第三十九話・「糞をたれるのは尻の穴だけにして欲しいわね」
後ろに纏められた栗色の髪が、風に揺れて光をもてあそぶ。
腕を組む美女は、その場に存在する者全てを見下すような圧倒的な存在感を誇っていた。目に宿る氷の刃は、見下す者全ての喉元に突きつけられ、身動きを封じている。
誠一郎も、和臣も、取り囲む男達も指一本動かせない。まるで五感を制御下に置かれたマリオネットのようだ。右腕には風紀委員と書かれた腕章。シックなはずの腕章なのに、その腕に書かれた文字の意味を理解すれば、大仰なまでに威光を放つ。
女は全員をゆっくりと一瞥して、胸に手を置いた。
「六條七海、風紀委員よ。そこのゴミ虫共、今すぐ学園の風紀を乱す愚かな行為を停止しなさい。さもなくば、風紀委員の権限で実力行使に出るわ」
男達は歯ぎしりをするので精一杯であった。
六條の放つ雰囲気は、ただの美女のそれではない。すれ違った美女に目を奪われて振り返ったり、色香にくらりときて凝視するなどというものではない。薔薇に数多くの棘があるように、彼女には凄絶な刃があった。
「よー、クソ六條、久しぶりだな。あー……イテテ……俺のクソ弟は元気か?」
声は誠一郎と和臣のすぐ背後だった。
驚いて二人が振り返れば、コージが畑作業の老人のように腰をとんとんと叩きながら、軽々しく右手を挙げていた。
壮絶な死闘を繰り広げて間もないというのに何という回復力だろうか。
誠一郎も和臣もとっさにコージを中心にして飛び退り、各所の動向に気を配る。
六條、コージ、周囲の男達。四面楚歌を実感していた。
「クソが。お前等とは、もうやんねーよ、安心しろ」
人払いでもするように手のひらを振ってアピールする。
「あなたの弟は立派に風紀の意地に務めているわ。堕落しきったあなたとは大違いね」
「ハン、言ってろよ。クソ学園自治会のクソ風紀委員のクソ犬が」
クソクソクソと口癖のように乱暴に吐き捨てるコージ。
風のように受け流す冷徹な美女、六條。
無表情のままの和臣。
両者の会話のキャッチボールを視線だけで追いかけることしかできない誠一郎。
「せめて糞をたれるのは尻の穴だけにして欲しいわね。歩きながら汚物を垂れ流すのは学園の環境破壊よ。まったく……元学園自治会の人間とは思えない腐った発言ね。性根をたたき折ってあげようかしら」
叩き直すではなく、叩き折る……そこに嗜虐の笑みを見て取ることが出来た。それよりも、驚くべきは六條の言葉であった。耳を疑うような言葉。
コージが元学園自治会の人間であったという事実だった。
「……今更蒸し返すな、胸くそ悪りぃ、マルチプレイで回線の差で負けたときぐらい胸くそ悪りぃぜ」
「六條先輩!」
「噂をすれば……ね」
一人の男が体育館裏に飛び込んでくる。
右腕には六條と同じ腕章。長身で細い長方形の眼鏡をかけている。髪は長髪の和臣から比べれば少し短く、清潔感を感じされる優等生然とした出で立ち。目つきが少し鋭いものの、整った鼻筋と、すっきりとした下あごのライン。和臣には劣るかも知れないが、美丈夫の域にあるのは間違いない。
「六條先輩、無茶はやめて下さい」
「無茶? 何を持って無茶と言うの、蒔田?」
蒔田と呼ばれた男に後れること数秒、ぞろぞろと腕章を付けた人間が現れる。合計で十人はいるだろうか。体格のいい、いかにも武術やスポーツをかじっている人間といった風情だ。
「……いえ、俺は六條先輩が」
「助けなんていらないわ。こんな風紀を乱すミミズの群体なんて、私が踏みつぶしてあげるだけだもの。地べたを這いつくばって、熱さにもだえ苦しんで干からびかけているような奴等は、上から見下ろしてそっと潰してあげるだけ。簡単な作業よ」
凍える雪のような冷たい言葉だ。
「よー、修次。相変わらず、自治会に首輪付けられてわんわんおか?」
「……。黙っていて下さい」
「つれねー弟だな」
コージと修次の会話は、それで終わりだった。
「もういいわ、これ以上ここにいても肺が腐るだけだもの」
六條が、つまらなそうに組んでいた右腕を宙にさ迷わせる。第二次大戦中、ナチスドイツ軍はユダヤ人捕虜を壁に立たせては次々と射撃し、処刑を繰り返した。その最中、かけ声を担当する軍曹の手のひらの仕草……それに似ていた。
「いいわ、やりなさい。抵抗するようなら、威力行為も容認するわ」
撃ち方始め。撃ち方始め、と。
「……お願いします、抵抗しないで下さい。俺は争いたくありません」
一礼して、蒔田はゆっくりと誠一郎達の方へ歩み出す。