エピローグ・「六條七海」
体育館裏に、激闘の跡はない。
かつて長篠の戦いで織田軍に敗れた武田軍。鉄砲隊によって蹴散らされた騎馬隊。戦場に散っていった武将達。設楽原にて残された馬の死体も、武将達の鎧も、鉄砲隊の火縄銃も、戦場の匂いと共に翌日にはまだそこにあったはずだ。
しかし、体育館裏は信じられないぐらいにいつも通りだった。しんと静まりかえっている。時折吹く微風と、ぺちゃくちゃとおしゃべりする小鳥たちだけが喧噪を作り出すだけ。人が人を容赦なく殴り、傷つけ、血を流し、怒声と咆哮が飛び交った場所は、あたかも夢の中の出来事だったかのように、平和な時間の中で眠りについていた。
突然、携帯電話からアニメ、カウボーイ・ビバップのオープニングのイントロが流れる。いきなりの大音量に飛び上がる誠一郎。
「か、かか、和臣か?」
ポケットから取り出した携帯電話をお手玉しながらも、なんとか受話部を耳に押し当てる。その慌てようは、まるで子供を人質に取られて身代金を要求された両親の、犯人に対する第一声のようだった。
「そうか……うん、うん。……分かった。また、学校でな」
和臣から簡単な怪我の状態を説明されたところで、手短に通話を終了しようとする。
「……。おい……早く電話切れよ。は? 俺から切れって? 俺はお前が先に切ると思って――」
携帯電話から漏れ出る声が喜びに弾んでいる。
「お前は俺の彼女かっての!」
小鳥たちが驚いて電線から飛んでいく。
「彼氏でもない!」
連想ゲームとしては低レベルなやりとりである。
「……じゃあ、切るからな。今度こそ切るからな。待ってたって無駄なんだからな。切るぞ、あと三秒で本当に切るからな。よし……三……二……一……。……。……切れよ! そこは騙されて切ってくれよ!? 切らないと思った、じゃない! くそ、このままどちらかの電池切れを待つほかないのか。充電しながら電話しているから大丈夫? はいはい、それじゃあな。え、電話を切る前に一つだけお願いがある? お前がいなくて寂しいか答えろ、だと!?」
静寂が訪れたと思ったのか、小鳥たちが再び電線に戻って来ようとする。
「寂しい。だから早く戻って来い!」
小鳥たちは一目散に逃げ出した。
「……これでいいか、和臣?」
落ち着いた声が電話越しにうなずき返す。
「ま、満足してくれたようで何よりだっ! というわけでこれ以上は生き恥は晒せぬ! 切り捨て御免!」
なぜか武士口調になって、強引に通話終了ボタンを押下した。
「そうか……脱臼なのか。脱臼直後は死ぬほど痛いはずなのに……やせ我慢しやがって」
頼もしい親友。無二の友、その無事とつかの間の休息。誠一郎が心地よい充実のため息を吐く。
「ずいぶん楽しそうね、葉山誠一郎」
「ろ……六條さん」
「田中君の容態はどんな感じ?」
肩に掛かっていた髪の毛を背中へかき上げる。まるでお嬢様然とした振る舞い。
「肩の脱臼だって言ってました。全治二、三週間ってところです」
「そう、それはなにより」
聞いておきながら、さほど嬉しくもなさそうな物言いだった。
「昨日は災難だったわね。あんな大人数相手の喧嘩は大変だったでしょう?」
「……和臣がいましたから」
「そうね、心なしか生き生きしているように見えたわ。さぞかし格好良かったんでしょうね。だってあのコージが負けるんですもの。かつて風紀委員だった頃は、負ける姿なんて誰も見たことがないくらいに強く、恐れられてすらいたのに。私もコージが無様に倒されるところを見てみたかったわ。本当に、風紀委員を辞めてからの彼は堕落を過ぎて、堕ちるところまで堕ちたわね。いっそ、そのまま地獄まで直滑降、ノンストップで転落死してくれた方が助かるのだけど」
「……」
「――で、その後、あの女はどうだった?」
「あの女って誰のことですか」
六條がいうあの女とは誰のことなのか、わざわざ聞かなくても分かる。だが、誠一郎は六條の言い方が引っかかり、あえて聞き返した。
「藍子よ。国方藍子。あの子は心配したでしょう? 大好きな葉山君が傷ついたんですもの」
腕を組んで不敵に笑う。
「抱き合いでもして慰めてもらった? それとも傷の舐め合いっこでもした? あの女のことだから言えばなんでもしてくれるんじゃない? というか、もうすでにそんな関係でもおかしくないわね。四六時中一緒でしょう? あなたたち二人は」
「藍子をそんな風に言うのはやめてください」
誠一郎の声をなかったことにして、六條は続ける。
「分からないわね。葉山君の一体どこにそんな心惹かれる要素があるのか。藍子が一般受けする容姿だってことは百歩譲って認めるとしても……葉山君は見てくれも一般人のそれなのに、どうして藍子は惚れているのかしら。世の中は分からないわ」
誠一郎の目の前に進み出、品定めをするような視線で、昆虫標本にでもするかのように上から下まで視線を刺してくる。
「あ、そうだ、藍子ついでに教えてくれない?」
誠一郎の胸を人差し指でとんと突く。
「あの機械のような藍子は一体どんな感じに甘えてくるの? 体をすり寄せて上目遣いにねだってくるの? お尻を突き出して雌犬のように? 強引にまたがってくるとか? 自ら激しく腰を振ってくる? それとも案外マグロ?」
「やめてください……!」
「ああ、そうね……一見おとなしそうな女って、外面の皮を剥いてしまえば、案外堕ちるのは早いと言うし、他人には聞かせられないような淫猥な声で、あんあん鳴くのかしら、まったく興味が尽きないわ、藍子には」
「やめてください!」
胸を突いていた六條の手首を握りしめる。白く細い手首。握りしめた手首は、誠一郎の親指と中指でちょうど一周してしまうぐらいに細い。いやらしい笑みを浮かべていた六條も、誠一郎のこの行いには笑みを不満へと塗り替える。
「葉山君。自分が今、何をしているか分かっている?」
振り払おうとはせずに、強く握りしめられた手首を言葉で制しようとする。
「……手を、放しなさい。それとも風紀委員お世話になりたいの?」
「……」
親友をけなされた怒りを吐き出したい、そんな衝動に駆られたが誠一郎はなんとか口をつぐむ。
「素直でいい子ね、葉山君は。どこかの淫乱女とは大違い」
以前、藍子にされた時と同じく、手首をさする六條。それと符合するように、偶然にも握った場所はまったく同じだった。
「前置きはいい加減にしてください」
「ふーん、気が付いていたのね。もう少し藍子をネタにして遊びたかったけど……いいわ、茶番は終わりにして、そろそろ本題に入ってあげる」
ポケットから、あるものを取り出す。
「これは何か、分かる?」
それは、白い布のようなものだった。大きさ三十センチ四方。皺が寄ってしまってくしゃくしゃで、何かを拭き取ったような汚れがある。
考える暇など必要としなかった。背中を巨大なハンマーで叩かれたよう驚きに、心臓が口から飛び出してしまうのではないかと錯覚した。記憶の引き出しを開けて中を探るまでもない。
それは作戦実行中、唯一にして最大の懸案事項になったもの。
作戦終了後に処理されなければいけない残件。
……藍子のハンカチ。
部室での作戦説明。鼻血を出した誠一郎に藍子がすかさず差し出したハンカチ。血を拭い、洗って返そうと思ってポケットに無造作に突っ込んだまま、オペレーション・スクール・ナース・オフィスに臨んだ。作戦実行のただ中、南京錠に付着した自らの手汗を拭うために使用して、保健室のベッドの下に慌てて飛び込んだ。そのときに保健室に放置せざるを得なかったハンカチ。
ないと思われていた証拠。
「そうね、私にはただの汚いハンカチに見えるわ。誰の目にもそう見えるんじゃないかしら。でも葉山君、その様子だと、あなたの目にはそう見えないみたいね。ただのハンカチなのに。ただの血の付いた汚いハンカチなのに」
尋問をする刑事のように、誠一郎の周囲をゆっくりと歩き始める六條。
「このハンカチは扉のすぐ近くに落ちていたものを私が拾ったの。……落とし物は持主に返さなくてはならない、そうでしょう? 私は親切心でこうしているのよ。だから、そんなに緊張しないで?」
正面から、六條の笑み。
「高木先生に聞いたら、先生のものではないそうよ。もう一つ、身体測定前に保健室を出るときには扉付近にはハンカチはなかった。つまり、先生が保健室をいったん出て、戻ってから身体測定が始まったときにはすでに保険室内に存在していたの、保健室のベッドの下に隠れていた卑劣な犯人も、この……誰かさんのハンカチもね」
右から、六條のささやき。
「知っているでしょうけど、私は藍子が嫌い。嫌いだからこそ藍子のことはよく知っているの」
後ろから、六條の足音。
「……人は好きと嫌いでしか記憶できない不便な生き物。その他の有象無象を記憶しない。それは無関心でしかないから。頭に入ってもすぐに消えていく。人の記憶は常に好きか嫌いかなのであって、好むか好まざるかではないのよ」
左から、六條の危険な香り。
「保健室のベッドの裏に隠れていた何者かが、藍子のハンカチを落としていた。……けれどなぜか急に飛び出してきて逃げていった……。まったく、とんだシンデレラもいたものね。自分の仕業であることを示す証拠を残して逃げるなんて」
時計回りに声が誠一郎を追求する。
四人の処刑者に銃を突きつけられているような、汗さえ蒸発する感覚だった。
「――もう、十二時の魔法が解けてもいい頃合いよ」
「……」
完成させるはずのパズルのピースが手の中からこぼれ落ちた。最後の一つのピースをはめれば完成した美しい未来予想図は、もはや未完成のまま。代わってピースの抜けたパズルの穴から覗くのは、犯行現場の一部始終……。
「俺は逃げられないんですね」
誠一郎は覚悟を決めていた。もとより、リスクを覚悟しての行動だった。
世界を敵に回すと宣言した。それは学園の自治会、風紀委員を敵に回すと言うことでもある。もちろん、六條もその敵の中に含まれる一人だ。しかしながら、それが六條であるからこそ、誠一郎はすんなりと犯行を認めていた。
……他の誰でもない六條だからこそ。
「見覚えがない、知らない、存じない……汚職政治家のような言い訳をしたっていいのよ。もちろん、きちんと調べさせてもらうけれど。自治会及び風紀委員の力を最大に使ってね」
「その必要はないです。それは藍子のハンカチですし、付着しているのは俺の血です。言い訳もしません」
「拍子抜けね、てっきり言い訳をしてくるのかと思ったわ。それに、まだ証拠は出そろっていない。言い訳と釈明の余地は残されているのに、潔のいいことね」
「俺はどうなるんですか? ……謹慎ですか? 停学ですか、それとも……退――」
「ねぇ、葉山君、私の右腕を見なさい」
声を断ち切られる。六條は左手で自分の右腕をぽんぽんと叩く。
「私は今、風紀委員ではないの。ただの六條七海、個人としてここにいるわ。その六條七海個人が、葉山誠一郎に少しだけ興味があるのよ」
「興味……?」
試すような表情、挑発するような眼差しが、誠一郎の心臓を茨で締め上げる。
「そう、興味よ」
動悸を高鳴らせたが最後、棘が心臓の表面をことごとく突き刺す。誠一郎の頭の中では、触れるな危険、というブザーが鳴り響く。
「今回の事件、風紀委員としての六條七海はなにも見ていなかった。そういうことにしてあげる。証拠も返してあげる。この汚らしい血と汚れを洗って、証拠をきれいさっぱり隠滅して、藍子に返してあげればいいわ。部活動も継続していいし、馬鹿みたいな日常を送るのも構わないわ。つまり……不問ということね」
確実に餌をちらつかせられていると言うことが分かる口調だった。目の前にニンジンをぶら下げられた馬が必死に走るような、そんな見え透いた罠の匂い。
「まぁ、タダでとは、さすがにいかないけれど」
あえて、自ら罠にははまる。罠であると分かっていても罠にはまる。文豪、谷崎潤一郎が描いた『痴人の愛』、その主人公である譲二がそうであったように、誠一郎もまた。
「俺は……何をすればいいんですか」
それも良いだろう、と誠一郎は思った。
「――私の犬になって」
六條に耳元でささやかれる。ぞっとするほど刺激的な声。
「ご主人様がお手と言ったら、手を差し出す。回れと言ったら回る。取ってこいと言ったら取ってくる。ちんちんと言ったら恥部でもさらけ出す……そんな主人に忠実な犬にね。それで、今回の事件は何もなかったことにしてあげる」
「……っ! ……分かった」
「商談成立ね。それじゃ、これからよろしくね葉山君。いえ……犬の、誠一郎君」
誠一郎にハンカチを握らせると、満足そうに去っていく六條。
体育館裏、その背中を見送りながら、誠一郎は心の中で親友二人に謝罪していた。
他にどうしようもないと思えた。
そんな言い訳じみたことを思いながら、誠一郎は藍子のハンカチを強く、強く握り締め続けていた。
【第一部・END】
一旦、終わりです。単行本で言うと第一巻的な終わり方で本当にすみません。あとがきで色々書こうと思ったのですが、言い訳がましくなりそうなので書きません。
長い間お付き合いいただきありがとうございました。また次回作でお会いできることを、心より願っております。
小説に対する評価・ご感想は、もれなく作者の栄養になります。
ではではー




