第三十七話・「誠一郎」
奇襲。
完全な不意打ち。渾身の一撃でコージが仰向けに倒れ、拳と頬骨のぶつかった反動で、握りしめていた血潮とヘッドホンのプラスチックが舞い上がる。
「クソ不意打ちとは上等だクソ野郎! 格ゲーで言うとこのヒア・カムズ・ア・ニューチャレンジャーってとこか!」
口内を切ったのだろう、つばと一緒に血を吐き出す。血に飢えた野獣の目が誠一郎をロックオン。まるで誠一郎の攻撃がなかったかのようにゆらりと立ち上がると、熱風を纏って飛び込んでくる。
和臣とは違い、誠一郎に格闘の素養はない。ただの凡庸な一平民に過ぎない。反撃の術など持ち合わせていない。
「だからどうした……」
恐怖をにらみ付ける。襲いかかってくるコージの鬼のような形相が、その姿が、炎のように揺らめく。誠一郎は胸に跳び蹴りを受けて地面を転がる。二転、三転。体育倉庫の壁に激しく背中を打つ。体育倉庫の壁がなかったら、地面に倒れたまま起き上がれなかったかも知れなかった。体育倉庫の壁に手を突いて敵を睨む。
誠一郎は痛みに顔を歪めながらも、コージをにらみ付けるのを止めない。
恐怖に白旗を揚げることはしない。
意地だった。プライドだった。
誠一郎は食らいつくように再びコージに拳を打ち込む。連戦であるコージもそれを受けざるを得なかった。
どちらも避けることはしなかった。
殴っては殴られ。殴られては殴る。殴り返されればさらに殴り返し、蹴りを受けても殴り返した。
ヘッドホンと自らの血液を握りしめた右の拳で。
親友を呼ぶ、叫びと共に。
「親友なんだああああああぁっ!」
ケーブルがちぎれ、マイクが壊れ落ち、イヤーパッドに血が染みこむ。
和臣のヘッドホンに染みこむ、誠一郎の血。
二つが一つになる。
その右の拳は燃えるように熱い。激痛。灼熱。それらを火炎のように拳に纏わせて、誠一郎は目の前の男と殴り合う。
「俺達は……っ!」
もはやその拳は誠一郎だけの拳ではなかった。
二人の拳。何よりも強固で、堅牢で、屈強な拳。
絆という鎖を纏った拳。
相手が倒れるまで、倒れない。そして、倒れるなら前のめりだ。絶対に後ろへは倒れない。最後まで立ち向かい続ける。後ろへ倒れることは引き下がること。最後まで立ち向かって。最後でも立ち向かって。立ち向かって。立ち向かって。立ち向かう。
「うおおおぉおおおおおおぉおおおおっ! かずおみいいいぃいいっ!」
親友の名を叫び右腕を振り抜く。顔面で受けたコージは伸び上がるが、振り子のように態勢を戻すと、顔面の筋肉全てで笑ってみせる。狂気とも言える形相。鬼のような形相。
牙をむき出すコージ。誠一郎は臆さない。
鬼と互いの襟首をつかみ合う。額をこすり合せる。裂帛する視線の火花。
「クソがああああっ……!」
「親友がなんだ……っ!」
互いに雄叫びを上げる。立つ瀬は同じ。崖っぷち。一歩でも下がったら奈落の底。
そして、ぎらぎらさせた視線と視線をぶつけ合うと、互いの額をぶつけ合った。コンクリートに落下したような痛み。明滅する光の芥子粒。飛び散る流星。額が裂け、血が鼻筋を流れ伝う。
「親友なんだっ! 俺達は親友なんだだあああああっ!」
握りつぶした血潮が飛散し、拳を振り抜く。
ヘッドセットのハウジング部が耐えきれずに空を舞う。
「……ッるせぇんだよクソがあああっ!」
倒れない。
がっしりと捕まれた襟元を強引に引き寄せ、コージが頭突きを返してくる。脳が頭蓋骨の内壁にぶつかって、意識が悲鳴を上げる。
色が遠のく。足が震える。かかとが宙を踏む。断崖を越えそうになる。
落ちる。終わる。
視界が物語の終わりのブラックアウトを見せようとする。
「俺達は親友なんだ……!」
まだだ。まだ早い。終わりじゃない。
親友という言葉を口にする度、誠一郎は拳に力が戻ってくる気がした。さらなる力がこもった気がした。何者にも負けない力を得られるような気がした。空でも飛べる。星に手が届く。
そんな気がした。
「親友だから。だから俺は! 俺はあああっ!」
スタッフロールは、親友の笑顔を見てからだ。
「だから俺は! お前を傷つけるやつが誰であろうと――!」
まるで互いの尾を食らう蛇。痛みの連鎖。そのメビウスの輪のようにぐるぐると回り続ける反撃と反撃を切り裂く声。
拳の嵐。襟をつかんでいたコージが驚愕に目を見開く。
切れた額の血が目に流れ、血涙となる。
コージの真っ赤な視界に映ったのは、一つの大きな拳。
否、二つの拳。
「――神であろうと、世界であろうと、俺はそいつをぶん殴る!」
誠一郎と和臣の拳だった。
「…………があッ!」
誠一郎の襟首つかんでいたコージの手が離れる。体が仰向けにどさりと倒れ、砂埃が一陣の風に紛れた。大の字になって地面に倒れたコージの姿に、周囲の仲間達は唖然としていた。近寄ってくる気配はない。
誠一郎はふらふらと体をゆらしながら空を仰ぐ。
体中にみなぎっていた不思議な力が抜けていく。地面に落ちるヘッドセット。壊れている。使い物にならない。
仰いだ空は、突き抜けるような青だった。
蒼穹は知らん顔でそこにある。最後まで背中を支えてくれた懐かしい感慨を、誠一郎は青いキャンバスに思い描く。
涙が出そうになった。
ようやく和臣と友達になった……正確にはすでに友達だったが、正式に互いに友達と認め合ったあの懐かしい過去の川縁が、涙腺をつんつんと刺激してくる。
胸のダムが決壊しかける。ぎゅっと握りしめられ、熱いものが絞り出されそうになる。
心はきっと水の染みこんだスポンジに違いない。ぎゅっと握りつぶせば止めどなく水分が溢れ出てくるのだ。止めどなく、決壊したダムのようにすごい勢いで。
「誠一……郎……」
体育館の裏に響くかすれた声。絞り出すような小さな声。
親友の声だった。
「誠一郎君……」
赤い瞳に水分の膜を張りながら、親友はそっと親友の名前を呼んだ。
スポンジをぎゅっと握りしめられた気がした。
にじむ空。心からたくさん溢れてくる想い、記憶。
「――俺はここにいる」
親友はそう応えた。
あの時と何一つ変わらない言葉で。
キンキンに冷えてやがる……っ! 言いたかっただけです。ごめんなさい。