悪役令嬢に幸あれ
14歳になったウィズワルドと、妹のシャルロットが12歳の時にそれは起こった。
侯爵家の跡取りとしてウィズワルドが自室にて勉強をしていると、午後の一時に相応しくないシャルロットの悲鳴が屋敷中に響いたのだ。
悲鳴というよりは、カエルがつぶれたような拉げた叫び声だったのが残念で、ウィズワルドが一瞬頭を抱えてしまうのも致し方ない。
なにしろウィズワルドから見たシャルロットは妹でなければ敬遠したいと思っている、少々お頭が弱いのだ。なにしろ怪我をした時も痛みにも気づくことなく笑っていられる不思議な性格をしていたからだ。
しかし明るく表情も豊かで、年齢のわりに幼いところもあるがウィズワルドからしてみれば可愛らしい妹でしかなかった。
そのシャルロットの悲鳴を初めて耳にしたのだから、ウィズワルドは部屋へと急いだ。両親は仕事で屋敷にはいないので、駆け付けたのはウィズワルドと執事などの使用人の数名だ。
「シャルロット、どうかしたのか」
いち早く駆け込んだウィズワルドは自分の目を疑う。
侍女として常に行動を共にしているメイサが必死の形相で倒れているシャルロットに声をかけている。
カエルが潰れているのではないのだから、うつ伏せで両手を上にあげて倒れている姿は見たくなかったとウィズワルドが思うのも仕方ないことだろう。まして、どんなことがあっても驚いて倒れる令嬢のような軟な心臓をシャルロットが持っているはずないのに。
「なにがあったのか説明を、メイサ」
ゆっくりと部屋へ入る際に、異常がないか目配せをする。けれど普段と変わり映えのしない妹の部屋だと警戒を解く。
「先ほど殿下からシャルロット様へのプレゼントが届き、嬉しそうに箱を開けていたのですが、中に入っていたものを目にした途端、倒れられました」
「なるほど、わかった。僕がシャルロットを寝かせるから、君はその中身を持ってきてくれ」
片膝を立ててシャルロットの横に腰を落としたウィズワルドは、気が動転していたメイサにそう告げると、いつまでも床に倒れさせていてはいけないと彼女の代わりに妹を抱き上げてソファーへと寝かせた。いくらシャルロットよりも2つ年上とはいえ、妹よりも小柄なメイサでは抱き上げることは不可能だろう。
「シャルロットは大丈夫そうだ。すまない、心配させたな。持ち場に戻ってくれ」
部屋の外を窺っている執事たちに労いの言葉をかけると、彼らは安堵をした表情をして戻っていった。
それを見届けてからソファに寝かせたシャルロットの顔にかかった髪を払いのけると、顔色が意外にも青白いことに気付いた。
「こちらが殿下から届いたプレゼントです。シャルロット様はこちらを目にされた後、お倒れになられました」
「ありがとう」
顔色の悪さに驚いていたウィズワルドだったが、近づいてきたメイサに微笑む。
差し出されたのは金のバレッタで、さすがは王族が選んだことはある一品である。
「これのどこに見て驚く要素があるというのだ」
「私にお尋ねになられても返答に困ります」
宝石と造花で彩られた品の良いそれに、ウィズワルドが首を傾げれば、同じようにメイサも困惑をした表情をしている。
「それもそうだな」
「ただ、お倒れになられる前に、呆然とした顔でシャルロット様はこう呟かれました。『悪役令嬢のシャルロット』と」
「悪役令嬢?」
「はい。意味は分かりませんが、シャルロット様は確かにそう口にされました」
悪役令嬢。
聞いたことのない単語だ。悪役と令嬢を組み合わせただけの意味ではないと理解していても、シャルロットがどういう意図で使ったのかわからない。
「ふうん、面白い。メイサ、またシャルロットが意味不明な言葉を口にしたら必ず、どんな些細なことでも僕に話すように」
「かしこまりました」
黒い笑みを浮かべたウィズワルドに、メイサは間髪入れずに返事をする。さわらぬ神にたたりし、面倒事を吹っ掛けられたくないとメイサは順応な態度を示す。
その後、目を覚ましたシャルロットを心配するウィズワルドと両親を前に、妹は挙動不審な態度を繰り返していた。
「大丈夫か?」
「えっと、もちろんですわ。私、なんだか疲れていたみたいで」
「そう。でもねシャルロット、」
「な、なんでしょうか」
びくびくと何かを恐れている小動物な態度に、ウィズワルドはついつい意地悪をしたくなる。
そんなウィズワルドの性格を両親は気づいており、呆れた思いを抱かれているのを知っていた。
馬鹿だバカだと言いながらも、ウィズワルドはシャルロットを決して見捨てることはしないだろうと両親だけでなく使用人たちも知っているからこそ、かわいがりすぎて嫌われないか心配をしていた。
「淑女を目指す君が、あの悲鳴はいただけないと思うよ。まるでカエルが潰れたような声は、いくら僕たち家族でも心臓に悪い。まして、ほかの者が聞いていたかと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいだ」
「カエルの潰れた声……」
ショックを受けるシャルロットに、こっそり笑ってしまったのは仕方ないだろう。
もともとウィズワルドは妹の言動だけでなく行動を何気なしによく見ていた。
何しろ妹の行動は飽きなくて、何よりも面白いのだ。
バカで、おっちょこちょいで、勉強にもあまり身が入らず悪戦苦闘しており、すぐにメイサに泣きついている姿が、ウィズワルドはとてつもなくシャルロットが愛おしい。
彼女の婚約者も、そんなシャルロットを気に入っており、一緒に観察をする仲だ。
もっとも、二人の間に恋愛感情はなく、漠然として将来結婚するのだろうなという関係だが。
まだまだお前にはやらないからな、覚悟しておけ。
牽制するウィズワルドの表情に、兄と同い年の婚約者は苦笑いをするしかなかったらしい。
この国では16歳になると貴族が通う学園へと入学することが義務付けられている。ここでは勉強だけでなく社交や今後の職業への準備をする大切な場所である。
貴族である以上、国のために働かなくてはいけないし、人脈作りをしなくてはいけないので自分の目を養わなくてはいけない。将来のために必要な勉強場である。
けれど学園に通う間は休みの日以外は寮が生活の場所へと変わるため、ウィズワルドは面倒だと考えている。
気の置けない友人ができるまでの間、気苦労も増えるだろうし億劫ではあるものの、二年後にはシャルロットが入ってくるのだから、そのための地盤を整えておく必要もあるかもしれないと自分を紛らわせている。
何しろシャルロットは女性から見ると天然と称され、嫌われる傾向が強いと思うから。
そのためには、兄であるウィズワルドが頑張らなければいけないと考えていた。
だが心のどこかでは、唯一のストレス解消だった妹の観察ができないことが不満だった。
入学した学園生活はそれなりに楽しむことができたし、妹の婚約者との関係も良好だった。
侯爵令嬢であるシャルロットの婚約者は、この国の第二王子だ。金髪碧眼という、まさに物語にふさわしい容姿で、あまたの女性たちを兄王子と二人で虜にしている。
何しろ国王陛下も女王陛下のお二人も美形だということで、世の女性たちの眼福であるのは確かだ。
それから2年度、シャルロットが入学をしてきた。
二つ年上であるメイサは男爵令嬢で、行儀見習いとして学園に入学するまでの間シャルロットに仕えていた。そのためウィズワルドと同じときに学園へ本来なら入学をするべきなのだが、妹がわがままを言い入学を遅らせてもらったのだ。
いくら侯爵令嬢のわがままとはいえ、メイサは嫌な顔を一つすることもなく了承したのが少し不思議だった。それを問うとメイサは鮮やかな笑みを浮かべて答えてくれた。
「私はシャルロット様のお傍についていてあげたいのです」
その言葉に感動し、まるで本物の姉のようになつくシャルロットを抱きしめていた。正直、確信犯だとしか思えなかったが、シャルロットのための行動だと思えば致し方ないと思うことにした。
入学前に情緒不安定になっており、片時もメイサの傍を離れなかったことが休み中の出来事だ。
何に不安を感じているのか知らないが、シャルロットの不安をメイサは感じ取っており、不平不満を口にすることなくそれに付き合っている。
「いつも以上に、挙動不審だな」
びくびくと震えるシャルロットの姿はまるで外敵と対峙している小動物のそれと同じ。愛らしい妹の姿をめでるのは楽しいが、些か度が過ぎている。
「何があったというのだ」
妹が眠ってからメイサを呼び出した。
「そのことでしたら、先日お話をいたしましたが」
「乙女ゲーム、だったな」
「はい。この世界はその乙女ゲームにそっくりで、シャルロット様はそのゲームの悪役令嬢として登場されるそうです。そこで最後のエンディング近くでゲームのヒロインに断罪されることが決まっているそうです。それが怖くてこの有様です」
「断罪、ね。そうやすやすとできるとは思わないのだが」
「私もそう思いますが、ですがやはりここは念入りに考えておいたほうがよいと思います。シャルロット様のこの怯えようも、私にはどうしても妄想だとは思えないのです。このまま一生この妄想にとらわれ続けるシャルロット様を見るのはつらいので、早々に終わらせてしまいたいのが本音です」
「大丈夫だ、わかっているから。もうその話は屋敷で散在話し合っただろう。私はメイサに協力をするつもりだから、しっかりとシャルロットを見張っておいてくれ」
「もちろんです。そのために寮でのお部屋もご一緒させていただくのですから」
鼻息荒くメイサがガッツする姿を見て、ため息がこぼれてしまう。
休みのたびに屋敷へと戻ったウィズワルドが見るのは、姉のように慕うメイサにしがみつくシャルロットの姿だった。
確かに愛くるしいシャルロットの隣にいても見劣ることのない美少女のメイサではあるが、その位置は自分だと自負していたウィズワルドは感謝もしている彼女に対して少々憎いと思ってしまったのだ。
学園に入る前まではその隣は自分がいたのに。
今もそうだ、やっと入学してきたというのに、シャルロットは昔とは違いウィズワルドのほうへと視線が向かないことに腹が立った。
それからしばらくして、偶然登校中にウィズワルドとシャルロットとメイサの三人が重なった。その際に興奮したようにメイサが校門のほうへと指をさした。
「ウィズワルド様、あの方です。彼女がゲームの主人公であるヒロインです」
淡い金糸の髪に青空の瞳、整った顔立ちの美少女が口元に笑みを浮かべて歩いている。
あまり良いことではないからかすぐに指をさすのをやめたメイサに苦笑してしまう。
代わりにシャルロットがヒロインに気付き挙動不審に磨きがかかった。
「いた、本当にいたよ、ヒロインが。どうしよう、私殺されちゃうの? 嫌だよ、怖い。お兄様もメイサも私のこと捨ててしまうの?」
ぶつぶつと独り言を始めるシャルロットを見つめていると、ウィズワルドは別の病気ではないのかと心配になる。
目の色は黒く濁り、ヒロインを見つめているそのさまは暗い。シャルロットの本来の輝きを損ねているその存在を憎く感じてしまうほどに。
じっとシャルロットを見ていると、視線を感じる。顔を上げるとシャルロットよりは幾分か落ち着いているものの、ほの暗い瞳をしたメイサがウィズワルドを見つめている。
「どうした?」
「私はシャルロット様の味方でい続けますが、ウィズワルド様はどうなさるおつもりですか?」
屋敷でも問われた質問だった。しつこいと思ったが表情は真剣そのもので、真摯にこたえようと態度を改める。
「何があろうとシャルロットを信じると誓おう」
「間違えました。その考えを変えるご予定はありますか?」
「昨夜も伝えたように、ない。くどいぞ、メイサ」
「大切なことですので、申し訳ありません」
「私がどのような行動を起こそうとも、何があっても裏切ることはしない」
「そのお言葉を信じます」
不遜な態度で微笑むメイサに、ウィズワルドはシャルロットが彼女のようにならなくてよかったと思うしかない。
「学園内だけだぞ、男爵令嬢」
「心得ております、侯爵令息」
不敬罪だとウィズワルドが問うことがないと知っているメイサだからこその気安い応酬。
「シャルロットを守ってやってくれ、俺のいないところでは」
「かしこまりました、ウィズワルド様」
なんてことをシャルロットの上で会話しているのにもかかわらず、妹がそれに気づく様子はない。じっとヒロインだけを見つめて、ぶつぶつと何かを言い続けていた。
学園生活は、ウィズワルドにとって今後の社交の場だと考えている。
だから自分の言動がいかに大事なのかを二年もの間に理解し、次へと活かすようにしていた。
それだけに目の前の光景に頭を抱えたくなる。
どうして中身を伴わない行動をするシャルロットが大勢いるんだ、と。
中庭には五人の男女が仲良く座っていた。
一人はヒロインといわれる彼女、もう一人は生徒会の会計である彼、もう二人は双子の彼ら、最後にまさかのシャルロットの婚約者である殿下。
仲良く語り合っている姿は、はたから見れば仲睦まじくよきことかもしれないが、男四人にはそれぞれ婚約者がいるのだから、あれをやるのは非常にまずいことだと気づいていない。
現に、彼らの婚約者が悲しげに彼らを見ていて、その現状をお互いの家へどのように報告をしているのかと、どうしてわからないのだろうか。政略結婚は互いの意思を尊重するものではないと幼き頃から耳にタコができるほど聞かされているはずなのに、それを放棄してしまったのに問題を軽視しすぎだと苦言を何度か呈していたが、聞く耳持たぬ彼らは知らぬふりを続けているが。
ここ最近のシャルロットも悲しげな瞳で殿下を見ては悲しげにため息をつき、ヒロインを見ては悲鳴を上げてメイサと一緒に逃げていた。
それはまあ、面白いのだからいいけれど、あのヒロインがウィズワルドにも声をかけるようになったことがいただけなかった。
内容は侯爵令息として宰相の息子としてのウィズワルドを心配しているなど、色々と考えられないような思考の内容の言葉をもらっていた。
父以上の宰相になり、陛下を支えていくのがウィズワルドの夢なのだから、今をがんばらなくてどうするんだと言ってやりたかった。ここで簡単にけつまずいてしまうということは、将来もっと重大な責任を背負った時に逃げ出してしまわないか不安が付きまとうようになる。心配も過ぎれば毒にもなるだろう。
仕事をきっちりとこなすことと逃げは違うかもしれないが、できることから逃げ出すことはしたくないのだ。宰相の息子という肩書がある以上、それ以上の何かで努力を示していかなければ成果が出ないのだから。
だからヒロインという名のバカ女のことが憎らしくも思えた。実際、感情を押し殺さず睨んでみたらそそくさと逃げ出して「ありえない、私はヒロインなのに」と呟いているのを聞いて笑ってしまった。
この現実世界にヒロインも主役もいない。自分こそが主役なのだから。
「だからこそ君が憎いよ、殿下」
遠目から見ても殿下が嬉しそうにヒロインと話しているのを見て感情を隠さず睨んでしまう。視線を感じたのか、殿下がウィズワルドへと視線を向け、挙動不審にヒロインへ話している姿を見ていると馬鹿にしたい気持ちでいっぱいになる。
聞いた話になるが、殿下は最近シャルロットに冷たいらしい。挨拶をしようと近づくだけで必要ないと言い、ヒロインとの違いを口にするらしい。
すかさず隣にいるメイサが止めに入ろうとすれば、ほかの三人もヒロインの素晴らしさを伝え、最後に二人への暴言を吐いて去っていくという。
残念ながらその現場をウィズワルドは見たことがないので文句を言うことすらできない。
ことが終わり涙を流してうずくまるシャルロットを慰めるメイサたちの背中だけを見ていた。
変わらない茶番劇は続けられていく。そのたびに泣くシャルロットたちを目にする回数も増えていく。
苦言を告げてみても変わろうとしない者たちに、何を言っても仕方ないのかもしれない。
ウィズワルドは自分が無力であることを知る。
「ウィズワルド様、あの」
めったなことでは学園で声をかけてこないメイサが、人目を気にしながらシャルロットとともに近づいてきた。
蒼白な顔色をしているシャルロットに、何事かあったのか心配をするものの、そうではないらしい。
周囲の目から隠れる場所へと移動し、やっと落ち着いて話ができる。それくらい注意をしながら接触をシャルロットは禁止していた。
「シャルロット様が大切にしているバレッタをなくされてしまいました。あの、バレッタでございます」
持っていくつもりはなかったのだが、なぜか荷物の中に紛れ込んでいたバレッタ。使用回数は極端に少ないものの、殿下に持っているかと聞かれれば、つけないわけにもいかない。
落とさないようにと二人で気を使っていたのにもかかわらずなくしてしまった。
「お兄様、どうしましょう。私、私あれで犯人にされてしまいます」
「犯人?」
「そうです。私は彼女を階段から突き落としたり、刃物で切り付けたりしません。絶対に、ええ、絶対に。メイサが傍にいる限り、私はそんなことをしたりしません。だから私を嫌わないで」
必死の形相でしがみついてくるシャルロットに、しばし感動する。
普段から決して近づいてこないシャルロットが、自分からウィズワルドにしがみついている構図が彼に喜びを感じさせていた。
「大丈夫だ、君がそんなことをする必要がないと私は理解しているよ。だから安心して、私はシャルロットを嫌ったりしない」
「本当に?}
「心配性だね。本当だよ。絶対に、私はシャルロットを守ると約束するよ」
「約束ね、お兄様。絶対に」
ぽろぽろと泣きだすシャルロットを抱きしめながら、今後についてメイサに目で合図を送る。
心得たようにメイサが微笑む。
「バレッタというと、殿下からの贈り物だったね」
「そうなのです。なくさないようにと気を付けておりましたが、さすがに体育でつけるわけにもいかず。誤算でした、まさか体育のある時に殿下がつけてくるように頼まれるとは思いませんでしたので。忘れたふりをすればよかったと後悔しております」
本当にそう思っているのか考えさせられる表情をしているメイサ。
「それも彼女の計算なのだろうね。わかった、でもそれは」
「はい、もちろんこちらで用意させていただいたダミーです。本物はしっかりと自宅にて保管されております」
「こらこら、あくどい顔をしているよ、メイサ。ふむ、つまりこれから起こることはイベントというののそれか」
「はい。先ほどシャルロット様が話されましたどちらかが、残念ですがヒロインの好き勝手な口上により作られてしまいます。その際、犯人をシャルロット様にされるかと思います」
「殿下の婚約者だから、だな」
断定した物言いだが、傍観者として見ていたウィズワルドも同じ見解だった。
「そうです。私の推測ではヒロインは殿下を狙っていると思われます。逆ハーを作られてはおりますが、間違いはないかと」
「私も同じ意見だ。ではこれからの指示を出そう。メイサ、君はシャルロットを必ず一人にさせないことと、常に第三者の目の届くところにいることを気を付けるんだ」
「はい」
しっかりと頷くメイサの瞳には、何かの決意を抱かせる。これからそんなすごい出来事が本当に執り行われるのだろうか。
「お兄様、ごめんなさい」
もぞもぞと動き出したシャルロットが、腕はウィズワルドの腰に回したまま顔だけを上げてきた。
久々に見た愛らしいシャルロットの姿に、メロメロになりそうな自分を律しながら微笑む。
「シャルロットが悪いわけではないよ」
「でも」
「シャルロットが悲しまない現実を作るために、やっと動き出せるのだと思うと私は嬉しいよ」
「そういってもらえると私も嬉しいです、お兄様」
「大丈夫だから、そんなに泣いては駄目だよ。赤く腫れてしまうからね」
優しく目元をぬぐうウィズワルドに、シャルロットはうっとりと瞳を閉じる。
一歩下がったところでその光景を見ていたメイサはげんなりとしていた。この二人の雰囲気が甘すぎる、と。
「シャルロットはメイサの傍を絶対に離れないこと、これだけは約束してね」
「はい、約束します」
にっこりと微笑むシャルロットは、とても愛らしい。けれど疲れているのか隈ができた眼元が、青白い顔色が痛ましい。
「大好きよ、お兄様。ずっとお傍にいてくださいね」
そう言って頬にキスを送るシャルロットに同じように返してから、別れた。
寄り添うように去っていく二人の背中を見つめながら、そろそろ終盤に差し掛かっているのかもしれないと思った。
ヒロインである彼女はまるで何かをなぞるようにして一年を過ごしている。
悪役令嬢シャルロットという言葉を知ってから、長い年月が過ぎた。
日に日に弱っていくシャルロットが痛々しく、この茶番劇を早く終わらせてしまいたい。なのに、行動に移そうとするとヒロインたちにたどり着くことができず、一日が終わってしまうことが多々あった。
それをメイサは「強制力」といった。
ゲームというもののシナリオになぞって進ませるために、不穏なことを取り除かせているのかもしれないと。
意味は分からなかったが、とにかく自分の力では何もできないことだけが理解した。
だからこそ、ヒロインからの突発な行動を避けることもウィズワルドはできなかったし、でも最後には突っぱねることはできた。それこそが、ゲームではなく現実なのだと証明したかった。
それから数日が経ち、一つの事件が起きた。
何者かがヒロインを階段から突き落としたというのだ。そして踊り場に落ちていたのが一つのバレッタのみ。
それを見た殿下が怒り狂ったようにシャルロットへ殴り込みに来た。
「どういうことか説明していただこうか、シャルロット嬢」
バレッタを手にした殿下がシャルロットに詰め寄る。昼休憩のために教室には数名が残っており、何事かと見守っている。
「殿下、それは」
がくがくふるえるシャルロットを庇うように近づき支えるメイサは、殿下の表情が少しだけ気になった。恋に恋する男の顔つきというよりは、シャルロットへの何かに対しての非難の色を見せているだけに感じたのだ。何しろ断罪イベントでは殿下とヒロイン、それに取り巻きたちの大勢で来るはずなのに、今は殿下一人で乗り込んできた。
「君がフィーナ嬢を突き落したのか?」
「私はそんなことをしておりません」
「ならこの動かぬ証拠はなんだ。これは幼き頃、そなたを思い作らせた品だ」
憤慨している殿下はヒロインに懸想してシャルロットに詰め寄っているというよりは、階段から突き落したことに対して怒っているように見える。
「私ではありません。私はそんなことしません」
「動かぬ証拠があるというのに、かたくなだな。まあ、いい。色々とフィーナ嬢にやっていたという証拠もある、そろそろ君にも反省してもらわなければならないな」
同じクラスにいたヒロインを取り巻く男子生徒の一人がシャルロットに真っ黒な笑みを浮かべる。まるでそうでなくてはいけないかのような口ぶりに、シャルロットの震えは一層激しくなる。
まして、人目を気にすることもなく始まったこの剣幕に、生徒たちの好奇な目が邪魔をしてシャルロットは逃げることができない。
気づけば殿下だけではなく、ヒロインと他の取り巻きたちもシャルロットを取り囲むようにして現れた。
皆がシャルロットを見下し、蔑んでいるのがわかる表情をしているため、委縮してかたくなっている。
間に入ろうとしたメイサを、殿下の傍にいた男性が払いのけた。倒れこんだメイサに駆け寄ろうとするものの、シャルロットの前にはヒロインが立ちふさがった。
心配するメイサの瞳が自分にあるのだと自身を奮起し、シャルロットはヒロインへと対峙する決意を固める。
「どうして私が、フィーナ様を傷つけなくてはならないのですか」
蚊の鳴くような声で、けれどそれでも懸命に対抗しようとするシャルロットに、殿下が鼻で笑う。
「私の傍にフィーナ嬢が傍にいることが許せないからだろう」
まるでそうであるべきだという言葉にシャルロットが反論する。
「許しますわ、許します。私たちの間にあるのは政略結婚という名の婚約者同士ですもの。殿下がほかに好きな方がいるというのであれば、私は彼女にその地位をお譲りします」
「なに?」
初めて殿下の表情に戸惑いが入る。激怒していたはずの顔から表情が抜け落ちる。
ここでやっとウィズワルドが駆け付けたものの、はっきりと自分の意見をぶつけているシャルロットに気付き、間に入るのをためらう。
自分の口ではっきりとそういう感情がないことを告げたほうがいい。もしそれで納得ができないようであれば、すぐにでも駆け付けて助けよう。
「私は殿下など好きではありませんもの。幼いころから一緒にいましたから幼馴染という情はございます。けれど恋愛という意味の愛情は私は持っておりません」
「シャルロット嬢……?」
「そうよ、好きになどなれるはずがありませんわ。私の意見を聞く耳も持たず、浮気をするような相手にどうして愛情を抱けますでしょうか」
次第に熱がこもり始め、声が大きくなる。
反対に顔色を悪くして目を見開いて呆然とする殿下。
「殿下の魅力など私にはまったくわかりませんし、まして婚約者がいながらほかの女性を褒めるような浮気男など好きになる要素がどこにありますか」
きっぱりと言い切ったシャルロットに、殿下のほうがダメージ大だ。
「そんな、シャル……」
「愛称で呼ばないでください、勘違いされてしまいます。はっきりと申し上げますわ、私が好きなのは殿下ではありません」
きっと睨みつけると、起き上がったばかりのメイサの腕の中へと逃げてしまい、大きな声で泣き出してしまった。
そんなシャルロットに殿下が困惑した表情で見下ろしており、その隣にいたヒロインがヒロインであるまじき顔で睨みつけていた。
「どういうことよ、あんたはここで私に切り付いけてこないといけないのよ」
そう呟くヒロインに、シャルロットが顔を上げる。周囲が困惑しているのも気にならず、ヒロインのその言葉にざわざわとさざ波のように広がっていく不信感。
「私はそんなことしないわ」
「あなたがそれをしてくれないと、私が殿下と相思相愛になれないじゃないの」
「しなくても勝手になりなさいよ。私を悪役令嬢に仕立て上げて、悦に入って幸せになろうなんてさせないんだから」
ずっと我慢をしていたのだろう、シャルロットが感情を爆発させたように饒舌になっていた。
普段なら気持ちを押し隠して言葉にせず静かにしていたシャルロットが、ヒロインに対してしっかりと返事をしている。
それだけの不満がずっと心の中で巣食っていたいたから。
「私が一番好きなのは王子なんかじゃないもの」
とどめを刺してしまうことを理解しているのだろうか、ウィズワルドは少し離れた位置でその光景を見ていたが、止めるという考えはなかった。
シャルロットだけではなく、ウィズワルドだってずっと不平不満を抱き続けてきたのだから。
「私が一番大好きなのはお兄様よ」
目の前に立ちきっぱりと言い切ったシャルロットはいい仕事をした、と言わんばかりに輝かしい笑顔を見せた。
そんなシャルロットとは対照的に、殿下が膝が曲がる。地面に蹲るようにして頭を下げてしまい表情が見えないが、きっとこの世の終わりのような顔をしているだろう。
強制力という力がなければきっと殿下もシャルロットの傍にいただろうに、その意志が弱かったことで妹から痛恨の一撃を食らってしまった。
困惑気味ではあるものの、怒りで顔色を真っ赤にしているヒロインが憎しげにシャルロットを睨んでいる。
けれどもう、シャルロットは一歩も引くことをしない。もう一人ではないことが分かったから。
「私の一番好きな女性も、シャルロットだよ」
「お兄様」
一歩ずつ、ゆっくりとこの茶番劇の中心へと足を進める。
ウィズワルドの姿を目にしたシャルロットが眩い笑顔で迎えてくれる。大好きだと体中から訴えてくるその笑顔に、周囲の者もこれが茶番劇なのだと気づかされる。
「その大切な妹に、君はいったい何を言ったのか教えてくれるかな」
「ウィズワルドくん」
そしてなぜなのか、ヒロインはウィズワルドが来たことで瞳が輝いているのはどうしてなのだろうか。君ではなくシャルロットを好きだと言ったのに。
「ウィズワルドくんは私の味方だよね?」
さも当然のように話しかけてくるが、知人ですらない彼女に声をかけられウィズワルドは額にしわが刻まれる。
「バレッタだったかな、確たる証拠は。でもよく見てほしい、殿下。それは確かに殿下がシャルロットに送った品か」
「間違いない、ここにイニシャルが」
そう言いながらバレッタを見た殿下が、首を傾げる。
「これは私が送ったバレッタではないのか?」
「そうですよ。よく見ていればわかるように作っておいたのですが、それに気付くこともなく決めつけでのあれですか。殿下は落ち着きがないと言われているのですから、もう少し考えをまとめてから行動に起こすとよろしいですよ」
「偽物を用意しておいたのか?」
訝しむような瞳をする殿下に、ウィズワルドが心外だと首を振る。
確かに似たものを作りもっていたことは非に値するかもしれないが、この茶番劇にはこれがなければ突破できなかっただろう。
「偽物を作ったことに対しては今はまだ何も言えませんが、殿下をだましてなどおりません。殿下が勝手に勘違いをされただけです。こちらの品はあまりにも素敵だったからと、お揃いがよいと駄々をこねたシャルロットがメイサのためにと作っておいた品です」
名を出されたメイサが殿下へと目礼をする。それにヒロインの目がまずますつりあがる。
「なのでシャルロットというよりはメイサがヒロインを突き落したということですね。理由はなんでしょう」
「どういう意味よ」
察していながら理解していないふりをするヒロインの姿は一目瞭然で、形勢逆転を狙っていたはずが、逆に追い込まれているように感じているだろう。
「そのバレッタが落ちていたというのであれば、持ち主が疑われるのでしょう。ならばメイサに尋ねるのが筋です」
「わかったわ、二人で私を突き落したのよ」
嬉々として顔色の戻った広いがそう叫べば、殿下が横からストップをかける。
「それはない」
「どうしてですか?」
「いかに私が何も考えずに行動を映していたのかを理解したよ。あのウィズワルドがシャルロット嬢とメイサ嬢を守っているのだよ、残念だけど彼の性格から考えて非道な行いを二人にさせるはずもないし、シャルロット嬢がするはずがない」
何かが抜け落ちたかのようにさっぱりと非を受け止める殿下に、ヒロインが狼狽える。
「ウィズワルドくんは、私の味方でしょう? だって、あの侯爵令嬢のことなんて好きじゃないはずだもの」
当然であるように首を傾げるヒロインに、先ほどのような怒りはない。
反対に突然名指しされた侯爵令嬢は驚き、周囲に何のことかと尋ねるものの誰も答えを持っていない。今の学園内にいる侯爵令嬢は彼女しかいないのに、その理由がわからなかった。
それだけで学園にいる者たちは慄く、知らぬ間に自分たちも渦中の中にいたのかもしれないと。
「私の味方は、常にシャルロットにあるよ。それに、メイサにも一応ね」
「どうして? 私が一番のはずなのに」
それが当たり前だと口にするヒロインを、遠巻きに見ていた生徒たちは認識を改めていく。ヒロインの行動や言動が、今までおかしかったことを。そしてそれを平然と受け止めていた自分たちにも。
「シャルロットは私の大切な妹だからだよ。それにメイサはその妹を常に守ってくれている令嬢だ。私にとってみれば君のほうが赤の他人で、どうでもいい存在だよ」
「そんな、ひどい」
「ひどいのは君のほうだ。ありもしない証拠を証拠として挙げ、私の大切な妹を傷つけようとしたことは、万死に値する」
「それがイベントなのだから仕方ないでしょう。王子も、あなたも、それに彼らも私のために存在しているのだから」
「私は君のために存在はしていない。私は私のために存在しているのだから。ずうずうしい考えだな、君は」
「私はこの世界の主人公であり、あなたたちのヒロインなのよ」
鼻息荒く言い切るヒロインに、ウィズワルドは頭が痛くなる。シャルロットの阿呆な行動にも呆れてしまうが、それ以上にヒロインはおかしい。
「言動がおかしくなっていることに、そろそろ気付いたほうがいいよ」
「おかしくなんてないわ。もう、どこにリセットボタンがあるのかしら。もう一度やり直さないと」
「そんなボタンがあるわけないだろう。君は病院に行ったほうがいい、そしてこの世界が現実であることを理解すべきだ。君のせいで殿下も、それに彼らの未来も傷をつけたのだから。いずれその代償も払うことになるだろう」
「私のためについた傷ですもの、甘んじて受けとめて頂戴」
にっこりと微笑むさまは、本当に美しいのかもしれないが、毒花のような甘さを含んでいる。
「申し訳ないが、君の傷はさほどたいしたものではない」
くすりと笑うウィズワルド。本当はかなりの痛手になるはずだが、それをヒロインの前で認めてやりたくなくなったのだ。
「君はやりすぎたんだよ、殿下に手を出すのはやめておけばよかったんだ。せめて誰か一人に絞ってやればよかったのに、周囲の目を気にすることもなく大々的にやるから自滅する」
学園内の秩序を守るために派遣されている衛兵が数人、こちらへと走ってくるのが見えた。
最初からこの断罪イベントが行われる日にヒロインを取り押さえる計画は考えていた。
仲良くしているだけといいながら、婚約者のいる彼らを惑わし、殿下を誑かそうとした。それがどれだけの代償が必要になるのか知らなかったのか。
罵るように叫びながらも衛兵に引きずられるようにして去っていくヒロインを見ながら、やっと終わることができたのだと実感してくる。
しばらくすると、後ろで控えるようにして見ていた令嬢たちが前へと出る。
皆、ヒロインの取り巻きだった婚約者たちだ。
メイサが彼女たちと連絡を取り、どういう理由を話したのか味方につけ、彼らをどうさばくか考えていたという。
そんな彼女たちの登場に、取り巻きたちが動揺をする。散々彼女たちを馬鹿にし、嘲笑してきたのはほかならぬ彼らだけに、ヒロインのあれを見てしまったあとでは何を言われるのか不安にもなるだろう。
「皆様方は一生、私たちに頭が上げられないということを理解できますか?」
「彼女への思いを貫くのは素敵だと思います。ですが、しっかりとやるべきことをやってから行ってもらいたかったです」
「婚約はあくまでも戦略で、私たちの意志ではなかったことがどうしてお分かりにならなかったのですか? どうして、私たちがあなたたちのことを好きだと勘違いされたのか甚だ不い思議です」
「本当ですわ。好きになる要素など一つもありませんのに、勝手に惚れられて困ると言われても、私たちのほうが困惑して大変ですのよ」
ずっと言いたかったことを口にした令嬢たちは、まだ言い足りないと思いながらもじっと彼らを見つめる。ぽかんと口を開けてその言葉を理解し徐々に顔色を悪くする彼らは、きっともうヒロインの毒に侵されていないだろう。
けれどそれでは遅すぎたのだ、彼女たちの苦言を聞かなかった彼らに残っているのは一生を不意にしたかもしれない事実と、それを何とか首一枚でつなぎとめている現実だ。
「これからどうされるかはご自身で考えてください。私たちも一緒に考えて差し上げますが、以前のようにあなた方の良い方向へ行くことはありませんから」
婚約者としてもう一度自身を鍛え上げてもよし、破棄を考えて自分を見つめなおすこともよいだろう。
全員が項垂れるようにして地面にのめりこんだのを確認してから、令嬢たちがシャルロットたちへ向き直る。
「シャルロット様、メイサ様、ありがとうございました。お二人がいなければ、私たちは無様なお姿を周囲にさらすところでしたから。でも考えてみれば政略結婚を強いられた者同士、心強い仲間ができて本当によかったです。今後のことはしっかりと家の者も交えて話し合いたいと思います」
そう告げると、彼女たちは彼らと一緒に去って行った。
気づけばゆっくりと見物に来ていた者たちが去っていく。茶番が終わったのだと気づいたのだろう。気をきかせてくれたのだろう、教室には四人だけが残っている。
まだ静かに地面に蹲っている殿下に気付き、ウィズワルドが笑う。
「そろそろ浮上したらどうだ」
「無理だ。もう無理だ、シャルロット嬢にきっぱりと振られてしまった」
「振られてしまったって、お前が先に振ったも同然だろうが」
「そんなつもりはなかった。ただ、彼女が突き落したと聞いてついかっとなって……それにお前との約束も、何があろうと破棄するつもりはなかったのに」
どうしてこんなことになってしまったのだろうか、という呟きは声にならなかった。
「別にシャルロットはお前のことを嫌ったわけじゃない。もともと好きという感情にお前はいなかっただけだ」
「もっとひどいじゃないか」
顔を上げて抗議する殿下の顔色は悪い。折角の美男子も見る影もない。
「でも、将来を見越せばこれから頑張るところじゃないのか」
「……どういう意味だ?」
「何を言っている、別にシャルロットはお前に愛想を尽かして二度と会いに来るなとは口にしていない。だったら、シャルロットに惚れられるような立派な男になればいいだけのことだろう。ほれ、ここにいい見本がいるだろう」
にやりと笑ってやれば、乾いた笑みを浮かべてやや浮上した殿下がウィズワルドからシャルロットへと視線を向ける。
「そうだな。兄であるお前より上に行かないと、俺は好いてはもらえないのだから」
「踏ん張りどころだ。腐ってる暇があるなら男を磨け」
ゆっくりと音もなく立ち上がると、殿下がシャルロットへと一歩近づく。
びくっと震えながらシャルロットも逃げては駄目だと心に叱咤をして殿下を見つめる。
「ごめんなさい、私、怖くて」
本当は嫌ってませんと言いたいのに、口にできなかった。
「大丈夫だよ、わかってる。悪いのは私だからね」
「殿下」
「でもこれからは覚悟しておいて。絶対に君から愛していると言われる男になれるように努力するから」
片膝をついて、メイサの腕にしがみついているシャルロットに手を伸ばす。
その手を見ながら、首を傾げて微笑む。涙が浮かび、もう大丈夫なのかもしれないと思い始める。
「婚約破棄を、殿下はされると思っていました」
ずっと、思い描いていた映像が心から消えず、近い未来で婚約破棄を口にした殿下から断罪されるシーンがシャルロットを苦しめていた。
幼いころに出会い、まるで兄のように仲良くしてくれる殿下を慕っていたのは本当だが、それでもいつか裏切られるのであれば好意を抱かないほうがいいと思っていたのだ。自分が傷つかないようにと。
「私がフィーナ嬢を階段から落としたのだから、婚約を破棄すると、そういわれると思っておりました」
「婚約破棄だなんて、そんなこと私が言うわけない。君は政略とはいえ幼き頃から知っている大切な婚約者なのだから。あの時はその、人を階段から落とすというひとっとは思えない行動を君がやるなんて信じられなくて、暴走しすぎたようだ」
すまなかったと頭を下げる殿下に、シャルロットが困惑する。王族が簡単に頭を下げてはだめだと知っているだけに。
そんなシャルロットに、ウィズワルドが気にするなと声をかけてきたので、思っていることを全部口にすることに決めた。
「あの、皆には殿下は浮気をしている、あれはもう浮気ではなく本命を見るような熱のこもった瞳をしている、きっと私に戻ることはないだろうと言われ続けておりました。人の心は移ろいやすいので、きっと心変わりをしたのだと思っておりました」
「浮気と思われていたほうがいいような……でも私は彼女をそんな熱のこもった思いで見ているつもりはなかかった。変な娘だなって思いで見ていたから、そう見えてしまったかもしれないね。君がそうであったから。でもごめん、それについては言い訳はしない。君に対して不誠実なことをしてしまった事実は消えないし、許されるとは思っていないから。それについては一生かけて許してもらえるように努力するよ」
真摯に受け答えする姿は以前と変わらぬ殿下で、やっとシャルロットも昔の彼が戻ってきたのだと少しだけ気持ちが緩む。
「お兄様とメイサの次に、本当は好きですよ」
「やっぱりウィズワルドが一番なんだ」
「そこは譲れません。お兄様はいつだって私の味方でいてくれましたから」
ごめんなさい、と告げると殿下はいいよと微笑んだ。
「ありがとう、婚約を解消しないでくれて」
「そんな、私からはできません」
「不誠実な私のことを並べ立てたら、間違いなく解消することはできたと思うよ。それをウィズワルドとメイサ嬢も知っていると思う。だから、ありがとう」
そういわれても、返答に困るだけだ。
知っていたらやっていたかもしれないし、もしかしたらしなかったかもしれない。どちらにしても終わってしまったことだからわからない。
二人が笑いあう姿を目に、やっとウィズワルドも心に安寧を抱くことができた。
「シャルロット、殿下に部屋まで送ってもらいなさい。ここまでの茶番劇を見せてしまったんだ、少しくらいは仲の良いところを見せておいたほうがいいよ」
「え、でも……」
「先ほどのことがあったから、午後の授業は全部休校になるはずだからね。先に部屋に戻っておいても大丈夫なように話を通しておくから。それに、もう殿下は馬鹿な行いなどしないから」
「わかりました。よろしくお願いします、殿下」
殿下を使っていいのだろうかと思案するシャルロットに、力強くうなずくウィズワルドを信用する。かつて自然に話していた関係も、今では歩き出す一歩さえかみ合わない。
それでもなんとかぎこちないながらも会話をしながら去っていく二人の背中を見ながら、そのあとに続くためにメイサも歩き出す。
「ああ、メイサはちょっと待って」
「はい?」
何事かと振り返るメイサに、ウィズワルドはすべてが終わったら話を聞かなくてはいけないと思っていた。
本当はもっと前に聞く予定だったのだが、思っていたよりもシャルロットの心の動揺が激しくて聞き出すことをやめておいたのだ。
タイミング的には今が一番良いと思い、誰かが戻ってくる前に終わらせてしまいたかった。
「ずっと君には聞かなくてはいけないと思っていたのだが、メイサ、君はヒロインと同じなのだろう?」
一瞬だけ動揺を見せたものの、すぐにメイサはそれをきれいに隠し通した笑みを浮かべた。
「まあ、何のことでしょう」
「転生者、というものだろう」
「どうしてその言葉を」
「何もできないままなのが悔しくて、ずっとヒロインを見張っていたのだが、その時に色々と面白い話を聞くことができてね、彼女がその言葉を口にしたことがあったんだ。放課後の裏庭で、あまり人が立ち寄らない場所だったから誰もいないと思ったんだろうな、自分で確認するようにぺらぺらと意味不明な言葉を口にしていた。最初は意味不明で理解に苦しんだものの、だんだんとその言葉の意味を理解できるようになって、考えてみたんだ。ずっと不思議だったメイサの言動が、彼女と同じだと気づいたときに理解した。君も転生者なのだろうと」
「そんな、私は」
「違うと否定するのであれば、申し訳ないが認めるまで容赦はしないよ」
黒い笑みを浮かべてメイサを見つめる瞳には冷酷な色がある。シャルロットに見せる色ではなく、先ほどのヒロインに見せた色だと気づき、彼には勝てることはできないとメイサは負け戦なのだと悟る。どの道、この腹黒に勝てるだけの口先を持ってはいない。
「ウィズワルド様のお考え通りです」
「やっぱりね」
やけくそに答えたメイサに、満足そうに笑むウィズワルドが対照的だ。
「上手に隠せていたけれど、詰めが甘い部分があったよ。シャルロットから聞いた話だと一言入れることが多かったことと、断罪イベントの話の時、私にこう話してくれたよね。『一年の最後には断罪イベントがあります。シナリオ通りに進むとは思いませんが、ヒロインが殿下を狙うのであれば必ず起こるイベントで、それを回避できればシャルロット様は悪役令嬢になることはありません』と。僕にはシャルロットの言葉はよく理解できなかったのに、メイサは先に聞いていたとはいえ落ち着いて対応していたのが気になっていた。だから今日までのヒロインの行動や言動を見て合点が行ったんだよ、君のあの話し方に似ていると」
気を付けていたつもりだったのに、どこで間違えていたのだろうか。
「一つだけ不思議に思っていたが、私と君の婚約はゲームのシナリオ通りなのだろうか?」
「いいえ違います、私はゲームには存在しておりません」
「存在すらしていないのか?」
「言い間違えました。いたかもしれませんが名前もないわき役だったことは確かです。そうですね、シャルロット様のメイドか、学園内にいる女子生徒の一人だったと思われます。なのでウィズワルド様の婚約者様は、違うお方でした」
もちろん、その方はいる。でも名前を出すべきか悩みやめておいたが、すでに答えは出ているのだ。
「先ほど名の挙がった侯爵令嬢ののようだね、ゲーム内での私の婚約者は」
「そうです。だからおかしいのです、男爵の娘でしかない私がウィズワルド様の婚約者になっているので。それで考えてみたのですが、ウィズワルド様はわざと私を指名し、ヒロインから逃げるためだけの婚約なのだろうと気づけました」
「それもあるよ。君は賢いから、私の婚約者であることを他言することはなかった。ありがたいことだ、おかげで周囲には名前を出さずとも婚約者が彼女かもしれないということを匂わせることできたからね」
勝手にヒロインが誤爆したことを思い出したのか、ウィズワルドの口元が緩む。
「私はシャルロット様のためになることしかしたくありませんから」
「なるほど」
納得したように笑むウィズワルドに、メイサも口元に笑みを浮かべた瞬間、言い知れぬ悪寒を感じた。
「君が転生者であることを話さなかった理由を私なりに考えてみたのだが、君はあのゲームをかつて楽しんでやっていたのだろう。それがまさかそのゲームの登場人物になり、断罪されたことに違和感を持つこともなかったシャルロットのメイドになった。そこで気づくのだ、何の罪もないシャルロットを断罪することに何の意味も持たないことに」
「その通りです。私は自分のゲームでの感想を思い出すたびに、腸が煮えくり返る思いでシャルロット様に謝りました。だから、私で回避できるのであれば、どうしても助けて差し上げたいと思っていたのです」
それが自己満足だとしても、ゲームというそれではなく、個人として知ったシャルロットを幸せにしてあげたいと思ったのだ。
「愚かしいとあなたは思うかもしれませんが、私はシャルロット様を愛しております。幸せになってもらいたいと本気で思っているのです。その気持ちだけは疑わないでくださいね」
「もちろん、君のシャルロットへの思いは疑う余地もないよ。でもね、一つだけ許せないことがあるんだ」
「なんでしょう」
「僕にすべてを話さなかったことについては、いずれ君の体で返してもらおうと考えている」
「……へ?」
「ああ、でもシャルロットへの愛情は本当に感謝しているよ。だからと言って許せることでもないから、結婚後は覚悟しておいてね」
「あの、ウィズワルド様? 確かあの婚約はシャルロット様のためだけの約束でしたよね」
「しっかりと正式な書面で作った婚約なのに、君は解消できると思っているの?」
真っ黒な笑みを浮かべるウィズワルドに、メイサは逃げられない運命だと知る。
いったいどこで間違えてしまったのだろうか、選択肢はあったのだろうか、メイサはガタガタ震える体を必死に止めようとする。
婚約は確かに書面を通したが、ウィズワルドは言ったではないか、シャルロットのための婚約だと。
それがどうしてこうなった?
「こんなラスト、ゲームではありませんでした」
そう呟いたメイサに、ウィズワルドはしょうがないよと囁く。
「この世界はゲームではないと、君が僕に教えてくれたんだから」
抱き寄せて額へとウィズワルドがキスを送った。