怪獣と出会った少年 ⑦
日常回夏休み編 7/10
◇◆◇◆
『フク!』
家を飛び出す寸前、僕は姉ちゃんにこう耳打ちされた。
(りいちゃん、きっと足りないって言うと思うから少しは奢ってあげてね。……えっと、本当少しでいいからね? 食べ過ぎてたら私怒るから!)
だからきっと僕はこれから姉ちゃんにドヤされるんだろう。
「うっ……うぅっ……! すまねえフク……! 面目ねえ……!」
僕の背中で啜り泣くりーちゃんの声を聞きながら、そう思った。あの後、結局僕はこの子に計二千円もの屋台飯をご馳走してしまったのだ。笑顔で食べるこの子が可愛らしくて、ついつい甘やかしてしまった。その結果りーちゃんのスカートのホックが弾け飛び、歩いて帰るのが困難な状態になってしまったわけだ。
「いいよ。気にしないで?」
「フク……ぅ!」
「むちむちしてて気持ちいいし」
背中のりーちゃんにヘッドロックされた。
「……いや、やっぱ勘弁してやるわ」
けれどりーちゃんはすぐに僕の頭を解放する。
「優しい奴を殴るのは趣味じゃねえ」
「奢ってあげたのがそんなに嬉しかった?」
「ちげえよ。いやまぁそれもあるにはあるけど……、どっちかっつうとこれな?」
これと言われても、おんぶ姿勢じゃりーちゃんの方を振り向けない。しかし田舎道にポツポツと取り付けられた街灯に辿り着いたおかげで、僕達の足元には影が出来ていた。影のりいちゃんは、人差し指を自分の顔に向けている。
「お前やお前の母ちゃんと話してると、なんか違和感みたいなのを感じたんだ。その理由がやっとわかった。お前もお前の母ちゃんも、顔の傷には一切触れなかったろ?」
「あー。それは姉ちゃんから予め言われてたんだよ。りーちゃんの顔の傷には触れないであげてって」
「それでもだよ。私の顔にでっけえ傷があるって知ってたんならむしろ気になるだろ? でもお前もお前の母ちゃんも、話題に出す所かほんのちょっと視線を向けたりする事もなかった。おかげでほんの少しの間だけど、顔にこんな傷があった事も忘れていられたよ」
りーちゃんはまるで僕とお母さんが途轍もない偉業を成し遂げたかのように言ってくる。顔の傷を見なかっただけの事なのに、そんなのでここまで言われるとなんだか照れ臭い。
「そういうわけだから今の失言は聞かなかった事にしてやる。いいか? 例え思っても女にそんな事言うもんじゃねえぞ? モテねえからなマジで」
「……」
モテない、か。少し前にも同じような事を言われたっけ。本当にこの子はあの女の人と似ているなと、思わず笑みが漏れてしまった。
「別にいいのに。失礼な事を言ったのは僕なんだから気が済むまでヘッドロックなりしなよ」
「だからしねえっつうの」
「いや、むしろして欲しいかな? むちむち加減が癖になりそうだった」
結局ヘッドロックかまされた。
「あとりーちゃん、凄く汗臭いね。帰ったらシャワー浴びないと」
頭突きもかまされた。元気な子だな。でもこの子、果たしてうちのお風呂に入れるだろうか?
「りーちゃん、一人でお風呂入れる?」
「あ? なめてんのか?」
「うちのお風呂、結構古いよ? お客さんが泊まりに来る度に幽霊が出そうって、みんな口を揃えて言うんだ」
「幽霊……」
するとどうだろう。絶え間なく僕の後頭部に繰り出されていたりーちゃんの暴力行為が、幽霊の一言をきっかけにぴたりと鳴り止んだじゃないか。
「なぁ、フク。サチも言ってたんだけど、あの家マジで幽霊出んの……?」
怯えたように言葉を紡ぐりーちゃん。姉ちゃんが言ってたか。姉ちゃんもこの子と同じで、僕の言う事を全て鵜呑みにする人だったからな。僕の口から出てきた言葉は、余す事なく信じてくれた。
「うーん。正確には家で幽霊を見た事がある、が正しいかな? 僕、昔から不思議なものをたまに見ていたから」
幼かった頃の出来事を思い出す。幽霊が見える、幽霊が見えるって僕が騒ぐと、お父さんとお母さんは呆れたように失笑するんだ。けれどそれとは対象的に、姉ちゃんだけは僕の幽霊発言を信じ切って青ざめながら部屋の中に引きこもった。そして一人じゃ眠れないと、寝室から僕を連れ出してよく僕の事を抱き枕にしていたっけ。
「この話も信じてくれるの?」
「お前が言うならマジなんだろ……。なぁ、幽霊が見えるのって本当にたまになんだな? 基本的には出ないんだよな? 今日に限って出てくるとかないよな? な?」
僕の背中で本気で怯えるりーちゃんに、思わず笑みが漏れてしまった。
「あ、姉ちゃん来てる」
家の前まで辿り着くと、家の中に灯りが灯っているのが確認出来た。玄関を開け「ただいまー」と言うと、家の奥から姉ちゃんの声で「おかえり」と返ってくる。靴を脱いでリビングの方へ足を運ぶと。
「……何? 若者の間でおんぶが流行ってるの?」
二度もりーちゃんをおぶりながら帰って来た僕を見て、姉ちゃんは戸惑いを隠せない表情で問いかけた。
「いや、サチ、これはその……」
しかしりーちゃんが言葉を紡いだ瞬間、姉ちゃんの視線はギョロリとトカゲのように変化し、りーちゃんの腹部へ狙いを定める。
「ちょっと何そのお腹⁉︎ 何そのスカート⁉︎ りいちゃん! フク!」
「お風呂入って来まーす!」
りーちゃんは僕の背中から飛び降りて、逃げるように風呂場へとかけていった。
「もー、折角ダイエットしたばかりなのに…….」
頭を抱える姉ちゃんを見ているとやはり笑みが漏れてしまう。
「そこ。笑わないの」
「ごめんごめん。でも結構元気そうで良かったよ。お通夜から帰ったらてっきり凹んでるもんだと思ってた」
「何言ってるの? 十年も前に別れた彼氏だよ。今更悲しいも何もないって」
「……ふーん」
困ったように笑いながらそう答える姉ちゃんに、僕は明確な嘘を感じた。
……と、その時。ドタバタと何者かが廊下を駆けてくる音が鳴り響く。
「かつや⁉︎ フクお前今かつや行くとか言ったか⁉︎」
お通夜を聞き間違え、風呂場から半裸で駆けつけたりーちゃんだった。
「りいちゃんっ!」
りーちゃんは姉ちゃんにビビって再び風呂場へと駆けて行った。
「元気な子だね」
「現金な子なんだよ……。特に食欲にかけてはね」
姉ちゃんの気苦労が思い知らされたものの、でもなんだろう。そんな二人を見て少し楽しそうだと思ってしまう自分がいた。
「お父さんとお母さんは?」
「食事中。私は途中で抜けちゃった。同じ地元出身とは言え、やっぱり妻帯者のお通夜に元カノって言うのはね……。ちょっと居づらかった。お父さんとお母さんも居づらそうにしてたけど、あの二人は今後も地元に住み続けるから表面的な付き合いは通さないといけないみたい。本当田舎ってこういうのが嫌だなー……。上京して正解だったよ。あそこの家族と食事なんて想像もしたくない……。お通夜でさえキツかったのに」
「そんなの来る前から分かりきってた事でしょ? 本当にどうして来たの? 明日だって告別式に行くんだよね?」
「うーん……、どうしてだろうねぇ? ……ほんと、分かりきってた事なのにね」
テーブルに突っ伏せながら駄弁るように話す姉ちゃん。ふと、姉ちゃんの視線が僕の方を向く。
「フクに会いたくなったからかも」
「本当? 嬉しいな」
僕の返事を聞いて、姉ちゃんは静かに笑った。
「ほんとお前は素直で可愛いなー」
静かに笑って、テーブルの下から僕の足を軽く蹴飛ばした。
「ねぇ、フク」
「何?」
「私さっき、今更悲しいも何もないって言ったじゃん?」
「言ったね」
「あれ、本当は嘘なの」
「うん。知ってた」
「そりゃあ訃報を聞いた時はショックだったよ。死因が他殺だって聞かされた時も心臓がバクバクしてた。でも、何日かしたらその気持ちも落ち着いてね。今日の今日までずっと落ち着いててね。……なのに、向こうについて少ししたらさ。なんか、急に気持ちが爆発しちゃった」
「そう。大変だったんだ」
「私もう三十代だよ? この歳になってあんなに泣くなんて思ってなくてさ。……恥ずかしかったなぁ。何で私、あんなに泣いちゃったんだろ? ここ何年も、あの人の事を思い出す事なんて一度もなかったのに。……本当に。本当に思い出した事なんて一度もなかったのに」
「……」
僕は椅子から立ち上がり、姉ちゃんの隣の椅子へ腰を下ろした。これが今の僕に出来る一番の姉孝行だと思ったのだ。姉ちゃんは隣の僕の存在に気づくと、枕にでも顔を埋めるように抱きついて来た。僕はただただされるがままに身を任せる。そして。
「……でも、好きだったんだもん」
姉ちゃんの顔が埋まる僕の胸部に濡れたような感触が宿った。
「すっごいモテる人で……、たまたまフリーだった時に勇気出して告白したの。本当に勇気出したの……! そしたらあの人、あんなにモテるのにそれ以来ずっと私一途でさ……。女友達も作らないんだよ? 嬉しくなっちゃうじゃん……。癌移されたって知った時も全然嫌いになれなかったのに……」
そこからしばらく姉ちゃんは人の言葉を紡がなくなる。感情と本能で動く動物のように、それでも風呂場へ駆け込んだりーちゃんにバレないよう声を押し殺しながら、小さく、小さく、僕の胸の中で啜り泣いた。
「……フクは後悔しない恋人を作りなよ?」
「そうだね。姉ちゃんみたいな優しい人と出会えたらいいな」
「……馬鹿言うな」
「えー、心外だなー。なんなら二人で姉弟結婚出来る国にでも移住しない?」
「バーカー言ーうーなー」
僕を抱きしめる姉ちゃんの力がより一層強まるのを感じた。僕よりも十五も年上なのに、こんな幼い妹のように甘えられると、意地悪の一つや二つしかけてみたくなるのが人の性だろう。
「姉ちゃんに会えて嬉しいのは本心だもん。だって五年ぶりだよ? いくら忙しくたってそんなに会えないなんて事ある?」
しかし、そんな僕の意地悪な質問に姉ちゃんは答えなかった。だから僕は追い討ちをかけたんだ。その嘘がどこまで保つのか気になったから。……という気持ちが半分。もう半分は、僕の意地悪に困り果てる姉ちゃんの姿が可愛くてたまらなかった。まるで小動物と触れ合っているような、そんな錯覚を僕に見させてくれる。
「あの子、姉ちゃんに凄い懐いてるよね」
「……」
「まるで本当の親子みたいだ。いくら仲の良い友達の子で姉ちゃんも面倒を見たりしているからって、他人の子があそこまで懐くのかな? あれは長年一緒に暮らしている相手に見せる顔だよ」
「……」
「りーちゃんって不思議な子だよね。僕ね、あの子の中に幽霊を見たんだ。とても気の強そうな女の人の霊だった。りーちゃんって普通の子じゃないんじゃないかな?」
「……」
「ううん。りーちゃんだけじゃない。普通じゃないのは姉ちゃんも同じだよね。どうしたの? その顔。僕と同い年って言われても違和感がないよ。昔の……、それも僕の一番古い記憶の姉ちゃんとそっくりだ。お化粧とか美容とか整形とか、そういう範疇を超えている。凄く綺麗だし可愛いとも思うけど、それと同じくらい不気味にも感じる」
「……」
「今の姉ちゃんよりも、最後に会った五年前の姉ちゃんの方が年相応で心の底から綺麗だって思えたな。三十三歳並みに歳を重ねた姉ちゃんだって、絶対に綺麗だよ」
「……」
「ねぇ。りーちゃんも姉ちゃんも、僕に何を隠しているのかな」
「……」
「あの子は本当に友達の娘さん?」
「……」
「姉ちゃん」
姉ちゃんは何も答えなかった。僕に抱きついたまま、ただただ無言を貫き続けた。姉ちゃんは知っている。僕が嘘に敏感である事を。そんな僕と会話をする危なさを。
「嘘がバレるのが怖くて黙ってる?」
でも、その質問にだけは答えてくれた。
「うん」
震えた声で。今にも泣き出しそうな弱々しい声で。元カレのお通夜とはまた別の悲哀に囚われた声色で言葉を続けた。
「怖い。凄く怖いよ。この嘘がバレたら、きっと私は立ち直れなくなる。……ねぇ、フク」
懇願するように言葉を続けた。
「まだお姉ちゃんをいじめたい?」
僕は怯える姉ちゃんの頭を撫でながら答えた。昔から姉ちゃんに意地悪するのが好きなのだ。困った顔で僕に泣きついてくる彼女の姿が愛おしくて愛おしくてたまらない。……でも、純粋な恐怖と悲哀に満ちた表情だけはどうにも好きになれないから。
「ううん。もういじめない。ごめんなさい」
りーちゃんが風呂から上がるまで。姉ちゃんの瞳から涙が乾くまで。静かにその弱りきった姉ちゃんの頭を、僕はずっと撫で続けた。
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