○年前
最後の日常編 15/15
動物が動く為には栄養が必要だ。だからと言って一日の運動量以上の栄養を摂取すると、それは予備の栄養となり脂肪として備蓄される。
では沢山の栄養を備蓄した肥満体型の人は標準体型の人の数倍動けるのかと言うと、もちろんそうではない。摂取後に解糖系、クエン酸回路、電子伝達系を経て即エネルギーへと変換される炭水化物と違い、脂肪のエネルギー化にはそれなりの時間と手間を要するからだ。
体は生命維持を何よりも優先する為、飢餓状態に陥れば、存在するだけでカロリーを消耗する筋肉からエネルギー源へと変えていく。栄養の備蓄である脂肪が消費されるのは本当に最後の最後だ。運動の為の備蓄ではなく、生命維持の為の備蓄。体からあらゆる栄養が消耗された後に残った最後の砦。
魔女にとっての魔力というのも同じようなものだ。どれだけ莫大な魔力を備蓄していようと、一日に消費し切れる量は決まっている。それを超えた魔力を放出しよう物なら、オーバーワークで身動き一つ取れなくなってしまう。今、この人がそうであるように。
『あーあ。熱いなー。私達もここで終わりだね?』
主人が同意を求める。火炙りにされている割にその表情はとても穏やかだ。でも主人には悪いけど、その同意に頷く事は出来ない。
【は? 私を巻き込むなし。死ぬのはあんただけでしょ】
だって私には熱いと感じる体がない。このまま燃やされて潰える命だってない。何より。
『えー、何それ冷たーい。うちの為に自爆とかしてくれないの?』
【誰がするかっつうの】
主人の為に自爆するつもりだってないのだ。主人だけが焼死するだけなのだ。
『何だこの本は』
その男は私に目をつけた。主人と共に火炙りにされながらも、点火どころか焦げ目一つつかない私の姿に畏怖の念を抱いた。
魔書は決して燃えたりはしない。いや、燃えないだけじゃない。魔書はそもそも傷つく事がないのだ。ナイフで傷をつけても忽ちに修復されるし、ページを破かれても直ぐに新たなページが補填される。水に濡れてふやける事もなければ、飲み物を溢されたとしてもシミ一つつく事もない。そんな本の持ち主が魔女だと疑われるのは、仕方のない事だった。……まぁ、疑われるも何もうちの主人は正真正銘魔女なのだけれど。魔女裁判にかけられるだけの災厄を引き起こした、正真正銘の大悪党なのだけれど。
魔法機密維持特務機関ノア。殺戮に長けた魔法を扱う種族で構成された組織であり、私の主人は魔女の国の代表としてその組織に身を置いている。
私の主人は疫学の知識に精通した魔女だった。誰かの笑顔の為ではなく、自分の笑顔の為に知識を蓄える魔女だった。そんな主人の趣味は、新たに開発した病気を異世界にばら撒く事。知的生命体が築き上げた文明が、病気を前に無惨に崩れ行く様を見るのが主人の楽しみであり、また私の楽しみでもあった。主人が元々そういう性格だったのか、それともノアの執行官として、魔法の存在に気付きかけた世界の知的生命体を滅ぼす内にそんな性格になってしまったのかは、もはや私の記憶にも残っていない。
そしてそんな主人が派遣されたこの世界は今、人類滅亡の危機に瀕していた。主人の持ち込んだ黒死病によって、世界人口の30%が命を落としたのだ。他にも主人が裏で扇動した数多くの宗教戦争や魔女狩りによって、ただでさえ死の危機に瀕しているこの世界の人族は加速度的に数を減らしている。
いつもの私達なら、その様子を安全圏から眺めるだけだった。今までの世界でそうして来たように、この世界でもそうしておくべきだった。……でも、今回に限ってはそうはならなかった。主人はこの世界で親しい相手を作ってしまったのだ。
ちょっとした油断が全ての原因だった。主人は宗教戦争を加速させる起爆剤の一つとして、ペスト菌のタンパク質合成を阻害するアミノグリコシド系抗生物質を開発したのだが、その為の実験体として黒死病に感染した一人の女性の命を救う事になる。彼女は家庭を持った女性であり、家には一人の娘がいた。その娘は母の病を治した主人の事を天使と呼んだのだ。それは千年以上もの間悪魔と称され続けた主人が初めて呼ばれた呼称であり、主人は娘の事を気にかけるようになる。その油断が主人の命を奪う結果に繋がるとも知らずに。
ある日、教会からの使者が娘の村に訪れる。黒死病から完全に回復した娘の母に、魔女の疑惑がかけられた。連行される母とそれを引き止める娘。業を煮やした兵士の刃が娘の体に襲いかかり。
『ザンド』
そして主人は魔法を使い、とある液体を合成し兵士の体に付着させる。化学式C4H10FO2P。またの名をサリン。無色透明無味無臭。見えず、匂わず、味もせず。故に毒を摂取した事にも気づかないまま死亡する凶悪な化学兵器。
『ザンド』
主人は再び魔法を使い、教会側の人間へ向かい風になるように突風を吹き放った。サリンは揮発性の高い液体である為、すぐに蒸発して空気と混じり合う。空気となったサリンガスは瞬く間に教会側の人間へと襲いかかった。
サリンの作用は神経と筋肉の情報伝達を阻害する事。故にサリンに被曝した人間はいくら脳で命じても筋肉を動かす事が出来ない。手足や指が動けないのは勿論の事、肋間筋や横隔膜のような肺を取り囲む筋肉も動かせなくなる。人は肋間筋や横隔膜で肺を押し潰す事で呼吸をする為、それらの筋肉が動かせなくなると。
『……』
人は呼吸が出来ずに窒息する。主人の前には数多の窒息死体が転がった。その中にはサリンガスの巻き添えを食らった村人の物も存在していた。
主人に石が投げられた。生き残った村人による物だった。主人のせいで自分達に魔女の疑いがかけられるかもしれないのだ。そして更に運が悪い事に、遥か遠くの方で馬に乗りながら走り去る何者かの姿も確認出来た。彼が村人側の人間なのか教会側の人間なのかはわからない。しかし彼が村での出来事をどこかへ告げ口した事で、数多の兵士が主人を殺害しに派遣される。
一対百なのか、一対千なのか、一対万の戦いなのかも把握する事が出来なかった。主人はひたすら魔法を行使して人の大軍を薙ぎ払った。しかしいくら殺せども次々に補充される兵士達。彼らはゴロツキの集まりではなく、何年もの間訓練に身を投じた兵士達なのだ。
統率の取れた兵士の群れを雑魚の群れとは呼ばない。彼らは例えるなら多細胞生物だ。彼ら全てで一つの生命体と言えるだろう。
その上彼らは人間だった。動物ではなく、考えて行動が出来る群れと言う名の生命体なのだ。主人がサリンのような毒を扱えば、風上にいた味方より風下にいた味方の方が多く死んでいくのを見て、常に追い風になる立ち位置を維持しながら立ち向かった。
主人が物理的に皮膚を破壊する強酸の雨を降らせば、酸で溶けなかった味方の衣類や装飾品から耐性のある素材を割り出し、それで簡易的な鎧を作って立ち向かった。
そして何よりも彼らは死を恐れなかった。自らの命が潰えるのを覚悟の上で、圧倒的な数で主人に襲いかかった。
次第に主人の魔力は尽きていった。莫大な魔力を蓄えていようとも、一日の魔力消費量に上限が存在するのが魔女である。主人は遂に魔法の行使が出来なくなり、そして彼女は魔女からただの女へと成り果てたのだ。
今。主人は海沿いの断崖絶壁にて私諸共焼かれている。魔界へ救難信号は送ったものの、世界から世界へ移動する際には時空の歪んだ空間を渡る必要がある。向こうは直ちに駆けつけたつもりでも、実際には数時間か、場合によっては数日にも及ぶ時差が生じる物だ。きっと主人が絶命するまでの間に救助が駆けつける事はないのだろう。主人はとっくに生きる事を諦めていた。火炙りにされる前から既に幾十もの拷問も受けていたのだ。本当は火炙りをされるまでもなく、彼女は死んでいなければおかしい体だった。
『魔女の本め……』
遂に息絶えた主人と打って変わり、私の体はいつまでも綺麗なままだった。そんな私に恐れを抱いた処刑人が、火バサミを持ってうちを取り上げる。
『貴様も本当に力尽きているのか……?』
そして彼は槍も取り出し、焼死体となった主人の喉元へ突きつけた。主人はいつまで経っても燃えない私の持ち主だ。彼にはそんな主人が焼死体になってもその死を信じる事が出来なかったのだろう。このまま主人の喉元を槍で突いて、その生死を見極めようとしている。けれど生まれて初めて遭遇した本物の魔女に彼も恐れを抱いているのか、中々行動に移そうとはしなかった。……だから。
『……え?』
だから彼は突き飛ばされたのだ。見物人の中で、唯一主人の死を心から悲しんでいたその少女に。母を救ってくれた主人を救えず、後悔の念で顔を悪魔のように歪めていたその少女に。
私を手にした処刑人が落ちる。断崖絶壁から海目掛けて私もろとも落ちていく。しかし彼は途中の岩山に衝突する事ですぐに息絶えた。死ねなかったのは私だけだ。私だけが死ぬ事なく生き残った。私は死ねない存在なのだから当然だ。私の体が波にさらわれる。
………………………。
…………。
……。
…。
それからどれだけの年月が経っただろう。どれだけの年月を海で過ごしただろう。ある日は波に沈み、ある日は竜巻に巻き込まれ、ある日はクジラに飲み込まれ、ある日は氷漬けにもされ。
もはや私は思考を止めていた。青い空と青い海が広がっている間はいくら思考していても結局は同じ日々の繰り返しなのだ。次に何かを考えるのは陸地に上がってからにしよう。それまでは無を楽しもう。なーに。魔女の本に入るまではそれが普通だったんだ。また以前と同じ、何も考えずに空中をぷかぷかと漂うだけの日々を過ごすだけだから。
◇◆◇◆
[東京都が暴風域の中に入りました。こちらは渋谷区にて撮影された映像になります。現在、台風九号による影響で各種交通機関は麻痺しており]
テレビの映像では台風の影響で様々な物が破壊される様が映し出されていた。横転して壊れるバイク、風に飛ばされた看板と激突する車のフロントガラス、田舎の方では土砂崩れが発生して複数の民家が巻き添えになったとも。
物は何かをすると壊れる。バイクは横転すると壊れ、ガラスは叩くと割れ、人も怪我をすれば死ぬ事もある。
対して私は何もしなくても壊れていく。生きているだけで壊れ行き、呼吸をするだけで壊れて行き、ご飯や薬を飲んでも壊れて行く。大人達は必死にその事を誤魔化すけれど、私がそこまで長生き出来ないのは、他でもない壊れた体を持った私自身がよく理解していた。
私はベッドから立ち上がる。どうせ何もしなくても壊れる人生なのだ。このまま体にボロが出て、日に日に苦しみながら壊れて行くのは目に見えている。ならいっそのこと、あの窓から飛び降りてみるのはどうだろう。ただ飛び降りるだけなのはつまらないけれど、外はこれだけの暴風雨だ。私程の軽い体重なら、もしかしたら一瞬だけ空を飛べる感覚を味わえるのかも知れない。それこそ天使のような……。
『……』
その時。耳をつんざくような騒音が静かな病室を包み込んだ。それと同時に私の体は突風に吹かれ、体も大量の雨水を浴びる。壊れた私の体ではまともに立つことも出来ず、私はその場で転倒してしまった。
『……本?』
転倒したことで、この病室の窓を突き破った物と目があった。本と目が合う。果たしてそれが日本語として正しいのかはわからないけれど、何故か私は確信を持って言い切れる。私はその本と目が合ったと。
本に手を伸ばし、その内容に目を通して見た。しかしどのページを開いてもそこには白紙のページしか広がっていない。これはただの自由帳なのだろうか。こんな凝った表紙に分厚いページ数でただの自由帳と言うのも変な話だけど。変と言えば、暴風雨に飛ばされた割に一切濡れていないこの本その物も十分怪しい物だけれど。
【Hello】
『……』
そして数百ページはある中でたったの一ページだけ、そんな英語の挨拶が記されているのも不思議な所だけれど。……いや。
【你好】
そのページに英語の挨拶が記されていたのはほんの一瞬の出来事だった。さっきまで確かにHelloと記されていた文字は、ある瞬間を境にかき消されて今度は中国語での挨拶が浮かびあがる。中国語どころか。
【Buenas tardes】
【Bonjour】
【สวัสดีค่ะ】
【Buon giorno】
【Γειά σαζ】
【नमस्ते】
【Oi】
【안녕하세요】
【Päivää】
【Здравствуйте】
【Goede middag】
【Goeie dag】
【Guten tag】
【Xin chào】
【Здравейте】
各国様々な挨拶だと思われる言葉が次々と表示されていく。そして。
【こんにちは】
私の最も馴染みのある言葉が表示された時。
『……こんにちは』
私はその子に返事をした。
【あ、やっと通じた】
表情を持たないその子だけど、何故かとても嬉しそうに話しているような、そんな気がした。
【ねぇ、あんたさ。魔法って興味ある?】
『……魔法?』
【そう! 頑張って練習すれば色んな事が出来るようになるよ? 美味しい物を出したり、空を飛んだり、誰かを助けたり】
『……』
【もちろん逆に人を殺したりもね】
『……へぇ』
こうして私はザンドと出会った。
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