中華
久しぶりに足を伸ばして入浴したい。そんなサチの提案で銭湯に行った帰り道。
「ラーメン食べたい」
サチがポツリと呟いた。
「どうしよう。銭湯のせいで今すごくラーメンが食べたい……」
「本当にどうしたんですか?」
「いやー、昔の思い出って言うのかな。私、大学時代は御茶ノ水に住んでたんだ。御茶ノ水って知ってる?」
「知ってます。鉄腕アトムが生まれた場所ですよね?」
「鉄腕アトムを作った人だね。しかも鉄腕アトムが生まれたのは高田馬場にある科学省だから。高田馬場駅の高架下に手塚治虫のキャラがいっぱい描かれてるのもそのせいなんだ。知ってた?」
「知りませんでした。今度行ってみたいです、その科学省!」
「フィクションだよ……」
サチは呆れながら思い出話を続ける。
「御茶ノ水から神保町の方に十分くらい歩いて行くと、梅の湯っていう銭湯があってね? 昔は彼氏とよく行ったんだよね」
「へー。神保町のお風呂ってやっぱりカレーで出来てるんですかね。美味しそう」
「愛媛県の水道からはポンジュースが出るみたいな偏見やめようね」
でもこの都市伝説が広まったおかげで、実際にポンジュースが出る水道が愛媛県に設置されたとテレビ番組で見た事がある。きっと皆で言い続ければいつかはカレー風呂だって実現するはずだ。浴槽レベルのカレーか……。一度食ってみてえな。
「それでね、銭湯の帰りはまっすぐ家に帰らないで水道橋に寄るの。水道橋駅の前には今じゃ滅多に見ない屋台ラーメンがあってさ。風呂上がりの火照った体で食べるラーメンが美味しいの何の……」
「そんなに美味しいなら行きます?」
私はそこで一旦足を止めた。そしてすぐ隣にあるラーメン屋さんを指差す。テレビや雑誌で取り上げられる行列店というわけではなく、どの街にも一件はあるような街の中華屋さん。透き通った茶色いスープの醤油ラーメンが出て来そうなそんなラーメン屋さんだ。
「……行っちゃうかー?」
サチはめっちゃ悪い顔をしながらそう答えた。
引き戸を開けて暖簾を潜る。店の雰囲気ととてもマッチした中年夫婦らしき店員さんの挨拶が響き渡り、近くの席へ案内される。店内に足を踏み入れると、ベタベタした触感が靴の裏から感じ取れた。
「サチ! この床めっちゃベタベタしますよ! ゴキブリたくさん捕まえられそう!」
「りいちゃん! しーっ! しーっ!」
店員に睨まれた気がしたけど気のせいだろう。私達は席に着く。
「さーて、何にしようかなー?」
サチはテーブル脇のメニューを手に取り注文を選ぶ。逆に私はメニューよりも店の雰囲気に目が行っていた。池袋に住んでいるとどうしても小洒落た店が多いから、こう言うお店ってどこか新鮮だ。粗末なテーブルに丸椅子というのも昔ながら感があるし、店の隅っこで垂れ流しになっているひと昔前のテレビも中々なもの。私はこの店を褒めたくて褒めたくて仕方なかったんだ。
「サチ」
「んー?」
サチはメニューを片手にお水を飲みながら聞き返す。
「この店めっちゃボロくていい感じじゃないですか?」
サチは水を吐き出した。
「ふ、風情だよね⁉︎ 今時の無駄に洒落た店にはない昔ながらの雰囲気がすごくいいって、この子そう言ってるんですよねー! わかるなーそれ! 本当よくわかるなー!」
「何でわざわざ説明口調……? 誰に説明してるんですか?」
するとまたしても店員が不機嫌そうにこちらを見て来るじゃないか。この店雰囲気はいいのに接客最悪だな。家帰ったら食べログに正直に書いてやろう。
「よし、とりあえず私は決まり。りいちゃんは?」
「もうとっくに決めてますよ」
「ありゃりゃ……、待たせちゃってごめんね? すみませーん!」
サチに呼ばれて奥さんらしき店員さんが歩み寄って来た。
「えーっと、水餃子と焼き餃子を一皿ずつに生ビールを一つ。それとワンタンメンをお願いします」
「はい、ありがとうございます。お嬢ちゃんは何にする?」
「一蘭より美味しいラーメン」
サチに口を塞がれた。
「じゃ、じゃあこの子は豚骨ラーメンで。他に食べたい物はある?」
サチの手が口から離れた。勝手に豚骨ラーメンを注文された事に文句の一つでもつけてやろうと思ったものの、しかしそれはきっと豚骨ラーメンを食べる事で一蘭より美味いかどうかを私自信で判断しろというサチからのメッセージだろうと受け取った。私は甘んじて豚骨ラーメンを受け入れ、追加のご飯ものを注文する。
「カレー」
「……カレー?」
「カレー」
困り顔のサチをよそに、おばちゃんは注文を受け付けてくれた。
「へー。中華屋さんにカレーってあるんだね」
店員が去った後、メニューを見ながら不思議そうにサチが呟く。気持ちはわかる。私もその物珍しさで注文してしまったもんだから。
「しかも七百五十円……。ラーメンやワンタンメンよりも高い。どんなのが来るんだろ? お肉の代わりにチャーシューが入ってるとか?」
だから私は席を立ち、サチの疑問を晴らすべくカウンター席の前から調理場の中を覗いてみた。
「サチ見てください! あそこにバーモンドカレーのルゥがありますよ! バーモンドカレーが一杯七百五十円! 酷えぼったく」
サチに口を塞がれた。
「ブッダ! りいちゃん学校でブッダ読んだんだ⁉︎ 私達さっきまで手塚治虫の話してたもんねー? はだしのゲンと横山光輝三国志と手塚治虫って小学校の図書室においてある三大漫画だもんねー?」
私は愛想笑いと苦笑いをごちゃ混ぜにしたような笑みを浮かべるサチに連れられながら元の席へと戻った。
「りいちゃんと個人経営のお店行ったら、いつもいつも出禁にされそうで怖い……うぅっ……」
「どうしたんですか? そんなにお腹空いてたんですか? 泣かないでサチ……」
私は謎に泣いているサチを慰めた。それから待つ事数分。私達の前に注文した料理が並ばれる。
「お待たせしました。ごゆっくり召し上がってください」
なるほどな。店の雰囲気通りの期待を裏切らない王道中華達だ。こりゃ食欲がそそるってもんだぜ。
「「いただきます」」
私は食前の挨拶を済ませ、早速レンゲを手に取りスープを啜る。サチは麺から啜っていたものの、私は基本スープから飲むタイプである。何故なら最初にスープを一口飲んだ方が、なんとなくラーメンのプロ感があるからだ。
「これ普通に美味いですね」
「普通にはつけなくてもいいからね」
「でも一蘭よりは」
「そこから先も言わなくていいから! ……でも、うん。美味しい。普段はこの味一筋みたいなラーメン屋ばかり行くけど、結局最後はこう言うのに落ち着くんだよねー。日高屋や幸楽苑とかが長続きする理由もわかるなー」
「どっちも結構大量閉店してますけどね」
「やめて」
次に私はサチが頼んでくれた餃子に箸を伸ばした。
「餃子を食べてると思うんだけど」
「わかります。吸血鬼とキスしたくなりますよね」
「何一つわかってないね。違うよ、餃子と焼売の違いって何かなー? ってこと」
「それはあれじゃないですか? 嫌いな奴が同じ車両にいる電車旅で食べたくなるのが焼売で、嫌い奴と会う前に食べたくなるのが餃子」
「考え方が陰湿」
「わからないなら聞いてみましょうよ。おじさーん!」
「え⁉︎ いやそこまでしなくても……!」
私はサチに構わず言葉を続けた。
「餃子と焼売の違いって何?」
おじさんは答えた。
「うちで取り扱ってるのが餃子。取り扱ってないのが焼売」
シンプルだった。するとその答えを聞いて、サチは徐にスマホをいじり出した。
「あ、やっぱりそうだ。これ見て」
サチが見せてくれたのは『町中華 メニュー』で画像検索したページ。そこには無数のメニュー表示されている。
「焼売って中華料理なのにあんまり町中華のイメージがないなーと思ってググってみたら本当にそうだったよ。不思議だね? ここもカレーなんかおいてるくせに焼売がないし」
「サチ、おじさんめっちゃ睨んでる」
「え⁉︎ あ、い、いや、ごめんなさい! うっかり口が滑って!」
「サチ。私、サチと一緒に個人経営の店に行くとサチが元気にハキハキ動いてくれるから楽しいです」
「……あ、そ。よかったね」
でも時々そうやって涙目になるのはやめて欲しいかな。
さて、それはそれとしていよいよ問題のそのカレーとやらに手をつけてみるとするか。私はスプーンを片手にカレーと向き合った。正直、サチに合わせて町中華に来たものの、私のお腹はどちらかと言えば神保町の話でカレーの気分だったわけだ。こいつは楽しみで仕方がねえや。
「でもりいちゃん。ラーメンもカレーも普通サイズだけど大丈夫? せめてどっちかは小盛りにした方が良かったんじゃないかな? ミニカレーとかもあるし」
「全然大丈夫ですよ! むしろこれでも足りないくらいです」
「本当? りいちゃん結構食い意地張ってるからちょっと心配なんだけど」
「食い意地って……。私サチに心配されるだけの何かしました?」
「昔お高いホテルのビュッフェに連れて行ったら無理して詰め込んで全部吐いたの覚えてるからね。しかも吐いたらお腹が空いて来たとか言ってまた食べ始めるし」
「し、知らない記憶ですね……」
私は話を逸らすようにカレーライスを口にした。私の口は食べる為にある。話す為ではないのだ。……ないのだけど。
「……サチ。これうちのバーモンドカレーと全然味が違いますよ?」
「え?」
私に言われるがまま、サチは自分のレンゲを手に取ってカレーライスを一口頬張った。
「本当だ。味の深みが段違い……。え、何これ? 何でこんなに美味しいの?」
「お蕎麦屋さんのカレーだと蕎麦湯を使ってカレーを作ってるってテレビで見た事があります」
「なるほど。言われてみればほんのり鶏の旨味を感じる。中華カレーだから鶏がらスープで煮てるのかな? でも鶏じゃない別のコクも感じるし……」
カレーを舌の上で転がしながら深い思考の世界へと陥るサチ。そんなサチの反応に満足が行ったのだろう。調理場からこちらを覗くおじさんの表情もニコニコしていてとても穏やかだ。サチは出禁がなんだの気にしていたけれと、あんな嬉しそうな顔をするおじさんが私達を出禁にするはずないじゃないか。心配性なんだよな、サチって。
「これ、家庭で再現してみたい」
「はい?」
「この味をマスターすれば、りいちゃんも家庭科やキャンプの時にクラスの人気者になる事間違いなしだよ。ちょっと行ってくる」
「え? ちょっとサチ!」
私の静止を振り切り調理場へと突入していくサチ。
「何なんだあんた⁉︎ 調理場は従業員以外立ち入り禁止だぞ!」
「そういうのいいんでカレーの秘密を教えてください! うちの子の学園生活がかかってるんです! お願いします!」
出禁になった。
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