第四十二話・「好き」
「誠一郎の手」
向かい合ったままの二人。
パイプ椅子が二人の体重にぎしりと悲鳴を上げる。藍子は誠一郎の膝にまたがったままで、誠一郎の空いた左手を取り、観察するように両手でむにむにと感触を確かめたり、すりすりと撫でたりしている。
「誠一郎の親指」
軽く握られたままの誠一郎の手から、親指を起こす。誠一郎の親指の腹の部分を、藍子は自分の指で指紋をなぞるようにくるくると撫でる。親指の腹の真ん中を何回かつついたり、指の関節を曲げたり伸ばしたり。まるで、お気に入りのフィギュアの可動を確かめるような仕草。
藍子から一方的に触られることは日常茶飯事なのに、なぜかまじまじ見られ、じっくりと観察されると、感触も気持ちも、すごくくすぐったい。
「誠一郎の人差し指」
親指に満足したのか、次に藍子は誠一郎の人差し指を起こすと、親指と同じように動かして感触を確かめる。
「誠一郎の中指」
自分の指の長さと、誠一郎の指の長さを比べて、手のひらをくっつけたり。水かきをつまんで伸ばしてみたり。短い生命線をそっとなぞってみたり。
「誠一郎の薬指」
終われば次。また終われば次。
「誠一郎の小指。……小指だけ指紋が円じゃない」
指紋の形一つ一つに至るまで飽きることなく藍子は確かめ続けていた。
気が付いたことを口に出し、記憶するようにフラットな声でつぶやく。
「そうなのか、気が付かなかった」
「わたしは気が付いた」
誠一郎という玩具に夢中になっている子供。幼い女の子。
砂場の真ん中で、雨が降れば簡単に崩れ去るような城を作って遊ぶ。崩しては、崩されては立て直す。子供にしか喜ぶことのできない些細な幸せ。二人で作り上げる喜び。確認する喜び。
藍子が誠一郎の手を取って確認する姿は、誠一郎に幼かった頃の二人を思い出させた。懐かしい公園の情景を想起させた。映写機が回り、カタカタとフィルムの回る音がして、スクリーンに映し出されるモノクロの映像……。
「小指と薬指を閉じて、親指も閉じる。ちょきができた。じゃんけんぽん。わたしの勝ち」
「思いっきり後出しじゃねぇか……」
藍子のしたいようにさせる誠一郎。
「なら、もう一度じゃんけんする。……じゃんけんぽん。わたしはパーだから、誠一郎の勝ち。一勝一敗。引き分け」
「八百長は問題だぞ」
藍子はまるで人形と一人遊びに興じるように、静かに……でも心なしか楽しそうに誠一郎の手で遊んでいる。誠一郎はうんうんとうなずくように優しい声で藍子に返事をする。
「全部開いて、今度は中指と薬指と、親指をくっつける」
「何が出来た?」
「コンコン。狐ができた」
「……影絵ならまだしも、手だけだと狐の骨に見えるんだがな」
「中指、人差し指、薬指を握る」
「今度は何だ?」
「しまった。ツーアウト」
「しまっていこう、だからな。追い詰められてどうする」
子供の遊びを後ろで見守る親の視線。
泥の団子を作って嬉しそうに持ってくる。よくできたわね、といいながら子供の頭を撫でてやること。
泥だらけで返ってきた子供の服を洗うのを億劫に思いながらも、今日も元気でいてくれてありがとうと思いながら服を脱がせること。
皿を割ったことをこっぴどく叱り、泣きながらベッドに潜った我が子に、憎くて怒るわけではないと優しく語りかけること。
「全部の指を閉じる。おにぎり。食べたい。もきゅもきゅ」
「俺のだぞ。食べるなよ」
藍子と誠一郎のやりとりはそんな親子のような、兄妹のような温かさに溢れていた。
「……傷。傷ついてる。誠一郎の手の甲。擦り傷。切り傷」
コージと殴り合ったときに出来た拳の傷を発見する。殴り合った拳には血がにじみ、今は赤黒いかさぶたになっている。
藍子はそっとかさぶたの上に手のひらを重ねた。
「わたしは誠一郎の盾で、矛で、鎧で。わたしは誠一郎の願う全てになりたいの。わたしの目も、耳も、鼻も、唇も、髪も、肌も、胸も、腕も、手も、足も、誠一郎がわたしに触れる全部が全部、細胞の一つ一つが誠一郎のためにあるの」
藍子が魔法使いなら、温かい光で傷を癒してくれるような、そんな呪文のような語り口。
「誠一郎が悲しいことはわたしも悲しい。誠一郎が嬉しいことはわたしも嬉しい。誠一郎が怒ったらわたしも怒る。誠一郎が泣くならわたしも泣く。誠一郎が痛いことは……わたしも痛い」
言葉に抑揚がない分、藍子の感情には抑揚があった。
感情の抑揚は波となり、体を伝って伝播、表出し、それがかすかな震えとなって誠一郎に届く。
「でも、誠一郎がこんなに傷ついているのに、わたしは傷ついてない。誠一郎があんなに頑張ったのにわたしは頑張ってない」
「藍子……」
「わたしも痛くなりたい。誠一郎と同じものが欲しい。誠一郎と同じになりたい」
雪のように白い肌。体温も雪のように冷たい。溶けてしまいそうなほどに。
凛と舞い落ちる言の葉が、深々と切々と心に積もっていく。藍子の握る力が強まり、包まれる誠一郎の手が窮屈になる。
思いの丈を、まるで言葉と力で表現しようとするように。
「誠一郎、わたしも痛いのが欲しい。誠一郎が感じた痛い気持ちと、同じ気持ちが欲しい」
藍子の澄んだ瞳の雪原には、誠一郎しか映っていなかった。
雪原にたった一人立つ誠一郎。新雪を踏みしめる。他の誰の足跡もない大雪原を歩いている……。
誠一郎は、一度目を閉じる。
藍子と過ごしたいくつもの季節を巡りながら、その風景から抜け出した。
「そんな必要はないんだ、藍子」
「わたしは誠一郎と同じがいいの」
「藍子まで傷つく必要はないんだ。これは俺がしたくてしたことなんだからさ」
「でも、痛いのが欲しい」
藍子の頭に手を置く。
「……なぁ、藍子」
手の向こう、前髪の隙間から見上げる藍子の瞳。疑うことを知らない、つぶらで無垢な光。
「お前が俺を大事に想ってくれるのはすごく嬉しいんだ。心強いよ。例えアメリカ軍最大の戦力と規模を誇る第七艦隊が味方に付いたとしても、俺は藍子一人がいてくれた方が心強い。もちろん、和臣だってそうだ。三人が揃えば何物にも負けない気がする。世界中の戦力をかき集めてきたって勝てる気がする。三人ならな。俺はいつだってそう思ってる。今だってそうだし、多分これからもそうだ。藍子はどうだ? 藍子もそう思うか?」
「うん」
こくり。
「だったらさ、痛くないか?」
「……?」
「俺や和臣が傷ついてさ。倒れて、怪我して、血を流して、もしかしたら重傷で出血多量で、打ち所が悪かったりしたら死に至ってしまうかも知れない……」
「誠一郎、それ止めて。聞きたくない。考えたくない」
耳を塞ぐ。想像しただけで嫌な気持ちになるのだろう。いやいやと首を振る。
「聞いてくれ藍子」
耳を塞ぐ藍子の両手を取る。
「もしも……もしもそうなってしまったらって想像したとき、ここが――」
宝物に触れるように、丁寧に藍子の胸に触れる。
藍子の心臓の上、藍子の女性の部分。柔らかな感触。制服の内側のわずかな柔らかさの中に、指が沈んでいった。かすかな弾力が指を押し返そうとする。
嫌らしい気持ちなどなかった。風邪を引いたとき、額に手を当てて熱を測るように、心の中には思いやる気持ちのみ存在していた。
「――ここが痛くなかったか? ずきんずきんしなかったか?」
「ずきんずきん……?」
「そうだ。苦しくて、不安で、頭がぐるぐるにならなかったか?」
「ぐるぐる……?」
「ああ、そうだ。ずきんずきんでぐるぐるだ。藍子はなったか? それともならなかったか?」
「……。…………なった」
誠一郎の手に自らの手を重ねる。
「なった。誠一郎が傷つくの怖かった。いなくなるの怖かった。ずきんずきんしてぐるぐるした……」
「だったら、そういうことだ。……俺達は繋がってるんだ。俺も藍子も和臣も繋がってるんだ。親友だからな。絆なんだよ」
和臣と叫んだ川辺を思い出す。
掛け違っていたボタンを、長い時間をかけてようやく掛け合わせることが出来たときの記憶。体が爆発してしまいそうな程の興奮に叫ばないではいられなかった。
「だから、傷つきたいなんて言うな。痛いの欲しいなんて言うな。俺達は離れていても、体はそばになくても、心ではそばにいるんだよ。思えばその瞬間に互いの痛みを感じるんだよ」
「……うん」
「それでも言うこと聞かない奴にはそうだな……」
ニヤリと笑う誠一郎と、首をかしげる藍子。
「こうだ!」
「……!」
誠一郎と藍子の額が軽くぶつかり、二人の視界に小さな火花が散った。
まるで夏の終わりを感じる線香花火のような。赤い玉がその力を失う寸前に放つ、最後の願いを思わせる火花だった。
痛みに額を赤くしながら、誠一郎はそれでも笑った。
「どうだ痛いか?」
「うん」
「俺も痛いぞ」
「うん」
「同じ痛みだな」
藍子の唇が広がる。唇と同じく、眉も薄いカーブを描いたままうなずいた。
「うん、分かった」
微笑みだった。
「なら、よし!」
誠一郎は藍子を膝の上から下ろす。ポケットから携帯電話を取りだして時間を確認。授業終了後一時間経過。飲み会ならば宴もたけなわ。放課後としてはいい時間帯である。
誠一郎には……約束があった。
そのまま部室のドアの方に歩いていく。
「俺と和臣が、あんな馬鹿みたいに無茶苦茶して喧嘩したことは謝るよ。身勝手な先走りなんだけど、お前や、六條さんや、クラスメイトみんなを守りたかったんだ。ただの自己満足な正義感……なんだろうな。何でかって言われれば、単純に友達だからだし、単純に大事だからって答える。やっぱり……守りたかったからなんだ。守りたかった。これに尽きるかな……」
ドアのノブを握ったところで藍子を振り返った。
「正直言うと俺だって勃起したかった。最初はそういう目的だったし。起たないのはその……情けないけどさ。いざ、誰かにのぞかれているとか盗撮されているってなったら、もう、自分の勃起とかのぞきとかどうでもよくなっちゃってさ。無性に腹が立って、もう守らなきゃー、で頭がいっぱいになって……駄目なんだよな、思った時には体が勝手にさ」
「誠一郎」
「ん?」
開け放たれた窓から、突風が入り込んでくる。
悪戯な風は藍子の声をもみ消そうと部室を縦横無尽に駆け回ったが、ドラマのように都合良く声をかき消したりは出来なかった。
「――好き」
一言。
「……ああ」
誠一郎はドアのノブを回しながらうなずいた。
「好き」
「うん」
うなずきながら、ドアを開ける。
「好き」
「……分かってる」
体を部室の外へ。
「大好き」
「……ありがとうな。本当にありがとう、藍子」
藍子の顔を見ることなく、誠一郎は部室のドアを閉めた。
次回で一応、最終回です。ふっふっふ……。