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閑話休題・第三話「わたしはえっちかも知れない」

 顔を洗った誠一郎があくびをかみ殺しながら冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中身に渋面しながらも、姿勢を整えてテーブルに着いている藍子に目を向ける。

 物言わず、ただ中空の一点を見るともなしに見ている姿。

 たとえるならば美術品のような、あるいは絵画のような美しさ。オランダ美術を代表するヨハネス・フェルメール、彼が書いた作品にはたくさんの女性が登場する。彼の絵は、主題を示すものは細かに描写するのに対し、その周囲の背景などはあっさりと描く。それ故に主題が恐ろしいほどに引き立ち、描かれた女性は独特の匂い立つ美を放っている。

 座る女……まるでそんな題名を冠された絵の中から飛び出してきたかのように、藍子の瞳に映る青は見る者に印象を残した。フェルメールの使う絵の具に見られる鮮やかな青は、その美しさも相まってフェルメールブルーとさえ呼ばれる。ならば、藍子の放つ青は、その名の通り藍色。藍子の色。藍子ブルーとでも呼ぶのだろうか……そんなことを誠一郎は思った。


「どうしたの、誠一郎」


 視線を感じた藍子が無表情のまま首をかしげる。


「あ、いや……牛乳飲むだろ?」


 冷蔵庫にぽつんと入っている牛乳を掲げてみせる。


「……! これは皮肉ととる」

「皮肉じゃない、日本人の朝のスタンダードだ! いいから、牛乳、飲むよな?」

「飲む」


 コップを二つ並べる。パックの口から注がれた牛乳が、コップの内側にぶつかり、内周をくるりと回る。勢いの良さに危うくこぼしそうになりながらも二つのコップに等量の牛乳を入れていく。ひんやりとした牛乳パックの感触、朝の光の中で見るコップ、透ける牛乳の白……その三つになぜだか誠一郎は、これが朝なんだなと感じていた。


「誠一郎、わたしはえっちかも知れない」


 牛乳パックを冷蔵庫に戻す。


「ふむ、少し性に対して好奇心旺盛なことは認める。だがな、エロさなら俺も負けていない。なんせ勃起部部長だからな。牛乳という単語だけでご飯三杯はいけるぞ、はっは!」


 藍子の目の前にコップをおく誠一郎。


「一方で、勃起部部長なのに勃起できないとはこれいかに」

「いいんだよ、積極的に勃起をしようという部なんだから……できなくても。心がけだ、心がけ」

「……」


 藍子にじっと見つめられてしまう。

 無表情だか、きっとジト目であることには間違いないだろう。


「……まぁ、それはいいとして、腹減ってるか?」

「減ってる」


 おなかに手を添える藍子。


「食べるか?」

「食べる」


 こくりとうなずく藍子。

 唯々諾々と従う姿が見た目よりも子供っぽい。出された牛乳入りのコップを両手で持ち、中の液体をくるくると回して遊んだあとに、そっと口をつけてこくこくと飲んでいく。

 なんとなくミルクをぺろぺろと舐める子猫のようで、食べ物やら飲み物やらを次々と与えたくなる衝動に駆られる誠一郎。草花を愛するあまりに水を与えすぎてだめにしてしまうパターンだなと、誠一郎は苦笑いする。


「了解。それじゃ再び冷蔵庫を開けまして……卵……卵っと……お、良かったちょうど四個あるぞ。これは俺とお前で二個ずつというところか。良かったな、卵があるなんて珍しいぞ。お前はラッキーだ!」


 朝の何ともいえないテンションのままで冷蔵庫を探っていると、牛乳を半分ほど飲んだ藍子が、コップの中で揺れる牛乳に視線を落としていた。


「……わたしは淫乱なの」

「……。俺が三個で藍子がひとつというのも、体格差とか胃袋の大きさとか性差的な意味ではいいのかもしれないけど、なんとなく半分がいいような気がするんだ、うん」

「誠一郎を見るとわたしが止まらなくなるの」

「卵が見つかったのはいいとして、ろくな朝飯作ってやれないけどいいよな? 俺は和臣みたいに無欠超人じゃないから、せいぜい作れるのは目玉焼きか……悪ければ焦げ付きスクランブルエッグってなもんだ」


 かみ合わない、かみ合わせるつもりもない会話の平行線。

 藍子は藍子でまるで述懐するように、誠一郎は誠一郎で分かっていてあえて触れないように、明るさを保ったまま朝食の準備をする。


「話しているときは大丈夫。どきどきもばくばくもない、ただのとくとくだけ」

「目玉焼きの次は、うん、やっぱりサラダだよな! 幸い冷蔵庫のなかには、キャベツとトマトがある! 藍子はトマト大丈夫だったよな?」

「心臓が制御できないの。自分勝手に体中に熱を送り出すの」

「キャベツは千切りしよう。こう見えて千切りの誠一郎とちまたでは評判なんだ。そういえば昔のスーパーファミコンのソフトでロマンシング・サガ2ってのがあって、その技の中に千切りとか、短冊切りとかあったっけ」


 藍子の言葉を聞きながらも、まないたの上のキャベツを千切りにしていく。


「あのゲーム好きなんだよな……。初めてラスボスに行ったとき、ラスボス手前でセーブできるんだけど、そこでセーブしちゃうともうダンジョンの外に戻れないんだよ。それ知らずにセーブしちゃって……ラスボスがこれまた強いんだ。クイックタイムっていう魔法を覚えておかないとほぼ積むね、もう絶対倒せない。涙を忍んではじめからやり直したよ。ようやく最終皇帝にまでたどり着いたのにさ……」


 フライパンに油を引いて、熱せられたところに卵を落とす。二つ落とした丸い黄身は、仲良く身体を寄せ合っていた。

 近くて遠い、近いように見えて実は遠い……そんな目視では測りきれない距離感と対比するように、フライパンの上では黄身が二つ寄り添い続ける。


「誠一郎の無防備な姿を見て、わたしはおかしくなってしまった。すごく誠一郎が欲しいって身体がむずむずするの。誠一郎誠一郎したくなるの」


 テーブルの上に並べられていく藍子の言葉は、まるで心の見本市。誰にも取引されることなく、ただただ陳列されるだけ。洗練されたものでも、切磋も琢磨もされていない原石そのものだった。


「わたしの身体に隙間があって、そこからわたしの熱がじわじわあふれ出てくる。わたしの中の誠一郎スイッチが押されると、わたしはもれなく熱暴走する。そして、染み出ていくの。熱いのが熱いままわたしのここから。じゅくじゅくって。わたしはそれに対抗する術を持ち合わせていない」


 コップの表面には歪曲した藍子の美しい面。

 ぐにゃりと歪んだそれは、自分をあざ笑っているようにさえ藍子には思えた。


「わたしではどうしようもない。止められない。栓が欲しいの。わたしの穴を、隙間を埋めてくれるきついくらいの栓……。誠一郎がわたしに栓をしてくれたら。してくれないから、だから、いつまでもわたしは流し続けるしかない――」

「藍子!」

「……!」


 藍子が驚いたように顔を上げる。誠一郎が目玉焼きの載った皿を両手で持っている。その顔は怒っているでも悲しんでいるでもなく、優しげだった。

 藍子の目の前に置かれた皿には華やかな彩り。

 黄身が仲良く二つ並んだ目玉焼き。もしも目玉焼きに表情があるのなら、それは間違いなく……笑顔。微笑む二人が並んだポートレートに間違いなかった。添えられているキャベツは花畑で、トマトは太陽。


「できたぞ、俺特製の目玉焼きだ。言っておくが、傑作だぞ」


 ナイフとフォークと、塩、胡椒。ソースとマヨネーズ、サラダドレッシングはお好みで。

 テーブルには朝食と、その中心点にある調味料。いただきますと両手を合わせたところで、誠一郎は続けた。


「ま、難しいことは考えるなよ。俺たちは昔からずっとこうしてきたんだ。これからもこのまま、今まで通り楽しくやっていこう。俺たちの関係が変わることなんて、変わる必要なんてない。俺たちはもうレベル99なんだ。とっくの昔にレベルはカンストしてるんだよ」

「……うん」


 藍子も誠一郎に従うように両手を合わせて、いただきますと続く。


「トマトたくさん」

「お、食べるか? 欲しいならやるぞ」

「くれるの。食べたい。トマト食べたい」

「この欲張りめ。いいだろう、ほら、あーんしてやるぞ」


 餌をねだるひな鳥のように口を大きく広げると、藍子は一口で誠一郎の差し出したフォークからトマトを奪い取った。


「もぐもぐ……みずみずしくておいしい。さすが誠一郎特製トマト」

「……スーパーのを切っただけだけどな!」


 無表情にかすかな幸せを漂わせる藍子に、誠一郎はちくりとした痛みを抱えるのだった。



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