もう一年
「……」
足を向けたとは言え家に帰るとは言っていない。私は家の近くの公園のベンチに腰を下ろしながら、門限ギリギリまで遊ぶ子供達の様子を静かに眺めていた。当然ここもりいちゃんとの思い出がたくさん詰まった場所だ。りいちゃんが小っちゃい頃は毎日のようにここで遊んだっけ。もう何もかもが懐かしいや。
ほんの数時間の散歩だったけど、色々回ったな。楽しい思い出が詰まった場所に、思わず苦笑いしちゃいそうな思い出が詰まった場所。
「……」
まぁ、あの忌々しい場所にだけは行かなかったけど。りいちゃんの事は忘れたくはないけれど、前の学校の記憶だけはすぐにでも記憶から消して欲しいや。
本当は転校する時に家ごと引っ越してしまいたかった。子供が公立小学校に通う場合、その学校は原則住民票に記載された住所を基に定められる。言い換えれば住所が変われば通う学校も変えないといけなくなるから、転校の理由がいじめであると転校先の学校に知られる事もない。りいちゃんが一番傷つかずに転校出来る理想的な方法だった。
でも、うちにはあまり貯金がなかった。りいちゃんには一度たりとてひもじい思いをさせた事はないし、普通の家庭の子と同じくらいの贅沢だってさせて来たつもりだけど、それは別にキャバ嬢が儲かるからじゃない。私が主に働いている昼の部は夜の部に比べて時給が安く、お客さんだって昼間に飲み遊びが出来るような人達ばかりなのだ。私に入って来るお金も、相応に限られてくる。
でも、私がりいちゃんといられるのは彼女が小学生の間だけ。中学以降の事は考えなくていいから、将来の為に貯金をする必要がない。貯金に回す分のお金を使う事で、やっと私は一般家庭と同じくらいの生活をりいちゃんにさせる事が出来ている。引っ越すだけのお金なんて、私には残っていなかった。
結局私は居住地を変えないまま学校だけを変えてしまった。その場合校長先生と教育委員会に話を通す必要があるから、きっと転校先の今の学校にはりいちゃんがいじめられていた事実も伝わっているんだろう。それに学校が変わった所で、この街で暮らす限りあの学校の生徒と出くわしてしまう可能性はいくらでもある。もしかしたらりいちゃんも、何回か道端で当時のクラスメイトとすれ違った事もあったのかもしれない。街って言うのは思ったよりも狭いから。
「……ハァ」
本当に狭いから。私はため息をつきながらその子達の元へと歩み寄った。
公園の真ん中で五人の女の子が追いかけっこをしていた。一人の鬼と、鬼から逃げ回る四人。鬼は靴を履いていなくて、白い靴下を砂と土で茶色く染めながら走り回っている。やめてと、返してと。懇願しながら走り回っている。
逃げ回る四人はその鬼の事を笑っていた。四人のうち二人の手には鬼の物と思われる靴が握られている。鬼が近づいてくると別の子へ靴を投げ、また鬼が近づいて来ると別の子へ靴が投げられる。そんなやり取りが続く。一回、二回、三回、そして四回。
「あ!」
けれどそのやり取りは五回目を迎える事はなかった。五回目のパスで宙を舞う靴を私が掴んだからだ。逃げる四人のうち、リーダー格と思われる子が私を睨む。怯えてる、と言った方が正しいのかもしれない。子供だけで遊んでいる輪にいきなり大人が入ってきたのだから。
ともかく、私はそんなリーダー格の子の視線は流して別の子の元へと歩み寄った。もう片方の靴を握っている子だ。
「返して」
「……」
「君の靴じゃないよね。返して」
「……」
「君達、第四小の子だよね? 学校に言った方がいい?」
その子は私の言葉に無視を決め続けたものの、最後の言葉に怯えたようで観念して私に靴を差し出した。私がその子から靴を受け取ると、その四人は逃げるようにこの場から去っていく。そして私は二足揃ったその靴を鬼の子に返してあげたのだ。
「はい、どうぞ」
私はその鬼の子をよく知っている。この世の誰よりも憎んだ相手だ。忘れられるはずもない。本当に鬼のような子だと思っている。
「大丈夫? アイスちゃん」
アイスちゃんは睨むように私から靴を奪い取り、そしてこの場から逃げ出せなかった。
「いたっ……!」
裸足ではないけれど、こんな薄い靴下で砂利も混ざる土の上を走り続けていたのだ。彼女は痛みに耐えきれず、数歩走った先で転げてしまった。
「ほら。少しベンチで休も?」
「……」
「ね?」
私はアイスちゃんに肩を貸し、りいちゃんよりも大分重い六年生相応の体重をしたその子をベンチまで運んだ。
「しみると思うけど動かないでね?」
アイスちゃんをベンチに座らせた後、私は近くの水場でハンカチを濡らす。良くも悪くも行動力のあるりいちゃんが心配で絆創膏を携帯する癖が出来ててよかったよ。濡れたハンカチでアイスちゃんの傷口を拭うとアイスちゃんは一瞬だけ足をピクリと動かしたものの、それ以降は子供なりの意地で耐え抜き絆創膏を貼り終えるまで微動だにしなかった。
「酷い事する子もいたもんだねー」
アイスちゃんの隣に腰を下ろし、ポツリと呟く。
「その靴下の汚れは落とすの難しそう」
「……」
「いつもこんな事されてるの?」
「……」
しかし私の問いに返事はない。夏目前の生暖かい風に流され、ただの独り言として処理されていく。……が。
「うーん、そうだなぁ……。りいちゃんとの一件のせいで先生達が怒り心頭。クラスの雰囲気が悪くなって、生徒同士で誰が一番悪いかの言い合いになる。結果的に全部の責任がアイスちゃん一人になすりつけられて、いじめられっ子ポジションが確立し痛い痛い痛い! ごめんごめん、もう言わないから殴らないで」
しかしそんな彼女にも踏み込まれたくない一線があり、私はその一線を踏み越えてしまったらしい。力なき子供の殴打に見舞われた。
「でもそうだとしたらアイスちゃん、二年もいじめられてるんだ」
「……うるさい」
けれど私は懲りずに話を続けた。アイスちゃんは殴り疲れたのか、それ以上の暴力を振るおうとはしない。スカートの丈を握りしめながら静かに俯いているだけだった。喋っているのか、ただ声が漏れているだけなのかもわからない、そんな小さな音を口から漏らすだけだった。
「学校やご両親には言わないの? このまま卒業まで我慢し続けるつもり?」
「…………うるさい」
「私は言った方がいいと思うよ? このままじゃ辛いでしょ?」
「……だから」
「小学校最後の一年をいじめられて過ごすなんてそんなの」
「…………だから……っ」
「いじめられ癖って中々抜けないと思うな。今なんとかしないと、きっと中学に上がってからも」
「だからうるさいっ‼︎」
……。その最後の一言は間違いなく私の両の鼓膜に轟いた。
「関係ないじゃん! さっさと帰れよ! 何わかった気でいんだよ! ウザイしキモいんだよ!」
「……」
少しだけ言葉を失う。そして少しだけ考える。今私が口にしようとしているこの返答は、果たして正しいのかどうか。これを言ったらアイスちゃんがどう思い、どう感じ、そしてどう出るのか。本当に少しだけ考えて。
「わかるよ」
でも、結局答えた。
「アイスちゃんと同じ気持ちで苦しんでた子をずっと見てきたから。痛いほどわかる」
私がアイスちゃんを助けた理由を。私がアイスちゃん気にかける理由を。独り言のように淡々と呟いた。
最初アイスちゃんは興奮していた事もあり、私が何を言っているのか理解していないようだった。けれど少しして、ハッとしたようにその表情から怒りの色が抜けていく。荒れていた鼻息が落ち着き出した。私を睨んでいた目からも力が抜けていき、そして彼女は静かに俯いた。
そんな彼女の様子を見て、なんだ、と。少し拍子抜けしてしまった自分がいる。私はこの返答が彼女の火に油を注ぐ行為だと思って口にしたんだ。アイスちゃんの怒りを更に焚き付け、怒り狂った彼女が醜い罵声の数々を私に浴びせてくると思っていたから。そんなアイスちゃんを見て、ほくそ笑みたかったから。
私はこの子が嫌いだ。私の大切な二年間と、私の大切な子の二年間を奪ったこの子が嫌いだ。私の言葉に逆上して欲しかった。怒って欲しかったし泣き喚いて欲しかった。
でも、アイスちゃんは冷静になれる子だった。自分のやった事を自覚出来る子だった。賢い子だったんだ、この子って。それでいて。
「……………………ごめんなさい」
謝る事も出来る子だったんだ。
あの時の私は我を忘れていた。りいちゃんをこの地獄から救う事だけを考えて転校という道を選んでしまった。……でも。もしかしたらこの二人がしっかり和解して、仲の良い親友同士に戻れる未来もあったのかなー、なんて。そんな理想に塗れた未来を妄想してしまった。
私はアイスちゃんの前で膝を屈み、視線の位置を同じ高さまで合わせた。そして今の私に出来る満面の笑みを向けてあげた。
「ありがと。その言葉を聞けただけで嬉しいよ」
「……」
「いつかどこかでばったりりいちゃんと会った時も、同じ事を言ってくれたらもっと嬉しいな」
アイスちゃんは静かに首を縦に振った。
それから二人で軽い世間話をすること数分。いよいよ空も赤から黒に移り変わり、アイスちゃんの体力も歩けるくらいには回復していた。
「じゃあね、アイスちゃん。ちゃんとご両親に相談するんだよ? 大丈夫だよ、あれだけ気の強いお母さんなら絶対になんとかしてくれるから」
そう言って公園を去る私に深くお辞儀をするアイスちゃん。公園から少し離れた位置のカーブミラーをふと覗くと、アイスちゃんはまだ顔を上げずにいる。多分、私の姿が見えなくなるまでそうしていそうな気がした。だから私は帰る足を早めてすぐに曲がり角を曲がった。
「……」
曲がり角を曲がって、塀にもたれかかりながらゆっくり地べたに腰を落とした。アイスちゃんの姿が見えなくなって、ようやく心の底から安心出来たんだ。
あと少しであの子に手をあげてしまう所だった。あんな穏便な態度でアイスちゃんと接しておいて、本当は心の中は暴力的な衝動でいっぱいだった。私は悔しかった。反省なんかして欲しくなかった。私の言葉に逆上して怒り狂うあの子を顔を、渾身の力で叩き潰してしまいたかった。
噛み締めた奥歯をゆっくり緩め、震える拳も静かに宥める。最悪な気分だ。あの子はあんなにも成長しているのに、私は全然成長していない。
地面に落ちたエコバッグに目が行く。中身は本屋で買った資格や専門学校に関する本。具体的には保育、教育系の専門学校に関する本や教職に関する本、動物の看護師に関する本や犬のトリマーの専門学校に関する本等々。
これでも一応名のある大学の教育学部を出ているし、かつては激務で安月給と知っていても幼稚園や保育園の先生になりたいと思った事だってある。その為にピアノだって覚えた。昔から子供や動物が好きだった。
……でも、ダメだな私。自信失くしちゃったよ。いい歳した大人のくせに、あんなに反省が出来る賢い子を未だに許せない自分を目の当たりにしてしまった。子供一人許せないような私に、きっと先生という職は合わない。子供相手でこれなら動物相手にもイライラしてしまうだろう。……ま、そもそもキャバ嬢が先生ってなんだって話だけど。
「やっぱり私に向いてないよなー、こういうのは」
私は誰かに見られる前に腰を上げ、そしてトボトボと夕闇に染まるアスファルトを歩きながら自宅へ戻った。
オートロックを解除し、エレベーターに乗る。エレベーターは静かに上昇する。けれども私の心は地べたを這いつくばったままだ。少しでもりいちゃんとの思い出に浸ろうと街に出たのに、まさか最後の最後でラスボスに遭遇して打ち負かされてしまうとは。
大人って辛いな。生きるのって辛いな。記憶がなくなるのなら、どうかこの気持ちごと全部奪い去って欲しい。りいちゃんがいなくてもズボラな人間にならないって誓いは、もう果たせそうにないや。とても疲れた。家に入ったら何も考えずに自分の部屋に戻って、記憶がなくなるまで惰眠を貪りたい。
自宅のある階につき、エレベーターを降りる。部屋のドアを開錠し、中に入る。
「ただいまー」
なんて言ってもどうせ返事があるわけでもないのに、五年間の習慣で言ってしまった自分に虚しさを感じた。
「……おかえりなさい」
「あー、りいちゃんごめんね。今日私すごく疲れててご飯作れそうにないや……。ご飯は何か冷凍庫のものチンして食べてね」
りいちゃんの部屋から聞こえる声に返事をし、私はそそくさとリビングに向かわなかった。
「……え」
そそくさというか、ドタバタだ。リビングのドアノブに手をかけた瞬間、私はここがマンションである事も忘れてりいちゃん部屋へ駆けつけ、扉を蹴破るように中に入いった。そこに居たのは……なんだろう。りいちゃんより年上なのはわかるけど、大人というにはまだあどけなさの残る少女が一人いた。
少女はりいちゃんのベッドに腰を下ろしながら、部屋の真ん中でぶらぶら揺れているサンドバックのようなミノムシのような、とにかくよくわからない何かを怪訝な表情で見つめている。
……いや、待って。やっぱり私、この人を知っている。もう四年も前の事だけど、私は一度だけこの人に会った事がある。この人、りいちゃんの年度試験の採点をしに来た人だ。
「あの……お久しぶりです。確か試験官の魔女さん……ですよね?」
「……」
少女は私の問いに答えるように、フンッと鼻息を荒げながら天井からぶら下がるその変な物体を蹴り飛ばした。変な物体は「いでぇっ!」と悲鳴を上げながらくるくると回転。ちょうど百八十度回転した所で私はその正体を目の当たりにした。
「あ……えっと。私もただいまです」
それは縄で雁字搦めに縛られながら逆さ吊りにされるりいちゃんだった。
「お仕置きタイム終わり。ザロン」
少女が広辞苑並みに分厚い本を取り出し、呪文を唱える。するとりいちゃんを縛っていた縄は一瞬で姿を消し、りいちゃんの体は重力に従って床に叩きつけらた。りいちゃんの悲痛な悲鳴も部屋中に響き渡った。
「ごめん……何がなんだかよくわからないんだけど」
私がそう問いかけると、少女は深いため息を吐いて一通の手紙を私に差し出す。と言っても魔界の文字だから私に読めるはずもないのだけれど
「それ、年度試験の合格通知」
そんな私を気遣って、彼女は手紙の内容を教えてくたのだ。年度試験の合格通知。確かに彼女はそう口にした。
「年度試験の内容は人間の友達作り。別に実際に作る必要はないの。友達を作ろうと行動さえしていればそれで合格だったわ。だから全校生徒に友達になってくれって頭を下げたこの子も当然合格だったわけ」
頭が追いつかなかった。私は年度試験の内容を知らない。私の役目は魔女の子を六年間お世話する事であり、魔女の子の試験や課題に関与してはならないという決まりがあったから。でも、試験の結果については確かにりいちゃんはダメだったって……言ったはずなんだけど。
「え……でもりいちゃんはダメだったって」
「その通知、何かおかしいと思わない?」
「何か?」
少女に言われて通知を見てみる。文字は当然読めないし、他に私が判断出来る所でおかしな所と言われたら……。
「えっと……すごいしわくちゃな所?」
「正解。それ、どこにあったと思う?」
「……」
少女に促されるまま、りいちゃんの部屋を見渡してみた。すると部屋の隅っこに積まれていたゴミ袋のうちの一つが口を大きくて開けているではありませんか。
「この子、部屋が散らかり過ぎてるせいで合格通知を見落としてたの。しかもそれをゴミだと勘違いして捨てようとして」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 痛いのやだ! やだー‼︎ サ、サチぃ‼︎」
少女の本が発光し、何らかの魔法を行使する予備動作を見せると、りいちゃんはその矛先が自分に向けられている事を察し、ちょこまかと部屋中を駆け回りながら私のそばまで駆け寄った。そして私を盾にするように私の背後に隠れた。人間の私が魔女からりいちゃんを守れるはずなんてないのに。本当に、この子は。
「……」
……本当に。
「人間さん。その子こっちにちょうだい。その合格通知はただの紙じゃないの。世界同士を行き来出来るように特別な処理を施した貴重な物なの。それをこの子はこんな適当に扱って」
本当に……!
「く、来るな! 来るなバカ! あっち行け! こっち見てんじゃねえぞサイコパス! サイコサイコ! ……って」
口の悪さの止めどころを知らないりいちゃんが珍しくその口を止めた。まぁ、止めるって言うか私が止めてるだけか。私はりいちゃんの頬を両側から押しつぶしてるんだ。
「……サチ?」
それから私は人差し指を鉤状に曲げ、その先端をゆっくりとりいちゃんに口に入れて引っ掛けた。
「い、いたゃいっ‼︎ サティいたゃい! いたゃーい⁉︎」
そして力の限り外側目掛けて、その小さな口を引っ張る。口裂け女にでもしてやろうと言わんばかり引っ張ってやった。
最初は痛い痛いと騒ぐりいちゃんだったけど、ふとした瞬間に私と目があった。私と目が合った瞬間、りいちゃんの表情に静けさが宿った。
「りいちゃん。私言ったよね?」
「……」
「ちゃんとお片付けしてねって……何度も何度も言ったよね⁉︎」
これで、この子に怒鳴り声をあげたのは二度目だな。五年間しか一緒にいられなかったのに、二回もこの子に大きな声をぶつけてしまった。
りいちゃんの瞳に写っていたのは、ぼろぼろと涙を流しながら怒る情けない女の顔だった。そんな怖い女が目の前にいて、自分に痛い事をしてくるんだ。りいちゃんも怖いよね。目に涙が滲んで来てる。
「……ごめんなひゃい」
「……っ」
「……ごめん……なざゃい……っ」
少しの間だけ。言葉ではなく、ただの泣き声が漏れるだけの時間が過ぎる。りいちゃんをここまで運んで来てくれた魔女さんにはとてもお見苦しいものを見せてしまう事になるかもだけど、今だけは容赦して欲しかった。
「もう一年……一緒にいられるんだね?」
「ふぁい……一年も伸びしゃいまひた」
「……そっか」
りいちゃんの頬からそっと指を離し、膝を床につけた。私とりいちゃんの目線がぴったり合うちょうど良い高さで
「そっか……」
私は彼女を両手で包み込んだ。同じ学年の子より二つも幼い、あまりに華奢で簡単に折れてしまいそうな細い体。こんなにも細いのに、こんなにも暖かい。子供特有の高い体温がりいちゃんという存在を私に見せしめる。りいちゃんという命を私に知らしめる。この子を守るために生きていいんだと、神様が私に語りかけているようだった。
「……ま、今回だけは見逃してあげるわ。ここだけの話、あの年度試験に戸惑った魔女の子って他にもいっぱいいたみたいだし」
「はあ⁉︎ おい、それどう言う事だよ!」
私としてはもう数時間りいちゃんとくっついていたけれど、いちゃいちゃタイムは終わりだとばかりに魔女の少女がそう告げると、りいちゃんは私から離れてズカズカと詰め寄るように魔女の少女に不満をぶつけた。
「大体友達作りをすれば合格ってなんなんだよ! 去年に比べて難易度低すぎだろ⁉︎ なんでこんなのが年度試験なんだよ! 魔法関係ねえしよぉ!」
「元々年度試験ってそう言うものよ? こっちの世界で例えるなら六年制の医学部みたいな感じかしら。医者として必要な知識は一年から五年のうちに全部詰め込んであって、最後の一年は知識の総まとめ。あなたも五年間の試験と課題を合格した時点で魔女としての基礎訓練は既に終わってるの。だから最後の一年は試験も課題も比較的緩いのよ。その分、卒業試験はドギツイけどね。……ま、それにしたって今回の年度試験は前代未聞だったけど」
魔女の少女はそう言うと、私とりいちゃんを交互に見ながら含みのある笑みを浮かべて言葉を続けた。
「あなた、いいパートナーに出会えたのね。今の新しい魔女元帥様もあなたと同じで、かつて異世界で素敵なホストに出会い、愛し愛されながら育ち、多くの友人にも恵まれた。そして悲しみながら別れたわ。珍しい人でしょ? 私達って普通、永遠の別れに傷つきたくないから留学先での人間関係は最小限に留めるのに」
「いや別に多くの友人には恵まれてねえけどな」
そんなりいちゃんにデコピンを放って、魔女の少女は話を続ける。
「だから当然魔女元帥様の周りにいる優秀な魔女達もそんな寂しくて、冷たくて、それでいてつまらない人達ばかりだった。魔女元帥様はそれが不満なのよ。誰かを愛せる暖かい人達に囲まれたいって、口癖のように言っていたわ。それで急遽こんな年度試験を実施したのかもね?」
知らないけど。と、彼女はそう付け足したあと、大きなあくびをしながら気だるそうにベランダの方へと歩いて行った。見た目は十代半ばなのに、その背中はまるで一仕事を終えて家に帰るような、そんなサラリーマンにも似た貫禄を感じさせた。
「じゃあ私はここで」
「あ」
私はそんな彼女を引き止めようとした。経緯はどうあれ、彼女は私が知る数少ない魔女の一人。社交辞令的な挨拶の一つや二つはしておきたかったし、色々聞きたい事だってあった。しかし私が手を伸ばした時には既にその姿は跡形もなく消え去っている。……まぁ、いつの時代も嵐というのはいきなりやってきて、そしていきなり去って行くものか。
「……」
「……」
そしてそうなると困るのは私達だった。自分の家でこんな表現を使うのも不思議なんだけど、まるで私とりいちゃんだけが部屋に取り残されてしまったかのような気分に襲われる。さっきまで普通にりいちゃんと話せていたのに、急に何を話せばいいのかわからなくなってしまった。三人で遊んでいたら、共通の知り合いがトイレに行って気まずくなるようなそんな感じ。りいちゃんも同じ気分なのか、私の事はちらちら見るのに言葉は発さない。ちらちら見るというより、ちらちら私から視線を外していると言った方が正しいか。
私は何か話題はないかとりいちゃんを見つめ、それでも話題は見つからなくてりいちゃんの部屋を見回した。すると話の種はすぐに見つかった。
「……とりあえずお部屋、片付けよっか?」
りいちゃんは満面の笑みで「はい!」と答えた。
こうして私の人生で最も長い二日間にも遂に終わりが迫って来た。りいちゃんを見ると、掃除嫌いの彼女がとても嬉しそうに部屋を片付けている。滞在期間が一年伸びた嬉しさをほんの少しも包み隠そうとしない、子供だけに許された純粋な笑顔だと思った。私にはこんな笑顔は出来そうにない。りいちゃんに合わせて私も笑顔を浮かべてはいるけれど、これが純粋な物だとは口が裂けても言えないのだ。
りいちゃん。りいちゃんは一年も伸びちゃいましたって、そう言ったね。本当に嬉しそうに言った。私と暮らす一年にそれだけの価値を見出してくれて凄く嬉しい。……でも、それと同じくらい私は怖くなって、悲しくなっちゃったんだ。りいちゃんにとっての一年は『も』なのかもしれないけれど、私にとっての一年は『しか』だから。三十三年も生きている私は、一年という時間がどれだけ短いのかを痛感しているから。
「りいちゃん。メリムちゃん」
でも、今は考えるのはやめた。まだ起きていない未来の出来事より、今確かに私の目の前で起きている幸せだけを噛み締める事にした。
「おかえり」
私はその言葉をあと一年も言えるんだと、そう自分に言い聞かせた。