動物、悪魔、クリスマス
『やっほー』
そして来たる午後二十三時五十九分。私は中止となった昨日のパーティーを再開するべく、売れ残りのケーキやチキンを手に持ってお母さん005号の元へと駆けつけた。
『メリークリスマース! 盛り上がってるかーい! いぇーい!』
『……』
『ま、あと三十秒もないけどね』
しかしお母さん005号の態度は相変わらずの無関心。私も彼女に倣って、わざとらしいテンションからいつものテンションへと戻る。そして床に大の字で拘束された彼女のすぐ隣へ腰を下ろした。
『寒くない? 一応毛布とか持って来たんだけど』
そして持参した毛布を彼女にかけ、私もその中に潜り込んで彼女と一緒に寝転がった。
『温かいね。でも妊娠初期はホルモンの影響でもっと温かかったんだよ? 今はもう安定期に入って平熱に戻っちゃってるけど。……でも、こうしてくっつくとやっぱりあったかいや』
私は膨らみが目立ち始めた彼女のお腹に顔を近づけ、耳を当てた。
『あ、今動いた。結構激しく動いてるんじゃない?』
005号のお腹越しに、命の音が聞こえて来る。これまでの四人が全員流産なり死産なりしていただけに、ここまで律儀に動かれるとなんだか頼もしいや。
『知ってる? 世の中には胎動が激しいとダウン症児が産まれて来るみたいな迷信があるんだって。学がないって哀れだよね。あー、この子は大丈夫だよ? お母さん達のお腹の中は、妊娠11週目の頃からずっと魔法で確認しているの。ダウン症児の特徴は見事にゼロ。最低限人として成り立つ子が産まれて来るから安心して。本当よかったよ。ダウン症児なんか妊娠していたら、それこそ私が堕ろさせていたもん』
私は健康的に育ってくれた001号の胎児をお腹越しに撫で回しながら、毛布の中から顔を出す。すぐ隣には虚な視線で虚空を見つめる005号の顔。じっと見ていると思わず吸い込まれそうで見惚れてしまう。パパ活なんてしていなければ、知的で聡明な女性としての印象が絶えず降り注いでいただろうに、本当に勿体ない。この五ヶ月間、一度もお肌の手入れをしていなくてこの色白さだもん。生まれ持っての美って卑怯だ。私はそんな005号の顔に、クリスマスチキンを押し付けた。
『食べなよ』
『……』
『折角買ったんだから』
『……』
『ほーらー』
三度に渡るお願いで、ようやく005号はクリスマスチキンを口にした。私も私で自分用のおやつを取り出し、彼女の隣で一緒に食べる。お母さんが作り置きしてくれた、私用の大学芋だ。減塩醤油とお砂糖によって深みのある甘さが感じられる反面、やはりかつて食べた濃厚な大学芋の味には何倍も劣る。また、私の水分摂取量を気遣って、カリカリになるまで水分を飛ばしている為、食感もパサパサしていて口当たりが良いとはお世辞にも言えない代物だった。
……と、その時。
『インスリン注射はしないの?』
『……え?』
私は思わず大学芋を取りこぼした。一体今のは誰の声だろう。声の主の正体なんて言うまでもなくわかっているのに、私の頭はそんな疑問に支配されずにはいられなかった。だって005号は、連れ去られてから今の今までずっと黙り続けていたんだ。それが何で今になって。それもインスリン注射って。
『インスリン注射は来る前に済ませておいたけど……。それより005号』
『……』
『今喋ったよね?』
『……』
『ねえ』
『……』
『ねえってば』
『……』
『何でインスリンの事知ってるの?』
毛布の中で、私の腕が掴まれる。
『透析の痕でしょ。これ』
005号は私の腕を引き抜き、腕に刻まれた脱血と返血の傷痕を指しながら答えた。
『たまに顔がむくんでたりするけど、それって血糖値のコントロールが出来ていないから、細胞内液と血液の間で浸透圧差が生まれてむくんじゃうんだよね。それにその高脂質高糖質の食事。タンパク質を控えなきゃいけない末期腎不全の食事だ。糖尿病の進行で腎臓を壊してるんでしょ』
『……』
言葉が出ない。パパ活って低学歴の馬鹿が男様に媚びて稼ぐ仕事だと思っていただけに、パパ活を行なっていた彼女の口からそれらの単語が出て来るのが不思議でたまらなかった。透析の痕を見て私が腎臓を患っていると思うだけならまだわかる。でも彼女は顔がむくむ原因や、末期腎不全患者の食事内容まで事細かに把握していた。私はそれが不思議で、不可思議で、なんなら不気味だとさえ思えてしまう。それでもなんとかこの動揺を見せまいとして言葉を捻り出し。
『何で知ってるの?』
私は005号に問いかけた。
『私のお母さんがそうだから』
005号は答えた。
『私の稼ぎがなくなって、もう死んでると思うけど』
そしてそうとも続けた。初耳だった。そりゃそうだ。だって005号はそんな事、一度も話してくれていない。
『お母さんの治療費の為にパパ活なんかやってたの?』
『……』
『そんなにお金なんてかからないでしょ。透析治療が必要なら特定疾病扱いだし、かかってもせいぜい月々一万か二万くらいじゃないの? 私はそうだよ。ていうかそう言う事情があるなら先に言ってくれればいいのに。私言ったじゃん。誠意にはちゃんと向き合うし応えてあげるって。私のクローンを産んでくれるんだもん。言ってくれれば治療費くらい、いくらでもお母さんにプレゼントしてあげたよ』
しかしそんな私の疑問は、005号の発したたった一言によって解消されてしまった。
『お母さん、認知症だから』
『……あー』
とても単純で、この上なくわかりやすい005号の事情を知ってしまった。
『介護保険とかには入らなかったの?』
『食事や排泄は出来ているからって、要介護1認定しかしてもらえなかった。それだと負担してくれる金額は毎月たったの16760円だけ。それよりお金がかかったら、後は全額自己負担。食事や排泄が出来るって言われても、お母さんにやらせたら全部手掴みしようとするから私がしてあげているのに』
『生活保護は?』
『私が働ける年齢だし、妹や弟もいるからそっちに援助してもらえって門前払い。あの二人はお母さんを長女の私に押し付けて一円も払ってくれないし、私だってお母さんの介護で24時間目が離せないのに』
『なるほどねー。それじゃあ介護士に依頼するのも難しいか』
『依頼してるよ。三日に一回、三時間ずつ』
『へー。……あ、じゃあその時間にパパ活をやってたって事ね』
なるほど。005号が会っていたおじさんって見るからに裕福そうな人だったし、三時間程度のパパ活でもそれなりのお金を恵んでくれているんだろう。人間の印象って面白い。私は今日の今日まで005号の事を、男に媚びてまでお金を得ようとする低学歴の乞食だとばかり思っていたのに、その根幹にあるのが母への介護だと知った瞬間、いきなり005号の事が清楚で健気な女性に見えてしまったのだ。そして、同時に彼女がここに来てから急に黙りを決め込んでしまった理由についても理解した。
『そっかそっか。全部わかっちゃった。要するに005号、私に拉致られて嬉しかったんでしょ?』
『……』
『お母さんの介護から解放されて、心の底から喜んでたんだ。自分の意思でお母さんを見捨てたんじゃない。私のせいでお母さんを見捨てざるを得なかったんだって、都合の良い言い訳が出来て爆笑してたんじゃない? お母さんを助けてあげられないショックで心が壊れたふりをして、そうやってお母さんを想う優しい自分像の体裁だけは保ってたわけだ』
『……』
『性格わっるーぅ!』
私は悪戯な笑みを浮かべながら、彼女の耳元でそう揶揄うと。
『……何が悪いの?』
彼女を監禁して五ヶ月目。初めて彼女が敵を見る視線で私の姿を捉えたのだ。私は彼女の地雷を無数に踏み抜いてしまったらしい。彼女の口からは、怒涛の爆撃が吐き出された。
『あれはもう人間じゃないんだよ。人間が手掴みでご飯を食べるの? 大きい方をした後に自分のうんちを手掴みしようだなんて思うの? 私の朝は毎日お母さんのオムツ替えから始まるんだ。寝る前にオムツをしてあげてるのにあのババア、寝室中に排泄物を塗りたくって……。外に出れば奇声を出す。外に出なくても奇声を出す。あいつが寝てくれて、ようやく私も一息つけると思ったら、今度は私がうたた寝している隙に街を徘徊するんだよ。そうやって警察に補導されて、何で迎えに行った私がこっぴどく叱られなきゃいけないの? 透析だってあいつが生きる為に必要な事なのに暴れて、騒いで、泣き出して。今までいくつの病院で出禁を食らったか……。あれは人間じゃない。ただの動物なんだよ。久しぶりに人間の言葉を話したかと思ったら、包丁なんか持ち出して、私に向かって泥棒だの、殺してやるだの……っ』
そして次の瞬間。私の眼前に拳が叩きつけられる。それは言うまでもなく、005号の嘆きそのものだった。彼女の四肢は拘束しているつもりだけど、その程度の拘束なんてものともしないと言わんばかりに力強く、憎悪と怨念に塗れた拳を、彼女は渾身の力で床に叩きつけたのだ。
『殺してやりたいのはこっちの方だーッ!』
でも。
『……何が性格が悪いだ。何も知らないくせに……っ。何も……、何も……っ!』
『知ってるよ』
私は005号にそれほどまでの敵意を向けられたのに、彼女に苛立つ事が出来なかった。むしろ逆だ。彼女の闇に触れた今、私は彼女の事をとても愛おしいとさえ思ってしまったのだ。
『トウカさんの気持ち、全部知ってる。痛い程わかる』
私は彼女にかけた魔法を解き、彼女を拘束から解放した。そして怒りに任せて興奮する彼女を抱きしめながら。
『うちにもいるもん。人間のふりをした動物が。……ううん。天使のふりをした悪魔が』
彼女程ではないにせよ、私が抱く彼女と同質の闇のほんの一欠片を見せてあげた。
『辛いよね。イライラするよね。あんな悪魔に自分の人生を奪われるとか堪ったもんじゃないよ。……だからさ』
そして。
『殺しちゃおうよ。そんな悪魔』
彼女と親睦を深めたいと願った私は、彼女と十秒程の抱擁を交わした後、彼女の笑顔を取り戻す為にこの部屋を後にした。
私はもう彼女を拘束したりなんかしない。部屋の鍵だって開けっぱなしだ。でも、きっと彼女は逃げたりなんかしない。だって私と彼女は同類なのだ。分かり合える存在なのだ。私と彼女は生涯の友になれると、そう確信した。
『……』
二時間前までは、そう思っていた。しかしそれから二時間がたった今。彼女の笑顔を取り戻す作業を終えた私は、彼女に対して深い失望を抱いてしまった。
『う……、うぅ……っ』
だって、泣いている。彼女は私が差し出したクリスマスプレゼントを見ながら泣いているのだ。彼女の笑顔の為に一仕事終えて来たのに、なんだそれは。
二時間前。彼女と親友になる事を願った私は、彼女の財布から身分証を拝借し、彼女の住所へと足を運んだ。彼女は治療費が払えなくなった為にお母さんは死んでいるだろうと呟いていたけれど、しかし日本は先進国である。介護士を雇っていたり、透析治療を受けていたりした人がある日突然姿を見せなくなれば、彼女に携わった様々な人が不信に思うものだ。
結論から言うと、彼女のお母さんは生きていた。姿をくらました彼女に変わり、彼女の弟と思われる人物がお母さんのお世話をしていたのだ。だから私はその二人にトドメを刺し、その様子をスマホのカメラに納めた。それもこれも、私と同じ闇を抱えた005号の笑顔を守る為の行動だったのに。
スマホの中では、私が005号の実母を殺害するまでの過程が鮮明に映し出されている。
[トウカちゃん……、どうしたのその怪我。おいで、早く手当てしないと……]
005号のお母さんは、血塗れの私を怪我を負った実娘だと勘違いしていた。
人間において最も頭の良い時期は、幼少期だ。なんせ言葉も知らない赤子が、周囲の人間の会話を聞きながら自発的に一つの言語をマスターするのだから。人間の記憶というのは直近のもの程印象に残り辛く、過去のもの程鮮明に思い出せてしまう。認知症患者に至っては、特にそう言った現象が顕著に現れる。
哀れなものだ。この人もどきのおばさんは、最も自分に尽くしてくれている現在の娘の顔を覚える事が出来ない。私のような赤の他人を、かつての娘の姿と重ねているくらいなのだ。
[また……いじめられたの? ……そう。またダメだったの……。そんな顔しないで? ……大丈夫。また新しい学校探そ? 学校なんていくらでもあるよ]
おばさんは私の手を握りながら、心配そうに慰めて来た。私が浴びた血液は、他でもない自分の息子のものだと言うのに。私に拉致された005号に代わって、仕方なしとは言え自分を介護してくれている実息の鮮血だと言うのに。
[トウカちゃんはやられてもやり返さないで、ぐっと堪えられる強い子……。何度人に笑われても、一回も人を笑ったりしなかった優しい子……。それはいじめっ子達にだって出来ない凄い事なの……。周りが何て言おうと、お母さんはそんな凄い事をやってのけるトウカが弱い子だなんて思わない……]
このおばさんには最早過去しか見えていない。すぐそこに転がっている息子の遺体にさえ気づく事が出来ない哀れな悪魔。かつての幼い005号との間で交わされたであろう会話を再現する事しか出来ない、くたびれた悪魔だ。
[きっとトウカちゃんは、人の痛みをわかってあげられる優しい大人になるよ。……だから]
だから。
[ザンド]
悪魔は悪魔らしく、人間の世界から追放してあげた。私のクローンを産んだ後、彼女の人生が再びこの悪魔に支配されないように。彼女が彼女の為だけの人生を歩んで行けるように。……なのに。
『お母さん……、お母ぁ……さん……っ』
なんで泣くかな。そこは笑わないとダメじゃん。彼女は私と同じ、悪魔に人生を蝕まれた被害者なんだから。泣くにしても、せめて悪魔から解放された嬉し涙じゃないいけないんじゃないの?
結局彼女にとって、お母さんという存在は動物でも悪魔でもなく、れっきとした一人の人間であり、彼女が母に抱く気持ちもただの共依存でしかなかったのだ。そんな彼女とほんの少しでも分かり合えると思った自分が恥ずかしい。未練たらたらじゃん。
『お前、やっぱただの005号だよ。ザンド』
私は再び005号に魔法をかけ、母の死に泣き喚く彼女をこの広い密室に拘束した。
『……Jingle bells、Jingle bells、Jingle all the way〜』
広い密室に、彼女の嗚咽と私の歌うクリスマスソングが静かに木霊した。今日は楽しいクリスマス……あーいや。クリスマスはもう二時間以上も前に終わっちゃったか。
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