第二話、イリアとフェリチータ
それからのイリアの日々は凄惨を極めた。否、この表現はイリアにとって正しくはない。イリアにとって、血反吐を吐くような戦闘訓練も寝る間を惜しんだ教育もフェリチータの突拍子の無い我儘ですら意には介さなかった。充分な食事を与えられ、清潔な服に身を包み、名を呼ばれる。それだけで十二分に感じてさえもいた。
「貴方は感情が欠落しているのね」
フェリチータ付きの侍女であるサラがある時言った。
「それは大きなハンデよ。人の感情を理解出来ないのだから」
理解出来ないならそうあるものだと覚えなさいと言われた。
「お前は感情を持たないのか」
あのいつもフェリチータを迎えに来ていた大人ーーフェリチータの騎士アントニーはそう言った。
「それはお前の強みだ。感情が悟られないという事は行動を読まれない事に繋がる」
感情を覚えるなと言われた。
その欠落した何かの分だけ空いていたかの様に、イリアは全てを吸収した。フェリチータを守るための武術も、フェリチータの側に侍るための知識も、全て飲み込んだ。
フェリチータから受け取ったナイフが手に馴染む頃には、イリアはぼろ切れの様な姿ではなくなっていた。少なくとも普通に見れるだけの人間にはなっていた。
ある日、そのイリアを上から下まで見回したフェリチータが言った。
「少しはマシになったわね」
「ありがとうございます、フェリチータ様」
その日からイリアはフェリチータの従者になった。
どこからか現れた正体の知れない従者に周囲は驚き、その感情の見えなさに不審がったが、完璧すぎるほどによく出来た従者に不満を訴える者は減っていった。
フェリチータはその従者をどこへでも連れて行き、何をするにも従者を頼った。しかしその仲は皇女と従者としてキッカリ線引きされたものでもあった。
皇女は幼いながらも誰もが憧れる立派な淑女として。
従者は無表情だが鏡と言える完璧な側仕えとして。
それ以上でもそれ以下でもない関係だった。
ーー人前では。
「イリア、お菓子をちょうだい!」
「サラに怒られてしまいます」
誰も見ていない所ではいつもの我儘放題なフェリチータ。どこであろうとイリアの表情は動かない。
「つまらないわね、イリアは」
「過分なお言葉です」
「ちっとも褒めてないわよ!」
感情が分からないイリアは時折頓珍漢な事を言う。だから指導してくれるサラとアントニー、そして主人であるフェリチータ以外には余計な事は話さない。
その無駄を話さない無口さが更なる疑念憶測を産んでいたとしても気にしない。
「ちょっとくらいいいじゃない。今日もまたマリアーノに盗られたんだもの」
マリアーノとは第二皇女の名前。綿菓子の様な人間だとイリアは思っている。
マリアーノはどこでも誰にでも我儘で、特にフェリチータに対しては酷い。お菓子だけでなくアクセサリーもドレスも靴も何でも欲しがる。それを周囲は止めない。むしろ叶えない方が悪いとばかりに騒ぎ立てる。
心酔している、と言うらしい。イリアには分からない。
あの甘ったるい声の、あのふわふわした見た目の、あの軽い頭の、あの甘さしかない様な存在の、どこに意味があるのかが分からなかった。
「姫様、ケーキをお持ち致しました」
サラが滑るように部屋に入って来た。恐らく話しを聞きつけたのだろう。ケーキが微妙に豪勢に見える。
「ありがとうサラ!」
喜んで飛び上がるフェリチータにサラは微笑む。
「姫様、街で流行りの髪飾りだそうです。良ければお使いください」
「まあっ、アントニーにしては趣味がいいじゃない!」
「あー、お店の方に選んでいただいたので···」
「どうりでだわ」
午前休を取っていたアントニーが帰ってくる。先日盗られた髪飾りの代わりだろう。
「お付けします。フェリチータ様」
「そうしてちょうだいイリア」
ケーキを頬張るフェリチータの邪魔にならぬよう髪をほどき、新たに編みながら新しい髪飾りで留める。
「ふふふふふ、サラのお菓子は世界一ね」
「ありがとうございます、姫様」
それは不安定でも平和で平穏な日々だった。
これは毎朝の習慣。
フェリチータは毎朝早く目覚め、皇宮内にある墓地へ行く。歴代の皇族が眠る墓。普段はそこで膝をつき、手を組んでじっと目を瞑るだけ。年に一度だけはサラとアントニーも連れて花束を持って訪れる。
それが何を意味しているのかイリアは知らなかった。
フェリチータに付き従うようになった頃に知った。故人を偲んでいるのだと。それはフェリチータの『お母様』であり、とても大好きで大切な人だったと。美しく気高く毅い皇妃だったと。イリアとフェリチータが出会うおよそ一年前にマリアーノを庇い命を落としたと。
フェリチータが毎朝何を思っているのかは分からない。しかし、『お母様』を深く想っている事だけはイリアにも分かった。
「会談に同行しろ」
「お父様、私、まだ未成年なのですが?」
「来年には成人する」
同時に『お父様』は苦手である事も知った。引きつった顔からこの野郎と聞こえて来る気がする。
フェリチータの『お父様』つまり皇帝はイリアと同じくらい何を考えているのか分からない人間だ。恐ろしい無表情か背筋の凍る微笑、又は悪魔の嘲笑。この三つ以外の表情をイリアは知らない。恐らくその他大勢も同じく。顔に相応しい冷徹な采配をするが、国が栄える善政を敷いている。顔に似合わず良い皇帝でムカつくとフェリチータは言っていた。
「イリア、行きますよ」
「はい、姫様」
他人のいる場ではフェリチータと呼んではいけない。サラから厳しく言われている。
イリアには政治の善し悪しや出来栄えはよく分からない。しかし教わった事に適しているかは判断できる。だから、フェリチータが間違いを犯す事なく相応しい振る舞いで会談を終えた事は分かった。
後、相手方が良い反応であるという事は分かった。
お読みいただきありがとうございました。
このお話は10話くらいで終わらせようと思っているので、簡潔に話が進むようにしています。
多分···。