昔のプロローグ ⑤ 動物愛護団体
佐藤トヨリの今と過去 5/10
『……』
もはや言葉すら必要なかった。言葉にだけ宿るはずのモヤが、彼女の顔を覆い隠している。言われなくてもわかる。彼女は私の連れて来た猫の母子に焦っていた。
この子達を家に連れ帰った結果は私の予想した通りだった。しばらく私と先生でお世話をしていただけあって人間には大分慣れてくれたものの、恐らく初めて見るであろう犬と言う種族に動揺を隠せなかったのだろう。猫の母子はパニックの限りを尽くし、家中を荒らし回った。ポンタに至っては軽く出血する程の怪我まで負ってしまった程だ。
『トヨリちゃん、よく見つけてくるわねー?』
団員の黒い声が私の鼓膜を撫で回すようだった。こうなる事はわかっていたけれど、それでも私には頼れる場所がこの拠点以外に思い当たらなかったのだ。
『大丈夫。心配しないで? きっとこの子達もすぐに新しい里親が見つかるはずだから』
『……』
黒い。黒い。黒い黒い黒い。黒いモヤがかかり過ぎて、もはや私には彼女の顔さえ見分けがつきそうにない。
私は拠点の机に置かれていたポスターの束に目を向ける。それは数週間後に行われる二度目の譲渡会を知らせる宣伝用のポスターだ。この日、七歳の私の心は生まれて初めて義務感と責任感という呪縛に囚われた。
『あの』
それから一週間後。私は学校で頭を下げていた。相手はポンタの元飼い主であるかつて友達だった女子だ。
『一年生の時は酷い事言ってごめんなさい』
私は深々と頭を下げ、彼女のつま先だけを見つめる。彼女から返答があるまでこのまま頭を下げ続けるつもりだったけど、しかし私の視界から彼女のつま先が唐突に消える。彼女は私を無視してこの場を去ろうとした。
『待って!』
だから私は彼女を引き止めた。彼女の服を掴み、譲渡会のポスターを差し出した。
『あの……ペット仲間の知り合いとかいない? 新しくペットを飼いたがってる人でもいいし』
『……』
『……お願い。知ってるなら紹介して。新しい里親が見つからないと、この子達がどうなっちゃうかわからないの』
『……』
『おねが』
私は最後まで言葉を言い切る事が出来なかった。彼女は私の手を振り払い、友達と一緒にどこかへと去ってしまったのだから。
そんなやり取りを、私はそれから何度も繰り返す事になった。
それから数日間、私は学校の人に何度同じ事をして来ただろう。今まで一度も話した事のない人を引き止め、ポスターを渡し、ボランティアの団体が今どんな状況に陥っているのかを説明する。けれどもそれらの行動は全てが徒労に終わるのだ。誰も私の声に耳を傾けたりしてくれなかった。なにせ去年、仔犬を捨てたと悲しむ彼女に『お前が死ね』と言い放った私である。噂はあっという間に広がり、私は付き合ってはいけない生徒の烙印を押されている。そんな私がいくら声をかけた所で話を聞いてくれる生徒なんているはずもなかった。現にここ数ヶ月、私は先生以外の人と学校で会話をした覚えもないのだ。
当然、その日も私の会話相手は先生だけだった。
『猫が増えすぎている?』
『……うん』
私は自分が所属する団体の現状を。猫の保護が進み過ぎた結果過密飼育気味になり、また中性化前の猫が混ざった事で数匹の猫が妊娠してしまった事などを先生に話した。
『それなのにまだ野良猫の保護活動を続けているんですか?』
『……ううん。あの猫の母子でうちはもういっぱいになっちゃった。だから空きが出来るまでは餌やりさんと一緒に野良猫に餌をあげてるだけだよ。里親が見つかって空きが出来たら、その子達も保護するんだって。だから早く里親を見つけないと……。じゃないとあの子達が死んじゃう……』
『死んじゃう? 野良猫達がですか?』
私の口から出てきた物騒な言葉に先生が反応した。
『多分、猫嫌いな人がこの辺に住んでるんだと思う。餌を食べに来る野良猫の中に、傷だらけだったり水をかけられたりしていた子が何匹もいた。だから早く保護してあげないと、そのうち殺されちゃうかも……』
『……なるほど』
ふと、先生の表情に雲がかかったような気がした。猫嫌いの手に寄って不遇な目に遭った野良猫達の境遇を憐れんで……というわけではないらしい。先生の目は誰かを憐れむ聖母の目とは遠くかけ離れている。
『佐藤さんはゴキブリは好きですか?』
そしていきなりそんな意味のわからない質問をしてきたのだ。そんなの、どう考えても答えは一つしかないのに。
『好きなわけないじゃん』
『ですよね。先生も大嫌いです。では佐藤さんの隣の家に住む人が大のゴキブリ好きで、毎日欠かさず餌やりをしていたらどうです? その餌を求めて毎日ゴキブリがうじゃうじゃ寄ってきたら』
『……。嫌』
『はい。先生もです。そんな事をされたら苦情を入れてしまいますよ』
先生は苦笑い浮かべながら言葉を続けた。先生が私に何を言おうとしているのかはすぐにわかった。でも、その全てを受け入れられるわけでもなかった。
『猫とゴキブリは違うよ』
『もちろんです。虫と哺乳類ですからね。命の重みも違いますし、ゴキブリより猫の方が好きな人間の方が圧倒的多数なのも事実。ですが実害といった面で言えばどちらも人間に害を及ぼす危険性はあります。ゴキブリの体には様々な病原菌が付着していますし、その糞からは胃潰瘍の原因になるピロリ菌などが検出されるそうです。しかし猫だってトキソプラズマ症、パスツレラ症、猫ひっかき病、Q熱のような病気を人間へ移しますし、何より彼らは虫よりも遥かに体が大きい。花壇を荒らされたり大きな糞を庭先に放置される事だってある。それらの実害を許せるかどうかの差って、結局彼らが可愛い生き物か可愛くない生き物かの差でしかないと思いませんか?』
『……』
『猫が好きな人、猫が嫌いな人、色んな人が世の中にはいます。しかし猫が嫌いだからと言って猫を虐待していい理由にはなりませんし、同じく猫が好きだからと言って飼えもしない猫に餌をあげるのもどうかと思います。そうやって地域に野良猫が集まった結果、今言ったような実害が蔓延り、その被害を受けた人達が猫嫌いになってしまったのであれば、その原因は餌をあげていた猫好きの人達にあるのではないでしょうか?』
先生の言葉を頭の中で再現してみた。私のご近所さんがゴキブリに餌を与えたせいで私の家にまでゴキブリが押し寄せて来る想像を。そんな事があれば私はその害虫を片っ端から駆除し、その死体を家の外へ捨てるはずだ。その死体を見たゴキブリ好きの人間が怒り狂いながら私に文句を言いに来る。なんて悍ましい光景なんだろう。想像するだけで私の拳には力が入り、保護猫譲渡会の宣伝ポスターにくしゃりと皺が刻まれた。
『動物の問題って難しいですね。ここまで言っておいてなんですが、じゃあどうすれば世の中全ての動物を幸せに出来るのかと言われたら、先生も答えに詰まってしまいますから』
先生は苦笑いを浮かべながら私の手に自分の手を近づけた。
『……ですが、世の中全ての動物は無理でも、目の前の動物くらいなら』
正確には私が握り締めてしまった譲渡会のポスターに手を伸ばしたようだった。
『先生、近々学校の近くのアパートに引っ越そうと思っているんですよ。ペット可のアパートに』
先生は私からポスターを受け取り、屈託のない笑顔で私にそう語りかけた。それは沈み切った私の気持ちを照らすには十分な光量を有していた。
譲渡会の日が訪れる。私と先生は予め最寄り駅で待ち合わせをし、私は先生の手を引いて会場の方まで連れて行った。別に先生の事を疑っているわけじゃないけれど、ようやく掴んだ里親志願者なんだ。この手を離したが最後、先生は約束を反故にしてどこかに去ってしまいそうな、そんな不安でいっぱいだった。
会場には既に何人かの里親候補がケージに入れられた猫達を見ていた。そこで先生はキョロキョロと何かを探し始める。
『あの猫達はどこに?』
夏休みの間、学校で匿って一緒に世話をしていた猫達を探しているようだった。でもそれより気になる事が一つ。
『猫達?』
『え? だって三匹居ましたよね?』
『先生、三匹とも引き取ってくれるの?』
『もちろんそのつもりで来ましたが』
この先生を連れてきてよかったと、心の底からそう思った。
『ここにいるのは人間に慣れ切った動物だけなの。まだ人に危害を加えそうな子は拠点の方で預かってる。でも写真ならあっちで見られるよ? 事情を話せば引き取る事も出来るし』
『なるほど』
私達は拠点で待機中の犬猫を紹介しているブースへと足を運んだ。
『あらトヨリちゃん。その人は?』
先に気がついたのは団員さんの方だった。私は彼女に先生の事を紹介する。
『前に言った先生。あの子達を引き取りたいって』
『まーまーまー! これはこれはよくお越しになってくださいまして』
団員さんは笑顔で先生をお出迎えしてくれた。そこからしばらくは世間話も交えた大人の会話が始まる。団員の人も、先生も、最初から最後まで笑顔を絶やさないとても平和な風景だった。
『へー。佐藤さんがそんな積極的な活動を?』
『そうなの! 学校でもそうでしょう?』
『んー……そうですねぇ……』
気まずそうに、友達一人つくらず孤独に過ごす私を見ながら先生は苦笑いを浮かべる。
『いいから。早く里親の話に戻して』
私に促される事でようやく二人は本題へと入り込む事が出来た。
『えーっと、そうね。里親希望との事ですが、希望したからと言ってすぐに引き取れる訳でないのはお分かりですよね?』
『はい。今日はあくまで予約をするだけで、後日審査と面談をした後に正式に引き取る事になると、佐藤さんからは事前に伺っております』
『そうそう、ならよかったわ。それじゃあまずはこの同意書に必要事項を記入してもらいたいんだけど』
『はい』
団員のおばさんから同意書とボールペンを受け取る先生。先生はまず名前と住所を書くべくペンを走らせたのだが。
『……赤?』
『え……。あー、すみません! ついうっかり……』
先生が差し出されたボールペンは三色ボールペンだった。先生はその中から黒ではなく赤色を選んで書いてしまったのだ。
『……』
そんな先生を見る団員さんの視線に冷気が宿るのを感じたような気がした。
『あの』
同意書を読み進める中、先生が一つの質問を唱える。
『この、引き取り後の面会に関してなのですが……』
『え? あー、これ? しょうがないのよ。こう言うところって虐待目的で里親を申し込むが人が来たりもするの。私達だって動物に幸せになって貰いたいからこう言う活動をしているわけでしょ? だから虐待されていないかを確認する為に定期的に面会する事にしてるの』
『はぁ、なるほど……。しかしアポなしと言うのは?』
『当たり前じゃない。いつ来るか教えたらその時だけ虐待の証拠を隠すかもしれないのに。こういうのはある日いきなり行くからこそ虐待予防に繋がるの』
『そうですか……。しかし教師と言うのは色々と時間に都合がつかない物でして、面会日に必ず在宅しているという保証はありませんが』
『そういう人には合鍵を提出させてもらっています』
『……』
そこで先生は一度同意書とペンをテーブルの上に置いて俯いた。そして鼻筋をほぐすように摘みながら考え出す。先生の表情にはさっきまで存在しなかったはずの曇りが生じ始めている。
その時。俯いた先生とふと目が合った。先生は口にこそ出さなかったものの、心配ないよとでも言わんばかりに笑顔を向ける。先生は鼻筋から指を離し、再びおばさんと向き合った。……けれど。
『もしかして嫌なの? うちの里親さんはみんな同意してるわよ? 特にあなたが引き取ろうとしている子達は本当に繊細な子なの。本当はまだまだ里親に出せたものじゃない。でもあなたには猫の飼育経験があるってトヨリちゃんから聞いていたからひとまずお話だけは聞いてあげようと思っただけ。わかってる?』
『は、はい。それはもちろん……』
折角笑顔になりかけた先生の表情に再び雲がかかった。それでも先生は同意書とボールペンを取り直し、面会に来てもいいと言う欄にチェックを入れていたものの、それが心の底からの同意でないのは二年生の私にも理解する事が出来た。その上。
『また赤』
『え? ……あ』
そこで先生はまたしても同じ過ちを繰り返す。三色ボールペンの中から黒ではなく、赤のボールペンを選んでチェックを入れてしまった。
『ねぇ。あなたもしかして色がわからないの?』
『えぇ……まぁ。しかし見えないのは赤だけであって、このせいで生活に支障が出た経験は一度もございません。それだけは誓わせてください』
『……』
ほんの少し前まで笑顔で談笑し合っていた二人が嘘のようだった。まるで二人に上下関係まで生まれたようにも見える。夏の残り香が漂う生暖かい初秋。私達を包み込む空気だけが嫌に冷たい。おばさんはそこで一度ため息を吐いて話を再開させた。自分の中に存在する敵意を隠そうともしない、そんな溜息だった。そして。
『まぁいいわ。奥さんも猫の飼育経験はあるのよね?』
『え? あの、私独身ですが……』
『……』
おばさんの敵意が先生に襲いかかる。
『トヨリちゃん。どういう事? 言ってないの?』
おばさんはまず私に確認をした。先生を連れて来たのは他でもない私だから、私に疑問を抱くのは当然だった。
うちの団体が出す里親の条件には、里親に出された動物の幸せを願った物が数多く存在する。それは例えば中性化手術を必ず行う事だったり、ワクチンを必ず摂取させる事だったり、それにさっきも言った通り、虐待防止の為に定期的に家に訪問して犬猫の様子を見たり等々だ。そしてそれらの条件の中にはこう言う条件も含まれていた。
『あのね? うちでは独身男性の里親はお断りしているの』
口を開かない私に代わって、おばさんは先生にその条件を話した。
『……理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?』
『言わないとわからないの? 動物虐待で捕まる人は殆どが独身の男なの。そうなる危険のある人にうちの子を任せられるわけないでしょ?』
『独身男性は皆ペットを虐待する、という事ですか?』
『そこまでは言ってないけど……でもわかるでしょ?』
と、そこでおばさんの敵意が一時的に鳴りを潜める。私が二人の間に割って入った事で、意識が私の方へと向けられたのだ。
『先生はそんな事しないよ。だから言わなかった』
うちの団体が独身男性を里親候補から除外しているのは知っていた。その理由だって聞かされていた。けれどその理由が虐待への心配なら、絶対に虐待しないと言い切れる先生なら問題ないと、そう思っていた。
『それじゃあダメなの。そういう事をするかも知れないって考えなくちゃダメ。それで万が一虐待が起きたらどうするの?』
けれどそう思う事が出来るのは、夏休みを通して先生と一緒に猫の親子をお世話していた私だけなのだと思い知る。
『……でも、うちはもう猫がいっぱいだよ? このまま猫が増えたらどうなっちゃうの?』
『それでもダメなものはダメ。狭いお家で暮らすのと虐待されるかも知れないお家で暮らすの、猫にとっての幸せはどっち? もっとよく考えて。そうやって油断して里親に出した結果、酷い虐待に遭って死んで行った子を私は何匹も見てきたんだから』
そう言い聞かせる彼女の口に、黒いモヤが宿った。あぁ、嘘だ。この人、また嘘をついてる。自分の意見が正しいって思わせる為に、平気で嘘をついている。
だったら私は抗わないといけないと思った。彼女が嘘を武器にするのなら、私は真実を武器にしなければならないと。例え彼女の意見が変わらなくても、それでも先生がどんな人なのか。あの猫の母娘の為にどれだけ尽くしてくれたのか。それだけでもわかって貰わないとと。そう思って。
『……でも、先生は病気の猫を最後までお世話して』
先生の過去を話したのに。
『……病気?』
彼女の放つ敵意が殺意に変わるのを感じた。私の真実が彼女の嘘に取り込まれる。
『どういう事?』
彼女は私の真実までもを利用し、より強力な武器を作り上げて先生に立ち向かった。
『……肥大型心筋症です。三歳の頃に発覚し、五歳の頃に』
『どうしたの?』
『……』
『五歳の頃にどうしたの?』
『……安楽死させました』
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