米粒を数センチ動かすだけの魔法
事件が起きたのは、それから二十分あまりが経過した時だった。序盤は冗談を交えて生徒の笑いを取っていた先生の授業も、中盤に差し掛かる頃には授業内容の教授がメインとなって、教室の雰囲気は随分と静かになった。生徒の多くが黒板の内容を注視するこの時間。昼食の時間まで残り一時間という絶妙に小腹が空く時間でもあったからだろう。彼の取ったその行動は、授業中の主人公である先生を差し置いてあまりに目立っていた。
パリっという、授業中には中々聞く事のない小気味の良い音が教室中に響いた。音の出所は林田だった。いわゆる早弁という奴だろう。林田の方に視線を送ると、前方の生徒の背中と自分の教科書を利用しながら、先生にバレないようにコンビニのおにぎりを頬張っている。
今時早弁などと言う馬鹿な行為に手を染める図太い神経の持ち主だった林田だが、しかしコンビニおにぎり特有のパリパリな海苔が奏でたその音には流石に動揺を隠せないでいた。
『林田ー? お前何してる?』
先生の呼びかけも相まって、林田は硬直してしまった。しかし先生の表情を見るからに、林田の行動に対して怒っているようには見えない。むしろ暇になり始めた授業に笑いを起こす良いきっかけを見つけたとばかりに、ニヤニヤしながら林田の席へ近づいた。林田は慌てて机にうつ伏せるも、すぐに先生に首根っこを掴まれて晒し者にされる。
『お前なー。早弁する奴とか俺が中学の時にだっていな……』
しかし林田に説教をかまそうとした先生の口が突如止まった。林田を笑いのネタにしようとしつつも、そこはやはり教師という手前笑顔で怒るわけにはいかなかったのだろう。先生は眉を顰めながら林田を叱ろうとしていたのに、いつのまにかその顔には笑顔が浮かんでいた。そりゃそうだ。だって林田の顔は潰れたおにぎりのせいでお米まみれ。先生から隠れようと勢いよくうつ伏せた被害が、あらぬ形で林田の顔面に纏わりついてしまった。
先生に続き、クラス中でも大爆笑が起きた。この場で笑っていないのは、私とザンドの二人だけ。戦犯である林田本人ですら『すんません! すんません! もうしないから許してー……っ!』などと、ヘラヘラ笑いながら許しを請うている。ここまでクラス中を巻き込んだ笑いともなると、他のクラスにも笑い声が伝わっている事だろう。
『……』
そんな彼らの光景を遠目で見ていたその時。私の中で悪魔が囁いた。実際本物の悪魔らしき存在が私の中にはいるわけだし、あながち間違った表現でもないはずだ。
それは一種の連想ゲームみたいなものだった。もしも林田の早弁がおにぎりではなくパンやお菓子とかだったとしたら、この連想も起きる事はなかっただろう。けれど林田が食べていた物はコンビニのおにぎりだ。誰がどう見てもコンビニのおにぎりだった。林田の顔中に散らばったお米の一粒一粒が、昨日の出来事を私に思い出させる。
(……ザンド)
私の呼びかけに応じてザンドが制服の内側に現れた。クラス中の視線が林田に向いている今、わざわざザンドを服の下に隠す必要もないかも知れないけれど、万が一という事もある。私は服の上からザンドを抱きしめながら林田を見つめた。林田の顔中についた米粒を見つめた。
制服の生地の隙間からザンドが光を漏らす。昼間という事もあってそこまで目立つ程のものじゃないけれど、それでも制服でザンドを隠して正解だったと思った。
そして私は唱えた。現状、私が扱える唯一の魔法を。米粒を数センチ移動させるだけのくだらない魔法を。
(移動魔法。ザンド・トゥオ・ゲルハウーゼ)
林田目掛けて呪文を唱えた。
『いっ……⁉︎』
その直後、林田が短い悲鳴をあげた。彼の顔から突如笑顔が消えた事で、それまで林田を笑っていたクラスのみんなからも次第に笑顔が抜けていった。
林田は驚いたように頭に手を当て、ゆっくりと着席した。
『……林田? どうした?』
先生もそんな林田の様子を心配そうに伺っている。先生の場合は心の底から林田を気遣っていると言うより、自分の責任問題になる事を恐れているだけなのかもしれないけれど。
『いや……なんか……。……なんだろ』
林田は歯切れの悪い答えを呟いた。その姿にすっかりクラスの雰囲気は興醒めとなる。
『とりあえず顔洗って来い。ほら、授業再開するから! お前らも前見ろ!』
先生の指示に従いトイレへと向かう林田。クラスのみんなも再び黒板に目を向けて、数分あまり停滞していたクラスの授業が再開された。これが今日このクラスで起きた第一の事件だった。第二の事件が起きたのは、それから更に数時間が経った後の事。
『林田くん?』
本日最後の授業となる数学の時間。数学の先生が黒板に書いた二次関数の問題を生徒に解かせようと林田を指名した。
『はーやーしーだーくん! 何してるの? ちゃんと集中して!』
林田が指名された理由はボーッとしていたから。この先生は普段から生徒の集中具合に目を向けながら、授業を聞いていない生徒を積極的に指名するような人なのだ。だからこの日もいつもと同じように、集中力の欠けていた生徒を指名したはずだけど。
『あ……。はい。……しゅうつう……すてます』
林田の様子がおかしい。いつもはハキハキと喋る彼が、その時はやたらと呂律の回らない不自然な喋り方をしていた。しかし不自然なのは呂律に限った話でもなかった。林田の表情も、呂律に負けず劣らずの不自然さを醸し出している。
林田の表情は顔の左右で差が生まれていた。顔の右半分はいつもの林田だ。お調子者で頭の悪い彼の性格を反映した馬鹿そうな笑顔。しかし顔の左半分は無表情そのものであり、顔の右半分とバランスが取れていない。ひくひくと動く彼の眉と頬も、彼の身に不具合が起きている事をわかりやすく伝えている。
また、彼の首から下の方でも顔とは真逆の異常が起きていた。顔では左半分に不具合を起こしていた彼だが、体の方では右半分に異常が発生している。右腕と右足の痙攣が止まらない。持っていたシャーペンは取りこぼすし、右足の痙攣に至ってはもはや意図的に貧乏ゆすりをしているようにも見えた。だが。
『……林田くん? 林田くん⁉︎ どうしたの林田くん! しっかりして! 林田くーん!』
遂には意識を失って席から転げ落ちた林田を見て、どこの誰がわざと貧乏ゆすりをしているだなんて言えるだろう。彼は倒れたのだ。
かなりの時間差があったから、危うく彼に魔法をかけた事を忘れる所だった。林田は倒れた。その上意識を失った今も痙攣を続けている。その光景は数年前、お正月に親族で集まった際に倒れた祖父が見せた反応と酷似していた。祖父はそのまま病院に運ばれたものの、治療の甲斐虚しく翌日にはこの世を去る事になった。医師が祖父に下した診断結果は脳梗塞。脳の血管が血の塊などで詰まる事で脳に酸素や栄養が送られず、脳細胞が急激に死滅する病気である。
米粒を数センチ移動させる魔法。私が数センチ移動させた米粒は、間違いなく林田の脳血管に届いていた。
帰宅した私はベッドに腰を下ろし、脱ぎ捨てるように制服を投げながら上半身裸になった。これから日課の時間である。私は持参したポーチに手を伸ばし、その中から病院で渡されたいつもの道具を取り出した。
まずは小袋を一枚開封し、中からアルコール綿を取り出す。それで人差し指を拭いたら、次に取り出したのは穿刺針。私は穿刺針を人差し指に刺して、一滴の血液を採取した。採取した血液を簡易血糖測定器のセンサー部位に当てると、すぐに画面には私の血糖値が表示される。私は今日の血糖値を自己管理ノートへ記録した。
『……』
なんだろう。今日の日課はやけにやり難いな。なんだか手が震える。これから私はインスリン注射もしなきゃいけないのに。
私は深呼吸で手の震えを落ち着かせた後、今度はインスリン注射の方に手を伸ばした。偏にインスリン注射と言っても、その種類は効果時間によって様々だ。今から私が打つのは、これから食べる夕食に備えた超速攻型のインスリン注射。毎回食前に打っている注射で、本日三度目の注射である。
注射器に注射針を取り付ける。注射器の注入ボタンを押すと、針先からインスリンが僅かに出ているのが視認出来た。次に私は注射器のダイヤルを回してインスリンを出す量を調節する。最初の頃はかなりの量のインスリンを注射していたものの、腎不全が進行するに連れて投与する量もガクンと減っていた。
注射器の設定を終えたところで、私は再びアルコール綿を取り出して自分のお腹を消毒した。後はお腹の皮膚を少し指で摘み、そこに注射針を突き刺す。注入ボタンを押しながらダイヤルの数字がゼロになるのを確認し、そこから更に十秒程待機。
『……ふぅ』
私はため息を吐きながら注射針を抜いた。
【ねぇ、イーブイ】
『私進化しない』
【ねぇ、イヴっち】
『何?』
【それ、朝昼晩毎回やってるよね。何の儀式?】
注射針を抜くと同時に、私のお腹からザンドが突然飛び出して来た。記憶が中世ヨーロッパで止まっているザンドにはこの行為を何らかの儀式だと思っているらしい。ポケモンの名前は知っているくせに。
『インスリン注射だよ。私、糖尿病だから』
【うえー……、原始的。千年近く経ってようやく注射するレベルなんだ】
文明レベルの低さを嘲笑うザンド。そりゃあどんな悩みも魔法で解決出来る魔界と比べてしまえば、現代人の文明なんて塵にも満たないか。
【それ、昔から続けてるの?】
『まぁね』
【その割にはなんか不器用じゃなかった? 手とかすげえ震えてたし】
『……』
【やっぱあのクソ男子を殺した事、ビビってる?】
いや、どうやら違うな。ザンドはこの世界の文明レベルの低さを嘲笑っていたんじゃない。私という人間個人を嘲笑っていたんだ。実際、ザンドの言う通りなのかもしれない。だってこの手の震えはインスリン注射をする前から起きていた。林田が倒れ、私の魔法が成功したと理解した時からずっと震え続けていた。……でも、それをザンドの前で認めるのは何か癪だ。
【ビビって震えて後悔してる?】
『……まさか』
だから私は笑い返す。私を嘲笑ったお返しだとばかりにザンドの事を嘲笑ってやった。
『糖尿病になるとね。最初の頃はどんなに食べても痩せていくんだ。でも高血糖が続くと、糖分だらけのドロドロした血液があちこちの臓器を傷つけるの。中でも一番傷つきやすいのが腎臓で、それが原因で私はネフローゼ症候群になった。体に必要なタンパク質がおしっこに混ざって出て行っちゃう病気だよ』
突然何の話をしているんだろう。顔があるわけでもないのに、ザンドはそんな風に戸惑った表情を浮かべているような気がした。
『血液からタンパク質が減ると、血の濃度が薄くなるでしょ? そしたら体中の細胞が体液の濃度を合わせようとして、血液から水分を奪っていくの。水分を奪った細胞はパンパンに膨らむ。顔も、足も、色んな所がパンパンにむくんで行った。あいつはそんな私の事をぶちゃみって呼んで笑った』
でも、ここまで言えば流石にどんな馬鹿でもわかってくれるだろう。どうして私が今、突然こんな昔話をし始めたのか。
『腎臓がもっと悪くなって、透析を受けるようになってからは体のむくみも大分取れるようになった。二日に一回六時間も拘束される透析は嫌だけど、それでも中学生になってからはマシな見た目で学校に通えるようになったんだ。……でも、あいつがいた。あいつも同じ中学だった。あの野郎、小学校時代の私の写真をクラス中に回して笑い物にしやがった。何がぶちゃみだ。何が砂糖のおしっこだ。何が覚醒剤注射だ』
正直な話をすると、最初はただ林田を殺した言い訳をしていただけだと思う。私があいつを殺したのには理由がある。昔あいつのせいで散々苦い思いをして来た。だから私はあいつを殺してしまった。
他でもない、殺人に手を染めた私自身を擁護するつもりで言っていた節があった。……でも、消えた。話しているうちに、罪悪感にも近いそれらの感情がするすると私の中から抜け出て行った。林田に対する怒りと憎しみが、私の中で罪悪感を上回った瞬間だ。
『やっと倒した……。やっと私は悪者を倒したの。……やっと。やっと! やっと‼︎』
私は正しい行いをした。今の私は、胸を張ってそう言い切れる。
『後悔なんかないよ』
少し興奮し過ぎたようだ。運動をしたわけでもないのに息が乱れているのがわかる。部屋の隅に設置された鏡を見ると、そこには笑顔を浮かべた二人の人物が映し出されていた。
【イヴっち】
『何?』
【私、イヴっちと出会えてよかったかも】
一人は運命的か必然的かはともかく、一億二千万の人間が暮らすこの国の中で私を選んでくれた魔界の書物であるザンド。そしてもう一人は。
『私も』
そんなザンドに笑い返し、思わずザンドを抱きしめてしまった私だった。裸の上半身に、ザンドの冷たい触感がじんわりと広がった。
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