第三話、マリアーノは奪う
「お姉様、お姉様の侍女はお菓子作りが得意だと聞きましたわ。私にちょうだい?」
マリアーノのいつもの我儘。しかしフェリチータが言葉を飲んだのが分かった。
「サラの雇い主はお父様です。私の一存では決められません」
一息して押し出された言葉は冷たく冷えていた。
「お姉様はいじわるだわ。私も美味しいお菓子が食べたいだけなのに」
はたして美味しいお菓子を食べるために侍女を寄越せと言うのは「だけ」になるのか。
「私は事実を述べただけです。お父様にお聞きになって下さい」
「そんな···」
マリアーノの頬をポロポロと雫が落ちる。その後ろの侍女や従者が色めき立つ。
色の無い雫だと思った。
その目には青い感情を映しているくせにと。
「お父様にお願いしたらいいぞって言ってくれたわ!今日からサラは私の侍女よ!」
次の日には頬を上気させたマリアーノがそう叫んだ。
顔色を無くしたフェリチータは小さく「そう」と言った。
「お父様の決定なら異論はないわ」
はしゃぐマリアーノに背を向けて、フェリチータはサラに向かう。
「姫様···」
「お父様の決定よ。今までご苦労様」
すいと横を通り抜ける。アントニーとイリアだけがその後ろに着いて行く。アントニーを見れば理解出来ないという顔をしていた。フェリチータは今日の業務をそつなくこなした。
次はフェリチータが成人の儀を終えた数日後だった。
「申し訳ありません、姫様」
噛みしめた唇はうっ血し、握りしめた手の平には爪が突き刺さっている。
「陛下の、ご命令です···」
「そう」
そちらを振り返らないフェリチータは素っ気無い。
「あなたも、私を置いて行くのね」
「違います!私は姫様のお側にずっといると誓いました、陛下にも撤回を求めました!ですがっ」
アントニーの必死な声は届かない。
「もういいわ。今までご苦労様」
「···これだけは、言わせて下さい。私が姫様とお呼びするのは生涯貴女様だけです」
深く、深く頭を下げて、アントニーは去った。
イリアは口を開かない。静寂を破るのはイリアではない。
「ねぇイリア、あなたは私のモノよね?」
「はい。フェリチータ様」
凍りつく様な冷たい声。振り返ったその顔も同じ温度をしていた。
「私の名前を呼んでいいのはお母様とお父様とイリア、あなただけよ。あなたは何があってもどこにいても、私を名前で呼びなさい」
常識的にただの従者がそんな事出来るはずがない。だが、その冷たい声と表情を裏切る様にはらはらと零れ落ちる雫を見て、イリアは膝まづいた。
「承知しました。フェリチータ様」
イリアにはその雫の意味は分からなかった。
所構わずフェリチータを名前で呼ぶ従者に、口さがない声はすぐに広がった。
ただならぬ関係だろうと。
それをフェリチータは意にも介さなかった。変わったのは表立って名前を呼ばれるようになっただけであり、イリアの態度も表情も何一つ変わっていない。もちろんフェリチータもだ。
呼び名一つでこうも騒ぎ立てる者達が滑稽ですらあった。
それでもフェリチータは変わらない。むしろ以前にも増して淑女たれ、皇女たれと自分を戒めていた。従者に名前を呼ばせている事以外つつく隙がないほどに。
いつの間にかそれが当たり前となり、お転婆で我儘である事が過去のものとなった頃だった。
「お姉様!」
サラとアントニーを含めた多くの侍従を引き連れ、フェリチータのドレスを、フェリチータの靴を、フェリチータの耳飾りを、フェリチータの首飾りを、フェリチータの髪飾りを、身に着けたマリアーノが、イリアだけを従えたフェリチータに駆け寄る。
「お姉様、アントニーったら酷いのよ、いつまでたっても私のこと『第二皇女殿下』って呼ぶのよ?私にはマリアーノっていう名前があるのに」
可愛らしく頬を膨らませてみせるマリアーノにフェリチータは溜め息を殺した。
「彼はもう貴女の騎士なのだから私には関係ありません」
「そんな、冷たいわお姉様」
マリアーノの後ろの侍従達が殺気立つ。この程度で殺気を漏らすなど、訓練が足りないとイリアは思った。
「用件はそれだけですか」
言外にもう行っていいかと問うフェリチータに、あっそうだ、と嬉しそうに声を上げ、マリアーノの歪んだ口元がフェリチータの耳に寄る。
「お姉様のその従者便利そうね。私にちょうだい?」
その瞬間、フェリチータのまとう空気が変わる。
「駄目!」
それは、誰も見たことがない鬼気迫る顔だった。誰も知らない憤然たる声だった。
「イリアは私のモノよ!あんたにも誰にも渡さないわ!!」
そう叫んでマリアーナに掴みかかったフェリチータを誰も止めることが出来なかった。
模範的だった第一皇女の激昂に、誰もが驚き、困惑し、足踏みをした。
マリアーナの悲鳴が響いて、ようやく周囲が動き出す。
「ドレスも宝石もサラもアントニーもお母様まで私から奪ったくせにまだ足りないっていうの!あんたなんか大っ嫌いよ!」
離されてもフェリチータは止まらない。涙の滲む憤怒の面で叫び、手を振り回して怒りを叩き込もうとする。髪もドレスも乱れ囲われるだけのマリアーナは怯えた目で震えるばかり。彼女は本当にフェリチータから恨まれていないと思っていたのだろうか。イリアには分からない。
「あんたなんかにあげるものなんて私には無いわ!全部あんたが盗っていったんだもの!」
髪を振り乱し、繊細な首飾りが千切れてバラバラになり、袖が破けてもフェリチータは止まらない。
その姿を誰もみっともないとは思わない。フェリチータの心からの悲鳴だと分かるから。フェリチータの悲痛が分かってしまったから。
「あげないわ、イリアは私だけのモノなのよ!!」
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「愚かな事をしたな」
「私が愚かだと言うのならば妹を許すお父様は大馬鹿者です」
冷たい顔には互いに感情が乗っていない。
「お母様を愛しているのは私だけの様ですね」
「今俺はお前の話をしているんだ」
「同じ事です。私はお母様を奪った妹を許さない」
明らかに怒っているはずなのに表情が動かない。
「異論は許さない。明日国を出す」
「そこまで私が疎ましいのですか?」
立ち上がった皇帝は己が娘を見下ろした。
「子を産むまで帰って来るな」
扉が閉まってはじめてフェリチータに表情が浮かぶ。
冷たい雫が、頬を滑っていた。
その後、皇帝からフェリチータに他国への嫁入りが下された。
二つ国を跨いだ先の、御歳五十を過ぎた国王への嫁入りであった。
お読みいただきありがとうございました。
フェリチータ専属はサラとアントニーだけでした。雇用主は皇帝陛下。
イリアはフェリチータのナイフ、つまり所有物なので皇帝陛下が雇用主という訳ではありません。後、決してイケメンでも可愛くも無いので最後まで残りました。残り物です。見切り品です。