閑話休題・第一話「くんかくんか」
日曜日の朝は、カーテンから差し込む一条の光と、窓の外を飛んでいく鳥たちのおしゃべりに彩られていた。薄暗い部屋に差し込む太陽光はまるでスポットライト。
ハウスダストなどと不名誉にあだ名された埃も、ひとたびスポットライトを浴びれば金糸のように美しく蘇る。舞台の中央でバレエのようにくるりくるりとひるがえる様は、さながら舞台の中央で踊るプリンシパルだ。部屋の主がもれなく寝坊助な日曜日にあっては、まさに埃達にとっては自らの演目に自信を持てる唯一の時。
そんな優雅なひとときを、一人の少女が邪魔をした。
光を遮る美しい黒髪は、埃の誇りを簡単に打ち砕く美しさに満ちあふれていた。
「おはよう、誠一郎」
静かにつぶやいた少女の名は、国方藍子。
まばたきをすれば黒曜石のような美しい瞳を長いまつげが隠す。薄く紅を惹かれた口唇は、白磁のような肌の中で唯一ほんのりと朱に染まっていて、なまめかしさを演出していた。全ての道がローマに通じるように、全ての美に通じる表現はこの国方藍子という少女に続いている。
大げさな表現が大げさではない……そんな三十億分の一という女性と大別されるカテゴリーの中でも、飛び抜けて少女は美しかった。
「よく寝てる」
少女ははらはらとこぼれ落ちてくる長い髪の毛を耳の裏に流すと、すやすやと眠る一人の男に顔を近付ける。
男は枕に顔を埋める形で惰眠を貪っていた。一定のリズムで布団が上下していることから、安らかな睡眠であることを思わせる。
「誠一郎の寝顔。気持ち良さそう」
味わうようにつぶやいた。
少女の唇と誠一郎の頬の隙間は一センチ。呼吸をすれば吐息が届く距離。
まるで香りを楽しむように、少女は鼻をすんすんとひくつかせた。寝苦しい夜を経た男性特有の汗の匂いが鼻腔をつつく。少し酸味のある匂いが藍子の胸の奥をちりちりとくすぶらせる。焼けた炭が酸素を喰らって炎に変わるように、藍子の中で誠一郎の匂いは体中に火を灯していく。
「くんかくんか……。いい匂い」
鼻を鳴らす。異性であれば顔をしかめるかも知れないその匂いは、藍子という少女にとっては体中に纏わせたいほどかぐわしい香りであった。
匂いが胸を焼き、下腹部に熱い火照りを宿らせる。
まるで熟した果実を握りつぶすような錯覚が藍子の中で実感に変わる。
「犬のように匂いを嗅ぐなんて、はしたないことは分かっている。でも、これは光合成だから。二酸化酸素を取り込んで酸素を生成するようになものだから。……すぅ……はぁ」
握りつぶした果実からは、瑞々しい液体が指と指の間からじゅくじゅくと漏れだしていく。絞り出されていく。絞り出されているはずなのに流れ出る水の量は一向に無くならない。藍子は太ももをもじもじとすりあわせながら、誠一郎の顔をのぞき込み続ける。
「誠一郎。わたしは、このまま誠一郎に触れることができる。手で頭を撫でることもできる。髪の毛に鼻を埋めることも出来るし、耳をはむことだって出来る。誰の唇も受け止めたことのない唇に口づけることも出来る。でも、わたしはできない。誠一郎に許しを得ないで、誠一郎の知らないところで、誠一郎の意識のないところで、身勝手にわたし自身の欲望を満たすことは許されない。わたしは誠一郎のものだから。誠一郎のそばにいたいから、わたしはわたしを我慢するの。こうして、見つめているだけで我慢するの」
無表情であった美しい白面は桃色に上気し、吐息もわずかだが荒さを増す。
「触れずに、見つめるだけ。見つめるだけ。誠一郎を見つめるだけ。誠一郎、まつげ長い。ひげが少しだけ生えてる。口をもぐもぐしてる。むにゃむにゃしてる。額にうっすら汗をかいている。誠一郎、昨日はどんな夢を見たの。その夢の中に、わたしはいた……?」
吐息がくすぐったいのか誠一郎は身じろぎし寝返りを打つ。
吐息をすきま風と勘違いしたのか、誠一郎は布団を探し求めるように腕を伸ばしたかと思うと、そばでのぞき込んでいた藍子の首を抱き寄せてしまう。藍子の体は軽量で、簡単に誠一郎の腕に抱え込まれてしまう。
……誠一郎はなおも夢うつつ。
藍子はなすすべ無くベッドの中に引きずり込まれ、抱き枕の要領で誠一郎に抱き締められてしまう。
「……。これは夢」
寝ているのは誠一郎なのに、藍子は驚いたような声を漏らす。自らに突然訪れた至福を信じられない。抵抗することもなく目をぱちくりとするだけ。
「わたしは布団。誠一郎の布団。なれるかじゃない。なるの」
幸せが少しでも長続きするように念じる藍子である。
その一方で、夢の中の誠一郎は、布団の代りになっても有り余る藍子の抱き心地に満足したのか、ついには藍子の胸に顔を埋めてしまった。薄手のカットソーに、ショートパンツという軽装は、抱き締める誠一郎にとっては女性の柔らかさをより実感できるのだろう。少ない胸の谷間を楽しむように頬ずりをはじめてしまう。
感覚を顔に出さない藍子が、くすぐったさに思わず体が反応してしまいそうになる。
染みこんでくる、熱。広がっていく、熱。
「これ以上は……駄目」
少し強い口調で拒否したのは、誠一郎の行いではない。
藍子の中に留めている熱い感情が顔を出し始めたのである。
誠一郎に触れるだけでいとも簡単に沸騰する藍子の中の液体。
胸をいっぱいにさせ、そこから溢れた感情が下腹部からにじみ出そうとしていた。
題名の通り、閑話休題です。ちょっとした連載になりますがよろしくお願いします。内容は読んでいただければ分かると思いますが、しごく健全なお話です。