生きろ
日が変わると俺は部屋を出た。腕時計を見ると、それもきちんと〇時を過ぎていた。秒針が一つ二つと、前に進む。マンションの廊下の仄明るさが、俺の心を撫でる。その感触は気味が悪いものだった。まるで幽霊が俺の後ろにいるかのようだ。
エレベーターのボタンを押す。下からそれはやってくる。
扉が開くと俺はそれに乗った。「1」のボタンを押し、部屋のドアを見ながら「閉」のボタンを押す。扉が閉まり、ゆっくりと箱は下がっていった。
マンションのエントランスから俺は外に出た。自室のみすぼらしさと反比例するような自動扉がゆるやかに閉まる。昼間は残暑が厳しい今でも、夜はすっかり涼しくなっている。夜を歩くのには適した季節だ。
時が次の日になったといっても、夜は昨日の夜と全く変わっていなかった。近くの街が空を照らしているせいで、星が一つ二つしか見えなかった。これは大きな街だけのことなのかといったら、そうでもないということを最近知った。地元も、前より随分と星が減った。便利さを美しさと交換したのだ。
だが、それが悪いことだとは決して思わない。もっと田舎では星がきちんと輝いているのだし、それを売り物にすることだってできる。ここは平等の国ではないのだ。幸福や不幸、人生の大きさは人それぞれだ。しかしまぁ、それを嫌がる人間というのがたくさんいる。皆で苦しもう、助け合おう、皆で幸せになろうなどと……。俺には向いていない。誰かを背負うことも、誰かに背負われることも嫌だ。自分を背負うことさえ嫌なのだ。だから、こうやって俺は毎晩脱出を図っている。
俺はまず街へ向かった。マンションから徒歩で十分くらいにある街の端から、街を通る大きな通りを南に突っ切ることにした。
小さな公園の横を通ると、公園ではホームレスが酒盛りをやっているのが見えた。彼らはおとなしく、社会の隅でぼそぼそ話をしていた。繁華街を闊歩する若者や社会人とは反対側にいるように見えた。だが、それが本当のことか分からない。どこを中心にすればそう見えるのか、何を中心にすれば、誰を中心にすれば。そんなことを考えながら、少しずつその通りへと近づく。
では、一体俺はどこにいるのだろうか。隅なのか、中心なのか、その間なのか。
人生をやりなおしたいのか、と自分に問う。はっきりいって難しい質問だった。どんなに小さな人間でも、大きな人間でも、中途半端な人間でも、苦しみを味わったはずなのだ。それを再度繰り返すとなると、それはひどく辛い。過去を見る時に心に届くのは辛さだ。あの時の失敗、恥。あの時の苦しさ……。あの時の幸せは今にはなく、それに対して言葉を綴るのは惨めな気がした。
県道に出ると、そこは片側四車線になっていた。ここから南に一キロ半。街だ。
静かすぎて寝られないような夜ではなく、そこには賑やかな夜があった。車は遅くもなく早くもないスピードで通過した。昼間のように渋滞はなく、うるさいエンジン音もあまり響いていなかった。
微かに疲労や倦怠感の色が街を染めていた。祭りのあとのような、修学旅行の帰りのような……。
俺は南にどんどんと歩いていった。男同士のグループや、女同士のグループ、それらが混ざったグループとすれ違う。二人組のサラリーマンとすれ違い、三人組のサラリーマンとすれ違い、カップルとすれ違った。
そして、たまに一人の男か、女とすれ違う。たまにだ。
一人は夜に生きづらい。もちろん外での話だ。部屋の中は自由だ。むしろ一人の方が過ごしやすい。
すれ違った人々のほとんどはアルコールを摂取していた。意味なく陽気で、顔が赤かった。
それでも、その中には辛そうなやつもいる。酒が抜けて素面に戻ったのか、酒を飲んでいないのか、そこから遠いところに意識があり、客観的に場を見ているのか。
彼らの気持ちは分かる。俺も大勢と酒を酌み交わし、少しだけしか美味しくない安い料理とそれにぴったりな話を啄ばむのは嫌いだった。周りは騒いでいるが、自分の心はあまりにも静かなのだ。静かすぎて、心が落ち着かないのだ。無音のざわめきが心を撫でるのだ。
そうだ。それは蛍光灯だけが照らす、あの廊下に似ている。薄黄色なのか薄緑なのか、それが硬い灰色のコンクリートを浮かびあがらせる。そこに一人立った時に思うのが、あの場面に近い。
二度信号が青に変わるのを待ち、三度横断歩道を渡った。駅ビルの前を通り過ぎ、寝ているホームレスを見送った。彼は何かを話せる誰かを持っているのだろうかと、余計な心配をした。
駅ビルを過ぎると、西、もしくは東に延びる道路にぶつかった。片側二車線だが、そこも主要道路の一つだった。東に行くと、JRの駅に向かえるのだ。
基本的に私鉄とバスしか使わない俺には縁のない駅だが、一度だけそこからある町へと一人で行ったことがある。
その町が回転するか、逆さになれば、俺はそこに住んだだろう。美しい名前になりそこねた名を持つ町だった。俺は町の名前が書かれた看板を携帯電話で撮り、それをメールに添付して彼女に送った。彼女は喜んでくれたが、そんなこと今、覚えているだろうか。
どんどんと南へと進む。賑やかな街は、わずかながら静かな町へと変わっていった。明るさは淀み、代わりに暗さが整った。
俺は空を見た。変わらず星は一つか二つだった。金色の月は鳴りを潜めていた。
片側四車線の道の名前が、違う名前になったところで、俺は小さな路地に入った。短い商店街のような道だ。そこを真っすぐに進み、そして右へと曲がる。人々の寝息が聞こえそうな、住宅街だ。
俺は住宅街が好きだった。生活のにおいがし、人々の存在が明らかに感じられるそこは、俺に郷愁の二文字を思い起こさせた。狭い路地もそうだ。車が通る心配もせずに走った思い出が、わずかに、ぼんやりと、やさしく返事をした。
スピードを弱め、俺はゆっくりと歩を進めた。誰も何も言わなかったが、どこかで誰かが今も息をしていた。それは電気のついているアパートの一室、目線の奥で道路を横切る猫、玄関先で育てられている観葉植物から分かった。
自分の顔から、軽く笑みがこぼれるのを感じた。それは今に対する安心だった。
だが、それも一時のもの。家へと帰った時、俺はどんな顔をするのだろうか。
住宅街を抜け、道路を渡り、また住宅街に入る。同じような家や、少し洒落た家を見ながら、どこまで行けるか分からないまま歩いた。できるならば、天満宮まで歩きたかった。だが、そこまで何時間かかるだろうか。時間制限のある俺には無理なことだと思える。
五キロは歩いただろうか。ゆるめた歩が、「とぼとぼ」に変わる時、俺はさっと後ろに身を引いた。部屋へと戻される時はいつもそうだった。
暗闇が俺を支配する。身動きが取れず。金縛りのような嫌な心地になるが、次第にそれがどうでもよくなっていき、俺は眠りにつく。
はっと思い、ベッドから起き上がる。目覚まし時計を見ると、午前四時だった。
今日もいつものように幽体離脱を楽しんだわけだが……。楽しんだ? いいや、そうではない。これは何となくの行動なのだ。仕事でなければ遊びでもなく、趣味でもない。ただ何となく服を着替え、腕時計をはめ、部屋の鍵を持ち、スニーカーを履いて外に散歩をしにでかけただけのこと。……そうなのか? 他に何かあるのでは。
このあと、八時に起きる。そのあと、シャワーを浴びて、着替えて、鞄に筆記用具や教科書、ノートを入れる。それから家を出て電車に乗り、学校へ。学校へ行っても、授業から心は離れている。飲み会にいるようなものだ。心はひどく静か。笑い、真剣な表情を浮かべる他の生徒を見ながら、俺は何をしているのかと寂しく思う。時間は無駄に過ぎる。アルバイトはやっていない。親の仕送りだけが頼りの生活。……ひどい生活だ。何もやっていないに等しい。この人生は失敗だ。誰がどう見ても失敗だ。自由なのかもしれないが、幸せはどこにもなく、苦痛がレールの先に待っているようなものだ。
だが、これらが人生における失敗だとしても、誰が俺を非難できようか。お前は糞だ、お前は駄目だと君たちが言ったとしても、俺は君たちに何をしたのだ、できるのだ。社会の隅にいるホームレスと同じなのか、俺は。それだって語弊がある。俺は別にホームレスを糞だと思っていない。社会の隅が人生失敗者の土地だと誰が決めたのだ。自分の人生だ。君たちの人生ではない。だから、俺が失敗しようがどうしようが、どうでもいいだろう。君たちには一切関わらないさ。
嫌気と共に興奮して、俺は眠りにつけなかった。熱帯夜が再びやってきたのかと、俺は近くにあったタオルで額を拭いながら思った。
体を起こし、タオルをももの上に置くと、クラスの男女の笑い顔が蘇った。そして、声も。それが自分に向けられたものなのか、そうではないのか判別できなかった。
ゲームとは違い、痛みや幸せは直接自分にやってくる。できることなら、人生を失敗したくない。うまくやりたい。自分ならできる。
そう俺は心のどこかで思っていた。
矛盾が心を壊し、心が体を壊していくのを感じた。胸と胃がアルコールを飲み込んだように熱くなり、焼けた。
悲しくなり、意識が動いていなかった足に向かった。
自分の人生だからと、為せば成ると、慰みと発奮を杖に歩いてきた。だが、それがこの矛盾に繋がり、俺は苦しんでいる。
神に会いたい。神がいるかどうかなんて、俺は知らないが。もしいるのなら、俺はあなたを思いっきり殴りたい。右手を拳にして、その見たこともない顔に気持ちをぶつけたい。そして、泣きながら、申し訳ないと謝りたい。額を床につけながら許しを請いたい。
あなたは一体なんて返事をするのだろう。毎晩毎晩、あなたに向かって歩いている。自分の罪が一体何なのか分からぬままに。
「罪なんてないのだよ」
そうあなたは言うのだろうか。だとするならば、俺は一体何なのだ。
生きろと、それだけなのかあなたは。