泣かずに眠れ
血の繋がりはないけれど、近親ものです。苦手な人はご注意下さい。
カーネーションなんて買うつもりはなかった。それでも、つい手が伸びたのは可哀想に見えたからだ。母の日の翌日、その鉢植えはワゴンの片隅で萎れていた。まだらに色褪せた花の、だらしない赤色。
「母の日、遅刻?」
花屋の店員の質問に、俺は何と答えたんだっけ。笑って誤魔化した気がする。気恥ずかしさのあまり、買うのをやめようと思った時にはすでに店員は鉢を包んでいた。頼んでもいないのに、リボンまでかけられていた。
「カード、書く?」
大人って、どうして子供の客を相手するときだけこういう口の利き方になるんだろう。俺は自分の制服を見下ろして、それから店員の顔を見つめた。悪気のない笑顔だった。化粧していない丸い頬。そこがピンと張って、光っている。
「ペンも貸すよ。本当は五十円もらうけど、特別にタダね」
返事をする前に押しつけられ、俺は仕方なく手に取った。「お母さん、ありがとう」という一文が、ビスケットじみた書体で印刷されている。俺はペンのキャップを外すと、ふと思いついて「お母さん」の文字を消した。その下に「七里」と書き加え、店員に渡す。店員は一瞬、目を丸くしたけれどすぐに元の笑顔に戻った。
「お母さんの名前?」
「いいえ」
店員の質問に、俺は目を細めた。
「義理の父です。俺の家、母親いないので」
俺は根っから意地悪なわけじゃない。けれど、こういった無遠慮な大人には、時々我慢ができなくなる。店員は一瞬、しまったという顔をした。けれど、すぐにカードをピンクの封筒に入れ、目を逸らした。
血の繋がらない家族。それ自体はさほど珍しくないと思う。けれど、我が家はちょっと特殊な部類だ。俺の義理の父親は俺とは縁もゆかりもない。殺人罪で服役し、出所後は病院に入れられたという、顔も知らない実父の親友。それが、俺の育ての親だ。
「ただいま」
帰宅すると、七里はいなかった。靴を脱ぎ、台所へ行く。冷蔵庫に貼られたシフト表によれば、今日は日勤のはずだ。きっと残業させられているんだと思いつつ、鉢植えを食卓の上に乗せる。ワゴンの中より少し、マシに見えた。
この町に越してきて二年になる。俺が高校へ進学する際、七里はこの町への引っ越しを決めた。「高校に近い方が何かと便利だから」と七里は言ったけれど、多分それは本当の理由ではない。
俺たちの住む借家は小さな平屋で、古いけれど日当たりが良い。特に西側に窓のある台所は、夕暮れどきには真っ赤に染まる。俺は自室に割り当てられた六畳間へといったん鞄を置きに行き、それから再び台所へ戻った。米びつを開けて、炊飯釜に入れる。米とぎは嫌いじゃない。さり、さりという音も好きだし、感触も心地良い。
ふと思い立って、とぎ汁を鉢植えに注いでみる。鉢は白濁したぬるい水をぐんぐんと美味そうに吸った。植物は、時々貪欲に見える。無害そうな彼らの欲望。それに俺は少しだけぞっとする。
鉢を見た七里は何と言うだろう。一応、喜んでくれるとは思うけれど、七里は所有物が増えることを歓迎していない。だから、必要なものしか持たないし、不要となれば容赦なく捨てる。「身動きが取れなくなる気がする」と、いつだったか理由を話してくれた。
「勿体ないとか、ないの」
俺がそう訊ねると、七里は目を丸くしていた。そしてこう言ったのだ。
「本当に必用なものって、そんなに多くないんだよ」
あの会話を思い出すたび、俺は考える。けれど、頭の中に浮かんだ疑問を直にぶつけたことはない。知りたいけれど、知りたくない。これはそういう類の疑問だ。
どうして、どうして、どうして。ねえ、どうして。答えが怖い。予想がつかないから。
――七里は、どうして俺を捨てないの?
鉢植えを眺めながら、俺はため息を吐いた。疑うことそれ自体、この上なく後ろめたかった。
炊飯器が保温に切り替わる頃、玄関の引き戸がガラガラと音を立てた。「おかえり」と俺は声をかけると、「ただいま」と穏やかな声が応える。
「残業?」
台所に入ってきた七里に、俺は明るくそう訊ねた。七里は買い物袋をドサリと床に下ろすと「まあね」と笑った。
「社員にならないかって、店長がね。断ったけど」
「その話で遅くなったの?」
「うん。参ったよ、バックヤードの埃臭さ、大嫌いなのに」
七里は駅前のスーパーで週に三日、働いている。怠け者というわけではなく、本業は文筆家なのだ。優しげな容貌には似つかわしくない、エログロ満載のホラー小説がメインで、それなりにファンもいるらしい。
「社員になるの?」
俺の問いに七里は首を振る。
「まさか、断ったよ」
「どうして」
「ここにずっと住むわけでもないから」
「……あ、そ」
「定職に就いて欲しかった?」
「別に」
俺がそう言うと、七里は肩を竦めた。そして「お金のことなら心配いらないからね」と、何度も聞いた台詞を言った。
「次、いつ引っ越すの」
食卓で俺がそう問うと、七里は驚いた顔をした。しかし、すぐに微笑を浮かべると諭すような口調でこう言ってきた。
「卒業まではいるつもりだよ」
「じゃあ、その先はどこに行くの」
「決めてない。でも、ここには留まらない」
微かに目を細め、少しずつ米を口に運ぶ七里の、すっきりとした首筋を盗み見る。俺は七里の両親(俺にとっては、義理の祖父母ということになる)に会ったことはないけれど、きっと、礼儀正しい人たちだったんだろうなと思う。七里の綺麗な箸使いや、いつだって背筋をしゃんと伸ばして食事をするところを見て。
「どうして引っ越すの」
再び質問してみる。すると七里は困った顔をした。
「理由は前に話したはずだよ」
「……そうだけど」
「俺たちは目立つ。望んでいないけれど。だから、余所者でいたい。誰かと親しくなって、詮索されたくない」
「……」
それなら、と喉まで出かかって、俺は漬け物を口の中へと押し込む。それなら、俺なんて放り出せばいいんだ。七里に俺を背負い込む理由なんて元々ないのだから。
実際、俺たちは奇異な目で見られる。全く似てない親子である上、七里の見た目が若いせいだ。四十の坂を控えているのに、下手すれば二十代後半で通る。その上、定職に就いている素振りもない。中学生のときも近所の人に「お父さんは何をしている人なの?」と何度訊かれたか分からない。そもそも本当は父親でもない。戸籍上は他人だ。だから俺は彼を七里と呼ぶし、七里も父親とは呼ばせなかった。
「俺、この町が結構好きなんだけど」
試しにそう言ってみた。七里は「そう」と言っただけで、それ以上は何も言わなかった。
――俺たちはずっと、こうなんだろうか。最近、よくそのことについて考える。そう感じてしまう理由についても。
恋というのは、障害があるほど燃え上がるっていう話は、越えられる障害しかない場合だけだと思う。その証拠に俺はすでにどん詰まりで、状況に疲弊し始めていた。
――この人が好きだ。こんなことって、あるだろうか?
よりにもよって、育ての親が相手だなんて。
確かに七里と俺は戸籍上他人だけれど、恋をして良い相手かといわれたら、正直かなり微妙だと思う。俺が密かに彼を抱きたいと思っているなんて知られたら、七里はどんな顔をするだろう?
こんなこと、誰にも相談できない。それが俺のこの思いを余計、グラグラと駄目な方へと煮詰めてゆく。
「もう食べないの?」
七里に話しかけられ、俺は我に返り箸を持ち直す。俺は今、どんな顔で七里を見ていたのだろう。欲望滴る視線を、ついうっかり向けてはいなかっただろうか。心配になって思わず米を大口で頬張る。咀嚼している間、七里は俺の顔を不思議そうに見ていた。
静かな暮らし。俺たちの関係性を除けば、日々は正にそれだったと思う。引っ越しをくり返し、そのたびに人との縁も切り離す暮らし。二人きりで漂うような生活。俺たちだけを残し、常に周りだけが変わってゆく。
けれど、俺たちも変化と無縁ではいられない。きっかけは手紙だった。
「……?」
その日、郵便受けに入っていた封筒には、俺の実父と同じ名字の、見知らぬ誰かが差出人だった。住所は北陸。七里の故郷と同じ町。
悪いとは思いつつ、俺はその封筒を開けた。七里は今日も残業らしく、家には俺一人だった。
内容は、法律用語が満載だった。ネットで検索しつつ読み進めてみる。簡単にいうと俺の父親の父親、つまり俺の祖父にあたる人が入院したこと、死病らしく先が短そうだということ、そして俺の父親との養子縁組を法的に解消したい旨が淡々と綴られていた。
養子縁組。その事実に俺は頭が真っ白になった。ずっと、七里は父の親友だとしか言わなかった。義理の叔父、ということになるのだろうか? これは。でも、それならどうして隠す必用がある?
何が何だか分からないまま、俺は七里の帰りを待つことにした。手紙を盗み見たことへの罪悪感は吹き飛んでいた。
「これ、読んだよ。養子って何」
まもなく帰宅した七里に、俺は封筒を突きつけた。七里は訝しそうに受け取り、差出人を見てすぐに真っ青になった。けれど、すぐに平然と中身を読み始める。俺の視線と問いは無視されていた。
「……俺宛の手紙だよ」
ややあって、七里はそう言った。怒っているというよりは疲れたような声だった。俺はほんの少したじろいだけれど、勇気を振り絞りもう一度訊ねた。
「養子って何。どういうこと。俺の父親と、何で」
「……」
七里は丁寧に手紙をたたんだ。無言のまま封筒にしまう。けれど、指先が震えていた。顔はまだ青ざめている。
「理由を訊いたら後悔するよ」
長い沈黙の末、七里は言った。俺はすでに後悔し始めていたけれど、もう後には引けなかった。
「――これで、説明はおしまい」
時間の感覚は、途中から失われていた。七里と二人向かい合い、食卓の椅子に座ったまま、俺は言葉を失っていた。
信じられない。最初に抱いたのは怒りだった。
「何、それ」
ようやく声が出る。今すぐに大声で叫びたい気分だった。七里は固い表情で俯いている。
七里は、嘘を吐いていたとは言えなかった。でも、本当のことも言っていなかった。
七里は父の親友で、恋人になり、最後は愛人になった。
それが、俺たちの本当の繋がりだった。涙も出ない。ただ頭がボンヤリとしていた。理解できないのか、それとも理解したくないのか。俺にもさっぱり分からない。
七里と俺の父親は、北陸の田舎町で生まれた。雪深い土地だったという。そのためか酷く閉鎖的で、いつか必ずここを出ようとお互いに話し合って育った。
最初は幼馴染みだった。しかし、ちょうど今の俺くらいの年齢のとき、二人は恋人になったそうだ。お互い、運命の恋だと無邪気に信じていたという。
「莫迦みたいだよね」と七里は話の途中で笑った。俺は全然笑えなかった。俺は自分の恋心を運命だとは思わないけど、真剣なものだと信じている。
結局、高校を卒業しても二人は故郷を出なかった。二人は地元の大学に進み、卒業後も地元で就職した。七里は地元のホームセンターを経営する会社に、俺の父親は祖父の代から続く大手建設会社に。付き合いは続いていたけれど、それはもう、すでに幸福なだけではなくなりつつあった。お互いの親は、それぞれに見合い相手を探し始めていた。学生時代に比べて、より一層ひと目も避けねばならない。それがとても辛くて、惨めで、悲しくて、耐え難かったと七里は言った。隠れれば隠れるほど、自分たちは後ろめたい関係なのだと、自分で認める気がしたそうだ。
父親と七里は結局、破綻した。
就職三年目、俺の父親は地元の教育委員会の会長の孫娘と婚約した。七里はそれを機に別れようとしたらしいのだが、俺の父親は身勝手にもそれを許さなかった。
別れるくらいなら、死んでやる。そう言って、俺の父親は七里を殴るようになった。その上、密かに撮っていた二人の写真を盾に七里を脅した。泥沼の関係がしばらく続いた。最後には憎むのも疲れていた。
「それで、どうなったの」
俺は、やるせない気持ちで問いかけた。
「お母さんに、俺のことが知られた。少し前に君が生まれていたから、我慢の限界だったんだろうね」
その日、七里の部屋には俺の父親がいたそうだ。二人とも裸だった。俺の母親の手には包丁があった。
「お母さんに『殺してやる』って言われたよ。でも、そうはならなかった。アイツとお母さんは揉み合って……気づいたときには、手遅れだった」
酷い話に吐き気がした。俺は泣いた。七里が手を伸ばし、俺の手を握る。「できれば話したくなかった」という呟きが、しばらくして聞こえた。
その夜、俺は七里の部屋へ向かった。まだ混乱していた。けれど、頭の一部が妙に冴えてもいた。
「七里」
襖を開ける。七里は部屋のすみの文机で、何か書きものをしていた。眼鏡を外しながら振り返る姿に、俺はなぜかまた泣けてきた。
「眠れない」
俺が泣きながらそう言うと、七里は「当然だよ」と言って腕を広げた。
「ごめん」
七里がささやく。何に対して謝っているんだろう? でも訊かず、俺は七里の首筋に顔を埋める。今夜くらい、心細い気持ちになったことはなかった。俺の生まれた場所は、何もかもが最悪だった。七里を除いて。
「……俺にも秘密がある」
気づくと、そう口にしていた。縋るような気持ちだった。
「……何?」
聞かない方が幸せな秘密。知れば、二度と戻れないこと。俺は自棄だったのかもしれない。何もかも、なくしてしまいたかったのかもしれない。
「俺は、七里が好きなんだ」
「そう」
「邪な好きだよ。恋だと思う」
「……」
七里は黙っていた。俺も、口を噤んだ。追い出されるかもしれない。そんな予感は少しだけだった。
七里が俺を引き取った理由は事件後、祖父母も含めて誰も俺を欲しがらなかったからだ。閉鎖的な田舎町で起こった、衝撃的な事件。しかも、事件後さらに一悶着あった。
俺の父親は、正確には俺の父親ではなかった。夫に触れてもらえなかった母が、行きずりの男と作った子供。それが俺だということが裁判の過程で明らかになった。
「騒動が収まって居場所がなくなったのは、俺たち二人だけだった。可哀想だったのもあるけれど、俺には死なずにいる理由が必要だった。子供に命を負わせるなんて、してはいけないことだったのに」
脅迫と暴行で訴えないことと、街を去り、二度と戻らないことを条件に、七里は俺を引き取った。
「……どうして俺なの」
しばらくして、七里は厳かに言った。冷たい声音ではないけれど、怖いくらい落ち着いていた。感情の揺らぎのない、絶対の凪。
「俺も知りたい。理由って大切?」
答えながら俺は俯く。
理由なんて、本当は沢山あった。いつだって、優しかった七里。どこにも根付かない暮らしの中で、唯一変わらず側にあり続けたもの。説明できなければ、愛ではないなんて俺はどうしたって思えない。この苦しさを、証明しなければいけないなんてあんまりだろう。
「俺は、お前の父親の恋人だった」
そう告げる七里の声は、震えていた。
「母親は、俺のせいで刺された」
「うん」
「今まで、騙してきたと言えなくもない」
「……うん」
「他にも問題は多いよ。俺は」
「それは」
「それでも、俺なの」
俺は涙声で唸り、頷いた。七里のため息が聞こえる。
「分かった」
不意に、七里が身じろぎした。優しい仕草で、俺の両腕を振りほどく。俺はされるがまま、項垂れた。もう一度、手を伸ばす勇気はなかった。
七里は立ち上がり、部屋を出て行った。ペタペタと素足で廊下をゆく足音が聞こえ、バシャバシャという水音が続く。俺はのろのろと立ち上がり、怖々と音のする方へ向かった。七里は、台所の流しで顔を洗っていた。骨張った背中が描く、緩やかな傾斜。
「迷惑かけて、ごめん」
絞り出すようにしてそう言った。言いながら、また泣けてくる。ずっと、一つ屋根の下で暮らしてきた。優しい育ての親だった。不満なんてない。きっと純粋に愛することだってできたはずだ。養い親と、その子供として。でも、その道を選べなかった。愛する対象、恋に落ちる相手を、人は本当の意味で選ぶことはできない。好きになろう、と思って何かを愛するわけではないから。
「――迷惑じゃないよ」
七里の返事に、俺は耳を疑った。顔を上げると、群青色の暗がりの中で、七里が静かに言葉を続ける。
「拒むべきだって、分かってる」
そう言って七里は笑った。泣き笑いだった。
俺たちは、双方真面目にことを成した。そうは言っても、いきなり最後までは辿り着けず、互いの体を探り合うだけの実に拙いそれだった。滑稽な流れで、人の話だったら多分、笑ったと思う。
「信じられない」
絶頂は数秒で、その後の方がずっと長い。七里の呟きを、俺は余韻の中で聞いた。俺だってまだ信じられない。こんな望みが叶うなんて。
どうして、と俺は訊かなかった。それは、七里を侮辱するものだと思った。理由なんて一つしかない。一つしかないと思いたかった。
「怖い」
俺がそう言うと、七里が小さく息を吐いた。そして呟く。「俺も怖い」
――自分が。
七里の言葉に、俺は頷いた。この瞬間、息が止まればいいのにと思う。
この夜を抱えて、明日、目覚めなければならない。それは途方もないことに思えた。現実の夜明け、その続きを平然と生きてゆく。そんなことができるのか。何もかもが変わってしまったのに。
「……他の選択肢もあるんだよ。それを忘れないように」
俺の頭を抱き抱えつつ、七里が穏やかに囁いた。夜の川の流れのような、静寂を湛える冷たい流れ。答える代わりに、腕を伸ばす。痩せた背中に腕をまわし、そのまま軽く爪を立てた。汗が引いたばかりの肌は冷たく潤み、湿っている。よく知っているようで、知らなかった七里の匂い。
これからどうなるのだろう。考えながら、俺は腕に力を込める。痛いはずなのに七里は動かなかった。
俺たちはどこに行くのか。どこならば、行けるのか。まだ分からないし、ずっと分からないのかもしれない。けれど、きっと今夜を忘れたりはしない。絶対、絶対、絶対。
俺たちを置き去りにして、夜はただ深まってゆく。いずれやってくる朝。その先の日々。考えると足が竦んだ。命綱のように七里の体温に縋り、俺は目を閉じる。
眠りたくはなかった。けれど、夢は見たかった。
了