第五話・「ぎゅっ」
「俺が勃起するために、この世の全てを性の対象とすることだ」
「この世の全てを性の対象に、ですか?」
目を丸くする和臣のオウム返しが、誠一郎の不敵な笑みを誘う。
「ああ、そうだ。物事には必ず始まりがあり、終わりがある。俺が起たなくなったのにも理由があるはずだ。そして、どうすれば起つことが出来るのか。俺は残りの人生を俺の勃起にかけたいと思う。明日は必ず来ると信じて。空けない夜はない。そして――」
誠一郎は、まるで艦隊指揮を務める司令官が全軍出撃と命令を下すように、右手を前方に大きく振った。
「――起たないアソコはないんだっ!」
「誠一郎」
「誠一郎君……」
驚く二人をしっかりと見つめる。
艦隊司令官の魂が乗り移ったかのような誠一郎は、次の瞬間、作戦の失敗全てを背負うような沈痛な面持ちで、二人に深く頭を垂れていた。
藍子と和臣は急激に上がったり落ちたり野誠一郎の態度に言葉を挟めないでいる。
「自分勝手だと、お前等には関係ないことだと十分理解してる。俺の自己満足のために、おそらく全生徒をも敵にしかねない。いや、全生徒で済めばマシかもしれない。生徒だけでなく教師、世間からも……果ては世界からも敵視されるかも知れない。それでも、それでも俺は……俺は起ちたい」
木造校舎にある映画研究会の部室。床の木目を凝視しながら、誠一郎は頭を下げ続ける。
勃起部などという不届きな名前の部活を非公式にも立ち上げようとしている。俺が勃起できないことをいいことに、何も知らない女子達を見境なく性の対象としようとしている。どう考えても百害あって一利しかない。一人が犠牲になることで他の百人を救える……なんて美談で終わる話でもない。もともと誰かが迷惑を被っているわけでもないから、俺が止めればそれで終わり。むしろ、こちらから仕掛けに行くだけなのだから、他人からしたらはた迷惑なだけだ。
誠一郎は思考の荒波の中で歯を食いしばる。
「どうしようもなく起ちたいんだ」
迷惑を顧みない行為。果たして友人達を巻き込んでまですることだろうか。黙っていても人望も、人気もある藍子と和臣だ。俺に付いてきたって株が下がるばかりだろう。
……でも、たとえそうだと分かっていても、俺は俺の、男の尊厳を懸けて何が何でも勃起したい。自分が男であることをもう一度実感したい。
いつか他の誰かと幸せな家庭を築く、そのためのスタートラインに立ちたい。
綺麗事と言われてもいい。童貞で人生を終えるのがいやなだけじゃないのか、そう言われてもいい。気持ちよくなりたいだけじゃないのか。そう罵られてもいい。
なんと言われようが。何をされようが。俺は起ちたい。勃起したい。何が何でも。
「勃起したいんだ……っ!」
深く、そして切に誠一郎は腰を曲げ、真摯に言葉と態度で尽くす。
「今更恩着せがましく言われても困りますよ、誠一郎君」
拒絶するような落胆混じりの声に、誠一郎は胸がずきりと痛んだ。
「自分勝手? 自己満足? そんなものは犬の餌にでもしてしまえばいいのです」
顔を上げる。誠一郎の藁にもすがるような顔を見て、和臣はウインクしてみせる。
「そんな顔をしないでください。僕は言ったはずですよ。僕にとって、世界なんてどうなったって構わないと。誠一郎君と藍子さんさえいてくれれば、お二人との絆さえあれば、森羅万象すらも有象無象に属します。生徒が、教師が、世間が僕たちの敵? 僕にとっては世界すらも敵視していませんよ。はっきり言って路傍の石です。誠一郎君が起ちたいと望むなら、僕は死して屍になろうともあなたの肉棒をしごいて見せますよ」
「和臣、お前って奴は……!」
涙が出そうになる。
「どうです? 勃起しましたか?」
「ば、馬鹿言え、するかよ!」
和臣に見えないように目元を袖で拭う。
「ふふ、それは残念」
涼しい風が目元を抜けると、水滴の跡がよけいに冷たく感じられる。それが和臣にばれてしまうのではないかと、誠一郎はもう一度隠れて目元を拭った。
「さて、藍子さんはどうしますか?」
和臣の質問を藍子は視線だけで受け止める。誠一郎の顎に額がぶつかるのではというほどに接近すると、両手で誠一郎のシャツの胸元をぎゅっとつかむ。漆黒の瞳が誠一郎を下から見上げてくる。深く澄んだ瞳の表面にははっきりと誠一郎が映り込んでいた。瞳に映る誠一郎は小さく頼りない。藍子の瞳が深遠なる奈落であるならば、簡単に吸い込まれて、なすすべ無く落ちて行ってしまっただろう。
「わたしは、物心ついた頃から誠一郎のもの。ものに主張する権利はない」
まばたきはない。まつげの一本一本まで精巧な人形のようだ。かろうじて人と分かるのは、唇だけが言葉の生成に忙しく動いているからだった。どこまでも純粋に美しい人形のような人間。あるいは人間のような人形か。
「誠一郎が白を黒と言えば、それは白でも黒。死ねと言われれば、今すぐに死んでみせる。殺せと言われれば、たとえ神でも殺してみせる。壊せと言われれば、たとえ法則でさえ壊してみせる」
「藍子さん……」
「あ、藍子……」
藍子の言葉は強い。抑揚がない分ことさら強い。少女の深沈たる態度で、誠一郎は身体を縛り上げられる。
「わたしは誠一郎の盾であり、矛であり、鎧であり、誠一郎の望むもののすべて。わたしの目、耳、鼻、唇、髪、肌、胸、腕、手、足、わたしを構成するすべては誠一郎のためにある。誠一郎のために磨かれている。すべてが誠一郎のために生きている。それがわたしという生き物。国方藍子の存在意義」
だというのに、身体が縛り上げられ、身も凍るような意思をぶつけられたというのに、藍子の言葉は誠一郎の深くに落ちていった。胸の真ん中に。障害もなく、驚くほどあっさりと。
「……。藍子、お前は本当にそれで良いのか?」
でなければ、誠一郎はこれほど落ち着いて言葉を発することが出来なかっただろう。
藍子の華奢な肩に手を乗せて問い返す。表情に色はなく、言葉にも抑揚はない。しかし、肌と肌を通して確かに伝わる藍子の火照りが、藍子は人形ではないと確信することが出来る。
「わたしには、その質問の意味が分からない。わたしにとっての選択肢は誠一郎。誠一郎が唯一の選択肢」
「全ての道はローマ……もとい、誠一郎君へ続くということですか。改めて言うことではありませんでしたね、藍子さんは誰にも負けない誠一郎至上主義ですから。もちろん、僕も」
和臣が誠一郎の肩口に手を乗せる。藍子の体温ではない、もう一つの体温が誠一郎の中に染みこんでいく。熱く火照るそれは藍子に負けず劣らず。
「馬鹿野郎だ……」
三人が共有する体温が、いつしか同じ温度となった時。
誠一郎はまるで悪役が断末魔であげる哄笑のように大きく笑い出す。
「お前等は揃いも揃って馬鹿野郎どもだ! ああ、俺は勃起する、俺は絶対に勃起してみせる!」
嬉しさの余り、肩をつかんでいた手を少女の背中に回し、誠一郎は自らの腕の中に収める。つまりは、抱きしめてしまった。
「あう……誠一郎、苦しい。でも、嬉しい。もっと強く、ぎゅっ、して」
「あ、藍子さん羨ましいですね、僕も、ぎゅっ、に混ぜていただけませんか?」
「! あ、いや、これはもののはずみでだな……っ!」
とっさの出来事はやはりとっさに解除される。
「ぎゅっ。誠一郎、ぎゅっ、して」
「するか!」
だっこしてとせがむ赤ちゃんのように無防備に両手を伸ばす藍子。
「ぎゅっ。ぎゅっ、して」
「僕もぎゅっいいですか?」
冠詞に美と付いてもおかしくない二人に迫られながら、誠一郎は部室の中を逃げ惑う。嫌だ嫌だと逃げ回りながらも、誠一郎は心に灯ったほのかな温かさに、身体が突き動かされるような思いだった。
今なら何時間でも二人から逃げ回れそうな、そんな気がしていた。
興味を持って下さった方、読んでくださった方、ありがとうございます。これで起承転結で言うところの"起"は終わりました。以降を書くのが楽しみです。目標は変わらず週二回更新です。ではでは。