昔のプロローグ ④ 仲間外れのホームレス
佐藤トヨリの今と過去 4/10
夏休み終盤。私がボランティア活動を避けるようになる二つ目の事件が発生する。
『どうするのよ⁉︎ どうしてちゃんと確認しておかなかったの⁉︎』
保護猫のうちの二匹に妊娠が発覚したのだ。中性化していない子や気性の荒い子は他の猫に危害を加えないよう、気分が落ち着くまではケージの中で育てるのが普通である。けれどパンク寸前まで保護猫が増え、深刻な人手不足に陥った私達だ。遂に細部にまで手が回らなくなり、そして人的要因によるミスが発生した。中性化した個体としていない個体を取り違えてしまったのだ。繁殖能力を持った猫数匹がリビングに解き放たれ、そしてメス猫二匹の妊娠が発覚する。猫の出産数は平均で五匹。しかしそれは平均であって、その倍の数が生まれる事も珍しくはない。
一ヶ月先に二度目の譲渡会が予定される中、団体の中の空気は酷く荒れていた。別に仲間内で荒れるだけなら仕方のない事だと思う。人間はお互いの意見を言い合い、ぶつかり合い、そして妥協点を見つけながら高め合うものだと思うから。けれど団体の人達は、その荒んだ空気を身内の外にまで運び出してしまったのだ。
『お願いします! この子達に中性化手術を受けさせてあげてください!』
騒音が街中に響き渡る。当然だ。それは人間の肉声ではなく、拡声器を使った騒音なのだ。
『あなた達は何の為に獣医になったんですか⁉︎ 動物を助けたいからじゃないんですか⁉︎』
彼女達は街の動物病院の前で抗議をしていた。虐待を受けて生々しい傷跡を曝け出す猫の写真、道端で息絶えた猫の写真、何らかの病にかかって生き物としての原型を留めなくなった猫の写真。そんな猫達の写真を何枚もプラカードに抱えながら、団体とは関係のない動物病院の前で抗議をしていた。
『この子達の目を見てあげてください! 今までどんな目に遭えばこんな悲しい目をするようになるのか! 残酷な人間に追い詰められて、人間を信じられないままもがき苦しんで! あなた達はこの子達を救える力を持っておきながら、お金を持った人間の動物しか救わないつもりですか⁉︎ どうかお金にではなく、目の前の命に目を向けてあげてください! 目の前で苦しんでいるこの子達に! どうか! どうか……!』
すると演説をしていた団員さんがしゃがみ込み、拡声器を私の方へと向けて来た。
『トヨリちゃんもお願い。きっとあなたの声が一番響くはずだから』
『……』
私は拡声器の前に口を持っていき、そして小さな声で『……お願いします』と呟いた。
『もっと大きな声で』
『お願いします』
『もっと』
『お願いします!』
『もっと! お腹に力を込めて! あなたに全部かかってるのよ?』
私は彼女に言われるがまま、お腹に目一杯の力を込めて叫んだ。
『お願いしますっ! この子達を助けてあげてください!』
彼女は満足そうに笑いながら拡声器を取り上げ、お巡りさんが駆けつけるその時まで演説をやめなかった。
『……ならお前が獣医になれよ』
彼女達は最後の最後まで拡声器で大声をあげるものだから、当然そんな私の呟きも騒音に飲み込まれ掻き消されて行く。私の胸の中で、またしても妙な違和感が蠢いた。
夏休み最終日。連日が雨が続いていた事に加えてその日は空が曇っていた為に、八月にしては大分過ごしやすい気温だったのをよく覚えている。犬は本来冬国の動物で暑さに弱い為、七月から九月にかけては早朝と夕方にしか散歩をしない。けれどその日は久しぶりの涼しい一日で、私は一ヶ月半ぶりの真昼の散歩を楽しんでいた。
『……え』
その日は普段通らない公園に気紛れで足を伸ばしていた。すると首輪をつけたポンタが私の元に駆け寄って来たのだ。私は慌てて自分が持つリードの先を確認する。しかしそこには確かに好奇心旺盛なポンタと、最近になってようやく人間の手を怖がらなくなったティッチがいた。それじゃあこのポンタにそっくりな犬は一体。
『あ!』
ポンタに酷似した犬はポンタと一通り触れ合った後、公園の奥へと駆けて行く。私もその子の後を追って駆け抜け、そして。
『……』
『……ん?』
公園の隅に建てられたブルーシートとダンボールで作られたお家。そこの家主と思われるホームレスのおじいさんと目があった。
『去年の夏だったかな。車の多い道路をうろうろしてて、危なっかしくて見れたもんじゃなかった。それでひとまず預かる事にしたんだけど……これがまぁ可愛らしくてなぁ』
ポンタと良く似た仔犬との出会いについて、ホームレスのおじいさんが語る。この子とおじいさんの出会った時期は、友達だったあの子がポンタの兄弟を捨てた時期と一致していた。それでいてポンタと酷似した外見となれば……。
『それで……お嬢ちゃんはこの子を引き取りに来たのかな?』
おじいさんは声のトーンを落としながらそう呟いた。彼の視線は私を捉えてはいない。視線を落とし、自分にじゃれつく仔犬の遊び相手に専念している。……と言うより、仔犬と戯れる事で意図的に私を遠ざけようとしているようだった。
私は周囲を見回してみる。一番気になる所はやはり臭いだ。屋外なのにこのダンボールハウスの近辺だけ酸っぱい臭いが充満している。愛護団体の拠点とは天地の差といってもいいだろう。だから私はおじいさんの問いに答える前に、一つの質問を投げかける事にした。おじいさんの問いにどう答えるかは、おじいさんの答え次第で決めようと思った。
『どうしておじいさんはここに住んでるの?』
『……そりゃあお金がないから』
『そうじゃなくて』
私は今の質問を。何故ホームレスをしているのかと間違って受け止めた彼の勘違いを正した。
『どうして駅の反対側じゃなくてここに住んでるの? あっちにはおじいさんみたいな人、たくさんいるのに。何か悪い事でもして追い出されたの?』
私はおじいさんに違和感を覚えていたのだ。彼はホームレスの集落から離れて一人でここに住んでいた。もしかしたら揉め事を起こして追い出されたような、そんな人かも知れないという懸念が生まれる。しかし。
『あそこはなぁ……。確かに仲間はいっぱいだけど、あそこに住むにはあそこのリーダーに毎月場所代を払わなきゃならんのよ。おじちゃん、人付き合いもあまり得意じゃないし……』
おじいさんが仔犬を抱き抱える。仔犬はおじいさんの腕の中で、とても安心し切った表情で目を瞑った。私の問いに淡々と答えるおじいさんの言葉には、ほんの僅かなモヤがかかる事もなかった。
『やっと友達が出来たんだ。この子がいなくなったら……おじちゃん、寂しくて死んじまうよ』
するとその時。どこからともなく聞こえて来た猫の鳴き声が私の耳に届く。鳴き声の方を振り向くと、そこにあったのはダンボールハウス。そこから一匹の猫が出てきて、おじいさんに撫でられようと彼に擦り寄った。
『猫も飼ってるんだね』
猫に求められるがまま猫の事を撫で回すおじいさんにそう言うと、おじいさんは小さく笑いなら私の言葉を否定した。
『いいや。この子はたまに遊びに来るだけだ』
『でもよく懐いてる』
今度は私の言葉にモヤがかかった。ボランティア活動を始めて四ヶ月。私は団員の言う事を無理矢理飲み込んで、猫のこんな行動も懐きの一種だと納得する事にしている。でも、心の底から納得出来たわけじゃない。いくら納得しようとしても、どうしても猫からは犬のような大好きと言う感情が伝わって来ないのだ。
だから私は驚いた。
『懐いちゃなんかいないよ。おじちゃんに興味を持ってくれているだけさ』
この気持ちの正体を教えてくれたのが、四ヶ月も付き合って来た団体の人達ではなく、今日会ったばかりのホームレスのおじいさんだったからだ。
『犬と猫とじゃ頭の出来が違う。犬の群れは一匹一匹細かく序列を決めて、獲物を狩る時もチームワークで襲いかかる。そんな犬にとって、仲間とのコミュニケーションは生きる為に絶対に必要なもんだ。表情が豊かなのも、嬉しい時はわかりやすく尻尾を振るのも、コミュニケーションを円滑にする為の犬の本能さ』
おじいさんの腕でくつろぎながらも、尻尾だけはブンブンと振り回す仔犬の姿に目がいった。
『だけど猫は違う。獲物を狩る時は基本一匹狼だし、群れを作ったとしても上下関係なんてボス猫一匹とその他大勢程度のもんでしかない。仲間内でのコミュニケーションも犬みてえに大事じゃないから、猫にとって懐くっつう気持ちは犬のそれより大分小せえんだ。そうだなぁ……』
そこでおじいさんは何かを考え出す。私にわかりやすい例え話を考えてくれているらしい。
『お嬢ちゃんの前に面白そうな漫画があったらどうだ? 気になるか?』
『気になる』
私は首を縦に振っておじいさんの言う事に同意した。
『猫もそんな感じだな。こいつはおじちゃんに懐いて寄って来てるんじゃない。おじちゃんに興味を持ってくれただけだ。ありがてえ話じゃねえか? 誰にも興味を持たれずに落ちぶれた老ぼれに、こんな可愛い子が興味を持ってくれたんだ。おじちゃんはそれだけで嬉しいよ。なぁ?』
そう言っておじいさんは嬉しそうに猫の体を撫で回した。猫は暫くおじいさんの行動を受け入れたものの、ふとした瞬間に正気に戻っておじいさんから距離を取る。そして何事もなかったかのようにこの場を後にするのだ。おじいさんはそんな猫の背中を追おうとはせず、静かにじっと見守り続けた。
『猫はあまり可愛がり過ぎちゃいけねえよ。働き詰めだった飼い主が長い休みを貰って家にいる時間が増えると、それだけでストレスが溜まって病気になっちまう子もいる。向こうから寄って来たならそん時だけ可愛がってやればいい。逆に離れて行ったなら、そん時はそっとしてやらなきゃな。お嬢ちゃんだってゲームをしたい時に漫画の方から読め読めって迫って来たら嫌だろ? 猫との付き合い方はそのくらいの距離感が一番なんだよ。気まぐれなんだ、猫って動物は』
『……』
おじいさんの話を聞き終えた私の頭は、久しぶりに青く冴え渡っていた。あんなに私と戯れていたくせに、ある瞬間を境に一気に私から興味を失くす猫達。追い討ちをかけるように遊ぼうとすると、今度は彼らは怒ったように猫パンチなんか仕掛けてくる。そんな彼らとの付き合い方が、少しだけ分かったような気がした。パズルのピースが上手くハマったような快感が頭の中を駆け巡る。
『おじいさん、詳しいんだね』
『ん? ……まぁ、昔から人間の友達より動物の友達の方が多かったからなぁ』
『そうなんだ。……ありがとう。おかげでしっくり来た』
唐突にお礼を言われたおじいさんは戸惑っていたけれど。彼の話に満足した私は腰を上げ、そして今更ながら自分の身分を彼へ明かした。
『私ね。動物愛護団体でボランティアをやってるの。行き場のない動物を保護したり、新しい里親を探したり。……それと、悪い人間から動物を助けたり』
『……』
おじいさんが私から目を逸らした。私はその隙をついて彼の家の扉を開き、中の様子を確認する。そこには動物達が喜びそうな各種おもちゃに加え、部屋の隅にはまだ買ったばかりと思われるドッグフードとキャットフードの姿も見受けられた。それらと比較して、おじいさんの私物らしき物の少ない事。
『おじいさんも動物が好きなんだね』
私はダンボールハウスの扉を閉める。
『でも、出来ればもう少しだけ綺麗にして。汚いと動物も病気になっちゃう』
私は最後にそれだけおじいさんに言い残してこの場を去る事にした。犬の散歩も随分長引いてしまったし、学校で匿っている猫達や拠点の保護動物達にも餌をあげにいかないといけない。……あ、でももう一つ伝え忘れていた事がある。私は一度立ち止まり、その事を伝える為に振り返って。
『それとね。あの猫、おじいさんを好きな気持ちも少しはあったよ?』
その事をおじいさんに伝えて公園を後にした。
今まで気づけなかった動物の気持ちを知る事の出来た、とても有意義な夏休みの最終日だった。……本当に有意義な最終日だった。
二学期初日。
『ごめんなさい』
『……』
『五年生の生徒に動物アレルギーの子がいました』
『……』
『本当にごめんなさい』
私は猫の母子をダンボールに入れ、自分の家へと連れ帰った。
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