九月十七日 黒の天使
天使が死ぬ話 9/10
やっと私の作戦が成功した。面会時間を過ぎてもなお顔を見せに来ないみほりちゃんを思い、勝利の宴に酔いしれる。
とは言っても宴というにはあまりに貧相な食卓だ。味の薄いスープ、味の薄いチャーハン、そして野菜の味が際立つ薄味ドレッシングのミニサラダ。……なんて言ってはみたけれど、実を言うとそれらからは薄味と呼べる程の味さえ感じられない。
少し前の私なら、こんな僅かな味付けにも敏感に反応する事が出来た。二年以上も食事と水分を制限し続けた私だ。舌がほんの少量の塩分でも拾い集め、そして感じ取ってしまう。
しかし悲しきかな。今の私の舌はかつての私と比べてあまりに肥えてしまった。それもこれも全部、私に余計な物を食べさせて来た彼女のせいである事はわざわざ言うまでもないだろう。
今でも目を瞑ると、あの日の味が舌の上で鮮明に再現される。二年ぶりに食べたポテチの塩分には、よだれが絶え間なく湧いて出た。塩分で乾いた喉をプリンが通り過ぎた時の快感は言葉にもならない。目の見えない人が光を見た時もこんな気持ちなのだろうか。耳が聞こえない人が音を聞いた時もこんな気持ちなのだろうか。まさか小学生のお小遣い程度で買えるお菓子に泣かされる日が来るだなんて思ってもいなかった。
でも、おかげで食べ物のありがたみを身をもって知る事が出来た。……なんて。そんな偉そうな事を言うつもりはない。だって、私は体を壊して初めてこの気持ちを知る事が出来たのだ。食べ物を大切に思う気持ちはとても尊いものだと思う。でも、物を満足に食べられない体になってまで理解する程の価値ではないはずだ。
みんなが満足に食べられなかった昔とは違うんだ。今という時代は、少なくとも日本においてはどこもかしこも食べ物で溢れている。単純にお腹を満たすだけなら一日あたり数百円で十分だし、千円以上の金銭を払えるならお腹を満たした上で味覚も満たせる贅沢な食事にありつく事も出来る。少しのお金で満足に食欲を満たせるだなんて、なんて素敵な時代に生まれて来たんだろう。
満足に食べられない経験のおかげで食べ物のありがたみを知れた、か。私はそれを美談だなんて思わない。満足に食べられない時代と重ねただけの、ただの時代錯誤だ。今の時代、食べ物って言うのは気軽に食べられないといけない。気軽に食べて、気軽に幸せを感じないといけない。それがこの時代の普通だ。普通と言うからには、みんながそうであるべきなんだ。食べられない辛さなんて、他の誰にも味わって貰いたいとは思えない。……普通の体を持てなかった私だから、そう思う。
それでもポテチとプリンを食べたあの瞬間だけは、間違いなく私はそんな普通の幸せを文字通りの意味で噛み締める事が出来た。それはこの二年間ですっかり忘れてしまった幸せだった。あの幸せを思い出させてくれた彼女の事を、憎いだなんて誰が思うものか。
きっと彼女が最後になるのだろう。私に出来た最後の友達だ。どれだけ私に悪態をつかれても、めげずに最後まで絡んで来たうざったるい友達だ。普通はあれだけ悪態をつかれれば、二日目以降には現れなくなるものなのに。
私はそんな彼女を拒絶した。これから先、彼女のような友人が私の前には現れる事は二度とない。その事はよく理解している。
あの子には悪い事をしちゃったな。彼女を怒らせる為とは言え、まさかあそこまで泣かれるだなんて。お母さんの事が本当に好きなんだね。
でも、元はと言えば悪いのはみほりちゃんの方だ。あの子が私の為に心臓をあげようだなんて馬鹿な事をしなければ、私だってあんな仕打ちをしたりしなかったのに。私が死ぬその日まで、彼女との交友を続けてあげたりも出来たのに。
……。
まぁ、それでも酷い仕打ちをした事実に変わりはないから。いずれみほりちゃんにはちゃんと謝ろうと思う。彼女を傷つけてしまった事も、彼女の目の前で彼女の好きな相手を貶してしまった事も、いつか必ず全部謝ろうと思っている。
でもそれは今じゃない。今は何があっても彼女に謝ってはいけないのだ。この命が続く限り、私は彼女の前では悪魔であり続けないといけない。だって少しでも良い子だと思われれば、あの子はまた馬鹿な真似をしてくるはずだから。
だから謝るなら私が死んだ後だ。それも私が死んでから何十年も経った後のとびっきり未来の世界。彼女の中から私との思い出や私への未練がすっかりなくなった遥か未来で、私は彼女に謝りに行こうと思う。十年後か、二十年後か、或いはもっと先か。なんなら一生謝りに行けない可能性だってあるけれど、それでも運良く彼女に謝れる機会に恵まれたのなら、その時は潔く謝りに行こうと思う。直接彼女に会いに行って、この気持ちの全てを吐き出そうと思う。私への未練が残っているうちに謝りに行ったら、彼女はきっと自分を責めてしまうから。
「……だからその時は……よろしくお願いします」
その日の為の準備を、私はたった今終えた。
スマホを切る。移植コーディネーターの人は一応私のお願いを聞き入れてくれたけど、それでもやはり中々前例のないお願いだし、確実にこの願いが届くとは限らない。仮に願いが届いたとしても、結局何も起きないまま、みほりちゃんもこの世を去ってしまうだけの時間が過ぎ去ってしまうのかもしれない。
それでもやる事はやった。私にやれるだけの事はやった。後はもう、私が死ぬか奇跡的に心臓移植を受けられるかの根比べだ。……まぁ移植の方は半ば諦めているし、実質死ぬまでの根比べなんだけどさ。
私が死ぬのは確定として、それっていつ頃になるんだろう。五年以内には確実に死ぬとは思うけど、VADを装着した人は結構長生きする事が出来るとも聞く。でも、お兄ちゃんの話を間に受けるなら今年死んだっておかしいとは思わない。
……。
お兄ちゃんか。結局なんなんだろう、あいつ。どうせ死ぬにしても、せめてあいつの正体くらい知って死んでおきたいんだけどな。他にもみほりちゃんの中の幽霊とか、みほりちゃんの知り合いだという私に似た人とか、一度考え出したら気になる事は山のように増えてくる。
気になる事って言えばそうだ! ワンピ! あれも最終章で完結が近いんだ。うわー……参ったな。この世の未練が一向になくならない。考えれば考えるほど溢れてくる。私本当に死ねるのかな? ……なんて。
「……まぁ、死ぬか。そりゃあ」
私は窓の外を覗き込みながら、夜の窓ガラスに写る私自身にツッコんだ。
毎日目が覚める度に感じるんだ。今日の私は、昨日の私よりも弱っているって。日によっては調子の良い日だってあるけれど、それでも全体的に見てしまえば私の体調は確実に不調の方へと傾いている。だからこそ初めてみほりちゃんに会った時は驚いた。
お腹の中に幽霊を飼った人間なんて見た事がない。あれは絶対にこの世の人間なんかじゃない、私の事を迎えに来た天使なんだって、本気で思った。
私は死ぬのが怖い。何も感じず、何も考えられない永遠の世界に身を置くだなんて想像するだけでゾッとする。……でも、天使が実在するなら。死んだ後も感じる事が出来て、考えられる事も出来るなら。だったら死んでもいいやって、あの時は本気でそう思ったんだ。
だけどそんな事はないんだよね。あの子は天使なんかじゃない。喜怒哀楽がはっきりとした、感情的で真っ直ぐで、私の知るどの人間よりも人間らしい女の子だ。私に明かせない秘密を持っているのはわかるけど、その秘密を明かされた所で私は彼女を一人の人間として接しているに違いない。
やっぱりこの世に天使なんかいない。私は死んでも天使になれない。あの世も、天国も、地獄も、輪廻転生も、生まれ変わりも、何もかも存在しない。私は近い内に生まれる前の状態に戻って……。
「……え」
その時、私の全身が強張る。
カーテンを閉めようと思った。この部屋の窓は、方角的に日の出の日光が直接差し込んで来る。みほりちゃんに言われて積極的に日光を取り込むようになった私だけど、日の出の日光で起こされるあの感覚はどうしても好きになれない。その対策をする為にこうしてカーテンを閉めようと……したのだけれど。
「……なんで」
窓の外に人がいた。腰からは所々に赤いラインを走らせた黒い金属の翼を生やした人だった。本当にそれを人と呼んでいいのかはわからない。だって人には翼なんか生えていないし、生えていた所で羽ばたきもしないで空中に停滞するなんて出来るはずがない。
でも、私はそれを人と認識しなければいけない。だってそれはみほりちゃんと同じなのだ。お腹の中に幽霊を住まわせただけの、れっきとした人間なのだ。もしもそれが人間でないのだとしたら、私はみほりちゃんの事も人間と思ってはいけなくなる。
せめて顔だけでも見れたらいいのに、それの頭部は黒いヘルメットのような物で包まれていて顔が認識出来ない。なんて無機質なんだろう。まるで機械を見ているようだ。あのヘルメットの中には本当に人の顔が入っているのだろうか。ヘルメットの中が空洞だったり、或いはたくさんの配線やパーツで埋められたロボットだったとしても、私はきっと驚きはしない。むしろそれが自然とさえ思えてしまう。
……でも、何故だろう。私にはそれが笑っているように思えてならない。ロボットのように見えるのに、手に取るようにそれの表情が伝わって来る。こんな感情的なロボットがこの世に存在して良いのだろうか。
……。
この世? ……あー、そっか。きっとあれはこの世のものじゃないんだ。それなら全てが合致する。私にとって最高に都合の良い形で全てが丸く収まる。
天使だ。やっぱりいるんだ、天使って。私をお迎えに来た本物の天使。本当はその役目はみほりちゃんが果たす筈だった。でも、あの子は優しいから私を殺せなかった。それで痺れを切らした天使が、あの子の代わりに役目を果たそうともう一人やって来た。
私は窓の向こうの天使に手を伸ばす。天使はいる、あの世はある、死後の世界も幽霊も何もかも実在する。それがわかっただけで、私の中から死への恐怖は驚く程に薄まって行く。私はなれるんだ。本物の天使になる事が出来るんだ。ネロとパトラッシュさえも笑顔にしてあげられる幸せの象徴に。
「……」
幸せの象徴に……。
「……なりたくない」
なりたいと、思えなかった。人間のまま生きていたいと、そう願ってしまった。
自由に歩けるようになりたい。みほりちゃんの運動会を見に行ったり、もしくは彼女とどこかへ遊びに行くための足が欲しい。
美味しい物を食べられるようになりたい。前は私一人だけがポテチとプリンを独占してしまったんだ。今度は彼女と美味しい物を……例えばハンバーガーなんか食べに行って、その美味しさを共有し合いたい。
意味のある勉強をしたい。お兄ちゃんが言っていたような、自己満足で終わる勉強じゃなくて、将来の為に役に立てる勉強がしたい。医学を身につけて私みたいな子を励ましたりとか、生物学を身につけて人と動物がどっちも幸せになれる方法を探してみたい。
強くなりたい。今まで弱い日々を過ごし続けていたんだ。弱い私を助ける為に頑張ってくれたパパや先生や看護師さんに、恩返しが出来る強い人になりたい。
……そうだ。要するに私は大人になりたいんだ。何も出来ない子供のまま死にたくない。大人になってお金を稼げば、それこそみほりちゃんと色んな所に行って色んな物を食べる事が出来る。医学や生物学を一生懸命勉強しても、大人にならないとその知識を思う存分発揮する事も出来ない。私を助けてくれるパパも先生も看護師さんも、みんな大人だ。大人は強いから自分より弱い人を助けてあげる事も出来るんだ。
私は自分勝手な子供だ。あれだけ天使になる事を夢見ていながら、結局大人になる事を望んでしまった。私が幸せにしたいのはネロでもパトラッシュでもない。大人になって、私自身が幸せになりたい。幸せを存分に噛み締めた後は、今度は私以外の誰かを幸せにする為に生きていきたい。……例えそれが叶わなくとも、それならせめて生きていたい。
だからあれが本当に天使なのだとしたら。みほりちゃんの代わりに、私をあの世へ送り届けに来た天使なのだとしたら。私があの天使に伝えなければならない言葉は……。
「……死にたくない」
そんな思いを吐露した次の瞬間。
ポン、と。天使の手のひらから一冊の本が現れた。綺麗な手だ。顔こそヘルメットで隠れているものの、体の形は間違いなく女の人の形。本を持つその手の形も、女の人らしい小さなものだった。それと……なんだろう。天使の手から本が出てきた瞬間、天使の中にいた幽霊が姿を消した。その幽霊は今、天使が持つ本の中へと移動している。
天使が本を持った手を伸ばした。それに合わせて本が発光する。夜の街を照らす勢いで激しく発光する。朝の日差しはあんなにも不快なのに、その光は何故か嫌いにはなれない。とても心地の良い、温かい光だと思った。そして。
「ザンドッ!」
天使は窓越しでも聞こえて来る声量で、私の知らないどこかの国の言葉を放った。その声もやはり女の人の声だ。どことなく私に似た声だと思う。
その直後、天使の本から光が失われた。世界からも光が失われた。それと同時に鳴り響いた人々の激しい騒ぎ声がやたらうるさかったのを、よく覚えている。
……まぁ。すぐに忘れる事になるんだけど。
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