私を
「……」
サチの思考はそこで止まる。この魔法は皮膚同士触れ合う事が発動条件であり、こうして机の下で触れ合ってる足同士を離すだけで相手の思考は読めなくなるのだ。私はサチの思考が読むに耐えなくて……いや、違う。嘘だ。逆だ。サチの思考を読みたくなかったんじゃない。サチに私の思考を読ませたくなくて、私は足を離してしまったんだ。胸の中で渦巻くこの焦りを、この後悔を。サチに気づかれたくなかった。
私は昨日、あの願いを見て何を思ったっけ。対価を受け取るのは当然の事とか、サチは何も悪くないとか。そんな事……思って……。
何を考えていたんだろう。何て事を考えていたんだろう。何も受け取っていないじゃないか。サチは対価なんて何も求めていない。サチが一番叶えたかった願い……あれのどこが対価なんだ。あんな願いの為に得体の知れない魔界の住人を六年間も養うとか馬鹿じゃないのか。
何が忘れられない事が一番辛いだ。何が死んだ犬の事を未だに引きずっているだ。じゃあ何なんだよあの願いは。何が私の事を忘れたくないだよ。自分から呪縛に囚われに行くような事願ってんじゃねえよ。
私がサチに何をしたって言うんだ。私がサチに何をあげたって言うんだ。魔女の何倍も寿命が短いくせに、その内の六年もの歳月を棒に振る事になるんだぞ。その対価が私との思い出? 何馬鹿みたいな事願ってるんだよ……。
「出来たよ」
いつの間にかすっかり作業の手を止めてしまった私。気がつくとサチは一人でエコバックを完成させていた。私がやった事なんて、布を切り取るだけの一割にも満たない程度の作業量だ。サチは殆ど自分一人で作り上げたそのエコバッグを、まるで二人で作った宝物でも送るかのように私に手渡してくる。
「大切に使ってくれたら嬉しいな」
サチの好きな花が施された、サチからの最後の贈り物。魔法が発動していなくてもその意味は理解出来た。魔界で大切に使って欲しい。そういう事なんだろう。もう、私達の別れは覆らないから。
「……」
私はそんなサチからの最後の贈り物を無愛想に無言で受け取る事しか出来なかった。
サチの本音を聞いた。サチの想いも知った。そしてサチに利己的な願いがあったと決めつけた自分の愚かさを知った。なのにそれでもなお私の脳裏には昨日と今朝のサチの姿がこびりついていて、未だにサチを信じきれずにいる己の醜さも知ってしまった。もう、頭の中がごちゃごちゃだった。
自分が嫌いだ。サチが嫌いだ。でもサチが好きだ。だけどサチが怖い。サチの本当の願いを知れて嬉しかった。サチに拒絶されて心の底からサチに失望した。サチと一緒にいたい。早く魔界に帰りたい。まだ魔界に帰りたくない。サチと離れたくない。居心地が悪い。自分が何なのかわからない。自分が何をしたいのかわからない。サチが好きなのか嫌いなのかわからない。何もわからない。
エコバッグを握る手のひらに力がこもる。サチからの最後のプレゼントを手放したくないという気持ちの表れなのか、未だに憎んでいるサチの目の前でこれを引き裂いてやろうとしているのか、もはや私自身にも判別がつかない。
「あら、桜のワッペン」
いつの間にか私の背後に歩み寄っていた先生が、出来上がったばかりのエコバッグを覗き込みながら私の耳元でそう言っていなかったら、本当に力の限り引き裂いていたのかもしれない。
「そういえば有生さんの持ち物って桜モチーフの小物が多いなーって思っていたけど、お母様のご趣味だったんですねぇ。先生も桜は大好きなの。花言葉も素敵ですよね。知ってる?」
少しでもごちゃごちゃになった感情から気を紛らわそうと、私はそんな先生の問いに淡々と答えた。私はその答えを知ってある。この世界で初めてサチから桜のヘアピンを貰ったときに教えてもらった言葉だ。
「……精神の美、純潔、優美な女性」
「正解」
それで会話は終わりだろうか。もっと言ってくれないと困る。何も考えたくないんだ。言われた事を適当に返すだけの、そんな人形みたいな感じでいい。何も考えずに口だけを動かしていたい。それこそアンドロイドのように。心のないロボットのように。
そんな私の願いが届いたのか、先生は更に質問を続けてくれた。
「でもそれって日本の花言葉で、外国だとまた違う花言葉が使われているんです。特に先生が一番好きな桜の花言葉はフランスのもの。とてもロマンチックなんですが、有生さんは知っていますか?」
しかしそれは私の望む会話ではなかった。何故なら私はその答えを知らないから。知らない答えを導くには考える必要がある。そして今の私は考える事を放棄したい。何かを考えようとすると、様々な後悔や罪悪感が巡って自分が自分でいられそうにないんだ。
「いいえ」
私はすぐにそう答えた。そんな外国の花言葉なんか知らない。そんなの興味もない。早く別の事を言ってくれ。もう疲れた……。もう本当に疲れたんだ。
「正解は」
もういい。もういい。本当にもういい。なんならこの瞬間、魔界に連れ返されたっていい。サチのいない所で何も考えずにぼーっとしていたい。ただただ目だけを開けていたい。何もしたくない。
……何もしたくないのに。
「私を忘れないで」
そんな私の鼓膜に声が二重に響いたんだ。一つは先生の声でもう一つはサチの声。私は顔を上げ、サチの表情を視界にとらえる。
「……私を、忘れないで」
今度は一つの声だけが私の鼓膜に届いた。念を押すようにもう一度同じ花言葉を、涙を堪えたぎこちない笑顔で呟くサチの姿がそこにあった。
「……」
……あぁ。
『あ、桜の花びら。やっぱりりいちゃんには桜の花が似合うなー』
……そうか。
『りいちゃん、桜の花言葉って知ってる? 精神の美とか、優美な女性とかがあるの。りいちゃんにぴったりだって思わない?』
……そういう事か。
『また桜ですか?』
『うん!』
『本当に好きなんですね』
『だってりいちゃんにとっても似合うもん』
何が私には桜が似合うだよ。嘘つき。
『そんな事ないよー? りいちゃんと出会った日から今日の今日まで毎日わがまま押し付けてるもん。だからこのくらいはさせて?』
サチが私にしていたわがままって、そういう……。重えよ……、それ。
せっかく作っておいてあれだけど、サチからの最後の贈り物となるこのエコバッグは本来の用途として使われる事はなかった。こいつの最初の役割は買い物袋ではなく、タオルやハンカチのような使い方。タオルというにはあまりにごわごわした感触だけど、私の顔を優しく包んで、瞳から落ち続ける水が溢れないよう一粒一粒丁寧に吸い取ってくれる。
顔だけでなく、私の体もまた暖かい物に包まれていた。それは私を落ち着かせるように私の頭を撫でている。二年ぶりの感触だろうか。前までは週に二、三回は一緒に寝ていたけれど、アイスとの一件があってからは完全にご無沙汰だったもんな。倦怠期夫婦かっつうの。
「ごめんなさい……。私、この子にひどい事しちゃって……。どうしても今日中に仲直りしたくて……本当にごめんなさい」
顔はエコバッグに埋めているものの、それでも背中で好奇の目から放たれる無数の視線が感じ取れる。サチは私の涙の理由を必要最低限に説明し、それから謝罪の言葉を吐き出し続けた。ひどい事してごめんね、辛い思いさせてごめんね、馬鹿なお母さんでごめんね。そんな言葉が二重に聞こえるのだ。サチの口から出た声と、皮膚同士が触れ合った為に再び魔法で繋がった心の声が、寸分違わず聞こえてくるんだ。
私もまた負けじと謝罪の言葉を吐き出し続ける。信じてあげられなくてごめんなさい、大嫌いだなんて嘘をついてごめんなさい。きっとこの声も二重の音となってサチに届いているのだろう。
明日、きっと私は魔界で今日の事なんか屁でもないくらいの洪水を垂れ流すんだと思う。サチと別れ、そしてサチは私の記憶を失うんだ。ある程度の魔女になれば自由に異世界に行けるらしいけど、そうして再会したところでサチは私の事を覚えてはいない。それは私の事を知らない、サチと同じ形をしただけの人間だ。だからこれは永遠の別れなんだ。それを現実として自覚した明日の私がどれだけ泣くか、今の時点で鮮明に想像出来るよ。
でも。それでもよかった。こういう結末でよかった。サチを嫌いになったままお別れにならなくて本当によかった。心の底からそう思った。
サチ。五年間一緒にいてくれてありがとう。五年分の恩に釣り合うとは到底思えないけど、サチのわがままはしっかりと受け止めるよ。私は絶対にサチを忘れない。死ぬまでずっと、一生だ。……だから最後に私もわがままを言うね。大丈夫、一生を費やすような重いものじゃないから。明日になれば全部忘れる事だから。
「帰りたくない……」
「……」
「帰りたくないよ……サチ……」
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