水着回などない
最後の日常編 2/15
ソファで横になりながらテレビを見ていた夏休みの午後。ふとサチがこんな事を口にした。
「海水浴行こうよ」
「えー。やだー」
「言うと思った……」
いきなりアホみたいな提案をしてくるサチを一蹴すると、サチは困ったように項垂れた。
「何でこんなクソ暑い時に外で遊ばなきゃいけないんですか? 海で涼むより冷房で涼みたいですよ私は」
「そんな事言わないでさぁ……、こっちの世界最後の夏なんだよ? 思い出とか作りたくならない?」
「魔界にも海あるんで」
私がそう言うと、サチは私の耳元まで近づいて小さな声でこう囁く。
(海水浴ではしゃぎ疲れた後に海の家で食べる焼きそば)
「いりません」
「え、嘘⁉︎ 効いてない⁉︎」
はっ。食べ物で釣れば私が動くとでも思ったか。私はもう昔の私じゃないんだ。
「よく言いますよね。空腹は最高のスパイスだとか、働かずに食う飯は美味いかだとか。誰が最初に考えたんですか? そんなアホみたいな言葉」
私はポテチを一枚取り出して口の中へ投入する。
「疲れていなくても、空腹じゃなくても、働いていなくても、美味いもんは美味いんですよ。大体海に行くとしてここから一番近い海と言ったら……東京湾?」
私はスマホを取り出してググってみる。
「うーわ、三十キロも先らしいですよ? そんで何々? 水深は深い所だと七十メートルくらいあるものの、平均はたったの十七メートル? これ海ですか? 水溜りかなんかじゃないんですか? 三十キロも移動してこんな下水に汚染された水溜りで遊んで何が楽しいのやら」
スマホをソファに置き直し、再びポテチを頬張りながらテレビに視線を向け直した。
「家でいいんです。家がいいんです。焼きそばもここで食いましょうよ。潮風でべたつきながら食べる焼きそばより、涼しい家で食べる焼きそばの方が絶対美味いに決まって……」
と、そこで私の口は止まってしまった。そのままテレビを見続けていればよかったのに、ふと振り向いてしまったからこんな事になっちまうんだ。見るからに落ち込んだサチの表情が胸に突き刺さる。
「……正直に言うとね。最後の思い出作りをしたいのって、私なんだ」
「……」
「……それだけ。嫌ならしょうがないよ。無理して連れて行ったって、楽しい思い出にならなきゃ意味ないもんね」
「……」
なんだよサチのやつ。プールとか、銭湯とか、更衣室とか、そういう場所に行く度にお腹に薄っすら残った手術痕を手で隠しているくせに。無自覚な癖なのかも知んないけど、こっちはそれに気を遣ってやってるんだよ。
私は再びテレビに視線を戻した。やれやれ、なんでこっちが罪悪感を覚えなきゃいけないんだっての。……なんて思ったその時だ。テレビに映るその番組を見て、私は思い立ってしまったんだ。
「サチ。やっぱり海行きたいです」
「え! 本当に⁉︎」
「はい。その代わり、どこの海に行くかは私が決めていいですか? どこに行くかは当日までのお楽しみって事で」
「いい! いい! 全然いいよ! わー、楽しみだなぁ。水着どれにしよ? なんなら思い切って新しいの買ってみたりして」
「……」
当日。早朝五時。
「サチ! 起きてください! 時間ですよ!」
「……え? えぇ……? な、何? まだ五時だよ……?」
「いいから起きて! 準備して! 遅れますよ!」
「この時間で……?」
早朝六時。
「はい、これどうぞ」
「何これ」
「アイマスクです」
「何でこんなの渡すの?」
「行き先は着いてからのお楽しみって言ったじゃないですか」
「いや水ダウじゃないんだから……」
「……」
「え、本気なの? 私目隠しされたまま連れ回されるの? 電車とかバスにも乗るんだよね?」
「約束破るんですか?」
「……」
そして。
「りいちゃん」
「はい!」
「何ここ?」
「海!」
「……いや、確かに海あるけど」
私は視界いっぱいに広がる海を堪能しながら大きく深呼吸。潮の香りと海の幸の香りで肺が満たされる。いやー、いいな海。来て正解だったよ。危うく食わず嫌いならぬ行かず嫌いをする所だった。本当来てよかった。
「ここ豊洲市場じゃん」
豊洲市場に。
豊洲市場。前々から気になっていたんだよな。東京にある卸売市場で毎朝五時から採れたてピチピチの魚がずらりと並ぶらしい。業者だけじゃなく、一般の人も利用出来るみたいでここで買った魚を調理する動画とかYouTubeでよく見るんだ。いやー、あの日ちょうどテレビで豊洲市場の特集がやっててさ。私と海に行きたいサチの願いと、海産物に興味はあるけど海水浴には興味のない私の願いが同時に叶うとか、こういうのを利害の一致って言うんだろうな。
時刻は朝の七時。魚の卸売は昼には終わっちゃうそうだし、まぁ初めてにしては中々いい時間に来れたんじゃないだろうか?
「水着持って来たのに……」
「何しょぼくれてんですか? うちではこれを海水浴って言うんですよ。サチんちは違うんですか?」
「私そのお家の大黒柱なんだけど」
「うんうん、楽しみですね! ここでいい感じの魚買って家で海鮮丼作りましょうよ!」
私は嬉し泣きするサチの手を引き、多くの仕入れ客で賑わう卸売場へと直行した。直行したんだけど……。
「何これボタンエビ? え、一匹じゃなくてこの箱丸ごとで二千円? 真鯛が千四百円? ウニ一箱二千円⁉︎ えー、何ここ。えー! えー!」
卸売場へ足を踏み入れるや否や、サチの容態が急変する。子供のように目を輝かせ、視界いっぱいに広がる海の幸にそれはそれはもう興奮を隠せずにいた。
「結局サチの方がはしゃいでるじゃないですか」
「いやー、こう言うところ来たのって初めてだからつい……」
サチはそう言うけれど、私だって来たのは初めてなんだ。まったく、サチって変な所で子供っぽいからたまに一緒に歩いてて恥ずかしくなる事があるんだよな。もっとこう、私みたいに落ち着いてさ。
「サチ! あれ! あれ! なんか黄色い車走ってますよ! すげええええええ!」
大人の気品に満ち溢れた言動を取って欲しいものだ。
「あれはターレーだね。小回りが利くからこういう場所での荷物の運搬に最適なの。お仕事中だから通行の邪魔にならないように端っこの方を歩かないと。聞いた話だと、ここでターレーに轢かれてもターレーの通行を妨げた歩行者が悪いって事になるみたい」
「へー。じゃああいつらワンピで言うところの天竜人ですか」
「りいちゃん、嫌な例え方するの好きだよね」
私達は次の売り場へと足を運ぶ。
「サチ! 蟹です蟹! 生きてますよ!」
次に私達がやって来た売り場には沢山の蟹が並べられていた。店頭に並べられた多くの蟹は殆ど身動きを取らずにいるものの、店の奥の水槽では生き生きと動く蟹達の姿が確認出来る。
「こいつら喧嘩してませんか?」
「本当だ。そう言えば昔水族館でも見た事あるかも。負けた方の蟹さん、ハサミを切り取られて食べられてたなぁ……」
「カニバリズムってやつですね」
「違うね」
「仲間食うとかこいつら人の心ないんですかね」
「あるわけないよね」
「とりあえず蟹買いませんか? こいつら見てたら私もカニバりたくなって来ました」
「だからカニバリズムは蟹を食べるって意味じゃなくて……。まぁこの大きさで一匹二千円だし全然買ってもいいけど。ていうかむしろ買いたい。おじさん! この蟹一匹ください!」
最初の戦利品ゲットの瞬間だった。
「うーん……、一応大量の氷と保冷剤は貰ったけど、これ家まで保つかな? 蟹って足が速いからちょっと心配」
「腐ってたらサチのお店の同僚にお裾分けしてライバルぶっ殺しましょうよ」
「そろそろ本格的にりいちゃんの口の悪さを矯正するつもりだから発言には気をつけてね」
思わず頬が引き攣った。
「でも本当に安いなーここ。他に何食べたい? これだけ安いし、ある程度の贅沢は許しちゃうかも」
「マジですか! じゃあフグ!」
「小学校最後の夏休みどころか人生最後の夏休みになりかねないよ……」
「他にもアワビとか、大トロとか、ウニとか」
「ここぞとばかりに高級食材挙げて来たね」
「海老と鯛も食べたいですね」
「ことわざみたいに言われても」
私達の朝市見学はまだまだ続く。そこから暫く歩いた先で見つけたのは、首を半分切り落とされたアナゴの大群だった。
「あ、そうだ! アナゴとかどうです?」
「アナゴ? そんなの回転寿司でも普通に食べれるじゃん」
「そう言うしょぼいのじゃなくて、ほらよくグルメ番組とかでもあるじゃないですか? アナゴ丸ごと一匹使った海鮮丼! 器からアナゴがはみ出てるやつ! あー言うのちょっと憧れませんか?」
「なるほど……。ってうっそ、こんなに大きいのに一匹二百五十円⁉︎ やっすいなぁ……」
サチは膝を曲げるとアナゴの山を真近で見定めながら、
「ねぇ、りいちゃん」
そして悪巧みでもする子供のように悪どい笑顔を私に向ける。
「一匹は丸ごと煮アナゴにして、もう一匹は丸ごとアナゴ天にしちゃう?」
大賛成だった。
「うーん……、考えてみたらアナゴとか蟹とか火を通すものばかりだね。折角海鮮丼にするならお刺身系も欲しいや」
蟹とアナゴの入ったビニールを見ながらサチがつぶやく。
「言われてみれば確かに。あ! マグロの頭が売ってますよ!」
「やだよ。食べきれないよ」
「食べきれなかった分は保存すれば良くないですか?」
「冷凍庫に生き物の生首とか入れたくないよ……。あ、マグロのぶつ切りも売ってるじゃん。しかもこんなに入ってて一パック千百円……。これも買いだ」
マグロのぶつ切りを購入した。マグロとアナゴと蟹の海鮮丼か。これだけでも相当な贅沢をしている気がするけれど、私としてはまだ何か足りないな……。そんな私の目に生きた魚が元気に泳ぎ回っている水槽の姿が飛び込んでくる。
「カンパチ、気になる?」
「カンパチ? これが……」
水槽と睨めっこをする私にサチが魚の名前を教えてくれた。こいつが寿司でよく見かけるカンパチの正体か。切り身しか見た事がないから全然わからなかった。
「生前はこんな見た目してたんですね」
「生前って言うのやめて」
「サチってこう言う魚も捌けるんですか?」
「わ、心外だなー。これでもりいちゃんを引き取る事になってから色々とお料理スキル磨いて来たんだから。カンパチだって余裕だよ」
私は隣の値札に視線を向ける。カンパチの値段は一匹千五百円らしい。
「シンパチ。お前うちの子になるか?」
「名前つけるのやめて。何で飼う流れなの」
こうして生きた鮮魚であるシンパチも新たな仲間に加わるのだった。……しかし。
「お姉さん、家までどのくらい? よかったらシメときますよ?」
「あ、じゃあお願いします」
シンパチはサチの手に渡る前に店主の手によりまな板の上に乗せられる。そして。
「シンパチいいいいいいいい! シンパチいいいいいいいいいいいい!!!」
神経ジメと言うらしい。シンパチは私の目の前で頭を半分切り落とされた後、脊椎のド真ん中に長い針を刺されて何度も抜き差しされる。頭を半分落とされてもなおビクンビクンと暴れ回るシンパチだったが、その体は一分もしないうちにピクリとも動かない亡骸へと姿を変えるのだった。
その後も私達の買い物は続いて行き。
「ほらりいちゃん、帰るよ?」
「フードコート! この時間はフードコートが解放されてるんです! ここまで来たんだから何か食べましょうよサチー!」
「お魚痛んじゃうから……」
フードコートで粘る私の腕をサチが引き。そして。
「わー、まだお昼前だ。どんだけ早起きしたの私達」
帰宅するなりスマホの時計を見ながらサチが呟いた。
家に帰るまでが遠足という言葉がある。しかし今回に限っては家に帰ってからが本番だ。有生家の夏が今始まる。
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