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閑話休題・第二話「なにもかもをひとつに」

 自分が危ういバランスの上に立っていることを、藍子は頭がぼうっとなることで自覚した。

 誠一郎の腕に抱かれている、今。

 感じられる二の腕、筋肉の固い張り。うっすらとかいた汗の滑り、熱さ。髪の毛から香ってくる胸をかきむしりたくなるような、つんとした男性の匂い。

 藍子の肌の内側、理性という一枚皮の下で激しく暴れるもう一人の自分。誠一郎との間にある暗黙の境界線を簡単に飛び越えてしまえる距離。息が切れる。フルマラソンを世界新記録で走り終えたような呼吸困難が、激しい吐息となって誠一郎の短い髪をそよがせる。


「わたし、誠一郎を食べてしまいたい……。誠一郎でお腹を一杯にしたい。誠一郎とわたしとひとつにしてしまいたい。包み込んで、飲込んで、なにもかもをひとつに……誠一郎とひとつに」


 ちかちかする。

 雲の上を歩いているような浮遊感と共に、赤子的な単純思考が藍子の背中を押しはじめる。母親からおっぱいをもらおうとする赤ん坊のように、無意識の中で口を開けたり閉じたり。何かを食べるような、食べたいとねだるような、そんな動きを繰り返す。

 はむはむ。ぱくぱく。

 悪い瘴気に当てられてしまった旅人が、森の中で混乱に倒れるように、藍子もまた誠一郎に迷いはじめる。藍子にとって誠一郎は、この世で一番幸せな死に至る毒であった。

 寝ぼけたままの誠一郎。無防備な誠一郎。安心しきった誠一郎。

 ふわふわとした意識をもてあましながらも確実に頭を茹で上げる愛おしさ。

 可愛い。本当に可愛い。

 小さなふくらみを歪ませながら頬ずりする誠一郎が可愛くて仕方がない。

 押しつけられた額で潰れる我が胸のかすかなふくらみ。胸の先端にちくちくとした、こねくり回されるような痛みをじわじわと感じ始める。けれど、その痛みはなぜか数秒後には痺れに変わっていく。


「誠一郎、誠一郎」


 ……感覚の変遷は、最後に例えようのない、むずがゆい快感へと取って代わる。

 藍子は体をぴくりと跳ね上がらせた。


「……胸がきゅってなるから、わたしは誠一郎を食べていいの」


 なにやら意味の分からないことをつぶやいて、


「……かぷ」


 藍子は誠一郎の耳をかじった。


「痛ッ!? ……んあ? あ!? あああっ!? うわあああああああああっ!?」


 胸の中で惰眠から目を覚ました誠一郎。

 箱根駅伝の往路と復路をたった一人で走破するが如く、状況判断という脳の電気信号は、シナプス、脊髄、筋組織を最短ルートで往復した。

 脳みそは一瞬のうちに覚醒へと至る。


「な、何をやってやがる!?」


 突き飛ばされた藍子はベッドから突き落とされる。激しく床を転がった挙げ句、誠一郎にお尻を突き出す四つん這いの格好で止まる。


「おはよう、誠一郎。今日もいい朝」


 悪びれのないいつも通りの平板な顔があった。藍子は起き上がると居住まいを正す。

 胸の奥と下腹部の奥では、まだかすかに火がくすぶっていた。


「まったく最悪の朝だ! 最悪のっ!」


 頭をボリボリとかきながら、誠一郎は藍子をにらみ付ける。


「誠一郎、怖い顔」

「誰のせいだと……はっ!」


 何かに気が付いた誠一郎はかぶっていた布団を跳ねとばすと、藍子に背を向ける。

 見えないようにパンツの中身を確認する。


「大丈夫、誠一郎の貞操は守られた。童貞記録更新中だから安心していい」

「お前に守られる童貞なんかいらん」

「……! いらないなら頂戴」

「お前にはやらん」

「誰にあげるの」

「誰にもあげない! 童貞は俺のものだ!」


 ベッドの上であぐらをかいて宣言する。


「……」

「……」


 二人の間に沈黙が横たわった。


「なんだろう……言ってて、すごく悲しかった」


 落とした肩を元に戻すと、こほんとひとつ咳払いする誠一郎。


「まぁ、部長として一応、報告しておこう。……今日も起たなかった。はは……」


 カーテンの隙間からのぞく朝日が眩しく、寂しそうに笑う誠一郎の前歯をきらりと輝かせた。


「朝立ち報告、拝承」

「女の子が朝立ち言うな」

「……。ノクターナル・ペナイル・トゥマーシス」

「なんとなくだが、お前の言っていることは理解できた。さすがに付き合いが長いからな」

「誠一郎の反応がわたしは少し悲しい。意味が何か聞いてくれたら、モーニング・ウッド、モーニング・グローリー、あるいは夜間陰茎勃起現象、とご主人様に躾を強要された牝豚のように従順に答えるつもりだったのに」

「うん、解説ありがとうな藍子。でも、そろそろ駄目だぞー」


 藍子の背後に回りスリーパーホールドをきめる。


「……苦しい、誠一郎、まだ寝るには……早い……時間」


 タップして謝罪を示す藍子にため息を吐く。


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