九月五日 穢された
天使を殺す話 3/7
みほりちゃんの前で涙を見せてからちょうど二十四時間が経った。彼女が私の前に姿を現したのが四日前。四日振りの平穏が病室を包み込む。
嵐のような三日間だった。彼女が来てからたったの四日しか経っていないのに、この平穏が酷く久しいように感じてしまうのは、それだけ彼女が悪目立ちする面倒な存在だったという事だろう。長い戦いに終止符を打てた満足感に心が満たされる。気分的には祝杯でもあげたい所だけど、生憎あげた所で私の体は好き勝手に飲み食い出来るわけでもない。だからこれが私にとっての祝杯なのだ。
ノートパソコンを開き、ウェブカメラを起動する。この病室が私の神殿なのだとしたら、今から私が訪れるその場所は私にとっての聖域。私でさえ足を踏み入る事が許されないそんな場所。目で見て耳で聞くくらいしか許されていないけれど、それでも私にとっては身に余る幸せだ。
カメラの向こう側に聖域が映る。私はそこで楽しそうにはしゃぎ回る彼らに声をかけた。
「……おはよう、みんな。……って、もうお昼だけどね。みんな……………………」
かけた筈だった。しかし蚊の鳴くような私の声は、パソコンのスピーカーから流れるノイズによって掻き消された。
足音が聞こえる。バタバタと慌しい足音が。パパは決してこんな足音を立てたりはしない。あの人間もどきだって性格的に自宅でこんな足音を立てたりはしないだろう。つまり何かがいるのだ。あの家に本来いないはずの何かが今、あの聖域に。
次に聞こえて来たのは動物達の鳴き声だった。いや、もはやそれは鳴き声ではなく泣き声と言った方がいい。俗に言うワンワンではなく、キャインキャインなのである。恐怖を感じた犬が発する悲鳴がスピーカーの奥から響いてくるのだ。
そして極め付けは。
『よーしよしよしよしよし! いい子だ! お前はいい子だポチ! よーしよしよし!』
そんな奇声まで響いてくる。
カメラの前では追いかけっこが繰り広げられていた。レンズの位置的に足しか映らないものの、私の大切な家族を二足歩行の動物がドタバタと荒々しい足音を轟かせながら追いかけ回している。
全身から力が抜けた。それどころか血の気まで引いていく感覚がする。昨日、私はあの疫病神を追い払う為に嘘泣きをした。嘘というのは罪である。そして罪人というのは裁かれるものだ。他人の為の嘘ならまだしも、自分の為に吐いた嘘は裁かれなければならない。
嘘を吐いてしまった私への清算が、今始まる。
『おいコラ暴れんな! 何で暴れんだよ可愛がってやろうとしてんだろ⁉︎ なぁ⁉︎』
……あぁ。
『いってえ⁉︎ てめえこの野郎口輪してるからって体当たりしやがったな!』
穢されていく。
『ポチ! 動くな! 山田は鳴くな! チビ助を見習え!』
私の聖域が穢されていく。
『よーし……! いいぞポチそのまま動くなよ……! 今からたっぷり可愛がってやるからなぁ……?』
あの野郎、私でさえ足を踏み入れらない聖域を土足で踏み躙りやがって。私の家族をいじめやがって。私の大切な宝物を……っ。
『覚悟しろぉーっ!』
「……私の聖域を穢すなぁーっ‼︎」
カメラの前で堂々とゴローに飛びかかろうとするみほりちゃんに怒鳴りつけた。
『トヨリ……? トヨリか⁉︎ なんだよお前心配かけやがって! すげえ声だな! めちゃくちゃ元気になってんじゃねえか!』
「怒ってるんだよっ‼︎」
『おいおい、元気なのはいいけどまた昨日みたいな事になったらどうすんだ? 奇声あげるのはやめようぜ?』
「怒声だよっ‼︎ お前勝手に人の家で何してんだよ⁉︎」
『別に勝手に来たわけじゃねえぞ? 許可ならちゃんと取ってる』
「誰の⁉︎」
『僕の』
カメラの前に人間擬きのお兄ちゃんが姿を見せた。このパソコンがパパからのプレゼントじゃなかったら、間違いなく私はこの画面を叩き割っていた事だろう。みほりちゃんは頭を掻き、苦笑いを浮かべながら状況の説明をしてくれた。
『いやー、ほら。昨日お前から出禁食らっちまったじゃん? だからお前と仲良くなるのはひとまず保留する事にしたんだ』
「……ひとまず?」
みほりちゃんの口から不穏なワードが漏れる。ひとまずってなんだひとまずって。私達の関係は昨日のあれで全部終わったんじゃなかったのか。
『おう! 将を狙うならまずは馬からって言うだろ? それでかれこれ一時間は一緒に遊んでんだ。今からお前のポチを手名付けてやるから見守っててくれよな! おー、よしよし。よしよしポチポチ! よーしよしよしよし』
「ゴローだよ! 勝手に変な名前つけるなっ!」
私の怒声なんて聞こえないとばかりに再びゴローを追い回すみほりちゃん。ゴローは何度も悲痛な叫びをあげるものの、しかし次第に彼の表情には諦めの色が浮かび出し、遂には抵抗をやめて黙ってみほりちゃんに撫でられた。
『おーーーー! ポチぃ……! お前ようやく撫でさせてくれたなぁ……! よーしいい子だ! いい子だいい子だ!』
「……」
あながち間違ったやり方でもないのが余計腹立たしい。犬と言うのは群れを築き上げ、上下関係を定めた上で生活する習性を持った動物だ。故に犬は自分より強く、自分では決して敵わないと思った相手の事を格上の存在と認識し、そして服従する。
そりゃあ虐待レベルの暴力を受けようものなら縮こまってしまうけれど、適度な怖さを見せつけるのは簡単に人に懐かせる為の手っ取り早い手段と言えるだろう。野生の犬ではそれが普通なのだから。
けれどそのような簡単な躾け方があるにも関わらず、多くの動物愛好家はそう言った躾のやり方を推奨したりはしない。それは何故か?
一つは躾と虐待の境界が曖昧だからだ。例えばゲンコツ一発までなら躾の範疇と定義してしまえば、多くの飼い犬がゲンコツで躾けられる事になってしまう。それに何より……。
『おいポチぃ! おめえ何ちょっとしょぼくれてんだよ! 笑え笑え! ほら、ニコーって! ニコーって!』
「……」
恐怖で躾けるやり方はあまりに印象が悪過ぎる。目尻を垂らしながら渋々とみほりちゃんに触られるゴローが不憫でならない。恐怖による躾は確かに動物行動学的には最も効率的なやり方かもしれないけれど、でも人としては大間違いだ。
『見ろよトヨリ! なんかこいつ心なしか嬉しそうじゃね? いやー、昨日はマジで悪かった。本当反省してるよ。だから私、お前から出禁解除されるまではずっとポチ達と遊ぶ事にしたんだ。お前の大好きなペットと仲良くなれたら、お前もきっと私の事を認めてくれるよな?』
「……」
『そしたら出禁だって解除してくれるよな?」
「……」
『だからその様子をそこから見守っててくれよな?』
「……」
『な!』
カメラに写るみほりちゃんの笑顔が私に恐怖をもたらす。何故なら彼女には悪意というものが存在しないのだ。動物というのは人が思っているより人の感情に敏感なものである。虐待を受け続けた犬が保護され、長い年月をかけて愛され続ける事で虐待のトラウマから克服した例を私はいくつも知っている。
今でこそみほりちゃんに恐怖を抱いているゴローだけど、このままみほりちゃんが彼と接し続けたらどうなるんだろう。悪意を持たない彼女が、純度100%の愛情を彼へ向け続けたらどうなってしまうのだろう。老犬のゴローだろうと、いずれは彼女に心を許して懐いてしまうのではないだろうか。私はそんな彼の姿をカメラ越しに見せつけられてしまうのではないだろうか。それは即ち……寝取り。私の大切な家族があの女に寝取られる……!
「……てけ」
『ん?』
「出禁解除するからそこから出てけっ! 二度とそこに入るなこの馬鹿ぁ‼︎」
最愛のペットを寝取られる恐怖が、私の人生で最大ボリュームの声を喉の奥から引きずり出した。自分でもびっくりだった。まさか私の中にこれだけのポテンシャルが眠っていただなんて、今日の今日まで知らなかったよ。
『マジか⁉︎ やっとわかってくれたんだな! よーし待ってろ! 今すぐ行ってやるぞ!』
カメラの向こうではみほりちゃんが颯爽と家の出入り口目掛けて駆けていった。一体なんだあの疫病神は。押して遠ざけようものなら猛反発して迫ってくる。押すのがダメならと、涙を流して引いてみたら今度は私の聖域を荒らし始めた。じゃあどうしろと言うんだ。押してもダメ、引いてもダメ。そんなのもうどうしようもないじゃないか。
イライラする……。あー! もう! イライラする……っ。
心臓の高鳴りを感じた。私の感情と心臓が呼応しているようだった。……いや、それより前から既に私の心臓は悲鳴をあげ始めていた。
生まれて初めてだったんだ。あんなに大きな声を出したのって。いくら過去の記憶を掘り起こしても、私は未だかつてあれだけの声量で怒鳴った事なんてない。体が健康だった時でさえここまで叫んだ事はないのに、心臓がポンコツになった今の体であんな大声をあげたら。あんな大声をあげて、そしてイライラまで感じ始めたら。
「……うぅ……っ」
そりゃあこうなる。入院以来、かつてない程の激しい鼓動が心臓から放たれた。
痛い。……痛い。痛い、痛いっ、痛いっ! どうしてあんな奴のせいで私がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
あいつは馬鹿だ。本当に頭が悪いんだ。私が難病を患っているのは理解していても、結局客観的な視点でしか理解していないのだろう。この病気によって味わう乾き、苦しみ、痛み、寒気。彼女は主観的にそれらの苦痛を味わっていないから、だからあんな無茶苦茶な行動を取れるんだ。
『トヨリ。大丈夫? 心臓が痛いの?』
それに加えて私を気遣う相手も今となってはこの人間擬きだけか。どんな地獄だここは。
「……うるさい。……お前には関係ない……っ」
私はノートパソコンを折り畳む為に手を伸ばした。私の敵ばかりを映すこんな画面なんか見ているだけで毒だ。しかしノートパソコンを折り畳む寸前。
『にゃあ』
と。ノートパソコンのスピーカーから猫の鳴き声が響いた。また、ほんの一瞬だけどカメラの前を一匹の猫が横切ったりもした。それはある日を境に我が家で暮らすようになった一匹の猫だった。
猫を飼い始めたんだ、と。ある日パパにそう言われた。時期的には人間擬きを紹介される少し前くらいだったと思う。
とても可愛い猫だ。大人しめな性格で毛並みもよく、まるで人間がどうすれば喜ぶのか理解しているようなタイミングで小さく鳴く。猫好きは元より、そこまで動物に関心のない人にも好かれるような愛嬌を持った猫。
……。
猫だと、思いたい。
初めてカメラ越しにその猫の姿を見た時、私はそれまで動物に対して決して抱いた事のない明確な嫌悪感を覚えた。不気味だと思った。気持ち悪いと思った。人間擬きのお兄ちゃんが、私の前で人間のふりをする時にも似た悍ましさが私の全身を包み込んだ。
「……」
荒ぶっていた私の心臓が少しずつ落ち着きを取り戻す。まるで化け物から身を隠している気分だ。声を出すなと、息を潜めろと、心臓の音さえ鎮めて隠れろと。脳が私に警告する。
あれは本当に猫なんだろうか。何であの猫からは人間擬きに似た気配を感じるのだろう。それにみほりちゃんの中に宿る謎の幽霊。あの幽霊も猫や人間擬きに通ずる何かを持っている。
私は久しぶりに自分の手でカーテンに手を伸ばし、外の世界へ目を向けた。真夏の太陽が眩しい。でも、それだけじゃない。私には太陽とは別の光が見えている。私だけが見える、私にしか見えない無数の小さな粒子達。私は物心がついてから暫くの間、この光に疑問を持った事がない。それらは当たり前のように私に見えていたからだ。これらの光が実は私にしか見えていない物だと気づくのには、それなりの時間がかかったと思う。それでもこの光に共感してくれる相手とは出会えなかったものだから、いつしか私はこの光を存在しないものとして分類する事にした。
私にしか見えないこの光。私じゃないと気付けない人間擬きとみほりちゃんとあの猫の不自然さ。……何か関係があったりするのかな。
『落ち着いたの?』
しかし私の思考はそこで停止してしまった。スピーカーから流れる人間擬きの声のせいで、ノートパソコンを閉め忘れていた事に気がついた。私は今度こそノートパソコンを閉じようと再び手を伸ばし。
『昨日、お父さんと話したんだ。確かにみほりちゃんはトヨリの体に悪影響を及ぼすかも知れないけど、でもみほりちゃんと話すトヨリの姿はこれまでで一番人間らしかったって』
「……」
『少し安心したって。お父さんはそう言っていたよ』
「……知るか馬鹿」
そして今度と言う今度こそ、私はノートパソコンを折り畳んだ。
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