お母さん、消えていく
『ただいまー』
私が監禁場所に戻って来たのは、お母さん002号が流産を目論んで乾燥剤を食べたあの事件から八時間が経った頃だった。時刻は既に午前三時になろうとしている。
私の帰還に、残りのお母さん達は動揺を隠せないようだった。私に動揺していると言うより、私が連れて来た一人の中年男性に動揺していると言った方が正しいだろう。また、おじさんもおじさんでこのトランクルームの中の様子に動揺を隠せていないようだった。
『あの……これは一体? ここで何をしているんですか?』
おじさんは耐え切れず、自分の中の疑問を口に出してしまった。そりゃそうだ。なんせここのトランクルームを契約しているのは彼なのだから、ここで何らかの犯罪があっては自分に被害が及ぶ事になる。
『勘弁してくださいよ……! ここ契約してるの僕なんですよ? こんなのが外に知られたら……』
『うるせえよ。それ置いてさっさと帰れ』
しかし私がそう言うと、おじさんは慌てたように平謝りしながら、手提げの荷物を置いてさっさとこの場を去って行った。一応ここのお母さん達には軽い説明くらいしてあげた方が良いだろう。おじさんが置いていった袋から漂う香ばしい匂いに包まれながら、私は彼についての最低限の説明をしてあげた。
『ごめんね? 男子禁制なのにあんな汚いおじさん連れ込んじゃって。あれただの奴隷くんだから気にしないで。SNSで援交持ち掛けたら簡単に引っかかったから良い感じに使ってるの』
どんなに魔法の腕が上達した所で、世の中には魔法を使わない方が効率的な事が山ほどある。例えばこのトランクルームの契約なんかがそうだ。未成年の私ではここを借りる事が出来ないので、私の財布になってくれそうな都合の良いカモをネットで見つけて、こうやって使い倒している。また、彼はそこそこ良い所に勤めているサラリーマンであり車も所持していた。その為、どこかへ遠出する際の都合の良い足としても利用しているのだ。そして私は今まさに、彼と002号の三人で東京の西の果て、奥多摩の山林地帯までドライブに行って帰って来た所だった。
『じゃ、映画鑑賞始めますか! さ、食べて食べて』
私はドライブのお土産に買ってきたマックの豪遊セットを床に並べて話を進めた。そんな私に向けて恐る恐る手が上がる。お母さん003号の手だ。
『何? 003号』
『え……映画鑑賞って……なんですか?』
『映画鑑賞は映画鑑賞だよー。超リアルなドキュメンタリー映画用意したの。それもリアルタイムドキュメント』
私はタブレットをテーブルの上に乗せてスリープモードを解除すると、画面には少々荒目の映像が映し出された。出来れば鮮明な映像で視聴したかったけど、まぁ時間が時間だから仕方ないか。深夜のカメラ映像なんてこんなものだろう。
『えっと……002号は?』
続いて003号は、八時間前に私と一緒この部屋を去った002号の安否について心配した。やはり経産婦のリアルお母さんなだけあって、彼女はこの中で最も精神的に落ち着いている。004号をいじめから救ったのも003号なんだよね。十代で出産したと知った時は嘲笑ったものだけど、出産や育児って人を大人にするものなのだと思い知らされた。
で、そんな003号からの二つ目の質問だけど、どうやら私はその質問に答える必要はないらしい。タブレットの音量を上げた瞬間、端末の側面のスピーカーから002号の泣き声が鳴り響いたからだ。でも折角質問されたのに無視するのもあんまりだから、私は003号の質問に対してたった一言、これ以上ないくらいわかりやすい回答をしてあげた。
『殺処分』
けれどそれは少々言い過ぎだったかもしれない。だから私は『なーんてね。半分冗談』と、怯える彼女に伝えてタブレットの前から体をどかした。お母さん達の目に、タブレットの映像が堂々と映り込んで行く。
『調理師目指している人が流産する為に乾燥剤食べるってどう? 私は最低だと思ったなー。そんな馬鹿には食べ物のありがたみと命の大切さを知って貰わないとダメでしょ? だから頭からハチミツを被せて奥多摩の山のど真ん中に置いて来ちゃった』
映像の中で、002号は這いつくばりながら獣道を突き進んでいる。その体には真夏にしか見られない多種多様の昆虫達が、彼女の体に塗られた蜂蜜を求めて群がっていた。
『ウケるでしょ。脊髄いじくって下半身を動かせないようにしたの。この状態で下山出来たら大したもんだし、その時は私も素直に解放してあげるよ。だから殺処分っていうのは半分冗談』
と、その時。スピーカーからは、何やら002号の泣き声とはまた別の泣き声が流れ出す。それは泣き声と言うより、鳴き声と言った方がより正確だろう。
『知ってる? 日本って世にも珍しい、首都に熊が生息している国なんだよね。東京と言っても都会なのは東部だけで、西に行けば行くほど自然が豊かだもん。クマが凶暴な時期は冬眠明けの春か、冬眠に備えて栄養を蓄える秋。春秋に比べたら夏のクマはそこまで気性は荒くないけど、でも夏ってキャンプシーズンだからクマとの遭遇率は格段に高くてさー。……あー』
そして次の瞬間、002号の啜り泣く声が絶叫へと姿を変えた事で、私は彼女の運命を悟ったのだ。
『残念。ゲームオーバーだ』
私は生まれて初めて見るその光景に釘付けだった。
日本三大獣害事件のうち、三毛別羆事件はとても有名で、ネットに触れた事のある人なら大抵どこかで聞いた覚えがある事だろう。大正時代の北海道で発生した獣害事件で、一匹のヒグマによって七人の死者と三人の重傷者が出たのである。
二番目に被害が大きかった獣害事件は、三毛別羆事件の八年後に起きた石狩沼田幌新事件だ。これもやはり北海道のヒグマによって起こされた事件であり、四名の死者と三名の重傷者を出す事になった。
これらの事件が有名過ぎるせいで、日本人の多くはヒグマの怖さを十二分に理解していると思う。全長はおよそ200~250センチ、体重は150~300キロ。500キロを超える個体も度々報告される日本最強の陸上哺乳類。
そんなヒグマに比べれば、本州に生息する全長110~180センチ、体重50〜100キロ程度のツキノワグマなんて、ホビットもいい所だ。このくらいの大きさなら人間だって普通に存在する。だが、日本で三番目に被害者を出した獣害事件こそが、この小さなツキノワグマによって四人の死者と三人の軽傷者が出た、十和利山熊襲撃事件なのだ。しかもこれは2016年という比較的近年の出来事である。
要するに、熊は熊である時点で猛獣なのだ。体の大きさなんて関係ない。武器を持たない人間なんて、爪と牙と重量級の筋肉を纏った熊にとっては格好の餌でしかない。
動物というのは獲物を捕食する際、本能的に骨の存在しない柔らかい部位であるお腹を狙う傾向がある。特に小腸は栄養の吸収が行われる臓器である為、その栄養価は臓器の中でも特段と高い。ネコ科のような完全肉食動物に至っては、獲物の小腸を食べなくては必須栄養素が獲得出来ずに死んでしまう程だ。お腹を真っ先に食い破るのは、そんな小腸を優先して食べようとする一種の生存本能でもあるのだろう。
ではお腹を裂かれた側は、その瞬間に即死するのかと言うと、当然そう言うわけにもいかない。即死するような致命的な出血を起こす為には大動脈の損傷が望ましいが、下行大動脈や腹部大動脈が存在するのは内臓の裏側だ。そこへ捕食者の牙が到達するまで、食べられる側はひたすら自分が食べられる姿を見ながら生き続ける事になる。三毛別羆事件においても、やはり被害者は生きたままお腹を食い破られたようで、生存者の報告によると「腹破らんでくれ」、「喉食って殺してくれ」と、自分を即死させるよう熊に頼み込みながら被害者達は死んで行ったのだとか。そう思うと切腹の後にトドメを刺してくれる介錯人って、とても人道的な処置なんだなと思わずにはいられなかった。
そして今、ツキノワグマに襲われている最中の002号はと言うと。
『人って死の淵に立つと本当に言うんだね。お母さん、お母さんって』
私はそんな002号の光景を見ながら、ついそんな感想を漏らしてしまった。仮に私も殺されるような日が来るのだとすれば、彼女と同じようにお母さんに助けを求めるものなのだろうか。私は求めないと思うんだけどなー、あんなのになんて。
それにしても良い物を見れた。運が良かったな。まさか本当に熊が出てきて、しかも気性の荒くない時期に襲い掛かってくれるだなんて。ツキノワグマの生息数は年々減っているし、野生動物に襲われるにしても、せいぜい野良犬や野良猫くらいかなって思ってた。
犬も猫もペットとしてなら愛くるしいものの、自然界の捕食者という立場につけば十分驚異的な存在になる。犬は集団で獲物を追い詰める生き物。犬の群れに囲まれ、じわじわ追い詰められながら狩り殺される002号の姿も、それはそれで面白そうだ。
また、同じくらい猫に狩り殺される姿というのも気になる。猫は狩りに対する執念が、犬や熊とは比にならないくらい強いからだ。犬や熊は、肉を食べられなくても最悪木の実なんかで妥協が出来るから、通常自分の身の丈に合わない狩りは行わない。敵が厄介だと判断すれば、すぐにその場を立ち去るものだ。しかし猫は肉でしか栄養を補給出来ない完全肉食動物。体の構造上、植物からは必須栄養素を得る事が出来ない為、何が何でも肉を得なければならない。それこそ自分の命を顧みずに獲物に襲いかかる程である。猫というのは体の小ささ故にペットとして飼えるのであって、仮に犬のような大型猫なんかを飼ったらどうなるのか。ライオンや虎を見れば、わざわざ言うまでもないだろう。もしもそんな猫に餌として認識されれば……。
一人の大人が犬の群れに追い詰められる姿や、飢えた猫に食い殺される姿。そのどれもが魅力的で興味深いけれど、しかしそれ以上に貴重な映像を私に見せてくれた002号には、是非ともお礼をしてあげたいと思った。
『002号の最後のお願いくらい聞いてあげよっかな。この映像はしっかり002号のお母さんに届けてあげないと』
と、その時。
『……て、天使さん』
『ん?』
振り向くと、そこには怯えながらも真っ直ぐに私の目を見て来る001号の姿があった。
『何? 001号』
すっかりこのグループの底辺となった事で、最近の001号からは生への執着のような物がすっかりと見られなくなっていた。そんな彼女がこんな堂々と私を呼び止めるだなんて何事だろうと思ったのだけれど。
『あの……、わ、私……言いました』
『……』
『002号の秘密……ちゃんと教えました』
『……』
『だから……』
なんて事はなかった。むしろ当然の主張だと思う。
『もう……許してください……。お願いします……、お願いします……! もう、勘弁してください……っ』
002号の秘密を打ち明けた代価を求める、たったそれだけの事なのだ。ていうか他でもない私が言った事だ。特別扱いして欲しかったらそれ相応の行動を取る事。ここで001号のお願いを拒否すれば、その瞬間私は彼女達からの信頼を失う事になる。そうなってしまえば、二度と彼女達は私の事を信じてはくれないだろう。
ただでさえ私という存在は、彼女達にとっては多大なストレスの源だ。それでも交わした約束だけはしっかり守るという距離感は守り抜いて来た。それが気分次第で約束を簡単に反故にするような人だと思われてしまっては、彼女達の精神面に多大な悪影響を及ぼす事だろう。
『そうだね。オッケー。四位にランクアップしてあげる』
だから私は001号の要求を飲み、彼女の序列を五位から四位に引き上げた。私の言葉に001号の表情にも僅かな安堵が宿ったものの。
『あ、でも元々四位だった人は今死んじゃったんだ』
『……え?』
『じゃあ結局最下位だね』
『……』
『残念でしたー』
001号目掛けていたずらな笑みを向けてあげた。私にはまだまだ彼女をいじめ抜かなくてはならない理由があるのだ。
『何しょんぼりしてるの? 当たり前じゃん。だって001号、今日の今日まで002号の秘密を知っていながら黙ってたんでしょ? 002号が流産する絶好のタイミングを見計らってたんだよね。002号の株を大暴落させる為に。そりゃあ乾燥剤のせいで流産したとは一概には言えないけど、でもチクるなら流産する前にチクらなきゃダメじゃん。流産してからじゃ遅いんだよ。……だー、かー、ら』
私は001号の前でしゃがみ込み、絶望と放心の表情を浮かべる彼女の耳元に手を添えて、そっと小声で判決を下してあげた。
(明日からも続行ー)
001号が状況を理解し、絶叫にも近い嗚咽を放つのにそう時間はかからなかった。年甲斐もなく泣き喚く彼女の姿に、私は何度でも大爆笑をあげるのだ。笑って、笑って、嘲笑って。彼女が絶望する様に一通りの満足感を得た所で。
『テッテレー! うーそー』
私はドッキリバラエティよろしく、蹲りながら泣き続ける001号にザンドのページを開いて見せた。そこにはデカデカとした太文字で【ドッキリ大成功!】と書かれている。ザンドと出会ってそろそろ一年。ザンドもザンドで私の事をよく理解してくれているようで嬉しい。
私は001号を喜ばせるべく、ネタバラしの内容を話してあげた。
『冗談だよ冗談。怖かった? まぁ今言った事は半分本心だけど、仲間を売ってまで助かろうとするその精神は面白かった。良い性格してるじゃん』
……が。
『001号?』
てっきり最底辺からの解放に喜んでくれるものかと思っていたのに、001号は相変わらず地面を向いたまま泣き続けていた。私の声、聴こえていないのかな。
『聞いてる? 001号。おーい。ゼーローゼーローいーちーごーうー』
それから何度呼びかけても001号は私の言葉に耳を傾ける様子がない。ただただ俯き、顔を掌で隠しながら泣きじゃくるだけの人形だ。明日からも続行の一言によっぽどショックを受けたのだろうか。まったく、冗談だって言っているのに。
当初の予定では、001号は流産しても解放せず、最後の最後までお母さん達のストレス解消用具として飼育し続けるつもりだった。でも、事情が変わった。この短期間で、たった五人しかいないお母さん候補のうちの二人がドロップアウトしてしまったのだ。そうなって来ると001号も基調な生き残りとして、大切に育てて行く必要がある。
『もーう、しょうがないなぁ。とりあえず私、今日は帰るから。001号もよく寝て頭をスッキリさせておいてよね?』
すっかり彼女の中で私がトラウマの象徴と化してしまったのも、彼女のパニックが治らない原因の一つでもあるのだろう。とりあえず今日の所はそっとして置いてあげようと思った。
『003号と005号も001号のケアをしてあげるように。皆んなここで暮らす大切な仲間なんだから』
そして正気を保っている残りの二人に001号のアフターケアを託し、私は自宅へ足を戻したのだけれど。
次の日。
『あちゃー』
今日も今日とてお母さん達のお世話をしにトランクルームへやって来た私の目に、私より頭二つ分身長が高くなった001号の姿が飛び込む。
『死んじゃった』
簡単な話だ。001号はブラジャーで首を吊って死んでいた。地面から足が離れているのだ。そりゃあ頭の位置も高くなるわけだよ。彼女の足元には、今まで私が002号に買い与えて来た雑誌の数々が散乱している。これらの雑誌を積み重ねて足場として利用したのだろう。
『えー! 何で死んじゃうかなー……。もーう、人の話をちゃんと聞かないからだよ。私ちゃんと嘘だって言ったじゃん。言ったよね?』
私は部屋の隅で固まる003号と005号に同意を求めるも、しかし同室の仲間が死んだ事で気が動転しているらしい。005号は相変わらず傍観を極めていたけれど、003号は恐怖に顔を歪めながらただただ涙を流し続けている。泣きたいのはこっちの方だ。まさかブラジャーをこんな用途で使ってしまうだなんて。乾燥剤と言い、ブラジャーと言い、ここの人達は物の正しい使い方を知らないのかな。
そういえばこんな話がある。日本で女性用の下着が普及するようになったのは、女の人の命を守る為だと言う話。1932年に、東京日本橋にある白木屋という百貨店で火事が発生したのだ。それは当時珍しい高層のビルであり、高層階にいた人達は火の手から逃れる為にデパートの屋上へ逃げるしかなかった。
デパートの屋上からはロープが吊るされていて、それを伝って一階へ避難する……はずだったのだが。当時下着を着用する文化のなかった日本人女性にとって、それは耐え難い羞恥だったらしい。ロープを伝って一階へ降りようとしても、下には野次馬が沢山集まっている。また、火災による熱風が着物の裾を捲り上げる為、ロープにぶら下がろうものなら自分の性器が大衆の面前に露わになってしまうのだ。その恥ずかしさに耐えかねた当時の女性は、着物の裾を抑えようとしてロープから手を離し、次々と転落死してしまった。この事件がきっかけで、日本人女性の間に着物を着用する習慣が根付いていったのだと言う。
言ってしまえば下着と言うのは命を守る為に着られるようになった衣服である。そんな命を守る衣服でまさか首を吊ってしまうだなんて。
『ねぇ。サンドバッグいる?』
唯一まともに私とコミュニケーションを取ってくれるお母さん003号に訊ねてみると、全力の拒絶をされてしまった。005号は聞くまでもないし、そうなるとこの遺体は片さなきゃだ。死亡した事で括約筋や平滑筋が弛緩し、001号の足下には大量の汚物も散らばっていた。もう……、何て言うかさ。ただただため息しか出ないや。
『二人は死なないでね? 死んだら許さないから。お願いだから命を大切にして』
私は残された二人にそれだけ警告し、汚物と死体の撤収に取り掛かった。
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