第33話(89話) 真と虚
もう、時間がない。
基地の長い廊下の壁に身体を寄りかからせ、引きずるように先を目指す。その先にいる人物に、出来るならば会いたくはない。
だがその人物しか知らない。全ての真相を知る人物の居場所を知っているのは。
「おやん? こんな深夜に…………って、あぁ、貴女でしたか」
「トリック…………フェイス…………」
いつもの軽いふざけた雰囲気はそこにはない。フルフェイスのヘルメットを外し、白く濁った瞳がエルシディアを貫いていた。毒々しい赤紫色の髪が僅かに揺れる。
「その様子じゃ、もう1年も保ちませんね。最近、鏡見ました?」
「うるさい…………いいから早く会わせなさい……うっ!? ゲッホッ!!?」
途端にエルシディアは吐血する。ひとしきり噎せ、溜まった血を全て吐き出すと、再びトリックフェイスを睨み据える。
「あーあー。こんなに床汚して……目からも出てますよ、血」
自らの目を指差して伝える。しかしエルシディアはゆっくり歩み寄り、トリックフェイスの襟首を掴んだ。
「教えなさい……!! 時間がない、時間がもうないの……貴方の要求にはもう十分応えた、十分実験にも付き合った! だから、うっ、グバッ!!」
更に込み上げた血をトリックフェイスに浴びせてしまう。少し顔をしかめ、トリックフェイスはエルシディアを突き飛ばした。
「うっ…………!!」
「実験、えぇ、確かにやりましたね。昔も、今も。違うのはそれが貴女の意思か、そうでないか。そして変わらないのは、昔も今もまるで役に立たなかったこと」
トリックフェイスはエルシディアの懐から溢れた薬を拾い上げる。
それはシュランに渡したものと同じものだった。
「理論上、あと少しは生きられる筈なんですよ。理論上は。…………はぁ、貴女も、貴女の姉も、実験材料としてあまりにも不適切すぎる」
エルシディアの腹を蹴り上げる。
「あぐっ!?」
「身体は脆弱で」
エルシディアの左胸を踏みつける。
「ガッ!?」
「心は薄弱」
ひとしきり踏み躙ると、トリックフェイスはエルシディアの髪を引っ張り上げた。そして目の前に小さな手鏡を突き出す。
「その結果が、これだ」
「っ!!?」
その時初めて幻覚ではない、本当の自らの姿を見た。
コバルトグリーンの眼は白く濁り、髪からは色が抜け落ちていた。目や口には血によって赤黒い線が引かれ、痩せこけた頬は無機物のように乾き切っていた。
「あぁあぁあぁ、これじゃあ愛しの彼も気づいてくれないかもしれませんねぇ」
「…………っ、っー、ーーーっ!」
「泣いてももう遅いんですよねー。……もういっそのこと、身も心も粉々にしちゃいましょっか」
トリックフェイスはエルシディアを引きずり、部屋の奥へと連れて行く。
長い、長い間引きずられ、とある部屋の前に辿り着く。
その部屋の名は、「総司令官室」。今まで指示を下しながら、一切顔や名を明かさない人物の部屋。当然エルシディアも知るはずがない。
だがエルシディアの本能は、激しい拒絶反応を示した。
「いや……………………」
「何で? 会いたいんでしょ、真実を知る人物に。今会わせてやろうっていうんですよ」
「やだぁっ!! やだ、やだやだやだ!!! やだぁぁぁぁぁっ!!」
泣きじゃくるエルシディアを無理やり引っ張り上げ、部屋の扉を開いた。
真っ暗な部屋の中心に、エルシディアを放り込む。
不気味だ。屋内だというのに風が吹き抜けるような音が聞こえる。
震えが止まらない。
「お久しぶり、エル」
耳に吐息がかかり、エルシディアは転ぶようにして距離をとる。ガチガチと歯が鳴り、過呼吸になる。
優しい声。しかしそれは深淵から響くように、暗く、陰湿な雰囲気を纏っていた。
「あぁ、電気つけなきゃ。忘れてた」
そういうと同時に、周りが光に包まれた。
「ひっ?!」
その瞬間、思わず悲鳴をあげる。
部屋一面に貼られていたのは紛れも無い、ビャクヤの写真だ。それも全て幼少の頃のもの。そして眼下に広がっていたのは、異様な光景だった。
脈打つ心臓のようなアクトニウムコア。それに繋がる大量のチューブも、まるで誕生を待つように脈動している。
それがガラスの床を隔て、エルシディアの真下にあるのだ。
「久しぶり、エル。会えて嬉しい」
そしてエルシディアの前に、1人の少女が躍り出た。
「貴女は…………貴女は…………!?」
「アリア・クラウソラ、ス……」
ニコニコと笑う顔、薄っすら開かれた白く濁った瞳が、エルシディアのものと交錯した。
「何で…………生きて…………」
「死んだなんて、言った覚えないよ? そんな事より、再会を楽しみましょう。ほら、ミートパイを焼いたのよ。貴女の好物。お食べなさい」
パイを切り取り、震える口元へ運ぶ。だが代わりに、エルシディアの口から再び血が溢れ出した。
「うぶ、ぐぅぅ、ガホ……!!」
「あらあら、パイが血塗れ」
「えーっと、総司令官殿。そろそろ本題に入られては?」
トリックフェイスがおずおずと提案する。
しかしその瞬間アリアの顔から笑みが消え、空気を震わす様な殺気が走る。
「黙りなさいギーブル。誰が口出ししていいと言ったの?」
「あ、あ、はいはい。分かりました分かりました。ならどうぞ、ごゆるりと」
あのトリックフェイスが苦笑いを浮かべ、後ずさる。再び向き直ったアリアの表情は、笑顔に戻っていた。
「ねぇエル。貴女のことは本当に小さな子供の頃しか知らないけど、本当に綺麗な子に育ったわね。確か、肺と心臓が弱かったんだっけ? しょっちゅうケホケホ言ってたっけなぁ……」
アリアは心の底から嬉しそうに笑っている。だがその笑みは、エルシディアの古い記憶を掘り起こした。
怒号、振り下ろされる手。浴びせられる罵倒。
「どうして…………?」
「?」
「どうして、私達を、実験、に…………」
「ん〜? 私が生きてることについてはもういいの? ……まあ良いか。久しぶりにお話しましょう」
エルシディアの口に無理矢理パイが押し込まれる。鉄臭さと甘さが混ざり合い、意識が飛びそうになる程酷い味だ。
「まず、貴女は、貴女達は勘違いしている。貴女達を実験に使ったのは他でもない。貴女達のお父さんよ」
「お父…………さん…………? そんなはずない! だって私は父親の事を知らない! あの時見た顔は間違いなく貴女……っ、あれ……?」
「おかしいよね? 何で私の顔は覚えているのに、お父さんのことを覚えていないの? 私と貴女が会っていたのは、貴女が2歳になるまで。私は「天翼の光事件」以来、貴女と会えなかった。でもまだその時は、お父さんと一緒にいたはずよ。
「っ? ーーっ!?」
頭を押さえ、過呼吸になる。
エルシディアの頭の中ではアリアが告げた言葉と自らの記憶がぶつかり合っていた。どれが真実で、どれが虚構なのか。
アリアが嘘を吐いているのだと必死に自らへ言い聞かせようとする。しかし彼女の言葉に矛盾はない。むしろ今まで信じていた自らの記憶の方が、矛盾に塗れているように思えた。
「あれ? あれ、あれ? 分からない? 何が…………あっ、あは、どうして? 分からないよ、分からない……」
「可哀想に。もう心が壊れかけてる」
アリアはエルシディアをその胸に抱きしめ、背中を撫でる。
「でも大丈夫。貴女達を苦しめたあの悪魔はもういない。あの綺麗な眼…………思い出すだけで頭が痛くなる! 散々人の運命を捻じ曲げておいて、最期に彼奴は「死にたくない」なんて言った!! 私達は、今も死ぬより辛い思いをしているのに!!」
歯が砕けんばかりに噛み締められる。
かと思うと、突如アリアはエルシディアの顔を掴み、自らの顔の前まで引き寄せた。
「っ!」
「貴女達は多分、バイオレストア手術の時に強い麻酔を投薬された。彼奴は医者、子供にそんなものを使ったらどうなるかくらい分かっていたはず。それを自分の子供達にやったの。死んで当然の、下劣な行為よ」
「…………」
「そんな奴の事、忘れていた方が幸せだったのかもしれない」
エルシディアは力なく地面に伏す。眼下では謎のアクトニウムコアが、変わらず脈動を続けている。少し前まで綺麗だと感じていたそれは、今ではおぞましく見えていた。
「でもね。まだ終わっていない。貴女とビャクヤを私から奪った男…………アーバインへの復讐がまだ終わっていない!!」
アリアは立ち上がり、トリックフェイスの方へ向き直る。
「ギーブル! 貴方への報復はその後。全てが終わったらその生涯をかけて償ってもらう。……7号機の起動準備を進めて」
「はいはい。……その前に」
トリックフェイスの背後の扉が開く。
「来客です。ほんじゃ、私は邪魔にならないよう端に寄っておきますわ」
ゆっくりと開いた扉の向こうから、訪問者は歩み寄ってくる。
拳銃を手にして。
「あぁ……貴方にも会いたかった、アレン」
「アリア……!!!」
続く
次回、Ambrosia knight ~遠き日の約束~
「偶像の愛」
偽りの記憶と、未だ掴めぬ、本当の愛。