいで来るって?」


「知らない。でも平均は七分くらいだって、なんかで見た事がある」


「何でお前がぶっ殺されんの?」


 青ざめた顔の有生に問いかける。流石のこいつもわかっているんだろう。今自分が敵に回そうとしている相手は、俺やタクちゃん達とはわけの違う相手だと。


「……」


 有生は少し押し黙った後、覚悟を決めたように青ざめた顔を両手で叩いて無理矢理赤く染めげた。


「足止めするからだよ。逮捕状なんて手間取らせるか。私を殴らせて現行犯でしょっぴかせてやる」


 その場で振り返り、公衆トイレへと足を向ける有生に最後の質問を投げかけた。


「助けないんじゃなかったのか?」


 有生は逆に俺に問いかける。


「お前こそ助けに行かないのか?」


「だから何で俺が助けるんだよ。一人で勝手に殺されてろ」


「じゃあお前には関係ねえだろ。一生ビビってろ雑魚」


 有生はそれだけ言い捨てて、公衆トイレの中へと入って行った。俺もその後を追うように公衆トイレの前まで戻り、だけど中には入らずにさっきと同じ定位置につく。トイレの壁に体を預け、ことの端末に耳を傾けた。


「よぉクソジジイ。私のダチ泣かせんのやめてくんねえか?」


 その一言から始まる有生の命運を、蚊帳の外から静かに聞き届けた。


 親父の声も、有生の声も、床の酒を啜り飲むアキの声も聞こえなくなる。俺の鼓動が騒音として聞こえる程の静かな時間が数秒経つ。そんな中で次に声を出したのは親父だった。


「やぁ三日ぶり。いやー、その節はお世話になったね。アキも楽しかったって喜んでいたよ。久しぶりにアキの笑顔を見れて、僕も嬉しかった」


「そうか。じゃあお前、もう二度とアキの笑顔が見れなくなるな」


「……。んー?」


「動画撮ったんだよ。お前がアキに万引きさせてる所のな。トイレの外でお前らのやり取りも録音しておいた。私、今からこれ警察に持ってくから」


 それはとてもわかりやすい挑発だった。親父の神経を逆撫でし、アキに向けられた暴力の矛先を自分に向ける為の挑発。


「ハッ。なんだその顔? 警察が怖いか? じゃあどうする? 私を殴ってスマホを取り上げてみるか? やってみろよ。ガキ殴ってタダで済むと思ってんならな」


 あいつは警察が来るまでの七分間、親父から殴られ続けるつもりなんだ。まぁ七分間ってのはあくまで平均らしいし、子供が虐待されてるからには警察も躍起になってもっと早く来るかもしれない。逆に七分を超えて来る可能性だって十分ある。


 なんにせよ数分だ。数分親父の暴力を耐え切りさえすればこの事件は解決。アキへの虐待と有生への暴行で無事親父は現行犯逮捕ってわけだ。……なんだ、やっぱり俺の出る幕なんかねえじゃん。


 俺は壁から背を離した。後は有生と警察に任せよう。そうなるとトイレの前で佇む俺は、妹やクラスメイトのピンチにも駆けつけなかったカスみたいなレッテルを貼られ兼ねない。警察に見られる前に、さっさとここから退散して……。


「アキ、立て! 馬鹿みてえな事してんじゃねえよ! こんな場所さっさ」


 ……。


 退散しようとした。俺は今、確実にこの場を後にしようとした。なのに何故だろう。足が動かない。ふと脳裏に過った一つの違和感が、底なし沼のように俺の足にまとわりついた。


 あれ。なんだ今の。『こんな場所さっさ……』なんだ? どうして有生の奴、そんな中途半端な所で言葉を止めた? 言葉を区切るならもっとキリのいい所まで話せよ。変な違和感が残って気になるじゃねえか。


 ……いや。これは違和感というより、最早胸騒ぎと言った方がいいような。


 俺はもう一度。最後に一度だけトイレに近づいて耳を澄ます。やけに静かだ。トイレの中で誰も言葉を発していない。誰の声も聞こえない。……聞こえない? いや、聞こえるぞ。本当に微かで今にも潰えてしまいそうなレベルだけど、でも確かに有生の声が聞こえる。「あ」と「い」に濁点を加えただけの霞んだ声がポツポツと聞こえる。


「あるよ。君を殴らずに、警察にも行かせない方法」


 それと並行して親父の声も聞こえる。


「……」


 その瞬間、最悪の光景が目に浮かんだ。だってあの生意気の権化である有生が悪人を前にイキらないはずがない。煽り飛ばさないはずがないんだ。それなのに有生が何も喋らずにいるって事は、要するに喋れない状況に陥っているって事じゃないのか。


 口を塞がれている? そんなわけない。どんなに鍛え抜かれた握力で口を塞いだって、僅かな指の隙間や鼻の穴から声は簡単に漏れ出るもんだ。


 ならガムテでも貼られて隙間なく口を閉ざされている? いや、そんな都合よく親父がガムテを持ち運んでるわけがないだろ。


 もっと簡単な方法があるじゃないか。たった一つの道を塞ぐだけで、人は口からも鼻からも声や空気が漏れなくなる。その方法は熊のようにデカい親父の手のひらだからこそ、より簡単に行える。


 ……嘘だろ。冗談だろおい。……いや、そりゃ確かにあいつは人を殺していても不思議じゃないって何度も思ってるけど、でもそれって言葉の綾ってやつで。


 いくらなんでもそんな簡単に人を殺せるもんかよ。あんな奴でも三十年以上普通の社会で生きて来たんだ。子供を殺したらどうなるかも想像出来ないような、そんなアホなわけ……。


「苦しいかい? あっはっはっ、顔真っ赤だね」


 アホなわけ……。


「……」


 ない、と言い切る事が出来ない。過去の記憶とトイレから響いて来る親父の声が、俺から否定の可能性を根こそぎ掻っ攫っていった。


 七分間殴られるのと七分間首を絞められるのとじゃわけが違う。ただのガキが七分も息を止められるもんか。そういえばタクちゃんから喧嘩を教えて貰った時、首の動脈を絞めれば人は一分も経たずに意識を失うって言われた気がする。上手い具合に絞めれば、一分どころか数秒で意識を失うとも。


 ……じゃあ何? あいつ、死ぬの?


「……」


 自業自得だよ。バーカ。


 別に不思議な事でもなんでもない。自分より強い相手にも堂々と歯向かうあいつだし、遅かれ早かれいつかは起きた事だ。勇敢なのは結構。でも力のない勇気なんて、ゴミ以外の何者でもない。


 そりゃあ言葉で解決出来るならそれに越した事はねえよ。でも、世の中には口で言い聞かせられない悪人が五万といる。そういう奴らを言い聞かせられるのは、いつだってそいつらよりも強い正義だけだ。弱い奴に説教されて改心するような悪人は、そもそも最初から悪人になんてならない。


 要するに有生。お前はただの馬鹿なんだ。力もないくせに自分よりも強い相手に立ち向かう正真正銘の馬鹿。虎に噛み付く兎がどこにいる? 兎に出来る事なんて、自分が死なないようにこそこそ隠れながら逃げるだけだろ。兎にとっての勝利は虎に勝つ事なんかじゃない。虎から逃げ切る事がお前らにとっての勝利なんだよ。兎のくせに虎に牙を向けた時点で、お前はもう負けたんだ。馬鹿は死んでも治らないって言うけど、流石に生まれ変われば治るんじゃね?


「……パ、パパ」


「アキちゃん。押し入れの中に大きなリュックがあったはずだから、それ持って来てくれないかな?」


 ……。


 それはとても現実味を帯びた殺意の宣告だった。その声が聞こえた瞬間、頭の中に一つの天秤が生まれる。有生を助けるメリットと助けないメリットを秤にかけた。


 有生を助けないメリットは山のようにある。俺は有生が嫌いだ。あいつの死を心の底から願うくらいには大嫌いだ。あいつから受けた屈辱は全て昨日の出来事のように思い出せる。


 転校したてで孤立していたあいつを気にかけた結果、罵られながら拒絶された事。タロウがチクったと勘違いした俺を煽り倒して来た事。窓から飛び降りようとしたあいつを咄嗟に助けてしまった俺を見下して来た事。


 この短い間に何度あいつに死んで欲しいって願った? 今、その願いが叶おうとしているんだ。それも俺にとって、とても都合の良い形で。


 ここで親父が有生を殺したとする。アキが家からデカいリュックを持って戻るとなると、その時間は七分やそこらじゃ決して足りない。警察が駆けつけるには十分過ぎる時間だ。そしたら親父は各種窃盗に加えて虐待に子供を殺した罪まで背負う事になるだろう。そうなったら罰は死刑か、それがダメでも一生刑務所暮らしは手堅い。俺の人生は間違いなく安泰だ。


 逆に有生を助けて俺に何のメリットがある? 何もないんだよ。あいつを助けるメリットが、何一つとして。助けるどころか返り討ちにされて俺が殺され兼ねないデメリットしかない。いくら考えても、どんなに頭を捻っても、助けるメリットが微塵も思い浮かばない。 


 ……っていうか、俺に助けたいって思わせないのも全部お前の責任だろうが。


『それで孤立していた私に最後まで話しかけて来た奴が、そういえば一人いたなって。私、そいつに酷え事言っちまったんだよなって』


 あぁ、そうだ。それが全ての始まりだ。


『私は正義感でチクったんじゃない。友達の多いお前を酷い目に遭わせたくてチクったんだ。……ごめんな、ダイチ』


 あの時もお前はそんな自分勝手な理由でチクっておいて、偉そうに俺に説教を垂れた。


『ぼっちの私を仲間に入れようとしてくれたのに突き放したりしてごめん。自分が気持ち良くなりたくてチクったりしてごめん。私、今までお前に酷い目に遭わされて来たとばかり思ってたけど、先に酷い事をしたのは私の方だったんだよな?』


 今更気付いてんじゃねえよ。今更謝ったって遅えんだよ。


『なぁ。私、今からすげえ都合の良い事言うけどさ。……ここ数週間の事、全部なかった事に出来ないかな』


 出来るわけねえだろ。今まで何度お前を頭の中でぶっ殺して来たと思ってんだ。そんなお前を実際にぶん殴れた時なんてどれだけ楽しかった事か。


『やっぱお前、根っこの方は悪い奴じゃねえんだよ。付き合う相手を間違えたせいで、あれが普通だって勘違いしてるだけなんだ。……頼むよダイチ。もうタバコも、酒も、変な連中と絡むのもやめてくれよ。またアキと一緒に遊ぼうぜ?』


 それなのになんだよお前。何でぶん殴って来た相手にそんな事言えんだよ。何でぶん殴った相手をそんな簡単に許せるんだよ馬鹿じゃねえのか? 女神か天使にでもなったつもりか?


『殺させない! 絶対に殺させない! お前には指一本触れさせない! 約束する! 心配すんな、私が全部なんとかしてやっから。だから頼むダイチ! 一生のお願いだから信じてくれ! な? な? な? マジで頼む! な⁉︎』


 気持ち悪い。反吐が出る。女神だろうが天使だろうが、結局は化け物じゃねえか。人間らしさの欠片も感じられない化け物だ。お前みたいに簡単に人を許せる人間がいてたまるか。お前を見ていると人外の怪物でも見ているような気分になる。俺はそんなお前がキショくて、不気味で、大嫌いで。……だから。


『サンキュー。こうなったからにはもう心配はいらねえぞ? タロウの手を借りるまでもねえよ。全部私に任せろ。絶対にお前の事は守るから』


 ……だから。


『ダイチ。ありがとな』


 笑うなよ。敵意もクソもない綺麗な笑顔を向けてんじゃねえよ。お前がそんな顔をしたせいで俺の楽しみが消えちまったんだぞ。


 俺はお前を笑うはずだった。二度とSwitchが返って来ないと知ったお前を見て爆笑するはずだった。お前は期待以上の反応をしてくれたよ。猪みたいに突っ走って来るお前が、怒りもせずに泣きじゃくった。地面に崩れ落ちて、ただただ純粋に泣いてくれた。


 ……なのに。それなのにお前のせいで笑えなくなっちまったじゃねえかよ。お前があんな笑顔を見せたせいで、何一つ面白いと思えなかったじゃねえかよ。なんで俺がお前なんかに罪悪感を感じないと……っ。


 ……。


 罪悪感。……罪悪感? ……あぁ、そうか。そう言うことか。


 その瞬間、頭の中に蔓延る黒い霧のような物が晴れて行くのを感じた。とても青くて、それで白い。澄んだ青空を見上げているようだ。


 有生を助けるメリットがないと頭で理解しているのに、なんで俺は静かにこの場を立ち去れずにいるんだろう。なんで未練がましくうじうじと立ち尽くしているんだろう。その矛盾の正体が、今やっとわかった。


 確かにあの時感じた罪悪感は有生を助けるメリットにはなれなかった。……メリットにはなれなかったけど。


「いや、でもその前にちょっとこの子のまつ毛を触ってみな。目蓋が動くかどうかで死んだかわか」


「手ぇ離せや殺すぞクソジジイーっ‼︎」


 有生を助けたい理由にはなっていた。

少しでも面白いと思っていただけたなら下の方で⭐︎の評価をお願いします!

つまらなければ⭐︎一つでも全然構いません!

ブックマーク、いいね、感想などもいただけるととても励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ